結婚披露宴の会場に選んだ元ヒルトン・ホテル
コロンビアで結婚するには、独身証明書が必要だ。夏に日本に帰った時に、就業ビザの取得に必要な書類に加え独身証明書も取っておいた。独身証明書をもらうためには、まず戸籍謄本または抄本を取り、これを法務局に持って行って証明してもらう。これだけではダメで、外務省へ行き日本の正式文書であることを証明する文書であってアポスティーユと呼ばれるものをもらう必要がある。戸籍謄本は8月23日に地元に住む姉に取ってもらい、有効期限が3ヶ月の独身証明書は一ヶ月ほど待ってから9月21日にもらった。10月12日にボゴタに帰った後、早速ビザの面倒を見てくれる人に会った。就業ビザの話は全然進まない。それで日本大使館に行き、結婚ビザについて聞いた。独身証明書に加え、アポスティーユの付いた戸籍謄本、ないしは抄本が必要だと言われた。戸籍謄本は持っていたがアポスティーユは取っていない。しかも8月23日に交付されたものなので有効期限は11月22日までだ。日本に送り返して外務省の証明を取ってもらうことも考えた。しかし、仮に二つの書類が揃ったうえでも、日本語をコロンビア政府公認の翻訳者によりスペイン語に、またアポスティーユは英文で書かれているので、これまた政府公認の別の翻訳者によりスペイン語に翻訳してもらう必要がある。その後でコロンビア外務省の証明をもらう。さらにNotariaという所へ行き結婚届を出すという段取りになる。これらの処理を一ヶ月余りで済ます自信はなかった。去年もらった学生ビザの有効期限は12月12日までだ。下手をすると出国しなければならない。とりあえず学生ビザの一年延長手続きをすることにした。Hernanがまた理美容学校から偽学生の書類をもらってくれた。書類の記載内容に不備があったので三日連続でコロンビア外務省に通い、無事一年の延長ビザをもらった。一年あれば独身証明書と戸籍謄本を新たに取り直すこともできる。しかし、独身証明書に問題はない。その元になった戸籍謄本にアポスティーユがないだけだし、その中には生年月日と生まれた場所、それに両親の名前しか書かれていない。ダメで元々、6,000円ほど払って、戸籍謄本の証明書を日本大使館で作ってもらった。スペイン語で書いてくれたので、これにスペイン語訳付きの独身証明書を添えコロンビア外務省に行った。外務省の事務所は書類手続きに来た外国人で溢れていた。まず、順番待ちの番号札をもらいに行った。受付の女性が、「書類を見せてください」と言った。「えぇ?、番号札が欲しいんです」と答えたが、再び「書類は?」と言うので、分からないまま独身証明書と戸籍謄本を見せた。彼女が何か説明してくれているが、スペイン語が分からない。別の事務所へ行けと言っているようにも思える。難儀なことになってきた。訳の分からないまま「証明は取ってある」と言って書類を指差した。女性係員は「あぁ、日本大使館! 少し待っていてください」と言い、書類とともに別室に入っていった。何と、5分後に外務省の証明印が押された書類が返って来た。コロンビアの人たちは外国人、特に言葉で苦労する者には優しいのです。今はそうではなくなったかもしれないが、日本も昔はそうだったような気がする。書類が揃ったので、いよいよ結婚届を出すNotariaへ行った。Notariaは市内の各所にあって、僕は市役所の一部所だと思っていたが民間の組織だと言う。この家の名義を僕の名前に変える時もNotariaへ行った。日本でいうと完全に役所の仕事をしているのに民間で、しかも処理のルールがNotariaによって少し違う。一軒のNotariaでは、日本大使館の証明だけでアポスティーユのない戸籍謄本は無効だと言って拒否された。ビザの面倒を見てくれていた人が紹介してくれたNotariaでは、挙式はすぐにでも、いつでもできるが、3万5,000円位必要だと言われた。それでHernanの知り合いが働いているNotariaへ行った。ここは5,000で済むが挙式の日程が詰まっていて12月までは無理だと言う。でも僕は、もう既に学生の延長ビザをもらっていたので、いつでもよかった。Mariaが金曜日がいいと言うので12月9日にした。予約の書類にMariaと僕の署名をした。はっきり知らないが、日本なら役所で婚姻届に署名、捺印すれば婚姻が成立するのだろうが、この国では結婚する二人の名前をNotariaに5日間張り出して公表する。この間に誰からも異論が出なければはじめて挙式できると言う訳だ。またカトリックのこの国では、結婚はNotaria以外に教会でもできる。しかしこの場合離婚はできない。
結婚式は夕方の4時の予定だった。予期せぬ交通渋滞で3分ほど遅れてNotariaへ着いた。小さな部屋の正面に机が置かれていて、その前に椅子が4つ並べられている。左端に若い女が座っている。一つ椅子を置いてMariaが座っている。Mariaが座れと言うので、二人の真ん中に座ろうとした。すると違うと言う。僕がMariaの付き添いで来て座っているだけだと思っていたその若い女性は、別の花嫁だったのだ。何と、二組の挙式を同じ場所で同じ時間に行おうというのだ。Mariaの家族と親戚、それに僕の方からはHernanの両親と妹夫婦等が来てくれていたが、一度も会ったことのない人達もいたのは、そのためだったのだ。
Notariaで二組のカップルが同じ部屋で同時に挙式
僕達は、挙式の後の披露宴を6時から行う予定でいた。その様子を写真とビデオに残すため2万円以上も払っていた。すでに二人の男性が来て照明を使ってカメラを回しているのに、儀式を行う担当の人がなかなか現れない。40~50分遅れてやっと部屋に入ってきて僕たち4人が座っている前に立った。彼はまず最初、僕に「スペイン語は分かりますか?」と聞いた。僕は「少しなら...」と答えた。まずいと思った隣のMariaが、「ゆっくりしゃべってくれれば分かります。それに、必要ならここにいるHernanが英語で通訳するので問題ありません」と言った。彼は次に、「スペイン語は読めますか?」と僕に聞いてきた。「読む方なら何とか...」と答えた。式は始まったが、彼の言っていることが分からない。しばらくして彼は、僕たちに書類を渡して、それを読み始めた。少し読んでから続きを僕に読めと言う。うろたえた僕はしどろもどろで読んだ。次に結婚の義務等心構えを書いた文書を渡された。僕には特別に英文のものをくれた。僕が読み終えるのを待って彼は、何が書いてあるのか質問した。式は20分くらいで終わったが、最後に宣誓の言葉を4人全員が述べる。これは前もって渡され目を通していたので何とかそれなりに読めた。4人の中でもちろん最年長なためか、あるいは外国人で珍しいためか、宣誓も言葉の不自由な僕が最初だった。式を通じて担当者は僕に非常に好意的で、隣のカップルはまるで付け足しという感じだった。
Notariaを出ると既に5時半だった。披露宴は6時からだが、僕は来てくれる人達に南北アメリカ一周の旅のビデオと、日本に帰国した時に撮った日本のビデオを見てもらうつもりで業者にプロジェクターを予約していた。また、当地のパーティーには必須のダンス音楽に加え、日本の歌も流すつもりで音響設備も予約していた。そのため両業者には5時半に披露宴の会場に来てもらい、業者のプロジェクターと僕のパソコンと接続、試写し、MP3で記録された日本の歌も鳴るかどうか確認するつもりでいた。もう業者は会場に着いているかもしれない。しかし、僕も少しはラテン・アメリカに慣れてきている。昔のようには焦らない。Notariaまでタクシー替りに迎えに来てくれたMariaの知り合いの精神科医が運転するメルセデス・ベンツで悠然と会場に向かった。MariaとHernanと相談して、披露宴に招待するのは、両家の家族と親戚だけにしようと言っていたのだが、Mariaの職場の人達も入れると100人を超えてしまった。披露宴の会場はいくつか回って見たが、結局、元ヒルトン・ホテルで今は政府の建物になっている所にした。ボゴタの中心部にある高層ビルの一つだ。この国の披露宴はやたらと長く、終了は朝の3時だと言う。しかし、ここならバスの便は良いし、最後までいてくれる人でもタクシーを拾うのには問題ない。会場は四つの候補から選べたが、20mプールのある会場にした。結婚式や披露宴にあまり興味のない僕としては、せめて披露宴会場くらいは変わったものにしたかった。ところがこれが災いして思わぬ事故を呼ぶことになった。
笑える事故の起こった元ヒルトン・ホテルの20mプール
プールの階上から結婚行進曲に合わせてサイドプールサイドに降りた。
僕達を乗せたベンツは6時5分に会場に着いた。披露宴は6時からだが心配することはない。ここはラテン・アメリカだ。1時間や2時間遅れて来るのが常識だ。案の定、まだ誰も来ていない。しかし、ビデオのプロジェクターと音響装置の業者はもう既に来て、中央の舞台の上に大きなスピーカーを二つ据え付け、その舞台の前にはスクリーン、スクリーンの正面からプールの方に少し遠ざかって机が置かれ、その上にはプロジェクターが用意されていた。もう既に音楽は流されている。僕は早速、持って行った自分のノート・パソコンとプロジェクターを接続した。先日のテストどおり問題なく写る。僕は音楽の邪魔にならないよう北アメリカの旅のビデオから映像だけを投射した。8時頃になってやっと参加者の大部分が集まったので、披露宴を取り仕切るプロの演出家と相談して始めることにした。僕とMariaは二人のカメラマンと一緒にプールサイドから階段で一旦階上のプールの入り口まで上り、みんなが見つめる中、結婚行進曲に合わせて再びサイドプールサイドに降りた。こんなことは聞いていなかった。と言うよりもスペイン語が良く分からなかったためであろうが、僕が打ち合わせの結果演出家から聞いて理解していたのは、6時半まで彼の事務所で待機し、それから初めてみんなの前に姿を現し、ウェディング・ケーキにナイフを入れて、乾杯の後二人から挨拶した後、7時から食事を始めるということだけだ。さらに驚いたことに、プールサイドに降り立つとすぐにワルツを踊れと言われた。ワルツなんか踊れるはずがないのに、みんなの前でMariaと二人きりで踊る羽目になった。もちろんワルツになる筈はなく、Mariaに誘導されるまま足を動かしただけだ。一曲終わるとみんなが踊に加わり、そして僕には女性が、Mariaには男性が踊りのパートナーとして次から次に交代した。ダンスは、最後にはまた二人で終わった。僕はうろたえながらもこの趣向に感動した。
披露宴の開始は、まずワルツから
ウェディング・ケーキにナイフを入れる。
予定より1時間半遅れた食事はバイキング形式で、僕達が先頭
僕に続いてMariaが挨拶をした後、8時半頃に食事が始まった。コロンビアでは初めに酒が出て、途中で甘いケーキが出たまま食事はパーティーが終わる寸前というのが普通らしいが、すきっ腹で飲むと悪酔いしそうなので、ルール違反だがMariaと相談して食事を先にすることにした。食事はバイキング形式にした。料理をめいめいが勝手に皿にとれば途中でなくなりはしないかと心配していたが、何人もの給仕が皿に取り分けていた。僕とMariaが最初で、その後みんながプールサイドに長い列を作った。しばらくしてプールサイドにどよめきが起こった。料理を受け取ったMariaの伯母さんが、皿をもったままプールに落ちたのだ。プールサイドは広く、人と接触したのでもないと言う。彼女は80歳でプールを見たのは初めてだというが、まさか服を着たまま水の中で食事をしたかった訳ではあるまい。ボゴタの夜は冷える。このプールが温泉プールなら僕は、プールの中でみんな裸になって披露宴をしたいと思っていたが、残念ながら冷水だった。老女が濡れた服で風邪でも引きはしないかと心配していたが、そこは元ヒルトン・ホテル、きちんと代わりの服を貸してくれた。
僕はこの日のために、黒のスーツとワイシャツを仕立てた。黒の靴と銀色のネクタイも買った。結婚指輪も買った。全部入れると40万円を少し超える支出となった。コロンビアでは大金だ。僕は4年半前に、バイクには乗っているものの、できるかぎりヒッピーに近い貧乏旅行をしようと思って日本を出た。何年かかるかわからないがバイクで世界を一周するつもりだった。それに52歳まで独身で通してきた身だ。結婚することになるとは思っていなかった。ましてや、日本人の多くがやる、こんな騒動な結婚式を挙げたことに少し気恥ずかしさを感じている。でも、MariaとHernan、それにその家族や友人たちも喜んでくれたようだ。僕はこれで良かったと思っている。
プールサイドにテーブルが並ぶ。