(1)2002年9月16日 Santa Barbaraからのメール
アパートの家主一家。左から次女Armida、Mario、奥さんのLeidi、四女のDania。
みなさま、日本は少しは涼しくなったでしょうか? ここサンタ・バルバラは熱帯ですから、日中は一年中暑いそうです。10月までは雨季で、日中に湧き上がった雲は日が暮れると必ずと言っていいほど、激しい雨を降らせます。そして雷が鳴り出すと、また必ずと言っていいほど停電します。特にこの二週間はひどいらしく、毎日停電します。ひどい時は一日三、四回も電気が切れます。蝋燭を買いましたが、パソコンは使えません。しかし雨のお陰で、夜はひんやりとして安眠できます。ただ、BMWはシートの下で雨に打たれて可愛そうですが… サンタ・バルバラのアパートに来てから一ヶ月が経ちました。しばらくキーボードを叩かなかったので、指の痛みはほぼ消えました。毎朝起きるとパンとコーラで朝食を済ませてから、スペイン語の勉強をしています。400ページちょっとの教科書をほぼ読み終えました。それでスペイン語のメールも、前よりも簡単に書けるようになりました。ニューヨークの自爆テロ以来、ますます読みたいと思っていたTom Clancyの"Executive Orders"も、読み終えました。午後はアパートの家主の奥さんや娘さんたちとしゃべってはスペイン語の実践練習をしていますが、聞き取りの方は一向に上達しません。スペイン語を教えてくれると言っていたFatimaは、元の孤児院で仕事が見つかり、今月の一日から働いているので時間がありません。しかし一週間ほど前に、昼にコーヒーと軽食を食べるカフェで17才の女の子と友達になり、今は彼女としゃべっては教えてもらっています。この前、お礼に日本で使っていた千円の時計をあげました。彼女、男物の大きな時計ですが、さっそくはめては喜んでいます。
カフェの女たち。中央が先生のSindi。
家主の奥さんは僕と同じ歳ですが、猥談が好きです。初めはちょっとびっくりしましたが、だんだんと慣れてきて今は楽しみです。こちらの女性連中は、本当にオープンなので気分が良くなります。奥さんの言葉も良くわかりませんが、あからさまなジェスチャーで意味はわかります。最近、朝起きて窓を開けるとすぐに熱いコーヒーとパンを差し入れしてくれます。だんだん昼ご飯の差し入れも出るようになってきました。 この前散髪に行ったら、客の一人に30才前後で長い黒髪の女の人を見ました。ちょっとだけアジア系がかかっているみたいな感じで、ホンマにベッピンでした。17才の先生が一緒だったのであまりしゃべれませんでした。その後、小さな町なのに彼女を見かけません。僕もラテンの気分が少しずつ移ってきたので、先生がいなかったらもっとしゃべったのにと思うと残念で、毎晩また酒を飲むようになりました。 それにしても、この町は安全な上に、美人が多くて良い町です。スペインのアンダルシア地方にも美人が多かったけど、ここは愛想までいいんです。老後の年金生活を過ごす最初の候補地なのかもしれません。今は少なくなった日本の年金ですが、ここでは贅沢に生きていけます。
結婚式が開かれたレストラン”Sakura”
太一郎は三年前、21才の時に母親とともにホンデュラスにやって来た。いきさつは聞いていないが、Rosaと知り合って、二年後に彼女を日本に連れて帰り、その時に一万五千円ほどの婚約指輪を彼女に渡した。僕は婚約したことがないので、日本の婚約指輪の相場は知らないが、こちらでは一ヶ月の給料ほどする高価なものだ。いかにも純朴そうで、気立ての良いRosaを前にして、いつも静かでクールな太一郎もこの時ばかりは燃えていたのだろう。 婚約指輪は簡単に買えただろうが、ホンデュラスに帰ってきてからの結婚手続きが大変だったらしい。なにも、日本の仲人とか結納とかといったことではない。役所の書類だ。一つの書類を取って次の書類を貰うまでに、最初の書類の有効期限が切れてしまって、また最初からやり直しということが続いたらしい。それで何回も首都のテグシガルパまで足を運ぶことになった。太一郎とは、その時テグシガルパで遭ったのだ。一年後やっと書類が揃い、太一郎はその二日後に、母親がここSanta Barbaraに出した日本料理店“Sakura”で結婚式を挙げた。ちょうど開店後一年くらいの頃だった。 太一郎は、僕がこの町の数少ない日本人のためか、あるいは毎晩日本食を求めて通う常客のためか、僕も結婚式に招待してくれた。結婚式は夕方の六時に始まることになっていた。こちらはラテン時間だ。前以て、何時頃に行くべきか太一郎に聞いた。こちらの人は大体一時間は遅れるのが普通だと言う。どうしたものかわからない。僕の泊まっているアパートの家主、ドン・マリオ夫婦も招待されているので、彼らと一緒に行くことにした。当日五時半頃家主を誘いに行くと、都合があって結婚式には行けないと、結婚祝をことづかった。折しも暗雲が空を覆い始め、いつものように大雨になりそうなので、ラテン時間を無視して出かけることにした。
ディスコ・ダンスの結婚式
六時きっかりに着いたら、驚いたことにもう一組だけ来て待っているではないか。男の方は日本人のようだ。上野さんといって、Santa Barabaraには橋を作るため日本から送られてきた。隣に座っている美しいホンデュラスの女性は、彼の奥さんだ。二人の間に4才くらいの女の子がいる。彼と話しをしながらみんなが現われるのを待っていたが、やはり誰も来ない。一時間経った。太一郎が言ったように、パラパラと集まり出した。七時半頃になって、20人ほどの招待客がやっと全員集まった。到着した者から三々五々、食事やビールをいただいていたので、結婚式は何時始まったのかわからない。日本のように、食事やビールを目の前にしながら、長いくだらないスピーチに待たされてイライラすることもない。当然、全員平服だ。もし知らない人が夕食に入ってきて、部屋の隅に置かれているウェディング・ケーキを見なければ、結婚式をしているとは気がつかなかっただろう。六時に行った時からずっとディスコ音楽が流されていた。食べ終わった者から、その音楽に合わせて踊り出した。最初は踊り手が少なかったので、枯れ木も山のにぎわい、僕も踊りに加わった。全員が食べ終わった頃には大きな踊りの輪になった。 太一郎の結婚式には、両親が日本に帰っていることもあって、集まったのは新婦のRosaの若い兄弟姉妹を除いて、みんな友達や近所の人だった。日本の結婚式は、結婚する二人のためというより家と家のためという感じがするが、太一郎のはまさに二人のためのものだった。僕は、日本の結婚式が華美過ぎることに嫌悪感を持っていた。それに、職場の上司、昔の教授や教師が気の毒にも引っ張り出されて、空虚で長いスピーチをする。僕はこの形式主義をいつも醜悪だと感じていた。それに、年々華美になっていく結婚式に相応して、祝い金の額も高額になってきた。本当に親しい友達なら数はしれているが、これが大きな職場となると次から次ときりがない。結婚式だけではない。葬式、それに子供が生まれたといっては安い給料からの出費がかさむ。しかも日本にはお返しという妙な習慣があるから、祝い金の半分は百貨店に消えてしまう。みんなおかしいと言いながら、このシステムを変えようとしない。それで僕は30才を過ぎた頃、職場の冠婚葬祭には加わらないことにした。みんな羨ましがっていた。
料理作りに忙しい新郎新婦
ウェディング・ケーキがなければ、ただのパーティー
そんな訳で結婚式に出たのは、ずいぶん久しぶりだ。この結婚式の披露宴は、間違いなく今までで出た中で一番安くあがった結婚式だ。でも、一番楽しかった。こんな結婚式なら何回でも出たい。しかし、太一郎は結婚式の間ずっと忙しかった。日本の披露宴のように、次から次の衣装の着替えに忙しかった訳ではない。招待客へ出す料理を作るのと給仕に、初めから終わりまで追われていた。 今、太一郎の左手の薬指には指輪がはまっている。結婚指輪だ。銀製だが、Santa Barbaraで造ってもらったらしい。200円くらいだったと言う。Rosaの左手の指輪は、日本で買った婚約指輪のままだ。そのまま結婚指輪になった。高ければいいと思う日本のカップルとは大きな違いだが、僕にはこの二人の方がずっと美しく見える。結婚式は土曜日だった。翌日は日曜日で店は休みだ。「明日はどこで夕食を食べようかな」と言うと、一週間店を閉めると言う。忘れていたが、ハニームーンだ。クルマで三時間ほどのカリブ海に面した小さな町に行くと言っていた。しかし後で聞くと、風邪を引いてそこへも行けず、家で寝ていたらしい。太一郎には運命までもが控えめだ。僕がもし間違って結婚することがあるとしたら、結婚式に料理を作るのはいやだし、新婚旅行には絶対に行きたいが、式そのものは太一郎のように質素で格式ばらないものにしたい。
9月30日、51日いたSanta Barbaraを出て、ホンデュラスの滞在延長許可を取るのと、バイクのクランク・ケースの修理をするため、また暑いSan Pedro Sulaに来ました。
出入国管理事務所に行くと、三ヶ月もらえると思っていた延長許可は一ヶ月しかもらえませんでした。一ヶ月ごとに三ヶ月まで延長できるそうですが、毎月一回来なければなりません。バイクの延長許可は、 San Pedro Sulaの陸運局ではできず、首都のTegucigalpaまで行かなければなりません。これも毎月一回の更新ですが、書類だけでバイクを持っていく必要がないので少し助かります。
R1100Rの修理を生徒に教える稲本氏
最近僕は、僕の人生を変えたような大事な二人をなくした。僕はこの二人とは30才の頃に出会った。一人は松井真知子で、もう一人は平井征夫だ。
若き日の松井真知子
松井真知子とは、彼女が28才、僕が30才の時、中米の旅を終えて帰国した頃に遭った。身長が168cmもある、細身の背の高い女性だった。僕は163cmだから彼女は僕よりもずっと背が高かった。当時僕は、自分の背の低いことに劣等感を持っていた。それで、初めてのデートで万博公園へ行った時には、僕は踵の高いブーツを履いて行った。しかし、彼女もブーツを履いてきていた。しかも、彼女のヒールは僕の倍ほど高かった。だから一日中、彼女を見上げてしゃべっていた。少し屈辱であった。京都大学の学園祭に一緒に行った時は、僕は踵の高いブーツではなかった。でも彼女は高いブーツに真っ白な上下の服を着て来た。横に背の低いブオトコを従えて颯爽と歩く松井真知子は目立った。みんなが、「あれ、誰?」と言って振り返った。彼女はお洒落な女性でもあった。 彼女は、当時のウーマン・リブだった。学生時代には過激な学生運動をしていたので、ブラックリストに載っていると言っていた。その彼女と、教科書問題で反日感情が高まっていた韓国に旅行した。北のスパイを捜す警官の尋問を数回受けた。僕はブラックリストに載っていなかったが、彼女が心配だった。僕の人生で女性と一緒に生活したのは、彼女だけだ。僕が大学卒業後すぐに就職して学んだことと言えば、スナックに勤める女グループと友達になり、二日に一回くらい夜遅くまで飲んでは、社会の舞台裏の実際を教えてもらったことくらいだ。優しい女たちだった。しかし、松井真知子は女性解放家だからか、心の中には優しさをいっぱい持っていたのに、それを表に現さない女だった。男女平等だから、共同生活するための負担は、全て五分と五分にした。全く未知の世界の女だった。家賃や食費の折半は、日本人の男としては助かったが、食事は困った。生まれて以来食事を作ったことのない僕には、料理は作れなかった。それで料理の本を読んで作ってみた。初めは、「料理は創作だ」ということを発見して楽しかった。しかし毎日となると問題が出てきた。それで料理は彼女に任せて、専ら皿洗いに回ることにした。これも毎日となると堪えられなかった。それでアパートに帰るのが嫌になった。毎晩また職場の近所で飲んで、アパートに帰るのが遅くなった。 数年後彼女は、このダメな男に愛想を尽かして、アメリカの大学院に留学した。女性学や国際関係学を専攻し、中国人と結婚した後、最後はテキサスの大学で教えていていた。それなのに、2000年の5月に乳癌で他界した。アメリカでの彼女の闘病生活を綴った「アメリカで癌と生きる」という本は、アメリカの医療システムを知る上でもいい本だ。 彼女は僕が会った当時、日本では数少ない自立する女であった。日本の男も自立していなかった。僕は彼女に、日本の男性中心社会の弊害と、そこに安住する自分に対して自立する必要を教えてもらった。昔、彼女のペンネームは「翔魔子」だった。青い空へ飛翔するという意味が込めれていた。彼女には20年も遅れたが、僕も一応飛び立った。この旅の様子を一番読んでもらいたいのは彼女だが、今はいない。
ドタバタ劇の平井征夫(右から二番目)
もう一人は女でなく男だ。平井征夫という。今日、訃報を受け取った。彼は僕より四つ年上だ。彼も学生運動に加わった後、外国語大学のスペイン語学科を中退し、労働者の中に入って30才くらいの頃まで肉体労働をして生きていた。32~3才の頃、妻子を日本に残し、スペインに留学した。僕は、平井さんが留学する前、彼とスペイン語学校で一緒に勉強していた僕の飲み友達からそのことを聞き、「世の中には凄い人がいるもんやなぁ」と感心していた。 中米に旅行する前に、僕もそのスペイン語学校に入ることになった。僕の先生になったのが、留学を終えた平井さんだった。彼のスペイン語のクラスでは、チリのフォルクローレ歌手、ビオレッタ・パラについて書かれた“Gracias a la vida”という本を五年ほどかけて翻訳した。その時、どうしてもわからない部分を、平井さんはアルゼンチンのエスペランティストに手紙で聞いていた。それは今、「歌っておくれ、ビオレッタ」という本になっている。僕も酒が好きだったが、平井さんも好きだった。それでクラスが終わると待ってましたとばかり毎週、安酒場に直行しては日本の社会のことなどをしゃべりにしゃべった。夜の11時頃には安酒場は閉まるので、必ずそれからスナックへ行った。平井さんが歌うスペイン語の歌には、いまだに羨望を持っている。それにしても、よく毎週あれだけ話すことがあったものだと思う。 平井さんと会ってから10年ほど経ったある日のクラスが終わった後、いつもの一杯飲み屋で飲んでいた。晩秋だった。彼は言った、「今、エスペラントの初冬講習会を開いているんやけど、生徒が一人しか来なかったんで、ちょっとサクラでもエエから来てくれへんかなぁ。もう三回ほど終わってるけど、それは俺が今までの分、教えるから」。平井さんは男前だが、女は口説かない。しかし男を口説くのはうまい。その時僕は40才を越えていた。なのに、僕は彼の口車に乗せられて、エスペラント語の世界に足を踏み入れることになってしまった。
平井さんは日本を代表するエスペランティストだった。エスペラント語で小説を書いていた。僕も彼に口説かれて、大阪エスペラント会誌や関西エスペラント連盟の機関紙にエスペラント文を書いた。いつも最初は嫌だと言って断った。しかし彼の説得力にはいつも負けた。今になって考えると酒のせいもある。酒でどんどん世界が広がって、「ようしっ、何か一つやってみるか」という気にさせてから、「それで、これやってみよや」と言うから断れない。ほんとに人の心を掴むのがうまい人だった。
大阪エスペラント会のドタバタ劇は、関西エスペラント連盟が毎年一回開催す関西大会では人気のある出し物だった。僕が大阪エスペラント会に入ってからは、劇のシナリオは殆ど平井さんが書いていた。肩を張らず、とにかくアホーなことを言っては楽しもうやないか、というのが彼の信条だった。彼の書いたドタバタ劇のシナリオは、やっている僕達にもおもしろかった。おもしろいので、みんながその気になって、ここはこうしましょや、あそこはこの方がオモロイでぇ、と言っている内にいつも彼のシナリオは無茶苦茶に変えられてしまった。でも、平井さん自身もそれを楽しんでいた。心の広い人だった。
この旅に出る前、大阪エスペラント会の会誌に旅の様子を書いて送ると平井さんに約束していた。平井さんは、僕が旅に出てから僕のためのホームページを作ってくれた。それでこの旅は、朝から晩まで書き続ける運命になってしまった。
僕のホームページのメッセージは、日本語は松井真知子、エスペラント語は平井さん、英語はカリフォルニアのマイケルから始まったと言って過言ではない。うち二人は癌で他界してしまった。マイケルも9年前に眼の癌を患った。マイケルだけでも元気でいてほしいと思う。
僕が初めて平井さんに会ったのは、今から25年ほど前、僕が30才の頃だった。エスペラント語ではなく、スペイン語を通じての出会いだった。
僕は26才の冬の一ヶ月、職場の飲み友達とメキシコを旅行した。スペイン語ができなかったので、ずいぶん悔しい思いをした。帰国後その友達は、玉造にある「アジア・アフリカ・ラテンアメリカ連体委員会」というところが開いているスペイン語教室に入った。彼と飲んでいる時、彼から「同じクラスに、妻子を日本に残しスペインに留学すると言う32~33才の男がいる」ということを聞いて、「世の中には凄い人がいるもんやなぁ」と感心していた。いつの日か一ヶ月でなくもっと長い海外脱出の夢を見ていた僕にはショックだった。それが平井さんだった。勇気のある人だと思った。
30才の冬には、僕はメキシコ、グアテマラ、ホンデュラスを旅行した。その旅行に先立ち、僕も平井さんがいた同じスペイン語教室に入った。僕の先生になったのが、一年のスペイン留学を終えて帰国した平井さんだった。彼は僕より四つ年上だった。大阪外大で学生運動をやりスペイン語学科を中退し、労働者の中に入って30才過ぎまで肉体労働をして生きてきた後のスペイン留学だった。迫力のある人だった。
平井さんのスペイン語教室では、生徒は高校の国語教師をしている首藤さんという若い女性と僕だけだった。一通り文法の勉強が終わった時、次は何か本を読もうと平井さんは言い出した。首藤さんは南米のフォルクローレに凝っていて、彼女がどこかの国で買って持っていた本で、チリのフォルクローレ歌手、ビオレッタ・パラについて書かれた“Gracias a la vida”という本を読みたいと言った。それで僕たち三人はその本を翻訳することになった。五年ほどかかった。その間、どうしても意味のわからない部分について、平井さんはアルゼンチンのエスペランティストに手紙で問い合わせていた。僕はそれまでにエスペラント語のことは知っていたが、その時が「生きている」エスペラント語との最初の出会いだった。五回ほど読み返して翻訳を終えた僕たちは、それを自費出版しようと考えていた。しかし、平井さんは映画の助監督とかいった、僕の知らない世界の友達を多く持っていた。その一人に大阪の出版会社に勤めている友達がいた。訳本は彼の会社から「歌っておくれ、ビオレッタ」という題名で出版された。やはり変わった人だった。
僕も酒が好きだったが、平井さんも好きだった。それでクラスが終わると待ってましたとばかり毎週、安酒場に直行してはしゃべりにしゃべった。政治を中心に経済、文化、言語、自然、宇宙、科学、宗教といった内容の硬派の会話だった。夜の11時頃には安酒場は閉まるので、必ずそれからスナックへ行った。スナックで歌う平井さんのスペイン語の歌には、いまだに羨望を持っている。それにしても、よく毎週あれだけ話すことがあったものだと思う。いつまでも革命を考える人だった。
平井さんと会ってから10年ほど経ったある日のクラスが終わった後、いつもの一杯飲み屋で飲んでいた。晩秋だった。彼は言った、「今、エスペラントの初冬講習会を開いているんやけど、生徒が一人しか来なかったんで、ちょっとサクラでもエエから来てくれへんかなぁ。もう三回ほど終わってるけど、それは俺が今までの分、教えるから」。平井さんは男前だが、女は口説かない。しかし男を口説くのはうまい。その時僕は40才を越えていた。なのに、僕は彼の口車に乗せられて、エスペラント語の世界に足を踏み入れることになってしまった。他人を騙すのも上手な人だった。
僕は26才の時友達と私的な英語のクラスを作って、この旅に出る直前まで英会話の練習をしてきた。平井さんと会ってしばらくした頃、平井さんもこの英会話のクラスに入ってきた。やはり英語も上手だった。彼の加入で会話の内容が高度になった。僕はそれを楽しんでいた。平井さんは、僕が平井さんの仕掛けた罠にはめられてエスペラント語を始めてからもまだクラスに来ていたので、スペイン語とエスペラント語では先生、英語では同じ生徒として、週三回も顔を合わす時期があった。当時平井さんはカタロニア語も勉強していた。言語に異常な執着を持つ人だった。
平井さんは日本を代表するエスペランティストだった。エスペラント語で小説を書いていた。僕も彼に口説かれて、大阪エスペラント会(OES)の会報や関西エスペラント連盟の機関紙にエスペラント文を書いた。いつも最初は嫌だと言って断った。しかし彼の説得力にはいつも負けた。今になって考えると酒のせいもある。酒でどんどん世界が広がって、「ようしっ、何か一つやってみるか」という気にさせてから、「それで、これやってみよや」と言うから断れない。ほんとに人の心を掴むのがうまい人だった。
当時僕は、エスペラントの記事を書くのに職場の汎用コンピュータのワープロを使っていた。そのワープロは編集機能が弱く、特に欧文についてはワープロとは呼び難いほどのものだった。タイプが完了したエスペラント文に写真を一枚張りつけるだけで二時間もかかった。それで僕もとうとう、友達から中古のパソコンを譲ってもらった。Windows95が出た年だった。そして例年どおり一ヶ月の冬の旅に出た。一月に旅から帰ると、平井さんを初めOESの三人が、スーパーで安売りがあったと言って、Windows95のパソコンを買って待っていた。OESのコンピュータ化は、この時点で始まった。先進的な人だった。
僕の買ったパソコンはOSが古かったので、この三人と合わすため無理やりWindows95に改造するはめになった。新しいパソコンが一台買えるほどのお金がかかった。僕たちは平井さんを中心に、ワープロへのエスペラント文字の導入を模索した。平井さんは、ヨーロッパからC^aperiloを取り寄せた。これをMicrosoftのWordに取り込みたいと考えた。僕のパソコンだけがノート型なので、例会にそれを持ち込んで試行錯誤していた。他所の会から来ていたある人がそれを見て、「OESではソフトを不正利用している」とインターネット上で公表してしまった。そんなある日、僕は例の如くまた平井さんと飲み過ぎて終電車を逃がし、彼の家に泊めてもらうことになった。起きて平井さんと並んで朝食を戴いているとき、「不正利用」が話題になった。事情を詳しく知らない平井さんの奥さんから、「不正利用」を厳しく戒められた。平井さんも僕も、教師に叱られた小学生のように黙って頭を垂れていた。スペイン留学中は毎日奥さんに手紙を書いたと言うだけあって、奥さんにだけは弱い人だった。
OESのドタバタ劇は、関西エスペラント連盟が毎年一回開催す関西大会では人気のある出し物だった。僕がOESに入ってからは、劇のシナリオは殆ど平井さんが書いていた。肩を張らず、とにかくアホーなことを言っては楽しもうやないか、というのが彼の信条だった。彼の書いたドタバタ劇のシナリオは、やっている僕達にもおもしろかった。おもしろいので、みんながその気になって、ここはこうしましょや、あそこはこの方がオモロイでぇ、と言っている内にいつも彼のシナリオは無茶苦茶に変えられてしまった。でも、平井さん自身もそれを楽しんでいた。心の広い人だった。
僕がこの旅に出る一年ほど前に、OESの会報 "Voc^o" に10年以上連載されてきたOES会長の松原八郎氏の「つながり小辞典」を本にして出版することになった。連載記事の原文の殆ど大部分は、OES会員の吉川奨一氏の古いワープロソフトのファイルとして保存されていた。彼と同じ古いパソコンとソフトを手配した後、平井さんと、彼の近所に住む同じOES会員の西本晋さんと、それに僕の三人が、西本さんの住む京橋のアパートに集結した。僕は独身の気楽な身なので、そのアパートに50日間泊まり込み、三人で編集作業を行った。僕はアパートから毎日出勤した。でも、土日が勝負だった。平井さんには家族があるので合宿に加わることはできなかったが、毎晩ほど顔を出しては編集作業に加わってくれた。長い退屈な作業だった。途中で嫌になったことも何回かあった。そんな時、平井さんのジョークが暗い気持ちを追い払ってくれた。僕たちは笑いに笑って、また元気を取り戻した。一流のジョークを連発する人だった。
この旅に出る前、OESの会報に旅の様子を書いて送る、と平井さんに約束していた。平井さんは、 OESのホームページを作った後、そのページから僕の旅の記事が読めるよう、僕が旅に出てから僕のためのホームページも作ってくれた。それでこの旅は、朝から晩まで書き続ける運命になってしまった。口だけではなく実践する人だった。
僕は子供の頃、近所のガキ大将だった。もともと生意気な性格なので、中学校の野球部でも、高校のクラブでも、また大学卒業後就職した職場でも、好きな先輩はいても尊敬する先輩というものを持ったことがなかった。しかし、平井さんだけが唯一の例外だった。京都のあるエスペランティストは、僕のことを「平井さんの子分」と呼んだ。後輩以上の関係の深さを暗示する「子分」という言葉に、僕は心地よさを感じていた。平井さんは僕にとって、まさに「親分」だった。そしてその親分は、僕にとってもエスペラント界にとっても、まだまだ必要な人だった。遠く離れた異国で知った親分の死に、僕は無念を感じている。