(1)2001年8月12日 North Bayからのメール
カナディアン・ロッキーを出て、走りに走ってスペリオル湖の東にある、オンタリオ州のNorth Bayという街までやってきました。この一週間は毎日400~500km走ってきたので、さすがにきょうは少し疲れました。
きのうは、今回の旅で一番安いモーテルに泊まりました。税込みで28.75カナダドルですから、今日の為替レート81円で計算すると、2330円という安さです。ところが、今日は一転して60ドルです。聞くと、ここはここはAOLのプロバイダーがあるくらいだからかなり大きな街で、しかも観光客が多いようです。
モントリオールは、あと二日の距離です。
カナディアン・ロッキーから4000キロを二週間かけてモントリオールに着きました。この間の天気に恵まれ、カッパは一回も使わずに済みました。ほとんど休まず走ってきて、さすがに少し疲れたので大休止を取っています。モントリオールのダウンタウンにあるこのホテルは「タージマハール」という名前で一日約5000円です。オッサン一人が寂しく泊まるには立派過ぎてもったいない感じですが、もう一週間泊まっています。一週間1万6000円のホテルも見つけて、移ろうかなとも思いましたが、やっぱり電話がないのは不便なので、ここにあと五日いるつもりです。
次はトロントへ行って、それからアメリカに入りナイアガラの滝を見るつもりです。そこからテキサス州のダラスまで南下します。トロントではエスペランティストと会います。一人が彼のアパートに泊めてくれるそうです。海外では初めてのエスペランティストとの接触なので楽しみです。最初にメールを送ったエスペランティストは女性で、このところ毎日メールをくれます。
モントリオールは地下鉄まである大きな町です。人口は340万と書かれていますから、大阪よりも大きいことになります。市の中心部は一方通行になっていて、慣れるまではバイクで走るのも大変です。でも、大阪のようには道が混んでいないので、道さえわかっていれば快適に走れます。港を中心に古い、と言っても日本と比べると歴史は浅いですが、教会や建物が広がり、その背後に高層ビルが立ち並んでいます。中には50階もあるビルさえあります。
モントリオールは英語とフランス語のバイリンガルですが、ダウンタウンはフランスの方が優勢で、看板は全てフランス語、話かける最初の言葉もフランス語です。まるでパリにでも来た感じです。港からちょっと離れた所にはチャイナタウンもあって、いろいろな国からきた人達が暮していた、国際的な雰囲気が立ち込めています。少なくとも80の人種がいるそうです。
カナダの中央部にあるマニトバ州、その州都であるウィニペグを東に出て100kmほどしてオンタリオ州が近づくにつれ、今まで延々と続いてきた田野は姿を消し、森が広がってくる。西はバンクーバまで伸びている国道1号線は、オンタリオ州に入るとなぜか名前が変わり17号線になる。この辺りの木はカナディアン・ロッキーのものよりもずっと幹は細くて密集し、まっすぐ空に伸びている。場所によりそこに白樺の木が混ざる。国道17号線は、こうした木々と無数の小さな湖の間を縫いながら、軽いアップダウンを繰り返し東へ進む。バイクツーリングには最高の道だ。対抗車線を西へ向かうライダーも多い。やがて国道17号線は五大湖の内のスペリオル湖とヒューロン湖の北岸に沿って進む。道の両側はずっと木が並んでいるので、まるで深い森の中を走っている感じだが、坂の下りや木々の切れ目から時々湖が顔を出す。大きい。まるで海だ。
対岸は見えず水平線だけが見える。その向こうはアメリカだ。ウィニペグを出てヒューロン湖から東へそれるまで、人間の臭いのするものは本当に何もない。100km走ってもガソリンスタンドがないので、常にガス欠の恐怖にさいなまされる。ガソリンスタンドを見つけたら、とにかくガソリンを補給しておくことだ。 森はそのままモントリオールまで続く。モントリオールは、カナダの西にあるロッキー山脈から4000kmほど走ってきたが、やはりオリンピックを開催した街だけあって、郡を抜いた大都会だ。人口は340万、そこに80以上の人種が住んでいるという。 カナダのホテルは、なぜかインド系の人による経営が多いが、モントリオールでも僕が値段を聞いて回った安ホテルは、ほとんど全てインド系の人が出てきた。モントリオールに月額27,000円の家賃のアパートに住むKatiの両親は、戦後の共産主義革命でソ連が東ヨーロッパに干渉した時に、ユーゴスラビアからカナダに移ってきた。モントリオールには、ラテン地区があり、当然中国人街もある。中国人街は、セントローレンス河に面して造られた古い港町の後方にあり、背後には50階を超える高層ビル街が続く。港のすぐ近くの裏通りは、まるでパリの街のような雰囲気だ。 モントリオールの繁華街St.Catherine通りには。建物の壁の至る所に絵が描かれている。
それが粗雑な落書きでなく、僕の目には立派な芸術作品だ。絵は壁だけに留まらず、若い女性の身体にも描かれている。入れ墨を入れているのは、男も結構多かったが、むしろ若い女の方が多いような気がした。インクかと思っていたが、聞いてみると本物らしい。 モントリオールは英語とのバイリンガルの街だと言われているが、やはりフランス語の街だ。通りの看板や案内、新聞も全てフランス語で書かれているので、さっぱり分からない。
20人以上のビッグバンド、サンバ、ボサノバまでやってくれた。コンサートは一時を過ぎたのに、昼休みのサラリーマンらしき人達も職場に帰ろうとしない。壁絵、喫煙に加え、こんな面でも規則に縛られないラテン系が、僕は好きだ。 モントリオールには11日間、ダウンタウンにある約5000円の、駐車場もある快適なホテルに泊まった。着いてすぐ、11、000kmほど走ったタイヤを前後輪交換し、カナダの自動車協会がガテマラから申請してもカルネを発行してくれることをメールのやり取りで確認した後、500kmほど離れたトロントへ向かった。 途中ちょっと回り道をして、モントリオールから100kmほど西にあるKatiの両親の家を訪ねることにした。Katiはバス、僕はバイクだ。両親の住むHuntindonという町は、人口2000人の静かな町だ。
平行して高速道路が走っているので、二車線道路のこちらはガラすきだ。芝生の大きな前庭を持った瀟洒な家が続く。途中のKingstoneの街に泊まり、翌朝一時間ほど気持ちよく走っていたらフェリー乗り場に着いて、そこで道がなくなっていた。いつのまにか2号線をはずれてしまっていたのだ。20kmほど引き返し2号線に戻ろうとしていると雨雲が空を覆い、パラパラと雨が落ちてきた。カナダではその辺に雨宿りをする場所がない。2号線を止め、高速道路の入り口にある高架道路の下に避難する。トロントまでは三時間で着くだろう。 トロントは、オリエンタル湖の湖岸に広がる大都会だ。人口は300万らしい。町の中心部には60階を越える高層ビルが建ち並び、京都タワーのような形をした塔もある。
Katiの両親の家
トロントのダウンタウン
塔の下には、大リーグのブルージェイズの球場があって、開閉式の屋根を持ったドームだ。モントリオールと同様地下鉄があるが、トロントには市電も走っている。またモントリオールのそうだが、トロントも緑の多い街だ。他民族の街という点でも同じで、イタリア人街、中国人街、ギリシャ人街、ヒスパニック地区と、様々な人種が暮らしている。しかし、トロントには、もうフランスの臭いはない。街で話される言葉も、テレビ番組も全て英語だ。トロントのホテルは高いという噂だ。僕の泊まった二件のモーテルも設備が悪い割には、モントリオールのホテルより高い。二件目のモーテルの隣はポーランドのレストラン、向かいはユーゴスラビアのバーで、そこに同じ国から来た人達が集まる。向かいのバーのウェートレスは、8年前に内戦で全てを失い、ユーゴスラビアからカナダに移り住んだと言う。美人だ。オーナーの女性も、少し年齢は食っているが美人だ。ユーゴスラビアから世界的なファッションモデルが多く出ているのも納得できる。 トロントでは、海外で初めてエスペランティストと会った。トロントには夕方に着いてモーテルにチェックインした後すぐ、メールで連絡を取っていたLunjoというエスペラント名を持つ女性と会い、夜の11時頃まで湖岸を散歩したり、食事をしたりした。翌日はモーテルを出て、Lunjoから預かっていた鍵を使って留守の彼女のアパートに入り、パソコンを彼女の電話につなぎ、メールを打ちながら彼女の帰りを待った。夕方の6時に、エスペラントの創始者ザメンホフに似たKen、8時半に、その夜泊めてもらえることになっているScottが、我々二人に加わった。三人のエスペランティストは、全て地下鉄で来ていた。Scottに彼のアパートまでの地図を書いてもらって、夜の11時に彼のアパートに向けてバイクを走らせた。右も左も分からない初めての街で、夜の高速道路を走るのには、神経が擦り切れそうな思いだった。Scottは家に帰るとすぐ、また休日は朝起きるとすぐ、パソコンに向かいインターネットに没頭する。大阪エスペラント会が僕独自のホームページを開設してくれたので、その更新の仕方を教えてもらおうと思っていたが、とうとうできなかった。
トロントのエスペランティスト達。右からKen、Lunjo、Scott。会合には7人集まった。
二晩泊めてもらった後、Scottは、週末に友達の家に行くと言う。一人で泊まっていてもいいと言うが、合い鍵がないのでアパートを出ることにする。アパートの駐車場に止めているバイクまでバッグ二つ、タンクバッグとナップサックをScottと二人で運ぶ。街の郊外の方がモーテルが多いので、ナイアガラの滝がある方向へ向かう。モーテルは見つからない。数十キロ走ったところにモーテルがあり、一旦チェックインするが電話がないと言う。そのまま西に進んでもモーテルはないと言うので、もう一度町の中心部を目指し走り出す。何か変だ。背中が軽い。コンピュータを入れたナップサックが背中にない。データはきのうの夜コピーを取ったが、日本語のパソコンはこちらでは売っていない。大変だ! Scottのアパートを出るときナップサックをバイクの横に置いたままタバコを吸った。吸い終わって、ヘルメットをかぶり手袋をはめて、そのまま駐車場を出たはずだ。急いでアパートに戻る。2時間半前に置き忘れたはずのナップサックがない! アパートの管理人に聞いても、届けられていないし、何もできないと言う。1%の可能性もないが、あの電話のなかったモーテルに置いてきたんでは? もう日は暮れてしまった。とりあえずアパートの近くにモーテルを見つけ、荷物を部屋に置いて、もう一度電話のないモーテルに戻る。やはりない。帰り道にトロントの地図を買い、チェックインしたモーテルに引き返し、管轄の警察の場所を聞きそこに行く。ナップサックは届けられていない。紛失の届けをしてモーテルに戻ると、もう夜の11時だ。朝にパンを食べただけなので、腹も減ってきた。モーテルの向かいのバーが開いている。それが先に書いたユーゴスラビアのバーだ。皮パン、皮ジャンのままバーにはいる。話し相手になってくれるので三時までヤケ酒ならぬ、ビールをあおる。 目が覚めたら昼の12時で、旅に出て初めての二日酔いだ。近くにすむザメンホフのKenに電話して、パソコンを使わせてくれるように頼む。クレジットカードに付いている保険が二~三日中に切れるからだ。Kenはモーテルまで来てくれると言う。彼が来るまでに礼金500ドル(4万円)のチラシ二枚を書く。30分後にKenが現れる。500ドルは多すぎると言うので、彼の言うとおり100ドルに書き直す。Kenはクルマで来たので、チラシと、メールアドレス等をバックアップコピーしたCD-RとCD-RWを持って、彼のクルマでScottのアパートに向かう。チラシをScottのアパートの入り口と、道の向かいにあるスーパーマーケットの掲示板に、Kenが持ってきてくれたセロテープで貼る。次は日本へのメールだ。僕の日本の銀行やカード会社はEメールを受け付けていない。日本の誰かに頼むしかない。Kenのパソコンでは、当然日本語は使えない。ローマ字でもいいけど、日本でいつも家にいてパソコンに向かっているのはエスペランティストの平井さんだ。カード会社に連絡してくれるようにエスペラント語のメールを打つ。送信すると同時に、Scottのメールが届く。おお、何と!、彼は、僕の出発10分後に駐車場に放置されていたナップサックを見つけ、部屋に置いてくれている書いているではないか。彼の携帯電話が留守電になっていなかったら、こんな大騒ぎをすることはなかったんだ。彼は友達の所へ行ったまま、しばらく帰ってこない。パソコンはその間使えない。こうなれば市内観光でもする他にすることがない。
一夜明けると雲一つない青空だ。9月はまだ2日というのに、空気は冷んやりしている。トロントはもう秋の気配だ。折しもトロントでは航空ショーが行われていて、ジェット機の飛行機雲が空の青に白い線を描いている。11時半に、Kenが市内を案内してやると言ってクルマで迎えに来てくれる。ナイロンのライダー・ジャケットを引っかけクルマに乗り込み、IMAXの映画を見に行く。プラネタリウムのような半球の巨大なスクリーンで、映像も音響も度肝を抜く迫力だ。映画が終わり、市の中心部と湖岸を歩いた後に、Kenは中華料理をご馳走してくれた。バイキング形式の料理には大きな蟹まで山と積まれていて、この旅で最高のものだった。久しぶりに腹一杯食べて、夕暮れの湖岸を歩いた。悪いことがあれば、いいこともある。Ken、Scott、それにLunjo、ほんとうにありがとう。あさってはトロントのエスペランティス会の会合に出ることになっている。もっと多くのいい人達に会えるので楽しみだ。