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HONDAで溢れる国

- ベトナムの明るい未来に落ちる陰 ―

ブル-スは元アメリカ海兵隊員である。彼はベトナム後遺症に苦しんでいて、まだベトナム戦争の悪夢から覚め切れずにいる。ベトナムが3年前に門戸を開放した時、彼は20年ぶりにベトナムを訪れた。それ以降、彼はベトナム旅行を繰り返し、その都度、彼の苦しみは和らぐようになった。

ベトナムは今、世界でもっとも活気に満ちた国だと言われている。でも、べトナムに惹かれたのは、ド・モイ政策と言われる経済改革ではなしに、ベトナム国民のバイクにかける熱情だった。過去数年間海外ツーリングをしてきて、今年もどこかいい国はないかと物色していた。そこに、ちょうどベトナムが登場したわけだ。

ブルースは1995年の9月にもベトナムに戻って、その時にチェコスロバキア製350ccの「ヤワ」というバイクを手配してくれた。しかし、そのバイクの信頼性と車体には少し不安があった。長い旅行の間にぶっこわれはしないかと考えたし、座席が高く車体の重いバイクは短足の俺様には不向きなのだ。

ある晩、ブルースがサイゴン(ホーチミン市)に住むホンハーという若い女性に電話しようと言い出した。彼の考えは、その女性に新車のホンダ・ドリーム100ccを買ってもらい、一ケ月の借用料として俺が彼女に10万円を支払うということだった。そのバイクは30万円するが、彼女は文字どおりベトナム人の夢となっているHONDA“DREAM”を買うため、既に10万円も貯金していたのだ。“HONDA”は、この国ではバイクの代名詞になっていて、その中でもホンダ・ドリームは最高級車なのだ。

1995年12月17日午後5時にサイゴンに到着して、その一時間後、ホンハーがホンダ・ドリームⅡに乗ってホテルにやってきた。

HONDA Dream-100

サイゴンのホンハー

その日は日曜日で、サイゴンの若者たちは都心部の主要道路にバイクを転がしていた。通りという通りはカップルを乗せたバイクで埋まり、まるでバイクの洪水だ。彼らはHONDAに乗ってはデートを楽しんでいるのだ。若い頃にバイクに乗れなかったオジさんライダーとしては、うらやましい限りだ。 ところが幸運にも、ベトナム第一夜にして、この俺様も彼等カップルの仲間入りができたのだ。実は日本を発つ前、ブルースから、ホンハーをサイゴンの目印ともなっているレックス・ホテルの屋上レストランへ連れていくように言われていたのだ。彼女の後部座席から見た道路の交通量はすざましいばかりだ。バイクのグリップエンドは両横を走るバイクに今にも当たりそうだし、前後のバイクとの車間距離はゼロに等しく、キス寸前だ。それはまるで道路を流れる川のような有様だ。そしてさらに悪いことには、その流れに身を置くとバイクは決して定常には流れておらず、どのバイクも他を出し抜こうとして波状走行を試みていることがわかってしまうのだ。サイゴン市内のバイクにバックミラーはない。その理由は簡単だ。後ろを見る余裕なんかないし、仮にバックミラーを覗き込んでも、後方から襲いかかってくる無数のバイクが見えるだけで、どうにもできないのだ。交差点には交通信号なるものは極めて希有だ。にもかかわらず、バイクの二大潮流は交差点でぶつかろうとしても決して止まることはない。バイク乗りたちはウィンカーを絶対出さないけれども、ホーンで気違いじみたコンサートを奏でつつ、目と目で?っては巧みに流れを縫っていく。ベトナム人は賢明だから、機械よりも五感の方を信じているのだ。彼らのバイクは、まるで空に舞う蝶の群れのようだ。俺はこの4年間、バイクで10万キロを走破したが、この交通大混乱の中を乗り切る彼らのライディング技術には、驚顎し、脱帽する。「今まで悪運強く生き延びてきたが、とうとうベトナムで交通事故死か? でも、本望だ!」 ビビリの俺はその時、「できれば即死で」とマジで祈っていた。

サイゴンでは悩みの種が二つあった。一つは交通地獄のサイゴンをバイクでどう抜け出すかということと、もう一つは悪名高きベトナムの警官とどう渡り合うかということであった。

サイゴンを発つのは、日本で予め12時から2時の間と決めていた。フランス植民地の影響か、ベトナム人もシエスタ(昼寝)の習慣があると本で読んだ。シエスタで道路がガラすきになると期待していたのだ。でもサイゴンではシエスタの習慣はなくなったと、ホテルの主人であるホングが言う。難儀なことになった。あのバイクの洪水を乗り切る自信は、全くないのだ。俺のベトナムバイク旅行は、根本的な問題に突き当たった。とにかくサイゴンを出ないことには旅行は始まらないのだ。「では、朝の5時にホテルを出ます!」 「6時でも大丈夫ですよ。」と、ホングが言う。翌朝、5時半には起きたが、出発は7時前になってしまった。前日ホングが地図に書き込んでくれていた一番走り易い回り道を途中で間違え、そのうち朝のラッシュアワーに巻き込まれてしまった。迷子になった子供と同じだ。地図はしっかりバイクにくくりつけているが、通りの名前がわからない。自分が街のどこにいるのかわからなければ、最新鋭の方向磁石付き腕時計も全く無力だ。さらに言葉がわからない。ウロウロ走り迷っている内に、最初の夜に食事したレックス・ホテルに舞い戻って、やっとサイゴン脱出の道が判明した。結局、最?から目抜き通りを走っておけばよかったのだ。策士、策におぼれるの言あり。考え過ぎはいつもロクなことはない。

もう一つの問題は警官だ。ベトナムの警官は、メキシコ同様、罪のない観光客から金を巻き上げては生活の糧にしていると言われている。最悪のケースは以前にアメリカ人観光客に起こったもので、本人はただ写真を撮ったという容疑で逮捕され、牢獄で半年にもわたり外部との接触を絶たれたという事件だ。おそらく、そのアメリカ人はモラルの高い人で、賄賂を払おうとしなかったのかもしれない。ベトナムで最初に迎えた朝、この日もホンハーの後部座席に甘んじていた。ホテルからたった1キロ走ったばかりの所で警官に捕まった。ホンハーは警官と長い間交渉していたが、結局1500円払うはめになった。1500円というとベトナム人の平均月収の半月分だ。実にボロい副職である。ホンハーは、俺のいかにも観光客然とした服装を責めた。服装を除くと、俺の顔はあらゆるベトナム人が見間違うほどにベトナム人そのものなのだから。この事件の後、あの若い警官の情け無用の顔を思い出すにつけ、ベトナムツーリングは止めにしようかと本気で考えたりしたものだ。でも悪徳警官ごときに負けていては、いつか夢見るバイク世界一周旅行はおぼつかない。日本から一人1ドル、30人の警官に用意した30ドルを?一人10ドルの三人分に分割し直した。とにかく、前日に15ドルも取られたのだから、賄賂は一挙に10倍に増額だ。10ドルをパスポートのコピーと国際免許のコピーとで一組にし、別々のポケットに収納して警官に備える。本物のパスポートと免許証は、警官の格好の人質になるからだ。お金で済めばいい。みんなは俺を不良と言うが、実はまだ牢屋には入ったことがないのだ。

ホンハーが市内を乗せて回ってくれたお陰で、次第にベトナムの高度かつ決死的ライディング技術を覚えることができた。次の日には、サイゴン北方30キロから40キロにかけての広大な地域に掘られたクーチー地下要砦に行く途中、ホンハーから初めて我がホンダを運転する許可が与えられた。嬉しかった。少し怖かった。運転教習所で初めてバイクにまたがった心境だった。サイゴンを出ると、ベトナムはもう一つ別の顔をのぞかせる。のどかな水田を縫って交通量の少ない道が続く。だから運転できて当然なのだが彼女に言った、「どうや、俺は一人前のライダーなんやでぇー!」

そうした何の変哲もない田園地帯に、

サイゴン郊外のクーチー地下要砦

ベトコンは、アメリカとそのカイライ政権である南ベトナム政府に抗するため、200キロにも及ぶトンネルを地下に掘った。200キロと言えば大阪市の地下鉄延長距離の二倍の長さだ。地下トンネルはアメリカの基地に取り囲まれていて、こともあろうにアメリカ中央指令部が、このトンネル網の上に築かれていたのだ。この地下要砦には1万人のベトコン兵が住んでいたし、学校や病院さえも設けられていたのだ。アメリカはこのトンネルの存在には気付いていて、それを見つけるための特別任務部隊を組織し、猟犬をも動員してジャングルに放ったのである。しかし、ベトコンにはアメリカを出し抜くだけの知恵があった。たとえば、トンネルの入口とトンネル内の一部を細身の自分達だけが通れるように狭く設計し、要所要所には竹槍を植え込んだ落し穴を設けていた。また、猟犬を騙すためには、落葉や草で覆い隠されたトンネルの入口の蓋に石鹸を塗り込んだりもしていたのだ。仕方なくアメリカはトンネルを包み隠すジャングルを燃やし尽くすことにし、雨あられの爆弾を投下した。今もなお、トンネルの入口から5メートル、10メートル離れた所に爆撃によるクレータが大きく口を開けたままになっている。 トンネルの中を動き回るのは骨がおれる。身を屈めて這うように進まなければならない。激しい運動に加えてトンネル内は蒸し暑く、汗が流れる。ベトコンの生活の一部を身をもって実感し、彼等の辛苦に思いをはせるのである。と同時に、極悪な条件の刑務所に投獄され拷問を受けた一般市民を想像する時、むしろベトコンの方が楽だったのではとも思う。のである。戦争中、20万人もの無実の市民が逮捕、投獄され、そのうち少なからずの人達がゴ・ジンジェム、グエン・バンチューらの南ベトナム政府軍の手により、獄中で殺されたり不具の身になっていったりしたのである。 南ベトナムは10年間戦い、大きな犠牲の上にアメリカに勝利した。だが、政治は苛酷である。皮肉にも、トンネル内で戦ったあのゲリラ兵士達自身も、その多くが、かつての盟友、ホーチミンに導かれた北ベトナム軍により、「再教育キャンプ」という名のもとに投獄、殺害されたのである。南ベトナムの人々は、アメリカの共産主義による世界支配を恐れるドミノ理論の犠牲者であった。ベトナム戦争を通じ、実に100万人のベトナム兵士が死亡または消息不明となり、400万人の市民が死亡または負傷したのである。 国道高速1号線は、サイゴンから一旦東へ進み南シナ海に突き当たると、

古都フエの宮殿。内部はベトナム戦争で破壊されたままだった。

チャム王国の寺院の廃墟

一転して北へ向けて海岸線沿いにハノイまで続く。昔、この国を南北にチャム王国とベトナムとに二分していたハイバン峠の、その北方70キロの中部ベトナムにある古都フエは、サイゴンから1100キロの距離にあって今回のバイク旅行の折り返し点だ。 国道高速1号線には信号がない。道は一本で、町に入っても交差点は少ないから必要ないのだ。しかし、舗装状態は悪く、路面はデコボコで穴ボコも多い。一部はダートに変身している所もある。クルマは穴ボコを避けようとして、こちらの領域に割り込んでくる。対抗車より穴ボコの方がずっと気になるようだ。だから自分の車線にある穴ボコだけでなく相手側車線のものも頭に入れておいて、我が領土内に正面から突進してくるクルマをかわさなければならない。もっとも、車線といってもセンターラインは引かれていないので、各ドライバーが道路の中央付近に頭で勝手に描く車線が存在するだけだ。でもどうせ、常に穴ボコや動物を避けるのだから、センターラインなんかあっても無意味なのだ。それにペンキ代と人件費の節約になるではないか。 穴ボコはクルマとの正面衝突だけではなく、自殺するにはもってこいの場を提供してくれる。時には信じ難いほどのクレータになっているので、こんな中に突っ込めば、ベトコンの落し穴に落ちるようなもので、生命の危険すら伴う。いつも細心の注意を払って路面を睨み続けていなければならないので、通り過ぎていく平和で美しい風景なんか満喫している余裕はない。この道路は高速道路とは名ばかりで、レース仕様バイクは論外で、ホンダ・ドリームでも及ばずオフロードバイクを必要とする道路なのだ。とは言ってもサイゴン市内とは比較にならないほど交通量は少ないので、ライディングは快適だ。驚くなかれ、舗装の良い所では我がホンダ・ドリームは時速100キロを記録した。 ライディングの敵は、警官でもなく、デコボコ道でもなく、実は雨だった。12月からは、フエから北方、ハノイまでが雨だと思っていたのに、南シナ海に面する南東部海岸が雨季なのだ。この地方では、一年に季節はたった二つしかない。2月から7月までが乾季で、残りの半年はずっと雨だ。時には滝のようなどしゃ降りになる。きちんとした雨具の準備はしていなかった。お陰で、両足は靴の中で水浴びと洒落込んでいた。

国道高速1号線を走っていて妙な感じがした。

この「高速道路」は、サイゴンとハノイという二大都市を結ぶベトナムの最基幹道路にもかかわらず、人々はこの道路を日常生活のために使っているのだ。天気の良い日には道路の両側の至る所に、米、稲株、小エビ、根菜類、ココナツの殻、木くず等をきれいに並べて干している。乾燥、脱穀、梱包まで行う農漁業用作業場になっているのだ。そこへ牛車や馬車の隊列が行進し、水牛ライダー、牛、ヤギ、ニワトリ、アヒルがゆっくりと道を横切る。荷物を満載した自転車が道を遮る。大人用の自転車に乗った学童が、道路端に長い行列を作って家路に着く。これは大昔の日本で、まだ人々がのどかに暮らしていた頃の光景ではないか。これは時間が、まだゆっくりと人間の中を流れていた頃の世界だ。しかし、その同じ道路にトラック、バス、それにバイクが真っ黒な煙とエンジンの爆音を残して疾走する。国道高速1号線は、過去と現在の不釣合いな融合をかもし出しているのだ。 ベトナムには川が多い。

国道1号線でも道路は穀物を乾燥させる作業場だ。

道を行くものはクルマだけとは限らない。

水上マーケットの女達

メコン河を渡る船

川はサイゴン以西のメコンデルタだけだと思っていたのに、フエに着くまで何十本という川を渡った。しかも、どの川も水量豊富で、淀川以上の大河だ。主要な町はいずれもこうした川のそばにあるので、大きな川を越えると地図で町の名前を想像する。「想像」しなければならないのは、ベトナムには道路標識が少なく、町の名前も書かれていないからだ。だから自分が今、どの町を通過しているのかは、町の大きさと走ってきた距離から、地図上で想像するしか手がないのである。 町と町を結ぶ1号線沿いは、南からゴム園、ヤシ林、サトウキビ畑、水田と変化する。水田には、雨季で雨量が多いせいか満々と水が張られていて、その中を貫通する道路は、まるで湖に渡された橋のようだ。そして、このような田園地帯に住む人々は素朴そのものだ。道端にバイクを止めてタバコを吸うと、黒だかりの人々が集まってきてバイクを囲む。そして必ず、どこの国から来たのかと尋ねる。どこに行っても、強い好奇心と満面の笑みで迎えられる。

バイクを止めると、すぐ人だかりができる。

旅行前、ベトナム人の心は国の開放経済による価値観の激変で混乱し、すさんでいるのではないかと心配していた。ところが一番心配していた警官も最初のサイゴンの一件だけで、その後は全く問題なく、人々も実に親切で、盗難の心配なぞ全くない。特に、若者達は日本と違って元気で表情が明るい。目が輝いているのだ。その彼等達には今、英語熱が盛んだ。学校や仕事が終わってから、週に三日も英語塾へ通っているという若者にたくさん会った。日本のようにカッコーがいいからとか、異性の友達を見つけるためとかでなく、少しでも良い仕事に就くためであるから真剣だ。だから、当然ながら上達が速い。かつてフランス語、次にロシア語、そして今度は、つい先日までの敵国語であった英語とは、経済的誘因とは言え皮肉なものである。 1975年のベトナム戦争勝利の後、ベトナムは再び国際政治ゲームに巻き込まれた。1978年、ソビエトを後ろ楯とするベトナムは、中国及びタイに支援されるカンボジアのクメール・ルージュと闘うことになる。この戦いはその後10年ほど続き、1989年に終わるのである。ベトナム人は、たいへんねばり強い国民である。第二次大戦後、フランスを破り、アメリカを打ち負かした。ベトナムは、実に100年以上にわたる戦争を通じ、欧米からの独立を勝ち取ったのである。長い戦争にやっと終止符が打たれ、つい数年前からベトナムは本格的にその門戸を開放し、外国人旅行者を受け入れることになったのだ。 そして今、このようにタフなベトナム人の子孫が、本気で英語を学び、週末のバイク・ライディングに没頭している。ベトナムの人々は、停滞した社会主義経済の厚い壁を破り、「豊かな社会」の建設を夢見ている。ベトナムは既に、国際マネーゲームの一員に加わることを決意したようだ。HONDAのバイクが国を埋め尽くし、サイゴンでは交通事故による死亡者が毎日15人にも達していると、ある旅行者から聞いた。そのサイゴンでは激しい大気汚染のため、HONDAライダー達は顔に布切れマスクを強いられている。彼等にはヘルメットやガスマスクを買う余裕がないのだ。法外な交通量と、その結果起こる騒音は、住民の静かで健康的な生活を蝕んでいる。

ベトナムの平均月収は3000円位だと報じられている。

この事実は現在、世界中から観光客ばかりでなく「国境線なき資本家」を呼び寄せているのである。パンクの修理がたったの40円、1時間のバイクの洗車が70円、シクロ(自転車タクシー)が1時間借り上げで100円、1時間のマッサージが450円なのだ。このように安い労働力に加え、ベトナムの若い世代の持つ勤勉さと、はちきれそうな心的活力は、近い将来、他のアジア諸国で起こったように、必ずやこの国に急速な経済発展をもたらすであろう。不屈のベトナム人は、また新しい戦争を始めようとしている。今度は経済戦争だ。サイゴン市民がクルマを買うだけのお金を稼ぐようになったら、それは悪夢だ。この都市は省スペース、省エネルギーのバイクによってすら、既に窒息状態なのだ。 しかしながら、ベトナムは経済開発のための産業基盤の整備に手を付け始めたばかりで、人々はまだ全般的に、お金に毒されておらず、素朴で健康的だ。彼等の満面の笑顔は、浮かぬ顔をして先進国からやってきた観光客に心のやすらぎを与えている。とは言え、激変する大都市サイゴンではスリ、カッパライが多いと聞くし、人々の顔つきもどことなく険しくなり、先進国の旅行者と同様の顔の翳りすら見られるのである。旅行中に会ったベトナムの多くの人達が見せてくれた、あの幸せそうなほほえみを思い出すとき、貧困とは何を意味し、裕福とは一体何なのかを考えさせられる。お金は、時には人を幸せにするが、逆のこともある。 サイゴンの交通地獄と、そこに住む人々の笑顔の喪失は、ベトナムの明るい未来に映された不吉な陰のようなものだ。俺は、この緑で覆われた美しい国に住む人々が、チューチーの地下トンネルでアメリカの近代知識を寄せ付けなかった、彼等のあの知恵をもう一度駆使してこの陰を消し去り、先進国が成し得なかった真の繁栄を実現してくれることを祈っている。

サイゴンにはバイクの洗車屋さんが多い。一時間の洗車料金がたったの70円だ。