(1)インターネットと加曾利隆氏
僕は大学を卒業して就職してから、ほぼ毎年30回ほど海外旅行をしてきたが、昔はパソコンがなかったし、インターネットができてからも旅行がいつも一ヶ月という短い期間だったので、パソコンを持っては旅行には出なかった。しかし、今回は退職したので期間は長く取れる。それで始めてパソコンを背にしょっての旅になった。
インターネットは実に便利だ。昔は手紙一つを出すのにも、たとえばネパール・カトマンズ中央郵便局止めで送ったものだ。その手紙は半年以上も後になって日本に帰ってきた。相手が取りに行けなかったからだ。しかしインターネットが出てきてからはこんなことはなくなった。必ず相手に届く。しかもその場で届く。電話なら相手が出ないこともあるが。メールは必ず届く。そして世界中の何処にいても必ず連絡が取れる。世の中、本当に便利になったものだ。
メールだけではない。今まで自分の書いた文章を広く発表する場はマスメディアしかなかった。しかし僕みたいな無名の個人でもホームページで世界に発信できる。僕のホームページを見て日本ばかりではなく海外からもメールをくれた人達が、今まで20人位いた。その一人がオーストラリアのライダーでDavidという男だ。彼はロシアをバイクで横断する途中、日本人ライダーのグループのリーダーをしていたTaki-sanという男に会った。その後バイクと一緒に住所録も盗まれたので、僕のホームページを見て、それが誰なのか探してくれというメールを送ってきた。
彼がいうTaki-sanという人は、バイクに乗る旅人で、今では38冊の本を書いている有名人だという。そうなると加曾利隆氏しか思い当たらない。早速インターネットで加曾利氏のホームページを検索し、彼にメールを出した。
僕の友達の皆さんの殆どは日本のバイク友達を除いて、加曾利氏のことは知らないだろうと思う。実は僕も40才を超えてから、クルマを運転したこともなかったのに急にバイクに乗り始めたので、それまでバイクのことは全然知らなかった。バイクに乗り始めてバイクの本を読み漁った。大阪の大きな書店に行ってバイク関係の本は殆どみんな買った。古本屋でもたくさん見つけて読んだ。それでも足りないので、国会図書館のデータベースに載っているバイク関係の本を全て注文した。当然、加曾利氏の本も38冊までとはいかないが、かなり読んだ。それで始めて気が付いた。彼の本の一冊は、僕がバイクと出会う遥か前の若い頃に読んだ本で、よく覚えていないが「熱砂の砂漠」とかいうふうな題名の本だった。彼は高校卒業後大学には進学せず、SUZUKIのハスラーというバイクに乗ってサハラ砂漠を南から北に縦断した。日本人では始めての快挙だった。僕は当時バイクに乗っていなかったので、バイクのことよりも死をかけて砂漠を乗り切る若者の姿に強く感動した。凄い男だと思った。
その後、彼は世界中をバイクで駆け巡った。それが38冊もの本になった。最近といってももう数年前になるが加曾利氏の本を読んでいると、彼は日本の温泉巡りをしていた。日本全国の2000湯を殆どバイクで走破したようだ。加曾利氏は僕より二つほど年齢が上だ。僕も温泉が好きで、雨さえ降らなければ毎週末どこかの温泉を目指し10年ほどバイクを走らせていた。北海道を除いてかなりの数の温泉に行った。加曾利氏の温泉ツーリングを読んでいた頃、それは退職する前の数年間であったが、仕事の関係などもあって海外ツーリングに出られない自分にあせりを感じていた。だからその時には、加曾利氏ともあろう人なら仕事であってもいつでも海外を走れるのにも、年齢を取ってくると海外への冒険ツーリングは止めにして、国内温泉ツアーになってしまったのかと少し失望していた。その後僕自身が、加曾利氏には40年近くも遅れたけれども、若い頃からの長年の夢を果たすため期限のないバイクの旅に出た。そして今年の3月1日、コスタ・リカの首都サン・ホセにいた時に、オーストラリア人ライダーのDavidから加曾利氏らしい人とロシアで会ったというメールが届いた。
Davidの件で加曾利氏にメールを送ったらすぐに返事が来た。DavidがTaki-sanというニックネームしか覚えていなかった人は、やはり加曾利氏だった。彼はまだ健在でロシアを走っていたのだ。彼は超多忙な人のはずなので、僕はホームページを担当している人から返事が来るものだとばかり思っていたが、どうも本人からのメールだ。その後4週間で6通ものメールを送ってくれている。昨日も来ていた。僕の憧れるライダーだから光栄だ。インターネットがなかったら、決してこんなことは起こらなかった筈だ。
日本でバイクというと、たいてい暴走族とかいった悪いイメージだけが連想されるようだ。まだ日本ではバイクに市民権はなく、悪ガキの危険なおもちゃというふうに考える人が多い。そして20才を超えるとクルマに乗り換えてバイクを降りてしまう若者が多い。しかし、アメリカやカナダをツーリングしてみると、僕よりも年配の人達が悠然とバイクで旅をしている。彼等はクルマよりもバイクの方が、旅をするためのもっといい手段だということを知っているのだ。そこには大人のバイク文化というものが存在する。社会もバイク文化を素晴らしいものとして認めている。僕も今回、北米大陸を一周した。そこで会った人たちからは、常に尊敬の眼差しを受けた。加曾利氏は、もっと若い頃からそういうことを肌で感じ取って、大人のバイク文化というものを、本を通じて日本社会に訴えたのだと思う。バイクのレーサーは脚光を浴びる。しかし、バイクの旅人は、加曾利氏といえども必ずしもそうではない。そうではあっても、バイクで旅をする醍醐味は、ひょっとしてレース以上かもしれない。そしてレーサーには特別な才能が要るが、バイクの旅は注意して走りさえすれば僕みたいな下手でも事故なく続けられる。しか?行く土地で見た自然や、そこで会った人からいろいろなことが学べる。加曾利氏はマスメディアという手段を持っているが、僕はホームページで一人でも多くの人にそうしたことを知らせたい。
グアテマラでずっと山の中を走っていたパンアメリカン・ハイウェーは、エル・サルバドールからコスタ・リカまでは山を上ったりまた下ったりを繰り返していたが、パナマに入るとずっと太平洋岸の平地を東西に走る。この辺の緯度はインドの南端だ。だから当然暑い。パナマ唯一の幹線道路パンアメリカン・ハイウェーからは所々で北の山に向かって道路が伸びている。暑さが嫌になった僕は、この道路で涼しい山に逃げ込み、山を下っては一旦パンアメリカン・ハイウェーに出てから東に走り、また北の山に宿を求めながらパナマ・シティに向かってきた。コスタ・リカでは穴ぼこばかりで舗装状態の悪かったパンアメリカン・ハイウェーだが、パナマに入って良くなった。特に首都パナマ・シティーに近い東の方では4車線道路で速度制限標識も100kmになっている。やっと名前どおりのハイウェーになった。メキシコ以来久しぶりに快走した。
メキシコからニカラグアまでの町はたいてい、町の中心に古い教会と広場があって、そこにクルマのなかった植民地時代に造られた道幅の狭い道路が走っていた。そのためたいてい一方通行になっていた。ところがコスタ・リカに入って町並みが次第に近代的になってきた。そしてパナマに入ってすぐの第三の都会、と言っても人口はわずか7万千人だが、そのDavidでは両側通行の道が多くなった。信号がないので、道を渡るのに本当に恐怖を感じた。バイクで痛めた僕の両足はまだ完全な状態でなく、速く走れないのだ。
パナマはコスタ・リカより物価が安いと思っていた。レストランの食事は確かに安い。この国の通貨はエル・サルバドール同様、アメリカドルだ。ビールを飲んでも3ドルあれば夕食を食べられる。しかしホテル代は逆にコスタ・リカより高くなって、Davidを出てからはずっと10ドル以上払っている。これはグアテマラ以来だ。ホテルのない小さな町しかなく、またホテルのある比較的大きな町でも数軒くらいしかないので高くなってしまうのだろう。そのためパナマに入ってからの旅の経費は一日25ドルくらいに上がってしまった。これから行く南米のホテル代が気になってきたので、バッグの底の方にしまっておいた南米のガイドブックを取り出して調べてみた。エクアドールでは3ドルくらいで泊まれそうだ。ペルーとボリビアも安いが、その他の国は10ドルくらいしている。エル・サルバドールからコスタ・リカまでは安すぎたのかもしれない。
パナマに入って目に付くのは中国人が多いことだ。この国には小さな村にまでかなり大きなスーパーマーケットがある。それも一軒だけではない。その経営者はたいてい中国人だ。現地のウエートレスを雇わない中華レストランでもそうだったが、彼等は無表情で客に笑顔を見せない。日本人もいつも無愛想なので慣れているが、もう一年半近く笑顔を絶やさず愛想のいいラテン・アメリカを旅してきたので、何か気持ちの悪い感じがする。スーパーマーケットと言えば、メキシコ、グアテマラではホテルの近所にスーパーマーケットがなかったのでエル・サルバドールからだと思うが、客の万引きを防ぐためなのか、店内へのバッグの持ち込みは許されず入り口で預けなければならなかった。僕のナップサックにはパソコンが入っていることが多かったので、僕は逆に店員の万引きが心配だった。それがパナマではなくなった。治安がいいからなのだろう。
Davidの大きな映画館
Davidで泊まったホテルの近所のバーには僕の名前”Toro”が書かれている。
パナマに入って首都に来るまで、町と呼べそうな町はDavidだけだった。ここでは日本の都会を思い出させるような近代的な店や大きなスーパーマーケットが軒を並べている。ホテルのすぐ近くには大きな1ドルショップが3軒もあった。1ドルショップは、メキシコのアメリカとの国境の町ティファナ以来だ。1ドルで大きなチョコレートがあったので、嬉しくなって買った。チョコレートを食べるのはアメリカ以来だ。大きな本屋まである。僕はパナマに入る直前に始まったイラク戦争のことが気になっていた。テレビでは一日中ニュースを流しているが、スペイン語がわからない。それで英語版の「ニューズウィーク」や「タイム」を求めて本屋を回った。残念ながらなかった。しかし、この小さな町は、そんなものまでありそうなほど物が豊富だ。映画館まである。しかも大きな映画館だ。部屋が四つもあって、同時に四つの映画が上映されている。映画は、カナダ、ホンデュラス、コスタ・リカでそれぞれ一回見ただけだ。中米のその他の国でも映画館はあったが、たいていは週末の夜しか上映されていなかった。夜に外出するのは危険だ。だから見る機会はなかった。しかし、この町では毎日昼間から上映している。久しぶりに消費文明社会に帰ったような気がする町だった。 先にも書いたように、ホテル代を除いてパナマの物価は、まだ安い。安いタバコは人箱1ドル以下、一本720mlのラム酒は4ドルしない。バーのビールは小瓶一本50セントだ。レストランも安いが、問題がある。パナマに入ってからレストランは禁煙のところが多くなった。これは僕にとってはつらい。特に、食後の一服はかかせないのだ。屋台があれば問題ないのだが、パナマではなくなった。それでタバコの吸えるレストランを探し求めることになる。
ホテルが高いパナマだが、Davidのホテルだけはまだ6.05ドルだった。夜は多少涼しくなるとは言え、扇風機なしでは眠れなかった。それで涼を求めてCerro Puntaという標高1970mの山村に行った。パナマの最高峰、3475mのBaru火山の西側にあって豊かな自然が残されているので訪れる観光客も多い。ホテルは一軒しかなく12.5ドルもした。そればかりか、ここは逆に寒すぎた。ずっと痛みが消えない手の指先が、寒さのせいか余計に痛んだ。指先が白くなっている。それでホテルの女将さんに頼んで何回も湯を沸かしてもらい指先を暖めた。しばらくの間だが、楽になった。このホテルでは断水で、シャワーはおろか、トイレの水すら流すことができなかった。さらに、二日目は一日中雨でさらに寒くなった。それで火山の東側にあって標高が1060mのBoqueteという村に移ることにした。
左の民家のような建物がCerro Puntaで泊まった12.5ドルのペンション。近所には何もない。
Boqueteは春の暖かさでずっと空も晴れ上がり、快適な村だった。着いた翌日から四日間、蘭祭りが始まるのでホテルは混んでいた。しかし10ドルのホテルに開き部屋があった。Boqueteは川が流れる谷間の村で、様々な花が咲き乱れていた。それにCerro Puntaと違って、ホテルの近所には、スーパーマーケット、レストラン、バーが立ち並び、インターネット・カフェまであった。 これに味をしめて、さらに東にあるSanta Feという山村に行くことにした。その日は時間がないのでパンアメリカン・ハイウェー沿いの町のホテルに泊まった。10ドルだが屋根のある大きな駐車場が魅力だった。久しぶりに部屋の近くにバイクが置けたので、まだエンジンオイルの漏れが止まらないクランクケースの下を覗いてみた。大したことはない。さらに上からシールド剤でコーティングすれば止まりそうだ。でも暑い。止めにした。ホテルの向かいにコンビニがあって、新聞が置いてあった。四日遅れの新聞だが、イラク戦争の記事が詳しく出ている。初めてスペイン語の新聞を買った。テレビのスペイン語は分からなくても、活字になれば辞書がなくても大体わかる。気になるコロンビアのゲリラに関しても記事が載っていた。300人ほどのゲリラが自主的に武装解除したというニュースだ。少しは安全になるんだろうか。52ページの新聞の最終ページには、ドイツの26才の女性ライダーが250ccのHondaに乗って4月6日の鈴鹿のレースに出ると書かれている。写真を見るとモデルのように美人だが、300kmのスピードで走るらしい。早くテレビのスペイン語が聞き取れるようになりたいものだが、このままの旅を続けていたら何年経っても無理だと思う。
Boqueteの川の横にある花の庭園。蘭祭りが開かれていた。
Santa Feはパンアメリカン・ハイウェーから50kmも離れているのに、高度はそんなに上がらず、したがってBoqueteほどの涼しさはなかった。それにびっくりしたのは、全く何もない村だった。建物が少しかたまって見えてきたので、バイクを止めて道端の人に「セントロは何処ですか?」と聞いてみた。意味がわからず、キョトンとしている。それで50mほど進んでみた。いよいよ何もなくなった。さっきの場所がSanta Feの全てだったのだ。ガイドブックにも数行ほどしか書かれていないはずだ。引き戻すと観光客らしいカップルがいたので、ただ一軒あると聞いていたホテルの場所を聞いた。ホテルは知らずに通り過ぎてきたが、坂のずっと下の方に一軒だけポツンと建っていた。13ドルもするというので少し考えたが、一日だけ泊まることにした。芝生の中庭を囲んで部屋がある。部屋の前の芝生にバイクを止めた。芝生に寝転んでクランクケースの下を見ると、急にやる気がでてきた。自分自身でバイクを触るのはこの旅では始めてだ。洗浄用の灯油と抜き出したエンジンオイルを受ける皿はホテルが用意してくれた。これで止まったと思っていたエンジンオイルの漏れだが、数日して見たらまだ少しだけだが漏れている。なかなか難儀なものだ。
Santa Feのこのホテルでは、芝生に寝そべってクランクケースの油漏れを修理した。
バイクの修理が終わってから、道を教えてくれた若いカップルとしゃべった。男はアルゼンチン人、女はベルギー人で結婚している。このホテルにもう一ヶ月も泊まっている。この何もない不便な村に住みつくという。「買い物をするにも歩いていくと大変なので、エンデューロのバイクでもあればいいですね」と女の方に言うと、馬を買うと答える。なるほどグッドサイデアだ。雨季で道がぬかるんでも馬なら問題はない。それにしても世の中には変わった人たちがいるものだ。 パナマではパンアメリカン・ハイウェーは、パナマ・シティーの100kmほど手前のSan Carlosという小さな町で始めて海の側を走る。伊勢海老が安いと聞いていた。伊勢海老はアメリカのフロリダ半島で食べて以来だ。パンアメリカン・ハイウェー沿いに一軒だけあるホテルの下は、うまい具合に中華レストランになっている。値段を聞くと8.25ドルだと言う。これは安い。San Carlosは少し暑いが、11ドルの部屋に泊まることにした。しかしながら、二階にある部屋はホテルの隅にあって、海側にガラスの鎧張りの大きな窓、道側にベランダがあって風邪通しがよく涼しい。この旅でベランダのある部屋は200ドルほどしたメキシコのカンクンとその南の島のホテル以外は記憶にない。フロリダの伊勢海老は高い上に身が少なかったが、ここのは日本の伊勢海老のように身がぎっしりと詰まっている。伊勢海老と涼しいベランダ、なかなかリッチな気分だ。
San Carlosで食べた伊勢海老
Panama Cityには高層ビルが林立する。
パナマ運河。この船は太平洋に出ようとしているので、船を下げるため今から閘門の水が抜かれる。
パナマ・シティーは、北米の最後の訪問地だ。2001年の6月にカリフォルニアを出て北米大陸を回り、ここに着くまで二年近くかかった。僕のBMW-R1100Rは約4万5千キロを走った。赤道を一周以上する距離だ。この間世界を変えるようなことが起こった。ワシントンの近くにいる時に、真偽はわからないが、テロリストを乗せた旅客機がニューヨークとワシントンに落ちた。僕のホテルの数十キロ先にも一機落ちたと報道されている。その結果、アメリカは言いがかりとも言える強引さでアフガニスタンとイラクに攻め入り、両国の政権を崩壊させた。しかし僕は南に向けてずっとバイクを走らせていた。長いようで短い北米の旅だった。 パンアメリカン・ハイウェーはパナマと南米のコロンビアの国境付近で寸断されている。他に道もない。パナマの人は口をそろえて両国を結ぶフェリーがあると言うが、調べたらない。やはり予定どおり、バイクと一緒にコロンビアの首都ボゴタまで飛行機で飛ぶことにする。San Carlosでは自分自身としては二度目の油止めの修理をした。修理工場での溶接やコーティングを入れると5回目だ。とうとう油漏れはほぼ止まったようだ。これで飛行機の床を油で汚す心配もない。いよいよ南米だ。僕のこの旅は、南米から始まると言ってもよい。
パナマ・シティーのホテルの近所のインターネット・カフェ
そのインターネット・カフェの中
僕が海外旅行にパソコンを持ってきたのはこの旅行が最初だし、今まで海外ではインターネットにアクセスしたことすら一回もない。ずっと一ヶ月程度の短い旅行だったが、今回は長い旅になるので持ってきた。辞書、百科辞典、本、地図、音楽等を日本を出る前に全てディスクに入れたので荷物の軽量化にも役立ったし、旅の間に撮ったビデオもディスクに保存している。昔のように撮影済みのフィルムを持ち運ぶ必要もない。それよりもパソコンの便利さは何と言ってもインターネットだ。メールは世界のどこを旅行していても世界中の友達と簡単に連絡が取れるし、旅に必要な情報もホームページから取れる。インターネットは本当に便利だ。 日本を出る前に、それまで使っていたプロバイダーを止めAOLに変えた。世界の多くの国で自社のネットワーク網を持っていて、そうしたところでは追加接続料金を取らないからだ。 アメリカ、カナダ、それにメキシコまでは確かに無料だった。特にアメリカの接続ポイントは非常に多くて、ちょっと大きな町だとアクセスポイントがあるので接続料は無料だった。カナダのアクセスポイントもかなり多かった。メキシコでも主要都市にはあった。加えて、アメリカとカナダでよかったのは、安宿でもたいてい部屋には電話があって、市内通話は何時間でも無料なことだった。ただ安宿では回線数が少ないため、あまり長い間回線を占有すると他の宿泊客が電話を使えなくなるので、やはりメールが終わるとすぐに接続を切るようにしていた。それはともかく、僕がアメリカとカナダにいる間にインターネットに払った経費は、AOLへの月額料金2000円だけだった。電話代が要らないので日本にいる時より安くなった。 メキシコへ入ると状況が一変した。安宿の部屋には電話がないのだ。そこでホテルの電話を借りに行く。5分くらいだからと言って頼み込んでも、回線が一本しかないので断られる。そこでメキシコに入ってしばらくは、メールの返事を送る頃になる度に、電話回線の確保だけのためにかなり高いホテルに泊まっていた。しかしホテルの部屋や受け付けで使える電話があっても注意が必要だ。メキシコの電話には電話コードがジャック式の取り外しできるものではなくて、固定式のものが多い。僕は電話を分解するほど気が強くないのでこういうホテルはあきらめることにした。ただ一度、部屋の壁に取り付けられている電話線の配線盤が、差込口のない固定式だが外れているホテルがあった。僕は全世界対応のアダプターを持ってきている。こんな場合のために、最終手段として鰐口クリップまで付いている。だがダメだった。困ったと思いながら町を歩いていると、公衆電話屋さんがある。それまで気が付かなかったが、かなりある。少々高いが、これだ。以降、電話付きの高いホテルを捜すのは止めにした。しかし公衆電話屋さんにも問題があった。コンピュータの接続を許してくれないところ、快く許してくれても固定式で?ャックがなくモデムのコードが差せないところ、その頃僕のパソコンのバッテリーが死んでいたのだが、電源の取れないところ等がかなりあった。
パナマ・シティーのインターネット・カフェ
そこで僕は考えた。メキシコに入るとあちこちにインターネット・カフェがある。カフェで接続できないか? 2001年12月12日、ユカタン半島に行く手前の南メキシコの町Tehuantepecで始めてインターネット・カフェでLAN接続を試みた。できなかった。接続が成功したのは約一ヶ月後の1月10日、ユカタン半島のMeridaだった。メキシコに入国したのが2001年11月11日だから、もう二ヶ月も経ってからのことだった。 インターネット・カフェで接続できるようになったので、公衆電話屋さんで高い電話代を払うこともなくなったが、問題は一気には解決されなかった。電話回線ではなく必ずLAN回線を張っているインターネット・カフェなのでLANケーブルは必ず差し込めるが、電話屋さんと同様接続を許してくれないところ、また許してくれても僕のLAN設定に関する知識の浅さから、インターネット・カフェのLAN設定の仕方によっては接続できずにまた別のカフェへ行って試みることが多かった。最終的に諦めたこともよくあった。仮に接続できてもまだ問題があった。AOLには毎月2000円も払っているのに、電話で直接アクセスしたした時に出てくる会員専用画面を呼び出す方法が分からず、一般公開用のメールメニューを使っていたので、予め書いておいたメールの返事を一通ずつコピー・張り付けし、受け取ったメールも同様にしていた。電話では自動送受信によって数分で終わっていたものが、メールが多い時には一時間もかかるようになった。 時間がかかるとは言え、インターネット・カフェが使えるようになったので、ホテルと公衆電話屋さんの電話からは開放された。それに料金が飛躍的に安くなった。ホテルの電話を借りた時は一分間に70円も払っていた。中米の国の電話代は、旅行者にとっては信じられないほど高いのだ。そうは言っても、インターネット・カフェでコピー・張り付けをするのが面倒くさいので、少々高くつくが電話が使えるところでは電話を使っていた。それでインターネットはメールの送受信が終わればすぐに切っていた。 しかし、メキシコからグアテマラに入るとさらに問題が出てきた。アルゼンチンとブラジルを除いて、中米と南米ではAOLは自社のネットワークを持っていなくて、接続が有料になるのだ。僕はこのことを忘れていて、グアテマラの次の国、エル・サルバドールで追加接続料金が取られていることに気が付いた。一ヶ月に5000円くらい銀行から引き落とされていた。どうも追加接続料金として一分間に25円くらい取られていたらしい。高い電話料金に加えて、これまた高い接続料ではたまらない。インターネットのことでずっと気が重かった。
パナマ・シティーのインターネット・カフェ
エル・サルバドールからホンデュラスに入ってすぐ、日本人の太一郎と遭って、結局彼の住むSanta Barbaraという町に通算5ヶ月滞在することになった。太一郎にこうしたインターネットに関する僕の問題をしゃべった。彼は、電話によるアクセスはできないがインターネット・カフェからなら、Yahooを使えば問題は全て解決できるということを教えてくれた。早速Yahooの会員登録をした。登録にはYahooのサーバー名を入れる必要があった。僕は、それならAOLについてもサーバー名さえ分かればいいのではないか、と思った。それでホテルに帰りAOLのユーザー・マニュアルを初めて読んでみた。サーバー名は書かれていなかったが、LAN接続の方法が書かれていた。これでインターネット・カフェから直接、会員専用画面に飛び込めることがわかった。問題は一挙に全て解決した。やはりマニュアルは読んでおくものだ。 こういう訳で僕は、ホンデュラス以降のインターネットへのアクセスについては全てインターネット・カフェで行ってきた。一時間の使用料金は、時々は400円くらいすることもあるが、大体は100円から200円といったところだ。日本で市内電話を使ってアクセスするよりもむしろ安い。南米でAOLが無料で使えるのはアルゼンチンとブラジルだけだ。南米でも中米同様、インターネット・カフェはたくさんあるような気がする。AOLをキャンセルしてタダのYahooだけにしようかとも考えた。しかしインターネット・カフェのないところでの緊急連絡のことや、インターネット・カフェの少ないであろうヨーロッパのことを思って、もう一年以上も毎月2000円をAOLに払い続けている。そのヨーロッパでもAOLがネットワークを持っているのは、イギリス、ドイツ、フランス、スウェーデン、スイス、オーストラリア、アイルランドだけだ。その他の国では、グアテマラ、エル・サルバドール同様、また高い追加接続料金を払わなければならないのか。
南米コロンビアの首都ボゴタでは初めて壁掛けディスプレイを見た。
便利なインターネットだが、解決すべき問題が残されている。一つは、こうした通信の問題だ。日本はイラク戦争の後始末として、またアメリカにお金を取られるのだろうか? そんなお金があれば宇宙衛星でも何個か打ち上げて、なんとかこうした問題を解決できないのだろうか? もう一つは現在のパソコンだ。小さいノート型とは言え、バイクの旅行には無視できない荷物だ。パソコンだけならまだしも、それに付随する物を含めるとかなりの量になる。僕は北米のこの旅で二回ウィルスを頂戴した。その度に再インストールした。こうした場合のために、OSを含めてデータのバックアップCDを70枚くらい提げて旅をしている。なぜこんな馬鹿げたことになるのか? それは各自のPCにOSやデータを持っているからだ。今のプロバイダーみたいな会社がこれらを一括管理しさえすればいい。僕らのPCはダム端末装置でいいのだ。ハッカーやウィルス対策は、専門の技術者を持った会社が24時間体制で行えばいい。それでも不幸にして攻撃を受ければ、彼等専門家が修復すればいい。僕ら素人の仕事ではない。そうなれば僕の再インストールは不要で、CDを持ち歩くこともない。僕らのPCからプログラムやデ?タが消えるとディスクは不用になる。バッテリーはもっと長持ちする。ついでにディスプレイとキーボードはメガネにしよう。そうなればタバコの箱よりも小さいPCとメカネだけでインターネットをしながら旅ができる。これを可能にするには世界のどこからでもアクセスできる高速通信網が不可欠だ。僕はこうしたシステムの開発が、日本経済再生の最重要事だと思っている。家に電話があるのに、みんなが携帯電話を求めたことを考えてほしい。中米のインターネット・カフェではメールを書くのではなく、インターネットで国際電話をしている人が多い。将来、PCが電話を吸収するのか。逆に僕は、ひょっとして携帯電話の進化が、マイクロ・ソフトのこの原始的PCシステムを駆追し、僕の望むシステムを実現する可能性があるのではないかと期待している。しかし、それはどちらからでもいい。早くこのPCに関係する大量の荷物から開放して欲しい。