ゴールデン・トライアングルといえば、タイ、ミャンマー、ラオス三国の国境が麻薬の栽培で有名だ。ここでは川が合流しているものの、橋も道もなく互いの国境を越えることはできない。南米にもゴールデン・トライアングルがあった。ここでは橋が架かり自由に国境を越えることができる。このトライアングルでも麻薬が国境を越えて流れていると言われているが、それよりもここは観光のゴールデン・トライアングルだ。世界一大きなイグアスの滝と世界一大きな水力発電能力を持つItaipuの発電所がある。
イグアスの滝は、ブラジルとアルゼンチンの国境にある。滝から落ちた水は25kmほど北西に流れ、そこで北から流れてきたParana川と合流する。この合流点でパラグアイ、ブラジル、アルゼンチンの3国が国境を接する。Fos do Iguassuはブラジル側の町である。西のパラグアイとの国境を流れるParama川を数km北に遡ると、Itaipuのダムがある。原住民の言語Guarani語では、イ・グアスは「水・大量の」、Ita-ipuは「岩‐ピューと鳴る」という意味だ。
ブラジルの東南部にはブラジル高地があり、大西洋の海岸線まで迫っている。首都ブラジリアはこの高原の内陸部にあるが、Curitiba、サン・パウロは海岸部の高原にあり、リオ・デ・ジャネイロは高原を降りた海岸にある。地図を見ると、東から流れてきてイグアスの滝を作るイグアス川の源流はCuritiba付近に、Itaipuのダムで堰き止められる北から流れてきたParana川の源流はブラジリア、サン・パウロそれにリオ・デ・ジャネイロ付近にある。Itaipuのダムを流れ落ちた水は、先にも書いたようにFos do Iguassuでイグアスの滝の水を集め、そのままParana川としてアルゼンチンとパラグアイの国境を南西に流れた後、アルゼンチンを南に下りラ・プラタ川となり大西洋に流れ出る。
Fos do Iguassuに着いた翌日、早速アルゼンチン側からイグアスの滝を見に行った。ナイアガラの滝とは比較にならないほど大きな滝だ。今は冬で水量が少ないので300近くの滝が、イグアス川いっぱいに4kmに渡って崖を流れ落ちている。これが雨量の多い夏になるといくつもの滝が合わさって一本になると言う。なるほど写真を見ると、滝は白い壁となって横に長く続いている。滝の大部分はアルゼンチン側にあるが、「悪魔の喉」と呼ばれる滝はアルゼンチンとブラジルとの国境にある。アルゼンチン側の滝は緩い円弧を描いくように並んでいるが、「悪魔の喉」は半円を描き、水量の少ない冬でも目が眩むほどの水量を持った滝がいくつも落ちている。Fos do Iguassuからここへ行くには30分ほどバスに乗ってアルゼンチンの国立公園まで行く。公園の入口がバスの終点だ。公園を入ってしばらく歩くと、トロッコ列車の駅がある。「悪魔の喉」まで行くためにはこの列車に乗る。
アルゼンチン側の滝は緩い円弧を描いて並んでいる。
アルゼンチン側の滝
「悪魔の喉」
遊歩橋は滝の上にまで架けられている。
終点の駅からはイグアス川の真中まで、途中にいくつもある川の小島を結ぶ遊歩橋を歩く。川幅の半分を歩くわけだが相当な距離だ。橋は「悪魔の喉」のすぐ上まで続いていて、水飛沫がかかるくらいだ。一方、手前にある「緩い円弧を描く」滝を見るためには、トロッコ列車に乗って最初のCataratas駅で降り、そこから歩いてもよいが、大して距離がないので歩いてもそんなに時間はかからない。Cataratas駅からジャングルの中の遊歩道を歩くと、滝の上に架かる遊歩橋がまた現れる。ジャングルの中を流れてきた褐色の川が何本も落ちていくのが目の前で見える。滝の下では遊覧ボートが見える。僕は、ナイアガラではボートに乗らなかったので、ここではボートに乗って滝壷まで行った。ボートは、「悪魔の喉」もすぐ近くにあるのでそこへも行く。水飛沫がひどいので滝の上の方はあまりよく見えない。15分間の遊覧で10ドルは高い。僕はバイク用のカッパを着た。この旅でほとんど着ていないカッパだが、こんなところで役に立った。
アルゼンチン側のイグアス観光は、ツアーで行った。国立公園の入園料とボート代が、それぞれ10ドル、ミニバス代が16ドルだった。ミニバスの乗客は、僕とフランスに住む中国人とベトナム人の若者だけだった。最初16ドルは高いと思ったが、三人では仕方がない。僕はバイクをブラジルのFos do Iguassuのホテルに置いていたので、またアルゼンチンに入るとなるとバイクの手続きが問題になるかもしれないと思った。そこでツアー会社に聞いた。会社は、アルゼンチンに入国しても入国スタンプを押さないと言った。だからツアーで行くことにした。ブラジルの出国は素通り、アルゼンチンへの入国でもツアー会社が書いた書類を渡し、パスポートを見せるだけだった。でもブラジル側の滝を見るためには、何も高いバス代を払うことはない。市内バスで行くことにした。
二段の滝
展望塔から見た滝
市内バスはブラジル側の国立公園まで、わずか60円だった。バスはアルゼンチンの国立公園同様、公園の入口で止まる。ブラジル側では、トロッコ列車ではなく二階建てバスが滝の近くまで観光客を運ぶ。バスを降りるとすぐ正面に、アルゼンチン側から流れ落ちる滝が、峡谷の向こうに横一列に並んで見える。アルゼンチン側では見えなかった滝も全て見える。遊歩道は「悪魔の喉」に向かって進む。昨日ボートから見た4~5本の滝が見えてきた。ボートからは見えなかったが、その上に横幅の広い滝がある。その下は大きなテラス状になっている。昨日の滝はそのテラスから落ちてきた二段目の滝だったのだ。遊歩道の終点にもテラス状の二段の滝があった。テラスから落ちる滝の上に遊歩橋が架けられていて、そこからは「悪魔の喉」の奥が見える。しかし遊歩橋は一段目の滝の下にあるので水飛沫が雨のように降りかかる。遊歩橋の終点には高い展望塔があり、観光客をエレベータで谷の上まで運ぶ。ここが一番凄かった。イグアスの滝のほとんど全てが一望できる。最初に見た大きな滝が遥か向こうに小さく見える。とてつもないスケールの滝だ。自然は想像を超えて偉大だ。確かに自然は偉大だ。イグアスの滝を見ていると、自分の無力さを痛感する。しかし人間も力を合わせると凄いことができる。Parana川を堰き止め、イグアスの滝に匹敵する人口の滝を造ったのだ。世界最大の発電能力を持つItaipuダムだ。70万KWの発電タービンが18基据えられ、合計1,260万KWの発電能力を持つ。日本最大の黒部ダムの発電能力は33.5万KWだから、40倍に近い大きさだ。中国で現在建設中の三峡ダムは1,800万KWだから、このダムができるまでは世界一の発電用ダムだ。建設費も凄い。117億ドルは、世界最長の鉄道トンネルである日本の青函海底トンネルの約1兆円を越えている。
二日間でイグアスの滝を十分見たので、三日目はItaipuの発電所に行った。また市内バスに乗り、55円払った。イグアスの滝と同じくらいの30分で、ダムの入口にある旅行者センター着いた。ここからは一般の車両は進めない。着いたのは朝の11時だった。数日前にパラグアイ側から行った時刻と同じだ。早速、切符売り場に行った。何と、ブラジル側でも朝の見学は10時に終わっていて、午後の2時までないという。また3時間待たなければならない。パラグアイではそのまま帰ったが、今日は帰る訳にはいかない。3時間発電所のパンフレットを読んだり、芝生に寝転がったりして待った。2時前に切符を買いに行った。驚いたことに、近くにあるエコロジー博物館の入館料も含めて、無料だ。2時からはまず、Itaipuダムの映画を見る。一日平均1,500人の観光客が訪れるだけあって街の映画館ほどの大きさだ。約30分の映画が終わると、ダム観光のバスが待っていた。5台のバスが一斉にダムに向かう。ダムまではかなりの距離がある。僕はダムの下の発電所の内部も見せてもらえるものと思っていた。しかし、バスは発電所から離れた展望台の二ヵ所に観光客を降ろすだけで、あとはダムの下と上を走るだけだ。
Itaipuダム
Itaipuダム
このダムは、ブラジルとパラグアイに二国によって建設され、生み出された電力は半々に分けられている。その電力でブラジルは全電力消費量の25%、パラグアイは95%を供給している。両国にとって当然ながら非常に重要な施設なのだ。Fos do Iguassuにはアラビア系のレストランも多数ある。南米のゴールデン・トライアングルにある三つの街は多くの国の人が住む国際都市で、アラブのテロリストも潜んでいると言われている。発電所はテロリストの破壊を恐れて、観光客を施設の中に入れないのだろう。このダムの長さは7.8kmもある。人間はイグアスの滝に匹敵するものを造った。イグアスの滝はジャングルの中を流れていて、僕達の心を洗ってくれるが生活には直接的な影響はない。仮にイグアスの滝がテロリストに破壊されても、滝は少し後退するだけだ。しかし、同じ破壊がItaipuのダムになされると、ダム自体がなくなってしまう。現代の我々は、非常に脆弱な工業技術に支えられてしか生きていけない運命にある。
Cascavelのモダンな教会
イグアスの滝に近いFos do Iguassuから東北に140km行った所にCascavelという人口30万の都市がある。主要な産業は大豆の生産だが、大学が八つもある学生の町でもある。そして生まれてまだ50年の新しい町だ。街の中心にある教会までコンクリートで造られた一階建てのモダンな建築だ。看板がなかったらとても教会とは分からない。僕が、何もないこの町に来たのはエスペランティストのAlvaro Rabeloに会うためだ。彼は70才の医者で三人の医師を雇って医院を経営している。Cascavelではただ一人のエスペランティストだ。彼のことを知ったのは、“La Nacion”紙に乗った僕の記事を読んでメールをくれたウルグアイのエスペランティストSandra Burguesを通じてであった。Sandraは、首都モンテビデオの女医で大学の教授でもある。同じ医師であるAlvaroとはエスペラントの文通仲間なのだ。彼女は、僕がFos do Iguassuを出る前日にAlvaroの電話番号を知らせてくれたので、すぐ彼に電話して翌日Cascavelまで会いに行くことを伝えた。Cascavelのホテルにチェックインしてすぐ、Alvaroの医院に電話した。彼は仕事を終えると、白いフォードでホテルに来てくれた。早速、何が食べたいかと聞かれたので、日本食だと答えた。彼が連れていってくれたレストランの名前は“Shikai”だった。日本語では「四海」と読めるので日本料理店だと思ったが、残念ながら中華料理店だった。しかしメニューを見ると、”Teppan-yaki“がある。熱い鉄板に載せられて出された魚の鉄板焼きは美味しかった。食事代は、「コロンビアへ行った時には払ってくれ」と言って彼が出してくれた。Cascavelの二日目、Alvaroは昼休みにホテルに来て、今度はイタリア料理をご馳走してくれた。Alvaroが連れていってくれたレストランは、いかにも高そうな立派なレストランで、次ぎから次ぎへと料理が運ばれてきた。日本では夕食が主要な食事だが、南米では昼食だ。料理は美味しそうだが、僕は前夜ホテルで飲み過ぎて二日酔いだ。軽い吐き気がして食欲は全くない。高そうな食事なのに、オレンジジュースを飲んで少し食べただけだった。
AlvaroはCascavelでただ一人のエスペランティスト
三日目は土曜日で、Alvaroの仕事は午前中で終わりだ。12時半頃ホテルに迎えに来てくれた。この日の食事はブラジル料理だ。行ったレストランはバイキング形式で、自分の欲しい料理を皿に取り、その目方でお金を払う。ブラジルではこのようなレストランが多い。そのレストランは意外とホテルの近所にあった。レストランは大繁盛でたくさんの人達が順番待ちをしている。僕達も待った。その間に日本人に会った。Alvaroの発案で彼と奥さんも一緒に同じテーブルで食事をすることになった。猪俣征幸さんという62才の方で、両親に連れられて15才の時にブラジルに渡って来たという。Cascavelではもう40年以上暮らしている。クルマや家具関係で大きな事業を展開している。彼の話によると、この町にも250世帯の日本人及び日系家族が住んでいて、その子供達の多くは医者や弁護士になっているという。近くの町には日系の市長さんも大勢いるらしい。彼の話で面白いのは、Cascabel(カスカベル)というのはガラガラ蛇という意味だが、最後の「ル」を取ると「カスカベ」になり、埼玉県の「春日部」と読めるので、そこと姉妹都市提携をしようと考えていることだった。ブラジルは自由で面白い国だ。Alvaroは、僕をホテルに送ってくれた2時間半後、今度は夕食に迎えに来てくれた。またブラジル料理だが、Cascavelで一番のレストランだ。串に刺した肉が次ぎから次ぎにテーブルに運ばれてくる。どうもこの形式はブラジル独特で、非常にリッチな気分になる。焼きたてだから美味しい。Alvaroは高そうなワインも注文した。僕は、前日は二日酔いのためほとんど食べられなかったので、昨夜は実に久しぶりに一滴も飲まなかった。だから食事は美味しく,いつになくたくさん食べた。Cascavelでは三日間Alveraに食べさせてもらった。それも嬉しかったが、彼は僕と会うとすぐ、肩を組んでくれた。僕はホモではないが、人が言葉だけではなく身体を触れ合うと一次元越えた親近感を覚える。愛情が直接伝わってくるのだ。日本人にはできないことだが、これはラテンアメリカの良さだ。初めて会った人間にも壁を造らず心を開いてくれるラテンアメリカの人達がいる。だから、たとえ襲われて殴られたことがあっても、僕はラテンアメリカが好きなのだ。そして、Alvaroのような心の美しい人と会うことは、僕たちの人生で大事なことなのだ。
サン・パウロ
Cascavelを出るとすぐ山に入った。アルゼンチンに入国してからはしばらく山の中を走ったが、その後はずっと平地だった。四ヶ月ぶりの山だ。バイクに乗る醍醐味は山の中の曲がりくねった道にある。スピードは落ちるが、右に左に、上に下に、まるで蝶々になったような感じで空間を切って走る。チリでは有料道路でお金を取られたが、アルゼンチンではブエノス・アイレス市内を除いてバイクは無料だった。ウルグアイとパラグアイでも払っていない。しかしブラジルでは一部の道で、また有料になった。50~100km毎に料金所があって、料金は50円から100円くらいで大したことはないが、手袋を脱いでお金を払うのは邪魔くさい。この国でも道路を走るバイクはほとんどが日本製だ。しかしクルマは、北米から中米さらに南米のチリあたりまで日本車ばかりだったが、アルゼンチンに入り少なくなり、ブラジルではヨーロッパやアメリカ製がほとんどで日本車をあまり見なくなった。ブラジルに入ってガソリンスタンドは増えた。もうガス欠の心配はない。そのガソリンスタンドには必ずアルコールが売られている。アルコールと言っても、人間の飲むアルコールではない。自動車のためのアルコール燃料だ。アルコール燃料は甘藷から作られる。僕がほぼ毎晩飲んでいるラムやアグアルディエンテと呼ばれる焼酎もそうだ。人間の飲むアルコールをエンジンの中で燃やしてしまうのはもったいなく、また高くつくような気がするが、実はアルコール燃料はガソリンより安い。ガソリンが1リットル70円ほどに対して50円で売られている。だからこの国では焼酎も安い。1リットルの瓶に入ったものが200~300円、安いもので150円で売られている。
ブラジルのガソリンスタンドには、しばしば大きなレストランが併設されている。なんとバイキング形式でいろいろな料理が並べられている。自分の欲しい料理を欲しいだけ皿にとってレジで目方を計ってもらってお金を払う。中南米のレストランでは、到底食べきれないほどの量の料理が出されるが、こうしたレストランは少食の僕にはありがたい。バイキングのレストランは、もちろん街中にもある。そしてブラジルのホテルは、大抵が朝食込みになっていて、その朝食もまたバイキング形式の豪華なものだ。ケーキ、パン、チーズ、ハム、バター、ジャム、コーヒー、ジュース、果物がずらっと並べられている。ブラジルのホテルは他の南米の国より少し高い目だが、設備が良い。ホテルの部屋は二種類あって、トイレのない安い部屋はクアルト、空調、テレビ、冷蔵庫と全て揃っている部屋はアパルタメントと呼ばれている。高い方のアパルタメントは快適だ。またブラジルの町の多くは、近代的で新しい。そのためか駐車場付きのホテルを探すのは比較的易しい。駐車場のあるホテルのアパルタメントの値段は大体1,000円くらいだ。その上豪華な朝食が出されることを考えるとブラジルのホテルは決して高いとは言えない。僕はこの朝食を食べ損なわないため、ブラジルでは毎日目覚し時計を使うようになった。
バイキングのレストランは最高だ。串に刺されて焼かれたさまざまな肉が、次ぎから次ぎにテーブルに運ばれてくる。そして値段も安い。ビールを一本付けて、400円もしない。このレストランがあるので、ブラジルの食事は南北アメリカで一番だ。しかし大きな問題がある。中南米では珍しく禁煙なのだ。ビールを飲んでタバコを吸えないのは辛い。旅をする上でブラジルにはさらに問題がある。ブラジルを除き他の国ではどこの銀行のATMからでもお金が引き出せたが、ブラジルではいくつかの銀行を試みたが、引き出せたのはHSBCという銀行だけだ。コンピュータ化が遅れているのだろうか、インターネット・カフェも少ない。だから町に着くとインターネット・カフェを求めて歩き回ることになる。数が少ないので自然と料金が高くなり、1時間150円もする。
ブラジルに入ってもまだ、雨の心配が続いている。カリフォルニアから旅を始めて三年になるが、ずっと天気の心配はしなかった。パタゴニアを出るまでバイクに乗っていて雨に降られたのは、ボリビアを除いて、アメリカで二回、カナダで一回、グアテマラで一回、コロンビアで一回だけだった。それも全て一時間以内に上がるにわか雨だった。だから出発の前の晩に天気を気にすることはなかった。
朝起きるといつも晴れていた。しかしパタゴニアの北部くらいから雨が降り出した。パラグアイのアスンシオンでは雨で予定していた出発を4日も延ばすことになった。ブラジルに入ってもそうだ。まるで日本の天気のように変わりやすくなってきた。だからインターネットで天気予報を見るようになった。それに寒い。サン・パウロは高度700mの山中にあって、人口1,000万を越える南米最大の都市だ。市の中心部には高層ビルが立ち並び、道路網も複雑だ。僕は日本料理を食べたい一心でセントロにある日本人街に向かった。日本人街は高層ビル群の北にあることを地図で確認していたので、高層ビルに向かってバイクを走らせた。高層ビル街を過ぎてから何人にも道を聞いた。すぐ近くまで辿り着いたが、最後に聞いた人の方向に行くと逆に遠ざかってしまった。それでまた少し戻った。信号待ちで僕の横に赤のYamaha Bandit 1200が止まった。彼に道を尋ねると、彼も道を尋ねながら僕をホテルまで先導してくれた。
日本人街の入口に立つ二重の鳥居
日本文化会館
サン・パウロの日本人街は今では東洋人街と呼ばれているだけあって、そこには韓国人や中国人の店もある。かなり大きな地域で、その入口には大きな二重の鳥居が建てられている。小さいが日本庭園もある。日本文化会館は大きなビルで、たまたま通りかかった時には大太鼓の演奏があり、その迫力には身体が震えた。日本料理店が軒を連ね、ここには日本料理の全てが食べられる。餃子、ラーメンはもちろん、僕はうな重まで食べた。またスーパーマーケットでは、あらゆる日本の食材が入手できる。僕は嵩張らないチューブ入りのワサビとカラシ、それに乾燥ワカメを買った。コロンビアに持って帰るためだ。しかし僕は料理が作れない。それで和食料理の本を四冊買った。少し重いが南米ではここでしか買えない。コロンビアのボゴタに戻れば、料理を作るつもりだ。
和食料理店
ホテルまで先導してくれたライダーは49才のSergio Ferreiraだった。ホテルで別れて数日後、彼はホテルにやって来て、日曜日にサン・パウロから東へ80kmほど行った町でサッカーの試合をするのでバイクで一緒に行かないかと言った。いくら彼と一緒でも僕はバイクで大都会を走るのは嫌だと言った。すると彼はクルマで迎えに来ると言った。僕はそれなら行くと言った。日曜日は6時に起きた。朝食を済ますと7時過ぎにSergioが奥さんを乗せてホテルに迎えに来てくれた。途中で奥さんを病院で降ろし、僕達はSantosに向かった。Santosはブラジル最大の港町で、13kmの港湾施設が海岸沿いに続いている。サン・パウロからはSantosのある海岸まで一気に降りるのだが、三車線もあるトンネルが三つも掘られた素晴らしい道路だった。南米ではトンネルは珍しい。Santosはそれほど大事な港なのだろう。そこで日曜サッカーが行われていた。
Yamaha Bandit 1200に乗るSergio
日曜サッカー
試合の後のバーベキュー
あいにくグランドは降った雨のためドロドロなので、みんな素足でボールを蹴っていた。午前中は年配の人達の試合だった。さすがブラジル、白髪頭のオジさん達が見事な足さばきを見せる。Sergioのチームは午後一番の試合だった。あいにく2対4で試合には勝てなかった。試合が終わった後、みんなで焼肉パーティーとなった。僕も招待され、肉とビールをご馳走になった。帰りにはチームの背番号6のシャツも戴いた。背番号6は、僕が昔着ていた野球のユニフォームと同じ番号だ。サッカーのシャツを着るのは初めてだ。ブラジルの人はみんな親切だと聞いていたが、全くそのとおりだ。この試合後の焼肉も美味しかったが、それよりもサン・パウロの和食は最高だった。誇張でなく日本で食べるのよりも美味しいと思った。日本人街を一歩も出ず、毎日和食を食べた。20日間のブエノス・アイレスでの和食によって出てきた腹がパラグアイのアスンシオンでさらに膨らみ、サン・パウロではとうとうチンチンが見えなくなってしまった。このままでは皮パンが履けなくなるので、エスペランティストの待つ北のリオ・デ・ジャネイロに向かうことにした。
出発の日、サン・パウロは曇っていた。天気予報では、リオ・デ・ジャネイロも曇りだった。しかし、リオ・デ・ジャネイロに着くと真っ青な空が待っていた。リオ・デ・ジャネイロは南回帰線の北にあるので熱帯だ。冬とは言え熱い。ホテルに着いて皮ジャン、皮パンを脱ぐとすぐにビールを飲みに行った。エスペランティストのElma do Nascimentoとはメールで連絡を取っていたが、電話番号を知らなかったので、サン・パウロを出る前にメールを出しておいた。リオ・デ・ジャネイロに着いた翌日、ホテルの近所でインターネット・カフェを捜した。なかなか見つからなかったが、結局博物館の二階にあった。メールで電話番号を受け取ったので、早速彼女の家に電話した。彼女の家には、たまたまリオ・デ・ジャネイロのエスペラント文化会館の副館長であるAloisio Sartoratoもいた。彼は60才、5年前に退職し今は毎日、文化会館に行ってはエスペラント語普及のために活動している。彼は、自分の家が僕のホテルのすぐ近所なので迎えに来てくれると言った。Aloisioは午後の3時過ぎにホテルに来てくれた。僕達はエスペラント文化会館まで歩いていった。
「砂糖のパン」と呼ばれる山からはリオ・デ・ジャネイロが一望できる。
エスペラント事務所がある二つのビル
リオ・デ・ジャネイロには隣り合ったビルにエスペラント事務所が二つもある。しかもセントロのど真ん中の高層ビルの中にある。一つは先ほどのエスペラント文化会館で低い方のビルの二階に、もう一つはエスペラント協会で高い方のビルの13階にある。いずれも大きな事務所で書棚にはエスペラントの本がずらりと並んでいる。Aloisioは文化会館に着くとすぐ、僕のリオ・デ・ジャネイロへの到着をブラジル中にメールで知らせてくれた。二年前にエスペラント世界大会が開かれたFortalezaと、一ヶ月後に国内大会が開かれるMaceio、リオ・デ・ジャネイロの北150kmにある小さな町Tres Rios、さらに湾を挟んでリオ・デ・ジャネイロの対岸にあるNiteroiのエスペランティストから招待のメールが送られてきた。その夜、Aloisioは市電で山の上に連れていってくれた。山の上には日本料理店があったので夕食はそこで取った。日が落ちた後の山の上は涼しく、足元に美しいリオ・デ・ジャネイロの夜景が広がった。
右からAloisio、Valmir、Neideとその娘さん
Niteroi付近のビーチ
二日後、Aloisioに連れられて対岸のNiteroiに住むエスペラント夫婦に会いに行った。Niteroiとリオ・デ・ジャネイロとは湾の上を跨ぐ13kmの長い橋で結ばれている。1502年の一月にこの湾を発見したポルトガル人は、湾を川と間違えリオ・デ・ジャネイロ(一月の川)と名付けた。僕達はバスでその橋を越えた。この橋からリオ・デ・ジャネイロが一望できるのだが、頭上は真っ青に晴れ上がっているのに水面付近は靄がかかって、美しいはずの街とその背後の山が霞んでいる。着いたValmirと Neide夫婦の家は大きな家で、二階には大きな音楽スタジオがあった。その隣の部屋はコンピュータ室で三人の秘書が働いていた。夫のValmirは、元州政府の高官、妻の Neideは詩人かつ歌手なのだ。僕達は、運転手付きのシトロエンで海岸沿いに建てられている、首都ブラジリアを設計したOscar Niemeyerによる建物を見に行った。特に海岸の崖渕に建てられた博物館は、空飛ぶ円盤のような形をした斬新なものだった。彼は98才になった今も仕事を続けていると言う。僕達はNiteroi周辺の美しい海岸を見て回った。帰りの車中でNeideが、自分のために作られたCDに合わせて歌い始めた。オペラ歌手のような綺麗な声だった。僕とAloisioはシトロエンで港まで送ってもらい、船でリオ・デ・ジャネイロまで帰った。残念ながらまだ靄は晴れていなかった。エスペラント文化会館の館長はGivanildo Ramos Costaという人で、週二回ラジオ・リオデジャネイロで55分のエスペラント番組を持っている。リオ・デ・ジャネイロに着いて三日目、彼からラジオでしゃべらないかと誘われた。日を聞くと次ぎの週の火曜日だと言う。僕は四日後の日曜日、クルマの少ないリオ・デ・ジャネイロを出ようと思っていたので少し考えたが、予定を延ばして引き受けることにした。
文化会館でのエスペラント語教室
エスペラント語教室の後のビール。左がAdemar
その日も文化会館ではエスペラントの教室が開かれていた。僕もクラスに参加して旅のことなどをしゃべった。クラスを教えるのはAdemar Dinisで、教科書を使わず全てエスペラント語で教えている。彼は元石油精製会社の技術者で労働組合の副委員長をしていたが、10年前52才で退職し、今は月額860ドルの年金で暮らしている。ブラジルでは十分な金額だ。彼もAloisio同様毎日ほど文化会館に来てはエスペラント語を教えたりしている。僕には全く分からないが、冗談ばかり言っては生徒を笑わせている。みんな初心者だというのに分かる生徒に僕はショックを受けた。クラスの後、Ademar及び4~5人の生徒と飲みに行った。Ademarはこの旅で会ったエスペランティストの中で唯一の喫煙家だ。しかも僕以上のヘビースモーカーだ。酒も飲むが、今は身体を少し壊しノン・アルコールのビールを飲んでいる。なかなか楽しい人で、彼からはfiki (fuck)、feki (shit) 、furzi (fart)というエスペラントの単語を初めて聞いた。夜も更け、10時に近くなった。残っていたのは女性のNeliとガードマンのClaudioとAdemarと僕の四人だった。リオ・デ・ジャネイロも危険な街だ。Neliはタクシーの運転手をしている夫を携帯電話で呼び出し、そのタクシーで僕のホテルまで送ってくれた。ガードマンのClaudioまで一緒に来てくれたのでこれ以上の安全は望めない。翌日Ademarから電話があり、ホテルを出て彼の別宅に移らないかと言われた。僕はその日の朝、既に三日分のホテル代を払ってしまったので、四日後に彼の家に行くことにした。彼は自由が良いと言って、奥さんと二人の子供が住む団地に住まず、別の所にある3階建ての家に住んでいる。彼の家ならタバコが自由に吸えるので都合がいい。
四日後の土曜日、彼の別宅に移った。僕は道が分からないので、息子さんのDenisがAdemarと一緒にクルマでホテルまで迎えに来てくれた。別宅に着いたら門の戸が小さくてバイクを家に入れることができないので、荷物だけ置いてバイクは奥さんの住む団地の方に移動させた。バイクを置いからまた僕とAdemarは別宅に帰った。帰るとすぐにAdemarはエスペラント語のチャッティングを始めた。僕はチャッティングというものはしたことがなかった。チャッティングでは東京のエスペランティストともしゃべった。Tres Riosから招待のメールをくれたLuiz Albertoともしゃべろうとしたが、彼のマイクの調子が悪くこちらがしゃべり彼は文字で対応した。彼のキーボードを打つ早さには驚いた。僕がしゃべるよりも速い。結局別宅には二晩、団地にも二晩泊めてもらった。
Ademarの奥さんと子供が住む団地
山の上のキリスト像
翌日曜日は朝の5時に起きて、7時のバスで西へ200kmほど離れたResendeという町へAdemarと一緒に行った。ここで州のエスペラント大会があるからだ。50人ほどが集まった。大会は10時に始まった。僕は午後一番にみんなの前でしゃべった。大会は午後の4時に終わったので5時のバスに乗り、家には8時半に帰った。一息着いてコンピュータに電源を入れようとしたが、コンピュータは起動しない。大変だ! もう買ってから4年になる。いよいよ来る時が来たか! Ademarがすぐに誰かに電話して修理してくれる所を聞き出してくれた。翌朝すぐAdemarとその店に行った。電源コードの部分を調べた店員は、その部分は大丈夫なのでコンピュータの本体側に問題があり、修理には8日かかると言った。こっちは旅をしているんだ。そんなに待てない。修理店は文化会館のすぐ近くだった。我々は一旦文化会館に行った。Ademarはすぐに、彼の生徒の一人でコンピュータの修理をしているDidiに電話した。仕事が終わるとすぐに来てくれると言う。2時間ほどしてDidiは二人の同僚と共に文化会館に来てくれた。彼等は一瞬で電源コードの接触不良であることを見つけ、あっという間に修理してくれた。お金は要らないと言うので、僕達はまた飲みに行った。エスペランティストのお陰で8日も待たずに済んだ。翌日また文化会館へ行った。リオ・デ・ジャネイロに着いてから毎日ここへ来ている。午後の3時からラジオでしゃべることになっている。ラジオ番組を担当し、僕にインタービューするGivanildoからは前以て質問の内容を聞いていた。それでエスペラント語で僕の答えを書いてAdemarと一緒に湾に浮かぶ島の中にあるラジオ局に行った。僕はAdemarに、遅れそうだからタクシーで行こうと言った。しかし彼は、「大丈夫。仮に少々遅れてもToruのインタビューだけではなく他の話題もあるから」と平然としている。やっぱりラテンの人達は呑気だ。バスは3時数分前にラジオ局の前に着いた。門でGivanildoが待っていた。早速マイクの前に座った。Ademarも一緒だった。Givanildoは調子の良いエスペラント語とポルトガル語でしゃべり出した。歌まで歌った。Ademarもエスペラント語で少ししゃべった。僕のまずいエスペラント語のためインタービューは時間を食って、番組は5分延びてしまった。普通の旅行者では味わえない経験だった。これもエスペラント語をやっていたからだ。
Ademarはエスペラント語のクラスの合間を縫って、有名なキリスト像のある山、二段のロープウェーが付いていてリオ・デ・ジャネイロが一望できる「砂糖のパン」と呼ばれる山、それにイパネマやコカカバーナのビーチ等、市内の名所を案内してくれた。リオ・デ・ジャネイロの10日間、僕は毎日エスペランティストと一緒だった。文化会館やエスペラント協会で開かれているエスペラント教室にも参加した。リオ・デ・ジャネイロに着いてすぐは、ほとんど聞き取れなかったエスペラント語も少しは聞き取れるようになった。リオ・デ・ジャネイロに来るまでにも、カナダを最初にエスペランティストに会ってきたが、実は気が重かった。エスペラントの会話ができないからだ。しかしリオ・デ・ジャネイロでそれはなくなった。もっともっとエスペラント語でしゃべって上手になりたいと思うようになった。エスペラント語を始めて15年、僕はついに離陸した。
Girls from Ipanema