チリを出国してから先のアルゼンチンの国境は遠かった。アンデス山脈を東に越えた反対側にあって50キロも走った。近いと思ってはめなかった手袋を途中でまたはめるほど遠かった。僕の今まで旅で一番長い国境だった。両国とも悠長なのか、あるいは単に少しでも町に近い所に国境事務所を設けただけなのか。
国境から東南に100キロ以上走るとBarilocheという町があった。湖に面するこの町は、僕にはそう思えなかったが、観光の町だった。そのためか、ホテルは高かった。そしてチリ同様、駐車場のある安宿は見つからなかった。何時間もかけて探し当てたホテルは、大したこともないのに1,300円もした。アルゼンチンはチリよりも少しは物価が安いだろうと期待していたのに、ショックだった。ここは南米の最南端から2,000キロ近く離れているが、もう既にパタゴニアだ。2月3日にアルゼンチンに入れたのは予定より早かったが、ホテルが高いのと、寒くなる前になるべく早く最南端まで行きたいので、二泊だけして南へ向かった。
湖の向こうがBarilocheの町
パタゴニアにある油井
500キロ近く走ると、やっとホテルのある町があった。観光地でもない田舎町なので一泊750円だった。ホテルの主人はバイク好きで、今まで泊まったライダーの写真を全て映して持っていた。アルゼンチンの地図はBarilocheで買って持っていた。チリとの国境沿いに真っ直ぐ南に向かう国道40号線は、"consolidado"されている道路だと書かれていた。"consolidado"は「固められた」のような意味だと思ったが、それが舗装道路なのかどうかわからないので、買った本屋にいた女性等、Barilocheの何人かの女性に聞いてみた。全員、アスファルト道路だと答えた。僕は信じ切っていた。国道40号線を南に下り、南半球最南端の町、Ushuaiaまで走るつもりだった。しかし一点だけ不安があった。アルゼンチンに入っても、チリのアタカマ砂漠同様、200kmほどガソリンスタンドはなかった。地図を見ると、国道40号線沿いにはほとんど町はない。それでバイク好きの主人に、「明日から国道40号線で南に行きますが、ガソリンスタンドはありますか?」と訊ねた。すると彼は、「400kmの間ない所もある。それよりも貴方のバイクでは全く無理だ」と言われた。「アスファルトで舗装されてるんではないんですか?」と聞くと、「ダートで、石は尖っていて、タイヤが破れる」という答えが返ってきた。聞いてよかった。僕は東に向かう舗装道路で大西洋岸のComodoro Rivadaviaという町に行くことにした。パタゴニアを横断するこの道路もまた、褐色の硬そうな草が生えただけの、僕にはまるで半ば砂漠のように見える無人の広野を貫いて走っている。人間も動物も見かけない。道路を走るクルマすら滅多にすれ違わない。しかし一ヶ所、石油を掘っている場所があった。パタゴニアでは石油が出るのだ。そのためか、チリでは1リッター100円位していたガソリンが、パタゴニアでは半値になった。そしてチリの道路は有料でバイクからもお金を取ったが、パタゴニアでは無料だ。
港町Comodoro Rivadaviaにはインターネット・カフェがあった。だから、そこそこ大きな町だ。町のすぐ北は禿山で、山頂に風力発電の風車が回っていた。パタゴニアは風が強くて有名だ。街を歩くと歩行者天国があって、そこでタンゴの講習会が開かれていた。ここはタンゴの国アルゼンチンだ。この町でも駐車場のある安宿を探すのに苦労した。どこにもない。やっと探し当てた安宿は、安宿とは言え1000円以上した上に、部屋の前にバイクを駐輪できるスペースはあるが、その安全性に一抹の不安を覚えるようなホテルだった。僕はこの町でも二泊しかせず、さらに500kmほど南のPuerto San Julianという港町に行った。
Puerto San Julianにあるペンギンの島
BMWを預かり修理してくれたRicardo Arbaizar
Puerto San Julianはほぼ南緯50度にある小さな町だ。舗装された国道3号線が首都ブエノス・アイレスから、さらに400km南のRio Gallegosまで結んでいる。Rio Gallegosから地の果てUshuaiaまでは一部未舗装路がある。僕はPuerto San Julian には一泊だけして、Rio Gallegosに行き、そこのバイク屋に絶不調のBMWを修理に出してバスでウシュアイアに行くつもりだった。ところがPuerto San Julianに公共のいいホテルがあった。2年9ヶ月で公共の宿は始めてだった。公共とはいえあまりにも立派なので僕には無縁のホテルだと思いながら、冷やかしで値段を聞いてみた。朝食込みで一泊1,450円だった。泊まれる値段だ。少し考えたが、チリ、アルゼンチンではこんな値段でこんな立派なホテルは絶対にない。泊まることにした。久しぶりの快適なホテルなので結局5泊することになった。このホテルのすぐ近くに桟橋があって、そこからペンギンの島に観光船が出ていた。二時間750円のツアーだ。その観光船でペンギン、鵜、イルカを見た。もう他に見るものは大してない。ある日、散髪に行った。散髪屋の親父が僕の旅行について聞いてきたので、バイクの調子が悪いことも含めて答えていた。すると親父が、息子がバイク屋をやっているので散髪が終わったらクルマで連れて行ってやると言った。僕達はそこへ行った。立派な修理場に息子のRicardo Arbaizarがいた。彼は子供の頃からモトクロスをしてきた。だからバイクのことは隅から隅まで知っている。低いギヤーでは恐くて走れないほど不安定で、同時にガソリンを驚くほど食うようになったBMWに、僕は強い旅の不安を感じていた。二回バイク屋に持ち込んだが、結果は以前と大して変わらなかった。しかし、Ricardoは、僕の師匠倉矢氏同様、エンデューロ・レーサーだ。彼なら直してくれる、と思った。案の定、彼は原因がインジェクターの故障であることをすぐに見つけてくれた。彼は僕に、インジェクターを修理するためブエノス・アイレスのBMWに送ると帰ってくるまで一週間から10日かかると言った。僕は、どちらにしても、この町の近くにバイクを置いてUshuaiaに行くつもりだった。Ricardoはその間に修理してやると言ってくれた。彼に預けておけば大丈夫だ。それで僕は、バイクをRicardoの店に、荷物を公共のホテルに置いてUshuaiaの方に向かうことにした。僕はパタゴニアについて、全てのライダーが目指すUsuaiaの他に氷河があることは知っていたが、その他は何も知らなかった。公共の宿で凄い山の写真を見た。何処にある何という山かと聞くと、チリの国境に近いアンデスにあるFitz Royという山だと言った。僕は行くことにした。
Fitz Royを調べるためガイドブックを読むと、是非行きたいと思っていた氷河がFitz Royの近くにあった。まずそこへ行って氷河を見た。南アメリカ大陸の南端にある、アルゼンチンからチリにかけてのこの地方の山には氷河がある。僕が行ったPerito Moreno氷河は、地球温暖化で後退し続ける氷河の中では珍しく進行する氷河だ。氷河は湖に流れ込み、時々大きな音をたてて湖に砕け落ちる。氷河の水面からの高さは、高い所で60m、幅は2kmもある。僕は、カナダやニュージーランドで氷河を見たが、こんなにも身近で、しかも湖な流れ落ちる氷河は初めてだ。これだけでもパタゴニアに来た甲斐がある。
Moreno 氷河
Moreno 氷河
Moreno 氷河
Fitz Roy
Fitz Royも凄かった。バスはFitz Royの麓にあるEl Chaltenという小さな町に向かっていた。幸運にも空は雲一つない快晴だった。バスから見えたFitz Royとその山系は、ヒマラヤの山々よりも幻想的だった。町に入るとFitz Royは、ほとんど見えなくなった。僕はアメリカとカナダで重いBMWを爪先で支えすぎたため、長い距離を歩けなくなった。しかし美しいFitz Royをもっと見たいと思った。それで北にあるDesierto湖まで行くツアー・バスに乗った。途中で見惚れるようなFitz Royの姿を見た。翌日、もっと近くで見たいと思って歩くことにした。朝起きてユースホステルを出て、南にあるチリのPuerto Natales行きのバスの切符を買いに行った。Fitz Royは、その時にはくっきりと見えていた。しかし無理をして一時間半歩いた後には雲がその美しい姿を覆い隠していた。自然は時として、意地悪だ。
しかし、南のPuerto Natalesの近くにもTorres de Paineという同じような山があると聞いていた。Fitz Royを後にしてチリのPuerto Natalesに向かった。翌日、早速ツアーバスに乗った。雲の多いあいにくの天気だった。Torres de Paineは「青い塔」という意味だ。少しの間ではあるが、バスの中からその塔の下半分は見えていた。しかし、展望地に着いた時には雲に覆われ何も見えなかった。写真で見ると「青い塔」は四つ並んでいて、トウモロコシのような形で天を突き刺している。麓からの高さが2,400mある頂上まで登るのには、2~3日かかると聞いた。是非見たかったのに残念だった。
Torres de Paineはこの山の後ろにあるが、雲で見えなかった。
Torres de Paine国立公園の狐
Puerto Natales から4時間バスに乗って、同じチリ領のPunta Arenasに行った。Punta Arenasはマジェラン海峡に臨む港町だ。三年の航海で世界一周を果たしてマジェランは、スペインを出た後1520年にこの海峡を通過している。パナマ運河が開通する前まで、大西洋から太平洋へ、またその逆に向かう船は全てここを通過した。小学校か中学校で聞いたマジェラン海峡は、僕には地図上にだけ存在する場所であって、自分の目で見ることになるとは想像だにしていなかった。しかし数十年遅れたが、来てしまった。世界地図がますます自分のものになろうとしている。その意味でもこの旅は、僕の世界の白地図を大きく埋めていっている。想像だけだったマジェラン海峡を見た感慨は深い。
Punta Arenasとマジェラン海峡
南半球最南端Ushuaiaの町とビーグル海峡
南極大陸まで1,000kmのUshuaiaは、「火の土地」という名の島にある。マジェラン海峡よりまだ南のビーグル海峡に面した港町だ。ダーウィンは1831年、彼が22才の時にビーグル号に乗り5年の世界一周の航海に出た。彼はこの辺りの調査を終えた後ガラパゴス島に向かった。Ushuaiaの博物館には彼についての展示もなされている。Ushuaiaは南極に一番近い町なので、今は南極観測船や南極観光船の基地になっている。南極観光の費用は、約40万円と聞いた。南極には温泉が沸いているとも聞いたので、ちょっと興味が沸いていた。しかし、行って来た人が、寒い環境だから生温いと感じるだけの温泉だと言ったのを聞いて、行かなくてよかったと思った。Ushuaiaの町のすぐ西にも美しいと言われる国立公園がある。しかし、僕はPuerto San Julianにバイクを置いてからの連日の早朝バスによる移動やツアーに疲れ切っていて、Ushuaiaでは何処にも行かないと決めていた。
やっと届いたタラバガニを持つ矢野医師(左)と「上野亭」の女将上野さん
「上野亭」では連日の宴会
Ushuaiaでは、2年9ヶ月になるこの旅で、もっと言うと僕の31回目の海外旅行で、コスタ・リカに次いで2回目に日本人宿に泊まった。ここは全て相部屋だ。海外旅行での相部屋は過去にはない。今回の旅行で初めてで、カナダのユースホステルと、つい先日のFitz Royのユースホステルだけだ。しかし、日本人だけが泊まる日本人宿は100%安全だ。上野亭と呼ばれるUshuaiaの日本人宿には、鍵はなかった。部屋のドアーはもとより、宿の入り口のドアーも24時間開けっ放しだ。その上野亭で、多くの若い日本人の旅人に遭った。ここ20年以上、僕は日本の若者はアタマが悪い上に無気力なので、日本の将来を憂えていた。ところが世界を旅する彼等は輝いている。頼もしく思った。そしてみんなが集まった。僕がUshuaiaに滞在した9日のほとんど毎日、ムール貝、タラバガニ、ウニ、燻製の鮭を肴にして、普通は100円、ちょっと気張って上等の200円のワインでの宴会が、連日朝の4時から6時まで続いた。僕は、Ushuaiaでは日本でも食べたことのない贅沢な海鮮料理を満喫した。バイクと荷物を置いてきたPuerto San Julianに飛行機とバスで戻った。故障していたインジェクターは20日以上の後、ブエノス・アイレスから届けられていた。サンチャゴで完全に死んで以来故障続きだった僕のBMWはRicardoの手によって見事に生き返った。
一ヶ月振りにバイクに乗った。一旦500km北のComodoro Rivadaviaに戻り、そこに一泊だけしてさらに500km北のPuerto Madrynまで走った。この日はパタゴニアで初めて強い風の中を走ることになった。しかしバイクは快調だ。Puerto Madrynは観光の町だ。観光客はペンギン、アザラシ、鯨等を見にやってくる。僕は既にペンギンは見ているので、ここではアザラシかトドを見たかった。町から17kmの所にトドの集まっている場所がある。道路の15kmは舗装されていないので、僕はバスで行きたかった。しかし既に真夏が過ぎ観光客が減っているのでツアーバスはなくなっていた。思いきってバイクで行くことにした。聞いていたよりも悪路だった。トドは20mほど離れた展望台から見るだけで、近づくことはできなかった。みんな寝たままでほとんど動かなかった。寝ているだけで生きていけるのは、幸せな動物だと思った。でも動物はみんなそうなのかもしれない。餌を取ればあとはトドのように寝ていてもいいのかもしれない。
Puerto Madrynのトド
ガソリンをくれたLuis Ruben Miglaroはこんな大きなバスで旅行していた。
Puerto Madrynで三泊して、250km北にあるSan Antonio Oesteに向かった。パタゴニアもここまで来ると、もう寒さを恐がることもないのになぜか急いでいる。チリに入ってから飛ばしてきたので、その癖が着いてしまったのかもしれない。この日も空は青空だった。ずっと天気に恵まれている。トドを見に行ったのでバイクの距離計は50kmを指していた。走り出して20km、あると聞いていたガソリンスタンドはなかった。そこで次の町まで125kmという標識を見た。この距離は走れる。しかし、パタゴニアではそれが町であるかどうかは疑問だし、たとえ集落があってもガソリンスタンドがあるとはかぎらない。不安を覚えながら距離計が100kmを越える所まで走った。この先も全く何もない広野だ。いよいよ不安になった。ここからなら残るガソリンで引き返せる。バイクを止めて、走ってくるクルマに次のガソリンスタンドがどこにあるのか聞くことにした。すぐにバスが近づいてきた。不思議にもそのバスは指示器を出して、バイクの後ろの道路端に止まった。乗客はいない。夫婦二人だけが乗っていた。よく見るとバスの後ろにトレーラを引いている。ドライバーは年配の男でトレーラーにはHONDAのアフリカ・ツインを積んでいると言い、僕のBMWに4リットルほどのガソリンを入れてくれた。これで途中にガソリンスタンドがなくても、目指すSan Antonio Oesteまでは走れる。同じバイク乗りとは言え、親切な人だ。彼の名前はLuis Ruben Miglaroで、僕の通ってきたComodoro Rivadaviaに家があるが、エクアドールのキトにある会社の社長で普段はそこに住んでいる。どおりで、こんな大きなバスで旅行ができるのだ。こんな旅行者を見るのはアメリカ以来だし、アメリカでもこんな大きなバスはあまり見たことはなかった。彼は僕の旅行が終わったらBMWを買いたいと言った。エクアドールではこれで二人目だ。コロンビアでは中古バイクに限らず中古車は登録できない。どこか近い国で売らなければならない。僕は彼に売る気になった。しかしよく考えてみると、エクアドールに入国した時、パスポートにBMWの持ち込みが記入された。エクアドールで売れば、出国の時に問題になるかもしれない。旅が終わった後のBMWのことは、しばらく考えたくない。Luisのお陰で、ガス欠もなく無事着いたSan Antonio Oesteは観光客のいない、人口2万の小さな町だった。クルマも少なく静かだし、町の中心広場の周りにインターネット・カフェやスーパーなど必要な店舗が全てある。ホテルも安いし、住む人も愛想が良くて優しい。それに安全だ。僕はこの規模の町が一番好きだ。Ushuaiaではずっと雲っていたが、北に来るにしたがって、天気が良くなってきた。この町では四日間晴れている。だから夜になると星が綺麗だ。天頂にはにせ十字星が、その南東のすぐ下には南十字星が輝いている。チリ同様、入国後しばらくしてもあまり好きになれなかったアルゼンチンだが、このところ僕はこの国を好きになりかけている。
僕はこれから、Neuquen、Buenos Airesにいるエスペランティストに会うため、北に向かう。
アルゼンチンのエスペランティストとは、僕がエスペラント語を始める前から縁があった。僕は30才を過ぎてからスペイン語を勉強した。そのスペイン語のクラスの先生の一人が、一年半前に亡くなった平井征夫さんだった。クラスの生徒は、僕と高校で国語を教えていた首藤さんという若い女性のわずか二人だった。ある日、彼女は海外で買ってきたチリのフォルクローレ歌手、ビオレッタ・パラについて書かれた“Gracias a la vida”という本を読もうと言い出した。この本は5年ほどかかって翻訳し「歌っておくれ、ビオレッタ」という書名で出版されたのだが、その間どうしても意味のわからない部分について、平井さんはアルゼンチンのエスペランティストAlfredo Valle に何回も手紙で問い合わせていた。その当時この本についてチリのエスペランティストと接触を持つのは、政治的背景から危険だと平井さんが判断したからだ。
パタゴニアのNeuquenに住むRuben Sanchezとブエノス・アイレスのRoberto Sartorとは、ともにもう一年以上前から何回もメールを交わしアルゼンチンで会う約束をしていた。二人とも世界エスペラント協会のアルゼンチン代表だ。途中ホンデュラスで半年、コロンビアでも半年長居をしてしまったので、アルゼンチンに着くのが随分遅れてしまったが、二人は僕を待ってくれていた。
Neuquenには川が流れる。
Rubenはバイクでやって来た。
NeuquenのRubenは数学と物理を教える教師だ。Neuquenに着いてすぐ、彼の携帯電話に電話した。彼は授業を終えると早速僕のホテルに来てくれた。世界エスペラント協会の代表だからもっと歳をとっていると思っていたのに、会った彼は随分若かった。39才だ。それにホテルにはバイクに乗ってやって来た。バイクに乗るエスペランティストは初めてだ。会ったばかりのRubenは早口のエスペラント語をしゃべったので、よく聞き取れなかった。それで彼にゆっくり話してくれるように頼んだ。スピードの落ちた彼のエスペラント語は綺麗なエスペラント語だったので、いつも聞き取れない僕にも何とか聞き取れるようになった。僕達は近くの喫茶店に行った。彼は僕に、翌日学校のクラスに来ないかと言った。僕はすぐに引き受けた。一時間半ほどしゃべった後、彼は10才になる双生児の息子を迎えに行くと言って去った。忙しそうな人と思った。翌朝彼は10時に僕のホテルにバイクで来た。僕も、元映画館だったホテルの車庫からBMWを出して二人で学校に向かった。学校へ行く途中で、Rubenは花を栽培している所へ寄った。そこは日本人に経営されているからだ。あいにくその日本人は不在だったので、僕達はそのまま学校へ行った。生徒達は、珍しいBMWをしきりに見ていた。Rubenは僕を職員室に連れていった。Rubenは一人の年配の女教師に挨拶のキスをした。その女の人は僕に向かっても同じように頬を出してきた。僕は少しうろたえ、自分の顔を彼女の方に近づけた。もう2年9ヶ月もこんな習慣を持った国々を旅しているのに、素面でキスをするのはまだまだ慣れない。
Rubenの授業は80分だった。生徒は高校生くらいだ。30~40人のクラスだっただろうか。工業系の学校なので女生徒は少ない。自己紹介をする暇もなく質問が飛んでくる。日本と違って彼等は物怖じしない。しかし、僕は彼等のスペイン語が全く分からない。Rubenがエスペラント語で通訳してくれた。僕はこの旅で二回、学校でしゃべったことがある。最初はアメリカのダラスの小学校だった。もちろん英語でしゃべった。二回目はコロンビアのボゴタだった。ボゴタで僕を学校に連れていったエスペランティストのLeonardoはその学校で英語を教えていたので、僕はまた英語でしゃべった。しかしNeuquenでは初めてスペイン語でしゃべった。分かりにくいと思うところはRubenが正しいスペイン語で言い直してくれた。80分はあっという間に過ぎた。楽しい経験だった。
その日、Rubenは、行ったが会えなかった花を栽培している日本人に電話をしてくれていた。その日本人は、その日の夜に僕のホテルに電話してくれたが、僕は夕食に出て不在だった。翌朝、彼に電話した。彼は沖西一昭という名前だった。電話すると12時半に会おうと言う。僕はかすかに日本食の昼食を期待しながらタクシーで彼の花園に行った。彼は門で待ってくれていた。僕は彼のことを昔の移民だと想像していたので、てっきり相当年配の方だと思っていた。ところが会った彼は若かった。49才だと言ったが、40才位に見えた。早速彼はクルマで自宅に連れて行ってくれた。大きな家だった。プールまである。わずか300万円で買ったという。僕はプールのある家は、日本では見たことがない。これだけでも彼の移民は大成功だ。彼は、今から24年前、25才の時にJICAを通じてアルゼンチンに来た。昔の移民と違って舟ではなく、飛行機だった。そして二年間こちらで働けば、飛行機代は無料になるという条件だった。花屋の店員として働いた二年後、彼は帰国した。帰国してもやはり日本に馴染めず、またアルゼンチンに戻ってきた。しかし今度は、新妻を伴ってのことだった。その奥さんとの間には、今は三人の子供さんがいる。かすかに期待していた昼食は、やはり戴けた。わさびまで付いた刺身とカレーライスだった。薄く切って茹でられたキャベツをマヨネーズで食べるのは、僕の好物だ。それも出た。特にカレーライスはホンデュラスで食べて以来、一年半振りだったので最高だった。昼食後、彼は近くに温泉があると言って、僕をクルマで連れて行ってくれた。温泉は広野に涌き出た鉄分の多い温泉だった。同胞とは言え、初めて会った見ず知らずの旅人にご馳走し、温泉にまで連れていってくれる沖西さんに、僕は日本人に対する信頼と誇りを感じた。
Neuquenのエスペラント教室
忙しいRubenだが、仕事が終わると毎日ホテルに来てくれ一時間半ほどしゃべった。土曜日の朝の11時から、彼は市内の図書館でエスペラント語を教えている。当然僕もそこへ行った。僕は生徒数を、大阪同様、数人と踏んでいた。ところがびっくりしたことに20人も来た。さらに大阪と違って、生徒の大多数は若者でしかも美しい女性達だ。僕はRubenを羨ましいと思った。こんなクラスなら毎日でも教えたいと思った。なぜNeuquenに若い生徒が多いのか。Neuquen自体が、新しい町だからだ。この町は40年前までは片田舎の小さな町だったらしい。そこに石油が出た。また町を流れる川の上流には四つの水力発電用ダムがある。Neuquenはアルゼンチンのエネルギー基地として急速に発展している町なのだ。新しい町だから若い人が多いのだ。そうした町でエスペラント語を学ぼうとする若者からも質問が相次いだ。生徒の大部分は初心者なので、まだエスペラント語は十分しゃべれない。そこでRubenは生徒のスペイン語による質問を、学校同様エスペラント語に通訳してくれた。僕は今度は、当然エスペラント語で答えた。一時間のクラスが終わると、Rubenはまた別の用事があるから一時間後に僕のホテルに来ると言って、どこかへ去った。僕も帰ろうとしたら、若くて美人の女性四人と男性一人が僕の方に来て、英語でしゃべり出した。みんな綺麗な英語をしゃべった。実は、この旅で会ってきたエスペランティストの多くは英語をしゃべるのだ。しかし僕達は、エスペランティスト語で意思の疎通を図ろうとしている。それは一民族語が、そしてこの時代は英語なのだが、国際語として使われることに反対しているからだ。一民族語が国際語として使用されるのは、その民族語を話す国が政治的、経済的支配権を持っているからに過ぎない。そうなると言語を通じてますますそうした国の支配力が強化される。それは不平等だ。だから僕達エスペランティストは、それぞれの自国語を補助する国際語として、一民族語の英語ではなく人工であり中立のエスペラント語を使おうとしている。日本ではエスペラント語を学ぼうとする若者が少ないので寂しい思いをしていたが、メキシコのOaxacaに次いでNeuquenに希望を見た。若い四人のエスペランティスト女性に別れのキスをした。もう僕は動揺を覚えなかった。
RubenはNeuquenの西、チリとの国境近くに温泉があると教えてくれた。僕はこれからアンデスを離れるので、コロンビアまでもう温泉はないだろう。地図を見て200kmくらいだと思ったので行くことにした。Neuaqeunから20kmほど走った所でガソリンスタンドに寄った。温泉までの距離を聞くと500kmと言った。まさかそんなにないだろうと思ったので、少し走ってから別の人にまた聞いた。400kmと言った。近いと思っていつもより遅くホテルを出た。もう11時半だった。いずれにしても遠すぎる。Uターンして東へ引き返すことにした。既に荷物をバイクに積み込んでいるので、Neuaquenの元のホテルに戻るのは嫌だった。それで東に350kmほど走って、ブエノス・アイレスに近づくことにした。
コロンビアで落とした二枚のキャッシュ・カードは、チリのエスペランティストDaniel Carrascoのお陰で再発行されたものをサンチャゴで受け取ることができた。今度は、三月で期限切れになるクレディット・カードを受け取る必要があった。弟から新しいカードが届いたというメールが入った。NeuaquenのRubenに送ってもらうには少し日が足りない。そこでブエノス・アイレスのエスペランティストRoberto Sartorの自宅に送ってもらうことにした。クレディット・カードの他にも、カリフォルニアのMichaelからBMWの登録書を受け取る必要があった。これもRobertoの家に送ってもらうことにした。Neuaquenにいた時に、クレディット・カードは無事着いた。RobertoはRubenに電話してそのことを知らせてくれた。Neuquenを出てからすぐ、RobertoからBMWの登録書も無事着いたとのメールが届いた。ずっと気になっていた二つのことがRobertoのお陰で片付いた。
Robertoは、39才のRubenより少し年上で70才だ。2000年発行のエスペラント名簿には、大学教授と紹介されている。彼はジャーナリストであり、アルゼンチンにおけるエスペラント語のホームページの編集もしている。彼はホームページに僕についての紹介記事も書いてくれたし、その他にも僕の旅のことを広くアルゼンチンのエスペランティストに知らせてくれていた。彼が僕に最初のメールをくれたのは、僕がまだホンデュラスにいる2002年12月30日だった。その後僕がさらに南の中米、南米と旅をする間に、行く先々の国のエスペランティストを紹介してくれた。ただ僕は怠け者なので、その殆どの人とは会わなかったが…。
3月1日の夕方、ブエノス・アイレスの日本人宿「日本旅館」に着いた。早速Robertoに電話した。Robertoは、その日は用事があって会えないので翌朝10時か11時にまた電話してくれと言った。その夜、僕は宿泊客の日本人と1時過ぎまで飲み、泥酔した。目が覚めたらもう午後の2時だった。Robertoとの約束の電話時間は既に過ぎている。すぐに電話しなければならないのに二日酔いで身体が動かない。4時半にやっと電話屋さんへ行って電話をした。会うのは翌日にしてもらった。
3月3日夕方の5時頃、RobertoはAlcides Wentinckが運転するクルマで「日本旅館」まで迎えに来てくれた。Alcedesはエンジニアで僕より少し年上だ。Robertoは、届いていたクレジットカードと本、それにBMWの登録書を持ってきてくれた。さらにブエノス・アイレスの案内書と中心部の地図もくれた。ありがたい。ブエノス・アイレスにはエスペラント事務所がある。二人は僕をまずそこへ連れて行ってくれた。市内の目抜き通りの近くにある立派な事務所だ。大阪エスペラント会には事務所がなく、週一回の定例会も会議室を借りなければならないので、随分羨ましい思いがした。事務所を出て、二人は日本庭園を含め大統領官邸など市内の名所を案内してくれた。これでブエノス・アイレスを大まかに知ることができた。最後は三人でビールを飲んだ後、「日本旅館」まで送ってもらった。
ブエノス・アイレスの日本庭園
ブエノス・アイレスの都心にあるエスペラント事務所
聖週間が終わった3月12日の月曜日、Robertoに誘われて事務所で開かれるエスペランティストの会合に行った。事務所ではMarioが待っていた。定刻にRobertoとAlcides、それに若い女性のElisaがやって来た。Elisaが帰った後Silviaが来た。みんな流暢なエスペラント語をしゃべるが、流暢過ぎては僕が分からないのでゆっくりしゃべってくれた。会合が終わった後、Silviaは近くのバス停まで見送ってくれた。 Robertoから電話があり、新聞記者が僕にインタビューしたいと言っているが会ってみないか、と言ってきた。その場で引き受けた。Silviaの家で会うことにした。ブエノス・アイレスを知らない僕に対する配慮から、Robertoは一旦事務所で会ってからSilviaの家に一緒に行こうと言った。当日は雨だった。10分前に行くと事務所には誰もいなかった。事務所の隣のビルの前で雨宿りをしながら待っていると、Robertoはタクシーでやって来た。僕はすぐにそのタクシーに乗った。地下鉄の方が速いので、僕達は最寄の地下鉄に乗り終点で降り、またタクシーに乗り変えた。Silviaの旦那さんは画家であり、ステンド・グラスも作っている。都心の教会も彼のステンド・グラスで飾られている。芸術家の家は素敵な家だった。応接間の一面は床から天井まで硝子のドアーの付いた明るい部屋で、そこから大きな庭が見渡せた。
エスペランティストの会合。左からAlcides、Elisa、Roberto、Mario。
Silviaの素敵な家
新聞記者Andresのインタビューを受ける。左からAndres、Toru、Silvia、Roberto
都心でこんな大きな庭が持てるのは贅沢だ。新聞記者はAndres Asatoという若い人だった。Andresは、アルゼンチンで生まれ育ったAlejandrinaという日本人の女性と結婚している。彼はAlejandrinaを連れてやって来た。通訳をしてもらうためだ。僕たち三人は、旦那さんも含めて僕の旅のことやエスペラント語についてしゃべった。Andresのスペイン語の質問のほとんどは分からなかったので、奥さんが日本語で、時々はRobertoがエスペラント語で通訳してくれた。僕は日本語とスペイン語、時々混乱してエスペラント語を交えて答えた。ご馳走を頂きながらの二時間ほどのインタビューは楽しかった。エスペランティストでありジャーナリストのRobertoと知り合っただけに与えられたインタビューだった。普通ではできない貴重な体験をさせてもらった。
ブエノス・アイレスの日本人宿「日本旅館」
南米最南端の町ウシュアイアの日本人宿で、ブエノス・アイレスにも「日本旅館」という日本人宿があることを聞いていた。今までも中南米の各地にある日本人宿の住所は知っていたが、住所だけでは何処にあるか分からなかったので、コスタ・リカとウシュアイア以外の日本人宿には泊まったことはなかった。しかし、ウシュアイアの日本人宿で食べたタラバガニやウニが、僕の日本食への郷愁に火を付けた。「日本旅館」では、日本食のお昼の弁当が食べられると聞いた。それでどうしても泊まりたかった。だから前もってブエノス・アイレスの地図を買って、場所を確認した。「日本旅館」の最寄りで高架道路を降りた。降りたつもりが、逆方向の高速道路に入ってしまった。その高速道路を最初の出口で出て一般道路を引き返した。そのうち道に迷ってしまった。何回もバイクを止め、その辺の人に地図を見せ道を聞いた。ラテンアメリカでは地図を読めない人が多い。とうとう自分が何処にいるのか分からなくなった。高速道路を降りてから「日本旅館」に着くまで二時間もかかった。「日本旅館」のガレージにバイクを入れ、宿泊者名簿に名前を書いてから宿の主人島藤氏に、「ひょっとして土井浦さんという人は泊まってませんか?」と聞いた。すぐ横にいた人が土井浦さんだった。土井浦さんはでアラスカから南北米大陸をバイクで走り回り、もう既に5年も旅をしている。僕は中米にいる時、彼のホームページを見てメールを送った。中南米でバイクのカルネが要るのか確認したかったからだ。その頃、僕はカナダの自動車協会と連絡を取って、中南米でカルネを要求している国の一覧表を入手し、カルネを発行してもらう手続きをほぼ終えていた。土井浦さんからの答えは中南米ではカルネは不要ということだった。僕はほっとした。「日本旅館」には、世界を旅する日本人が20人ほど泊まっていた。ほとんど全員が日本を出てから何年も旅を続けている。バイクの旅は僕と土井浦さんだけだが、自転車で旅をしている人もいた。秦敏信さんといってアジア、オーストライア、ニュージーランド一周の後、アラスカから南米の南端まで5年をかけて走ってきた。これからまだ数年かけてアフリカ、ヨーロッパを走り世界一周を果たすという。彼は48才。42才で退職してから世界中を旅してきた。自転車の後はバイク、バイクの後はバックパッカーとして、さらに二回の世界一周をすると言う。彼のこれからの人生は全て旅だ。凄い人だ。僕もそう考えて日本を出たが、僕の旅は5~6ヶ月後にコロンビアで終わる予定だ。
「日本旅館」の居間。NHKの衛星放送が見れるテレビとインターネットにアクセスできるPCがある。
「日本旅館」の台所。中央が自転車野郎の秦さん。
「日本旅館」の宿泊客は、僕と秦さんを除いてみんな若い人だ。大部分は男だが、中には女性もいる。とりわけ岩渕牧子さんという女性は、一人でもう8年も世界中をバックパックで旅している。日本にもこんな凄い女性がいたのだ。「日本旅館」では、一人旅の女性だけではなく若い夫婦も三組ほど見た。羨ましいと思った。僕と同様、パソコンを持って旅をしている人もいる。長旅のせいか、この日本人宿に泊まっている人はみんな長逗留だ。一ヶ月、二ヶ月も泊まっている人が何人もいる。僕もこの宿で結局20日も泊まってしまった。ホンデュラス、コロンビアに次ぐ長期滞在となった。エスペランティストと会う以外は、ほとんど外に出ずにNHKの衛星放送を見ていた。テレビを見ない人達は、宿にたくさん置かれている日本語の本を読んでいる。インターネットに接続できるPCも1台置かれているので、みんな交代で使っている。インターネットに接続できるPCも1台置かれているので、みんな交代で使っている。毎日朝まで麻雀をしているグループもいる。みんなあまり外出せず、余った時間は洗濯をしたり料理を作っている。「日本旅館」には全自動の洗濯機が用意されており、台所も一階と二階に一つずつある。だから旅というより生活ができるという感じだ。僕は「日本旅館」に日本人宿の典型を見たような気がした。「日本旅館」の近くには、韓国人街とボリビア人街がある。ブエノス・アイレスに着いて三日目、韓国人街の韓国レストランに、宿泊客の一人の若者と韓国料理を食べに行った。夜の8時半だった。宿から三街区ほど行ったところに少し暗く、人気の少ない道がある。そこはボリビア人街にも近く、危険なので注意するように言われていた。そこにさしかかった時に、僕は相棒としゃべりながら歩いていた。すると急に4~5人の男が後ろから近づいてきた。あっという間に彼等に取り囲まれ、無茶苦茶に殴られた。殴られ倒れた時に、ポケットから革製のポケット灰皿が落ちた。彼等は財布と間違えたのだろうか、それを持って逃走した。殴られた顔は少し痛んだ。中学生の頃、教師に平手で叩かれたことは何回かあるが、パンチを受けたのは生まれて初めてだった。僕は顔の痛みよりも、お金を奪うため見ず知らずの人に暴力を振るう人間が世界にはいることを知ったことがショックだった。韓国料理店で冷麺を食べた後、店の主人に頼んでタクシーを呼んでもらった。歩いても10分くらいの距離だが、恐かった。
ブエノス・アイレスの中国人街
韓国人街には、当然ながら何軒か食料品店もあった。日本と同じ漬物やスルメ、それに日本の巻き寿司に近いものも売られていた。スルメと巻き寿司を買った。ブエノス・アイレスには、韓国人街の他、中国人街もある。ここでは日本の即席ラーメン、漬物、海苔の佃煮、それにワサビを買った。アルゼンチンに入ってからは牛肉ばかり食べていて、少し飽きてきた。だからこのような日本食は涙が出るほどありがたい。韓国人街には韓国風日本料理店もあった。そこでは刺身まで食べることができた。暴漢に襲われた後は、5~6人の集団で食べに行くようにしている。しかし「日本旅館」の宿泊客のほとんどは、予算の少ないバックパッカーだ。韓国料理は550円くらいで食べれるが、彼等にとっては大金だ。毎日という訳にはいかない。そこで僕は海外旅行で初めて台所に入り、ラーメンやお茶漬けを作っては食べている。特にお茶漬けは美味しい。僕はこれくらいしか作れない。かわいそうに思ったのか、自転車野郎の秦さんは味噌汁やハムエッグを、女一人旅の岩渕さんはデザートを、サッカーの試合を追いかけて中南米を回ってきた藤堂ヨシノリさんは貝や魚を料理して食べさせてくれた。元バイク野郎の藤堂さんはこれ?らヨーロッパに渡ってサッカーの観戦を続けると言う。こんな旅人には今まで会ったことがない。三人の美味しい料理のお陰で、旅で痩せて少し引っ込んでいたお腹がまた出てきて、不様な身体に戻ってしまった。しかし、20日間も美味しい日本料理を食べれたのは、外に出てまた暴漢に襲われるのが恐かったのがきっかけだったので、僕はあの暴漢たちに感謝しなければならなのかもしれない。
韓国人街にある銭湯
嬉しいことに、韓国人街には銭湯が二軒あった。熱い湯船、温い湯船、水風呂の他、湿式と乾式のサウナ風呂がある。垢すりやマッサージまであった。垢すりはみんながいる風呂場の片隅の手術台のような所に全裸で横たわって、パンツ一枚の男にゴシゴシ身体を擦ってもらうので少し恥ずかしかったが、終わった後は信じられないほど身体がスベスベして気持ちがよかった。約一時間のマッサージは1,500円だった。強いマッサージで身体中に痛みが走った。しかし僕は悲鳴をあげながらこの拷問に耐えた。そのお陰でマッサージの後は、少し身体が軽くなったような気がした。 やはり僕は東洋人だ。韓国、中国の文化は日本のそれに近い。東洋の食料を食べ、銭湯に入っていると、ここが日本から地球の正反対側にあるアルゼンチンとは思えなくなってくる。