(1) 2001年11月7日 カリフォルニア州Montereyからのメール
Rohnert Parkでブーツの底を2.5cm嵩上げしたお陰で、両足が地面にかなりの程度まで着くようになりました。重い荷物で車体も沈むので大丈夫、バイクのシートを削り取るのは止めにしました。また、左足の甲に硬いプラスチックをコーティングしたので、チェンジを切り替えても足に圧力がかからなくなりました。足自体もマイケルの家で一週間ほど静養したので痛みはほとんどなくなりました。
昨日、 Rohnert Parkを出て西へ、太平洋に向かって走り、
カリフォルニアの海岸線を走る州道1号線をサンフランシスコまで行きました。サンフランシスコではイエローストーンで遭ったBMWライダーが住んでいるので、彼の家に泊めてもらいました。彼は日本の米軍基地に4年程居たことがあるので、家には日本の金屏風のような絵が壁に掛けられていました。ところが、日本に住んだ経験のある人達はほとんど全員、玄関で靴を脱ぐというすばらしい日本の習慣を真似るものなんですが、彼の家では靴を脱がないので少し戸惑いました。家に着くとすぐにバーに行き、ビールを飲んでからメキシコ料理店でエビとキノコの料理を食べましたが、どちらも禁煙なので苦労しました。カリフォルニアは清潔病なんです。家に帰ってからは裏庭で薪を燃やして、また一杯飲みました。サンフランシスコの真ん中にある家でも、広い庭があるのはさすがアメリカです。 今日の朝彼の家を出て、近くにあるサンフランシスコで一番高い丘に上りました。
シェラネバダの山からRohnert Parkまで降りて来ると、カリフォルニアは暖かい。Tシャツに半パンの人もいる。そんな日本の初夏を感じさせる晴れ上がった土曜日の昼に、マイケルは隣町のPatalumaでアメリカのアフガン爆撃に反対する集会に参加するというので、奥さんのSachikoさんと三人で出かけた。
丘から見下ろすサンフランシスコ
壁に日本の絵がある、もう一人のマイケルの部屋
集会といっても、思い思いに書いてきたプラカードを持って街の主要交差点に立って、道路を行く人達に黙ってアピールするだけだ。それでも交差点を通り過ぎるドライバーからは、支持の声援や、反対に罵倒が飛んでくる。20人の小さな抗議だったが、毎週土曜日にこの交差点に立っているらしい。こんな抗議が近くの多くの街で個々に展開されている。日本のように大きな組織の指導の下に集まるのでなく、個人が自分の自由意思で参加する、まさに草の根運動だ。アメリカの民主主義はこうしたところでしっかりと支えられていることを痛感する。 夜になって、Cotati Philharmonic Orchestraによる無料のクラッシク・コンサートに、息子のジョシュアも加えマイケル家全員と出かけた。出し物はベートーベンとストラビンスキーだった。
無料クラシック・コンサート
どちらの曲もMP3でCDに圧縮して旅に持ってきているが、やっぱり生演奏は別の曲を聞いているように迫力がある。日本では、こうした音楽家は大阪フィルハーモニーのように公務員だが、このオーケストラで演奏している人達は、音楽の先生だとかでみんな別の職業を持っている。アメリカでは小説家も含め芸術だけでは食べていけないと書かれていた本を読んだことがある。そんな状況でも、人口がわずか約7千人のこの小さな町でオーケストラを持っているのにはびっくりする。曲の演奏が終わると、聴衆は全員立ち上がっていつ終わるともしれない拍手で答える。無料だから余計にそうなんだろうかと思っていたが、コンサート終了後にはみんな寄付をして帰って行った。ここでもアメリカの民主主義の基盤をみたような気がした。 三ヶ月以上前にカナダのカルガリーでタイヤ、エンジンオイル、オイルフィルター、それに点火プラグを交換したR1100Rは、その後カナダを横断し、フロリダ半島を回ってまたカリフォルニアへ帰ってくるまで1万1千マイル(1万8千キロ)を走ってきた。タイヤはまだ大丈夫だが、エンジンオイルのことは気になっていた。R1100Rのマニュアルを見ると1万2千マイルで交換と読める。エンジンが大きくなるとそんな長距離までオイルを交換しなくてもいいのかと思って、カリフォルニアまで走ってきた。そして中南米に備えて近くのBMW専門店でR1100Rの総点検をしてもらった。BMWのメンテナンスは全てプロに任せることに決めたので見習をせず、5時間の作業時間中は近くの公園で寝転がっていた。だから、どこまでの点検や部品等の交換をしてくれたのか分からないが5万円も払った。バイク屋さんが言うには、エンジンオイルも最低一万キロで交換が必要らしい。僕の旅もだんだんいい加減になってきている。
エンジンオイルは、もう終わったことだ。仕方がない。しかし左足の痛みは、短足ゆえに足がつま先しか地面に届かないのが原因だ。
黄色の線が元の靴底
加えて、こちらでは信号が少なくてチェンジを切りかえる頻度が少ないとは言え、長期間のシフトアップにより左足の甲まで痛んできた。これも何とかしなければならない。つま先に鉄板の入った安全靴を買いに行ったら、いいものがあった。プラスチックの液体で、これをブーツのつま先部分に上から塗って乾燥させれば、鉄のようにカチカチに固まるという優れものなのだ。念のため2本買って40ドル払った。そしていよいよブーツに塗ろうとした時、少しでも短足を補うためには靴底をもっと厚くしたらよいということを思いついた。日本の若い女の子達が履いているあの厚底の靴だ。思いついたといっても、このことは日本を出る前からみんなが冗談混じりに言っていたアイデアだ。僕も冗談として聞き流していたが、こうなればもう格好なんて構っていれない。靴底を1インチ(2.54cm)嵩上げしてもらった。足付き性は改善されたが、140ドル払った。プラスチックのコーティング剤と合わせると180ドル、2万円以上の出費だ。ブーツは3千円のバーゲン品だから、何かしっくりしないが、仕方がない。座席のシートを削って低くしてくれる店が3時間ほど南に行った所にある。もうこうなったらメキシコへ?る途中に寄って座席も削ってやる。この際、お金のことは考えないようにしよう。 カリフォルニアには、実は二輪免許を取るために帰ってきたのだが、陸運局みたいな役所に行くと三ヶ月以上の滞在証明書がないと免許証は出せないと言う。一般旅行者に出る滞在許可は最大で三ヶ月だ。と言うことは、旅行者には免許証を発行しないと言うことだ。数年前にドイツの若い男が、ソーシャル・セキュリティーの拒否証明書を、その陸運局に持って行ったら免許証が取れたということを聞いていたので、テキサスからわざわざカリフォルニアまで帰ってきたのだ。そこで僕も年金事務所みたいな役所に行って同じ拒否証明書をもらって陸運局で見せたのだが、全く取り合ってもらえない。後で聞くと、そのドイツ人は留学していたので滞在期間が長かったらしい。ちょっと話が良すぎると思っていたので、確認ができただけでもよかったと思っている。陸運局では、ついでに日本のように外国の免許証をアメリカの免許証に書き換えてくれないのかとも聞いてみたが、「あんた何を血迷ったことを言ってるの?」という顔をされた。こうなれば破れかぶれだ。日本のJAFみたいな所へも行って、日本の免許証を持っているのだがアメリカで国際免許を出してくれないか、とも聞いてやった。事情を説明すると、応対?おばさんは大変気の毒がってくれたが、当然ダメだった。国際免許の有効期間は一年なのだが、それを更新するためにはゼロックスのコピーではなく、本免許そのものを持って出頭せよ、というご無理なことを日本の役所はおっしゃるのだ。本人が海外に居て出頭できない場合は、滞在地の大使館か領事館で必要な証明書をもらってからそれを本免許とともに日本に送り、家族の代理人をたてよ、とまた難儀なことをおっしゃるのだ。もし郵送中に現地のポリさんに捕まったら無免許運転になるではないですか。それに海外では郵便物はしばしば途中で消えるというではないですか。アメリカでは陸運局もJAFも、みんなインターネットで処理してくれるんですよ。日本の役所、悪いところばかりではなく、たまにはアメリカのいいところをまねしたらどうなんですかね。僕も元役人だが、日本の役所のことを思い出すと情けなくなる。まあ仕方がないので免許書は、スペイン語の勉強で長期滞在する予定のガテマラで再度挑戦することにする。免許証は取れなかったが、またマイケルに会えたのでそれだけで十分だ。ちなみにカリフォルニアでは20ドルで免許証が取れます。筆記試験に落ちてもその20ドルで三回まで試験が受け?れます。
カリフォルニアに着くまでに、免許取得ハンドブックに赤線を引いてまで久しぶりに受験勉強をしたのだが、こんな事情で免許取得計画は一日で破綻したのでマイケルの家には一週間ほど泊めてもらっただけでメキシコに向けて出発することになった。一旦西に走り海岸線沿いに南下することにした。すぐ南のサンフランシスコでは、イエローストーン公園のキャンプ場で遭ったBMWのライダーと再会する予定だ。テロリストが今度はサンフランシスコの三つの橋を爆破する危険性があると、数日前からFBIが警告している。そのため、みんなファリーに乗り換え、ゴールデン・ゲート・ブリッジもクルマが走っていないと新聞が報じている。仮にそれが事実としても、橋が爆破されるその時間に僕が橋を通過する確立は非常に小さい。そんなことを気にしていたら旅はできない。むしろ交通量の少ないことを歓迎すべきだ。
海岸沿いの州道1号線は、平行して国道101号線が走っているので交通量は少ない。
サンフランシスコの手前から南にかけて、峻険な岩山がまっすぐ下に向かって海に落ちている。特にサンフランシスコの南では、道は断崖絶壁の中腹をえぐって急なワインディングを繰り返し、遥か下に見える海では荒波が砕けている。落ちたらそれまでだ。それが200kmほど続く。その間に泊まれるところは数えるほどだから、値段は高い。100ドルとか150ドルとかとんでもない高値なので、夕暮れを恐れながら海に落ちて行く夕日と競争して次ぎのモーテルまで走る。この海岸線からメキシコ国境のサンディエゴまでは観光客が多く、ホテルやモーテルも高い。安いモーテルを求めて走り続けたが、モーテル代は35ドル、40ドル、46ドルと南に行くに従い高くなり、サンディエゴでは電話もない狭い部屋で67ドルも取られた。もちろん今回の旅の最高値だ。 メキシコのティファナはサンジェゴと隣接した街だ。サンディエゴからは20~30分でもう国境だ。こんな高い街を早くでないと、お金がいくらあっても追いつかない。メキシコから南では全てが安い。幸い大金を投資したブーツのお陰で地面に足が無理なく着くようになり、またチェンジの切り替えにも甲に圧力がかからなくなったので、左足の痛みも和らいできた。そして、いよいよメキシコだ。ティファナはこれで4回目で勝手もわかっている。また、あの陽気で楽しい人達に会える。スペイン語もほとんど忘れてしまったが、片言でもいいから早くしゃべりたい。僕の旅はこれからが始まりだ。
この辺りからさらに南には断崖絶壁の恐い道路が...