パラグアイ・ブラジル旅行
2018年2月20日、テレビでスーパーマーケットが民衆に略奪されているニュースが伝えられていました。Supercundiと言う中型の食料品を売るスーパーです。20年ほど前に創業され、現在、コロンビアで25軒の店を持っています。わが町にも3軒あります。この店は2005年にゲリラの経営を受けていて、2018年2月20日に政府により取り押さえられました。
このニュースはインターネットで流されました。するとそれを聞いた近所の住民がドアを破壊して店に入り、店内を略奪したのです。アメリカ合衆国のパニック映画を見ているような光景がテレビの画面に映し出されていました。この国のテレビのニュース番組を見ていると、道路や店内の強盗、それに交通事故等がビデオで放送されています。まるで映画を見ているようです。それだけ監視カメラが置かれているのでしょう。
コロンビアはゲリラがまだ国内にいて、国の一部を支配しています。去年からベネゼーラの国境付近の大きなゲリラのグループが、政府との話し合いで解散しました。この国は5か国と国境を接していますが、その国境付近はゲリラが活動しています。2002年に大統領になったアルバロ・ウリーベがゲリラ対策を強烈に実施する前には、わが町から10キロほど離れた町々もゲリラの支配を受けていたそうです。僕がコロンビアに来た2003年から数年間は、バスに乗ってもよく途中で警官の検問で乗客全員が、持ち物を検査されました。バスに向かって並ばされ、背後から警官の手で全身を探られるのは、犯罪者になったような気がしました。
それがウリーベの時代になくなり、それがさらに2010年に現在の大統領フアン・マニュアル・サントスに半ば受け継がれ、ゲリラの解散に近づいていることは良いことだと思います。サントスは、一昨年ノーベル平和賞に選ばれたので日本でもご存知の方が多いのではないかと思います。この国で8年続いたサントス政権は今年8月7日に任期満了です。コロンビアでは左翼とゲリラは近いので、次の大統領も右翼の人になってほしいと思っていたら、旅行から帰ってきてから選挙があり、その通りになりました。これであと4年は、再選されたら8年は大丈夫です。
僕は就職して2年後、1974年の夏にイギリスを中心に一か月旅行しました。それからほぼ毎年、2001年に退職する少し前まで、年休を全て使って海外を旅行してきました。その間、旅行前に海外の旅館を前もって予約したのは、最初の旅行の第一泊目だけでした。飛行機がベルギーのブリュッセルに夜遅く着いたからでした。しかしマリアと旅行するようになってからは、よくホテルを予約しています。2016年の北海道旅行では、全泊の予約を取りました。2017年のUSA旅行でも、パッケージ・ツアー以外の日々にはホテルを予約していました。そして今年のパラグアイとブラジルの旅行も一か月の全泊と航空券を予約していました。ホテルの予約は2017年10月の第一週から、航空券は20日過ぎから買いました。2018年5月10日に乗る飛行機ですから半年以上前になります。
南米では、日本人にはブラジルだけにビザが必要です。コロンビアのブラジル大使館のホームページには、2018年からビザの支給手続きが簡単になると書かれていたので、待っていて2018年1月10日に日本のブラジル大使館に連絡を取るとすぐに返事が来て、1月12日からインターネットで取れるとの返事でした。これはe-VISAと呼ばれ、ブラジルへの旅行客が多いオーストラリア、日本、カナダ及びUSAの4国が対象で、オーストラリアは去年の11月21日から適用されています。インターネットで取れるので非常に簡単です。また、入国から90日間有効ですが発行から2年間は何回でも入出国できます。取得費用も半額ほどになり、44.24USドルです。日本のブラジル大使館の親切な小金丸と言う名の女性が、急ぐことはないと言うので、2月12日にブラジルのe-VISA申請ページから申し込みました。e-VISAの前の通常のビザの発行所要日数は2週間以上と書かれていたのですが、なんと、4日後の16日に受け取ったのです。あまりの速さと簡単さに感動しました。これでパラグアイとブラジル行きの準備は全て整いました。
5月11日にパラグアイの首都アスンシオンに着き、4泊しました。ホテル内山田と言う日本人ホテルです。2004年にも泊まりましたが、このホテルのすき焼きの美味しさを覚えていたので、1泊目の夜はまずこれを食べました。1,100円と安く、それに量、質ともに最高なのです。マリアと二人なので、天麩羅うどんも注文しました。これも美味でした。僕は両方のダシを全部飲み干しました。
パラグアイの南西部には4つの日本人移住地があり、僕達はパラグアイ、アルゼンチン、ブラジルの国境にあるイグアスの滝へ行く途中にある、イグアスと言う日本人居住地へ行きました。日本人宿のペンション園田には16時に着いて、ベルを押したが誰も出てきませんでした。5分ほど思案していたら、白い日本車に乗った経営者の園田八郎さんがやってきました。僕より一つ若い68歳だと言いました。僕達の部屋は4部屋ある一軒家の一室で、他には誰もいず、二人で借り切りの状態になりました。夕食を近くの食堂で、と考えていたのですが、園田さんが焼き肉を焼いてくれました。食べに行くと、他の3人の宿泊客に会いました。広島の35歳の男性と北海道の若い男女でした。
ペンション園田からはボロボロのバスで国境に向かいました。パラグアイの出国事務所では大勢の人が並んでいたので、トイレに行き、ついでに少し歩いて通貨両替所でブラジルの通貨に交換しました。2001年に中米をバイクで通過した時には、国境の通過は困難で、ある国境では朝から夕方まで掛ったのを覚えています。しかし、南米では簡単になった上に、今回はバイクもないし、全く問題はなかったのですが、長い国境の橋を歩いて渡る必要がありました。ブラジル側の街はフォス・ド・イグアスと言いますが、橋を渡って着いた所には一階からせいぜい3階建ての衣服屋等が立ち並ぶだけの所でした。僕達はタクシーでホテルに向かいました。その日の夜は一人4,000円ほどを払って、ショーを見ながら食事のできる所に行きました。
パラグアイの首都アスンシオン
にある日本人宿ホテル内山田
二日前の大雨が前日の朝まで降っていたので、天気を心配していましたが、この日は運よく晴れ上がりました。いよいよ世界一のイグアスの滝です。この日はアルゼンチン側に行きました。バスでブラジルからアルゼンチンに入国し、滝の公園に着くとトロッコ電車に乗ります。トロッコを降りると、もう滝の上です。アルゼンチン側は滝が落ちる上側を歩きます。つまり、貯水湖に架けられた橋の上を歩く訳です。この橋の歩道は網目になった金属でできているので、足の下を流れる川を見ながら歩く訳です。もし、この金属が破れると、僕たちは100m以上あると思われる滝から流れ落ちることになります。そうなると一巻の終わりです。滝の観光客は2004年に行った時にはパラパラとしかいませんでしたが、この日はまるで心斎橋を歩いているような人混みでした。いよいよ滝の先端に着きました。悪魔の喉仏と呼ばれている所で、流れ落ちるコの字形の滝の真上に架けられているので、足元に90度の角度で落ちていく水が見えます。まっすぐ前を見ると落ちていく瀑布が見えますが、凄い水の量なので、下から上がってくる水滴雲で、滝の下方は見えません。 三日目はブラジル側に行きました。バスを降りると遊歩道があり、正面から滝を流れ落ちるところがずっと見えます。昨日の悪魔の喉仏に方向に向かって川を遡ります。川沿いに1キロほど絶え間なく続く滝は圧巻です。滝は途中に段差があって、2段で落ちています。遊歩道を登り切った所では滝がすぐ前に落ちてきて、水しぶきがかかります。そこにはエレベータがあって、乗って上に登ると展望台があり、そこから昨日歩いて行った悪魔の喉仏に群がる人達が見えました。
世界一のイグアスの滝。アルゼ
ンチン側にある「悪魔の喉仏」
フォス・ド・イグアスでもう一泊してから、1時間25分の飛行機でサン・パウロに行きました。サン・パウロには大きな日本人街があります。僕達はその中にある大きな日本のホテルに泊まりました。次のリオ・デ・ジャネイロからの帰りにもう一度来るので、2泊だけにして、2日目はサン・パウロの、大阪で言えば御堂筋にあたる大通りを歩きました。翌日、飛行機で1時間のリオ・デ・ジャネイロに飛びました。
ブラジル側から見たイグアスの滝(2)。
向こうには「悪魔の喉仏」がある。
ブラジル側から見たイグアスの滝(1)
リオ・デ・ジャネイロには、見る所が沢山あります。そこで中心街の真ん中、サン・セバスチャン大聖堂の近くにあるホテルに5泊、そこから2キロほど南のフラメンゴ海岸のホテルに2泊、さらに南のリオ・デ・ジャネイロではイパネマ海岸と並んで有名なコパカバーナ海岸のホテルに2泊と、合計9泊しました。いずれもインターネットで探した高層ホテルです。フォス・ド・イグアスでは一泊3,000円で泊れたのに、先の2つのホテルでは5,500円前後、コパカバーナでは8,300円も払いました。 リオ・デ・ジャネイロに着いてまず行った所は、パン・デ・アスカルと呼ばれる展望台でした。海際に円錐形に聳え立つ岩山の頂上まで、ロープウェーが運んでくれます。ここは大西洋から北に広がる大きな湾の入り口です。だから南は当然ずっと大西洋です。そこには小島がいくつか浮かんでいて、その間を巨大な船が何隻か、ゆっくりと進んでいくのが見えます。西南に目を移すと、横に長い小山が見えます。小山の向こう側がコパカバーナの海岸です。その隣、すなわち西南西を見るとイパネマ海岸が続いています。
歌「イパネマの娘」で有名なイパネマ海岸
コルコバードの丘に立つキリスト像。ここは丘と言うより槍の岳と言った感じだ。
目を足元の方に移し、北方を見るとフラメンゴ海岸から、その向こうにはサン・セバスチャン大聖堂付近の高層ビル街が見え、そのはるか北側にはリオ・デ・ジャネイロの巨大な湾を西から東に結ぶ途轍もなく長い橋が見えます。橋の向こうには再び大西洋のような長い水域が広がっています。湾の対岸に着いた橋から南に目を移すと、そこにはまた半円の小さな湾が見えます。小さな湾と言っても何キロも続く砂浜で囲まれているのです。2004年に来た時には、エスぺランティストの車で連れて来られ、この砂浜で海を見た後、多くのエスぺランティストに会って歓迎されたのを覚えています。そう、あの時は2週間ほどエスペランティストの家に泊めてもらっていたのです。話ははずれましたが、対岸を結ぶのは橋だけではなく、もちろん大きなフェリーが30分間隔くらいで結んでいます。フェリーが着くのは、僕達が中心街で6泊したホテルの北側です。そのフェリー停泊所のすぐ北側には、僕達が着いた空港があり、飛行機が引っ切り無しに、斜め下に着陸したり、まっすぐ僕達の方向に飛び上がってきて、やがて機体をそらし、右上方の天空へ消えていくのが望めます。ロープウェーの頂上から真下の西方向を眺め下ろすと、これまた半円の湾に、数え切れないほどのヨットが浮かんでい.ます。
リオ・デ・ジャネイロには日本のホテルはありませんでしたが、寿司を出す食堂が何軒もありました。どこも計り売りで、30㎝位の円形の皿に食べ切れないほど一杯乗せて料金を聞くと、1,300~1,600円位でした。初めの頃はこんな店があるとは知らずに、まず初日に日本の看板が掛った寿司屋に入りましたが、不味い割には結構な価格だったので、寿司は止めて土地のレストランに行っていましたが、高いばかりで食欲をそそるものはありませんでした。ところが4日目に写真入りの張り紙を見つけたのです。そこには何と、様々なにぎり寿司と巻き寿司が並んでいるではありませんか!それからというものは、そうした店をパソコンで探し出し、毎日が寿司三昧でした。
観光バスで市内見学。出発地の近くにあったサン・パウロ市立劇場
サン・パウロに飛行機で戻ってきました。6月4日の飛行機に乗るので3泊だけの滞在です。一日目は観光バスで市内見学としました。バスの出発時刻は2004年には分からず2時間ほど待たされた記憶があるのですが、今回は時刻を探し当てました。11時半の便に乗ろうと思いました。バス始発場所の周辺を散歩すべく、出発時刻の一時間ほど前に着くように10時にホテルを出ました。地下鉄Luz駅で降りてバスの乗り場を聞きましたが、分からないと言います。近くに鉄道の駅があったので、駅員にバスがどこから出るのかと尋ねたら、2駅離れたRepublica駅から出ると言われました。おかしいと思い、このあたりの国の人の言うことはあまり信用できないのですが、バスの出発時刻も近づいてきたので、電車に乗りました。駅員が言ったとおり、サン・パウロ市立劇場の近くに代わっていたのです。結局予定していたバスには乗れず、13時45分のバスに乗りました。このようなバスは市内の有名観光地を無駄なく見せてくれるので便利です。3時間弱の遊覧でした。 僕達の泊まっていたホテルの周りには日本料理店が立ち並んでいました。そんな賑やかな通りを進むと道は大きな道路を跨ぐ格好になります。そこには大きな鳥居が建てられ、それを通り抜けると小さな日本庭園があります。大きな日本食材店が3軒ほどあって、ひょっとしたら日本以上の食材が置かれていると思いました。僕はその一軒で下駄と歌舞伎の絵を布で織った壁飾りを買いました。すぐ近くにリベルタージの地下鉄駅があります。駅の前が少し大きな空間があって、そこに屋台が立ち並んでお好み焼きやたこ焼き等も売られています。凄い人だかりで通り抜けるのに苦労しました。その人通りを抜けると牛丼の「Sukiya」があります。「Sukiya」はここから2㎞程離れた所にもあって、安くて美味しい店でした。
ブラジルとパラグアイの国境まで飛行機で戻ってきた僕達は、 初めはブラジル側の3,000円の同じホテルに泊まろうかと思っていたのですが、出入国の手続きで時間が取られると良くないので、パラグアイに入国することにしました。
5月15日に、ここの少し手前の日本人宿で雨に会って以来、半月間天気に恵まれていましたが、パラグアイの国境付近で雨が降り始め、シウダード・デル・エステのホテルに着いても何処へも出かけず、夕食もホテルの食堂で取ることにしました。ところがこれが良かったのです。海老、イカ、玉ねぎの天麩羅は美味で、量も多く、しかも1,000円と安かったのです。このホテルには2晩泊まりましたが、僕は二日とも同じ料理を食べました。
雨が降ったためか、あるいは内陸部に入ってきたためか、急に寒くなりました。部屋の中で半袖のシャツに長袖のシャツ2枚を重ね着しても、まだ寒いのです。今まで海外では2001年以来、寒さを経験したことがありません。コロンビアで定住するまで、寒さが近づいてくると赤道付近に移動していたからです。初めて部屋を暖房しました。また、南北アメリカを3年3か月もバイクで旅していたのに、雨の中を走ったのは、ボリビアでの一日だけと記憶しています。時間があるので、雨が降りそうになると旅館で過ごしていたのかも知れませんが、雨の中をバイクで走るのは辛いものです。
この国境の街ではホテルも高いし、すぐに出るつもりだったのですが、街中を歩いていると、巨大な電気商店等が軒を並べていました。思い出したのです。2004年にここを通過した時には免税地域だったのです。英語で商品を売っている店で、カメラ等電気製品に引きつられました。当初の予定では、ここで2泊すると首都のアスンシオンの日本人ホテルに帰る予定でした。この旅ではこのホテルと日本人移住地の園田さんのホテルだけが直前でも解約できるようになっていたので、電話して2日分解約しました。そして、僕達が2晩泊ったホテルは中心街から5㎞程離れた所にあったので、中心街に移ることにしたのです。
6月8日は8時35分にホテルを出てバスに乗り、17時35分にまたホテル内山田に戻りました。そして、また美味しいすき焼を食べました。
翌日はこの旅の最後の日で、マリアの姉夫婦と娘、それに弟等へのみやげを買って一日潰しました。僕の住むコロンビアでも日本同様、みやげが大事なのです。
旅行から帰ってきて、持って行った小型タブレットパソコンに代わってLenovoの大きなPCを使っています。パソコンに限らず、新しい機械に着いていけず、色々な問題が出てきて悩まされてきました。
まず、旅行で買ったソニーのビデオカメラの録画をPCで見ていましたが、その内、液晶モニターに旅で撮ってきた映像が映らなくなりました。ちょうど我が家に来ていたマリアの姉の夫が居たので、彼に頼むと直してくれました。このカメラ、全てスペイン語の指示が表示されるので問題です。
パソコンのLenovoから日本語入力キーの表示が消えていて、日本語での入力ができなくなりました。それと、よく使うプログラムのアイコンを、画面全体に表示していたのですが、これが全て消え、画面から直接プログラムを呼ぶことができなくなりました。早速、マリアの弟のMiguelに電話して、インターネットを使って修理してもらいました。
それでもまだ以下のような問題が残っていました。特に問題なのはExcelが見づらくなった点です。
① 僕は現在、コロンビアで買ったPCを使っています。表示が全てスペイン語では困るので、Miguelに日本語表示できるようにしてもらいました。ところが旅行から帰ってPCを使っていると、日本語表示の多くが消え、スペイン語に代わりました。
② 僕は入出金情報等をExcelで書いていますが、そのExcelがWindowsの表示画面から直接表示できなくなりました。表示はできますが、大変時間が掛かる上、直接データの修正ができなくなったのです。
③ Word文書の一部ですが、文字が表示されなくなりました。
④ 僕はホームページを持っているので、(1)ホームページ作成用ページと(2)一般の人が見れる表示用ページを持っています。一部の画像で(1)には表示されているのに、(2)には表示されていないものが見つかりました。
Windowsは新しくなるほど問題が出てきます。普通は新しいものほど問題点が解決されて良くなるものですが、これも米国の製品であるためでしょうか?
とにかく頼りにできるのはMiguelだけなので、また彼にEメールを送り、助けを求めました。風邪をひいて暫く電話できないと言うEメールが入りました。しかし、入出金情報が記録し難くなったのは問題だと思いながら何日か過ごしていると、2011年に日本に帰った時に、MicrosoftのOffice Personal 2010と言うソフトを買っているのを思い出しました。これはExcel、Word、それにOutlookをインストールするプログラムです。2016年秋にコロンビアで買ったhpのパソコンを買った時と、このhpが今年の1月に潰れたので、また新しく買ったLenovoのパソコンにExcel等をインストールするのに使いましたが、故障で再インストールするとは考えもしていませんでした。しかしこれを再インストールすると、①を除き、見事に②、③、④は直りました。後はスペイン語表示の問題だけですが、今のところ、何とかなっています。
2004年にアルゼンチンの首都ブエノス・アイレスの日本人宿で会った藤堂善紀さんから南米に来ると言うEメールが、去年の3月に入っていました。彼は去年からアフリカのタンザニアで海外協力隊に関係した仕事をしていて、今年の6月1日から1か月の休暇を利用し、南米に来て、僕とも会ってくれると言っていたのです。それを僕は忘れて、5月10日から1か月のパラグアイ・ブラジル旅行の予約をしてしまったのでした。計画を立て、飛行機とホテルの予約も全て終えてから、彼からコロンビア等南米旅行確認のメールをもらったので、どうすることもできませんでした。ただ帰ってくるのが5月11日だったので、20日程は自宅にいると返事を出したのですが、彼も休暇が取れるかどうか分からなくなったという返事で、とうとう会えませんでした。
結局、7月中旬に彼からEメールが入って、ナミビア、ボツワナ、ジンバブエ、それにザンビアの4か国を旅してきたと言ってきました。本当に悪いことをしたと思っています。でもその後のEメールで、もう少しタンザニアにいて、それからコロンビアに来ることを考えていると聞いて安心しました。とにかく、2007年に脳細胞が破れて記憶力が悪くなったことを痛感しました。