(1)2001年10月24日 ユタ州St.Georgeからのメール
ルート66の歌に出てくるAmarilloからGallupまで、何回も道を見失い、時には牧場の民家にまで迷い込みながらルート66の跡を追いかけました。極端な言い方をすると昔の東海道をたどるような感じなんです。Gallupからはルート66を離れ、アリゾナ州の北部、アメリカインディアンの居留区のある索漠とした荒野を抜けて、四ヶ月前にグランドキャニオンからモニュメント・バレーまで行く時に通った道に出ました。北米大陸を小さく一周したことになります。
そこから150キロほど北に進むと、グランドキャニオンを流れるコロラド川の上流に辿り着きます。ここにダムがあり、さらに上流の北から流れてくる水を堰き止めて大きなダム湖を作っています。あのフーバーダムはもっと西の下流のほうです。
アメリカのテレビは連日、炭そ菌の恐怖を報じています。もしこれがテロリストの手によるものとしたら、非常にソフトな心理作戦だと思います。一応アメリカ全国民が対象になり得るからです。僕が心配するのは、アメリカのアフガニスタン攻撃がどんどんエスカレートして中東のイスラム諸国との全面衝突になった時ことです。あるいはそれ以前にでも、テロリストはもっと直接的で大規模な破壊攻撃をするかもしれません。何も旧ソ連の技術者とミサイルを使ってアメリカに核攻撃を仕掛けなくても。原子力発電所を破壊すればいいということになります。そこで思うのは飲料水の水源となっているダムです。もしフーバーダムに、サリンみたいな毒物を積んだ小型飛行機か、遠隔操縦の模型飛行機がダム湖に突っ込んだら、と思うとゾッとします。それでもこのような攻撃は、かなり広範囲とは言え、アメリカでも原発やダムの周辺に限られますから、早く中米に逃げれば大丈夫と言うことになりますが、僕が最も怖いのは生物兵器です。伝染性のもの、特に人間が媒体となるものなら、国境を越えてあっという間に世界中に広まります。アメリカ大陸から出た梅毒がそうでした。そうなると中南米でも安全ではなくなります?
嫌なことは忘れて、コロラド川のダムを越え、ユタ州に入りました。ユタ州は国立公園の宝庫です。カナダへの道中ではこのユタ州の東の国立公園に行きましたが、今度は西南の端でグランドキャニオンの北にあるBryceとZionの二つの国立公園に行きました。カナディアンロッキー以来二ヶ月半ぶりにテントを張るつもりでしたが、寒さに負けて露天風呂付きのモーテルで泊まりました。部屋の中でも寒いので暖房を入れたくらいでした。テントにしなかったのは正解です。この辺りの店やモーテルは、冬の到来が近いということで閉めかけていました。彼等にはかなり長い冬期休暇ということになります。永久休暇の僕には及びませんが…
僕は今、ユタ州の西南の隅にあるSt.Georgeという町にいます。西隣のネバダ州はすぐそこです。ネバダにはあの灼熱のデス・バレーがあるくらいなので暖かいと思うんですが、今度は高度が高いので寒さが心配です。でも、日本の冬ほどのことは決してないでしょうから、そんなに心配することはないんですが。とにかく寒いのは嫌なんです。途中で知り合いになった人の家に顔を出すつもりですが、マイケルの家には一週間くらいで戻るつもりです。そこでカリフォルニアの二輪免許を取るつもりです。そのためのハンドブックを読む必要があるんですが、先の露天風呂に浸かりながら読んだだけで、昨日も今日もずっとパソコンで読めませんでした
ユタ州の西南の隅にあるSt.Georgeから、ほんとうに人も動物も家もないネバダ州を抜けて、カリフォルニア州、サンフランシスコの北にあるマイケルの家に帰って来ました。途中、カリフォルニア州との州境にある賭博の街、Renoに着いて夜ベッドに入ると前から痛んでいた左足がいよいよ悪化し、痛みのため眠れませんでした。朝起きると左足がズキズキ痛んで立てない状態でしたが、一時間ほどすると歩けるようになったので150キロほど離れたPlacervilleという町に住む、この旅の第一夜で知り合ったご夫婦の家まで走りました。足の裏に加え、足の先端の甲の部分も痛みがひどく、チェンジを蹴り上げられなくなったので踵でチェンジを切り替えながら走りました。生まれついての短足が、いよいよ重大な問題に発展してきたと心配していました。ご夫婦は2エーカー(800㎡=250坪)の大きな家に二人きりで暮しています。誰かが、「アメリカの家に住み、フランス料理を食べ、日本女性を妻にするのが最高だ」と言っていましたが、ほんとうにアメリカの家は立派です。そのPlacervilleで雨のため足止めを食っている間に左足はかなり回復しました。
マイケルの家に着いたおとといの夜は、早速マイケルと奥さんのサチコさんと三人で家の庭にあるジャグジー風呂に入りました。まだ痛む左足をマーサージしながら、医者のマイケルに見てもらうと、骨折やヒビが入ってるのではなく慢性疲労なので、バイクの座席を下げ、甲に鉄板の入った靴に替えるようにという診断をいただきました。
きのうの朝、早速踵でチェンジを切り替えながら隣町の靴屋まで行くと、いいものがあったんです。液体樹脂なんです。野球のスパイクに使われているそうなんですが、これを靴に塗ると鉄のようにカチカチになるんです。念のため二つ買いました。ついでに近くのBMWのバイク屋に寄り、R1100Rの総合メンテナンスをしてもらいました。400ドルかかりましたが、これで中南米までは大丈夫だと思います。バイク屋でシートのことも聞いてみたら、ここから二百数十キロ南に行った町にシートの修理やがあるという貴重な情報を得ました。メキシコへ下る途中でシートを削ってもらうつもりです。
カリフォルニアの二輪免許取得に着いては、これもきのう厚生年金事務所みたいな所へ行って「年金受給資格なし証明書」みたいなものを発行してもらいました。昔、ドイツの若い男の子がこれを持っていったら免許証が取れたと言うんです。昨日までに免許取得ハンドブックを読み終えて、実地試験もその日にあるかもしれないと言うので、車体を軽くするためBMWのサドルケースをはずし、コンタクトレンズも度の強いものに替えて陸運局みたいなところへ乗り込みました。残念ながらダメでした。免許証を取るためには三ヶ月以上の滞在許可がいると言うんです。でも一般旅行者には三ヶ月以上の滞在許可は出ません。要するに旅行者はアメリカでは免許証が取れないんです。ドイツの男は留学だったそうです。ついでにダメモトで日本の免許証をアメリカのものに替えられないか聞いてみましたが、やっぱりダメでした。アメリカのJAFみたいなとこも、「お気の毒ですがどないしようもありません」と言います。諦めました。ガテマラで再度試みます。
今日は、足の状態が大分よくなりました。実地試験の予行演習で甲を使ってチェンジをいれましたが、ほとんど痛みを感じませんでした。免許証がダメだったのでマイケルの家には、あと数日いて、その後は僕のホームページを見て招待してくれている人の家を訪ねる予定です。一日ほど北へ行った所です。メキシコへ下る途中は、旅で遭ったサンフランシスコのライダーが、また家に来いと言ってくれているので、そこにも顔を出すつもりです。メキシコ国境のサンディエゴには、前からの知り合いがいるので連絡が取れれば彼に会ってから、いよいよメキシコに入る予定です。
カリフォルニアもこの辺りは、夜は少し冷えますが日中はポカポカ陽気です。
レッド・キャニオン
Pageにはダムがあって、グランドキャニオンに流れ下る水はここでせき止められLake Powellと呼ばれる大きなダム湖を造っている。Pageはこのダム湖を控えた観光の町でモーテルも多いが、料金も高いと覚悟していた。ところがシーズンオフのせいなのか、税込みで32ドルのモーテルが見つかった。税抜きで29ドルだからアメリカでは安いほうだ。天気もよく、それにTシャツでいいくらいの陽気だ。 グランドキャニオンの北側はユタ州で、同州の東側と同様ここにも奇岩が林立する国立公園がある。カナダへ北上する時にはユタ州の東端を通り、西端にあるBryceとZion国立公園には来なかったのでずっと気になっていた。国道89号線はダムの横に架けられた橋でコロラド川を跨ぎ、西に二百数十キロほど進んでからZion国立公園を西に見ながら北のBryce国立公園に向かう。 Bryce国立公園は実はこの道路と平行に南北に30キロほど細長く伸びているのだが、途中にアクセス道路がないので、北の公園入り口まで大きく迂回しなければならないのだ。 国道89号線は川が流れる谷を走っていて、緑の谷の木々はすでに黄色の衣を纏っている。ところどころに馬が遊ぶ牧場があり、小さな集落が点在する。日本の田舎で見たような長閑な谷間の風景だ。バイクで走るのには、やはり山がいい。Bryce国立公園の入り口近くにはレッド・キャニオンと呼ばれる、まさに赤い谷間があり、その赤い山は侵食を受けて奇岩を林立させている。 Bryce国立公園への期待が膨らむ。期待どおりだ。
国立公園の入り口付近には広大な面積に渡って、おびただしい数の赤くて高い柱の岩が馬蹄形の谷を埋め尽くしている。大自然の偉大なる彫刻だ。その赤い列柱を縫って踏み分け道がずっと谷の下まで降りている。列柱の谷間を歩きたいが、左足が痛むので断念する。駐車場で薄手の皮で身をくるんだ中年のカップルのライダーに遭った。二人は同じような形をしたバイクに乗っている。てっきりハーレーだと思っていたが、二台ともインディアンのデザインをそのままコピーしたKAWASAKIのバイクで、男の方のバイクは1500ccの、女の方は850のエンジンを積んでいる。アメリカの古典的なデザインに最先端の日本の技術、最高の組み合わせだ。それに二人の長い足。大した荷物も持たず、カリフォルニアからちょっと走りに来たらしい。アメリカやカナダではほとんどが女が後部座席に座ってツーリングしているが、二台で走る方がずっと格好がいい。
レッド・キャニオン近くのモーテルのジャグジー風呂
29ドルで小さな露天風呂まで付いている。この低料金にしては、なかなかいいモーテルだ。今日は日曜日だし、それにこの辺も寒くなってきてシーズンオフ間近のせいもあるんだろう。このモーテルもあと一週間で締めて長い冬眠に入るらしい。だから禁煙室にもかかわらず、どうせシーズンオフにきれいにしますからと言って灰皿をくれた。寒いときの風呂は最高にありがたい。カリフォルニアの二輪免許取得ハンドブックを読みながら、ジャグジーの水流を左足の裏に二時間も受けた。痛む左足を水のマッサージで直そうという魂胆だ。Albuquerqueの霊女の指先念力波動よりも効果があったようだが、まだビッコは直っていない。 Bryce国立公園から離れZion国立公園を目指し、紅葉の谷を再び南へ戻る。Zion国立公園に入ると、道路際に「バッファロー」と書いた看板が目に飛び込んできた。看板の向こうを見ると牧場があって、6~7頭の馬から少し離れたところに、何やら黒い動物が30~40頭散らばっている。牛ではない。姿が少し変わっている。ほんとうにバッファローかもしれない。
バッファローの巨大な頭の剥製をカナダのバーで見たことがあるが、本物のバッファローはまだ見たことがない。バイクを止め、向こうの柵までビッコを引きながら歩いていく。ほんとうにバッファローだ。バッファローはもう見れないと諦めていたのに、こんなところで見れるとは思わなかった。コロンブスがこの大陸に来るまでは、土地が黒く染まるほどの数のバッファローが至るところにいたことだろう。そこにアメリカインディアンが住んでいて、バッファローを狩に出るときには彼等は神に祈りを捧げ、石の矢尻の付いた矢や石のナイフを手に、必要な分だけ狩りたはずだ。神から授かった貴重なバッファローだから、肉から毛皮まで余すところなく利用したにちがいない。だからバッファローの数は減ることはなかった。コロンブスの知らせを聞いて、ヨーロッパで生活に苦しんでいた人達が、大挙してこの豊かな大陸にやってきた。彼等には鉄砲があったので、草原を埋め尽くす無数のバッファローを撃ち殺してはハンティングを楽しんでいた。ついでに邪魔になるインディアンにも銃口を向けた。そしてバッファローもインディアンも数を減らしながら西へ追いやられていった。今、アメリカはアフガニスタンを爆撃し?いる。ソ連が崩壊し世界で無敵のアメリカがイギリスとともに、今度は石油を狙って中東のイスラム諸国を相手に、かつて彼等の祖先が南北アメリカで犯した蛮行を繰り返さないことを祈るばかりだ。 Zion国立公園は急峻な赤い岩山に覆われていて、
岩山に囲まれたZion国立公園
道路はその谷を縫って進む。真っ青に晴れ上がった空を、赤い尖った山々が下から突き上げている。昨日のBryce国立公園は曇天で寒かったが、今日は気温も高くてほんとうに気持ちがよい。大きな岩山の一つには長いトンネルが掘られている。トンネルは無灯なので左手でサングラスをはずす。一定間隔でトンネルの壁に穴を開け光を取り入れているので、思っていたよりも走りやすい。その点、ニュージーランドの南島にあったフィヨルドランドのトンネルは、狭い上に真っ暗だったので、今でも怖さが蘇ってくる。あのトンネルは二度と走りたくない。北米ではいままで山ばかりを選んで走ってきて、トンネルはいくつかあったが、どれも出口がそこに見えるものばかりだったが、このトンネルは初めての本格的トンネルだ。トンネルを抜けるとすぐに、北に向かって公園の最深部まで続いている道路がある。北へ進むには特別許可(Red Permit)が要る、と何カ所にも看板が立てられていて、その道路には観光客を運ぶシャトルバスが何台も走っている。文句を言われたら私は日本人でよく分かりませんでしたと言うことにして、先へ進む。しかし、途中まで進むといよいよヤバイ雰囲気だ。そこで引き返して公園を出る。 ユタ州でのAOLのアクセスポイントは、北のソールトレーク・シティー周辺に集中していて南部にはSt. Georgeにしかないので、少し回り道だが南へ下る。知らない間に高度が下がったのか、 St. Georgeの町は暑い。皮の鎧の下の下着は汗で濡れている。これだけ気温が変化するとやりにくい。Gallupを出てから五日間、途中にはAOLのアクセスポイントがなかったのでメールから離れていた。市外電話ではどうしてもうまく接続できないので、アクセスポイントのある町で接続することにしている。カリフォルニアで会う人達にもメールを出しておく必要がある。モーテルに着いて、近所のコンビニで買ってきたビールを飲みながら、日本へのメールも含めて10通のメールや旅日記を書いたりしていたら、今日も朝の3時半を回ってしまった。明日はここでもう一泊しよう。
St. Georgeから州道18号線と56号線をつないで、北東へ、ネバダ向かう。山を上るに連れ気温が下がってくるのでグリップヒータを「強」にする。田舎の道だから交通量は少ない。この辺りは砂漠ほどに乾燥していて降雨量も少ないが、山は低い木で覆われている。州道は、ネバダ州に入るとすぐに国道93号線にぶつかり終わる。そこに小さなガソリンスタンドが一軒だけぽつんとある。地図を見ると次の町まで180キロもあるのでガソリンをいれる。国道93号線は、ラスベガスからカナディアンロッキーまで続いているので、最初はこの辺りからこの道に入り、そのままカナダまで走るつもりだったが止めた道だ。ガソリンスタンドから93号線を北に向かう。すこし行くとCathedral Gorge州立公園がある。
滑走路のような国道93号線
国道93号線は、一番東に近い谷間を南北に走っている。左右の山には低い木が生えているが、谷には草に近い灌木があるだけの荒野だ。もうこれは砂漠と呼んでもいいくらいだ。しかし、今はもう10月も下旬、決して暑くはない。むしろ寒いくらいだ。国道93号線は、その荒野を果てのない滑走路のようにまっすぐ北へ伸びる。実際、飛行機がいつでも着陸できるくらい交通量が少ない。制限速度は110キロとなっている。しかし、ちょっと油断するとついついアクセルを開けてしまい、速度計は130キロや140キロを指している。試しにアクセルをもっと開けてみる。150キロ、160キロ。R1100Rにはウィンドシールドが付いているので、身体に風圧は受けないが、ジェットヘルメットは後方へめくれ上がる。しかし、R1100Rは速度を上げるに従ってますます安定してくる。 R1100Rの速度計の最高速度は時速240キロだから、160キロは駆け足みたいなものなんだろうが、僕にとっては、今までに経験したことのないスピードだ。こわくなってアクセルを戻す。緊張で尿意を催してきたので、車線内にバイクを止めて、道路際で立ち小便をする。見渡す限り、クルマも、人間も、生き物もいないので大丈夫だ。国道93号線は130キロ北へ進んだところで国道50号線に当たる。このT字の交差点で初めて人工物を見た。ただ一軒のバーだ。アメリカの道路番号は、偶数が東西、奇数が南北の道路を示しているから、50号線は東西に進む道だ。その50号線が、山脈とそれに続く細長い谷を何回も何回も横切っていく。谷はやはり不毛の荒野だ。ネバダ州には人間が住んでいないのか? ネバダ州の南に核実験場を造った理由がわかるような気がした。そして、「ジョンウェインはなぜ死んだか」とかいう題名の本に、ハリウッドの多くのスターがエイズで死んだとされているが、実はこの核実験場の近くの砂漠で何回もロケをして、死の灰を吸うたためだったと書かれていたのを思い出した。
国道50号線を西に進むにしたがって、山から木も消えてしまった。
そしてネバダ州もほぼ西の端にあるFallonという町の手前で完全に砂漠になってしまった。不毛の山野は、そのままカリフォルニアとの州境にある、Las Vegasと並ぶ賭博の街Renoまで続く。国道50号線はRenoの手前で南に反れてタホ湖の南岸を通って、カリフォルニア州の州都サクラメントまで再び西に向かう。Renoで一旦離れた国道50号線に向けて南に下る。タホ湖に近づくに連れ高度が上がるとともに、木々が増えやがて深い森になる。もうシェラネバダ山脈だ。気温も下がる。タホ湖とサクラメントの中ほどにPlacervilleという小さな町があり、そこに4ヶ月半前に旅の第一夜のキャンプ場であったご夫婦が住んでいるので立ち寄ることにした。二人切りで8,000㎡(2,450坪)の敷地に建てられた大きな家に住んでいる。
決してお金持ちでなく普通の生活水準で、今はもう二人とも年金生活に入っていても、この広大な家に住めるのは実にうらやましい。近所もみんな同じ大きさらしい。アメリカの家はどこの家もとにかく大きい。 Renoでは痛んでいた左足がいよいよ悪くなり、朝起きても立ちあがれなくなった。一時間ほどしたら痛みも少し和らぎ歩けるようになったので、カリフォルニアに向けてバイクを出した。しかし、左足の裏に加え甲も痛いのでチェンジのシフトアップができない。仕方がないので踵でシフトアップをしながらマイケルの住むRohnert Parkまで走ることになった。
山と谷が繰り返す国道50号線
国道50号線沿いのEureka