(1)ニカラグアへ
この旅をしていて「日本人は優秀で上品だ」ということを土地の人達からよく聞かされた。「優秀」はさておき、歳をとってからはこの「上品」ということがたいへん大事だと思うようになった。それは哲学や倫理に裏打ちされた人間の品性に関わることだからだ。 このような評価は、その土地に住む日本人または日系人が得たものなんだろう。ちょうど半年間滞在したホンデュラスでは、その大半をサンタ・バルバラという小さな町で過ごした。毎晩日本料理店"Sakura"で和食を戴いた。ここでは僕と同じように和食を求めてくる日本の海外協力隊の人達三人に会った。二人は若く、北海道出身の中島さんと新潟出身の大田さんで、もう一人は京都出身で46才の稲本さんだ。「優秀で上品」の評価に値する人達だったが、残念ながら全員男性だった。 サンタ・バルバラは新年になって、元旦は晴れたもののその後一週間ほどは雨模様だった。雨の中をバイクで走るのが嫌なので、三日ほど予定を早めて雨の上がった日にニカラグアに向けサンタ・バルバラを出ることにした。1月13日、ホンデュラスとニカラグアの国境の町、エル・パライソに着いた。別に何ということもない小さな町なので、滞在許可は17日まであるものの、翌日には国境を越えるつもりだった。夜、安宿の主人としゃべっていたら、この町に日本人女性が住んでいるという。どうも海外協力隊員らしい。「会いたい」というと、「ホテルの前を通れば言っておく」と彼は言った。その夜はメールのソフトが動かなくなったので、その修復に朝の6時まで徹夜した。昼間の12時に「電話ですよ」とドアを叩く音で目が覚めた。電話の主は日本の女性だった。
2002年の大晦日は太一郎の家に泊まった。
流暢なスペイン語を話す海外青年協力隊の和田直子さん
彼女は和田直子さんで、鹿児島出身の海外青年協力隊員だ。エル・パライソではもう一年半ピアノを教えていて、あと半年の任期を残している。22~23才くらいに見えたが、もうすぐ27才になるという。彼女はまた、アメリカの平和部隊と協力してこの町に洒落たカフェを出そうと計画していた。僕もその会議に顔を出すことになった。彼女のスペイン語は完璧だ。僕はメキシコからスペイン語圏に入って以来、1年2ヶ月になるというのに、彼等のスペイン語は殆どわからない。やっぱり現地の人と一緒に仕事でもしなければだめなのか。彼女がみんなの前で堂々としゃべるのを聞いていて、その聡明さ、知性から来る美しさに圧倒された。しかもベッピンだ。中米の女性は多くの場合、その美しさの頂点は15~20才までで、20才を越えると次第にその素晴らしい容姿が急激に崩れだし、30才になると胸よりもお腹の方が突き出るようになる。逆に、日本の女性の中には30才に向かって、却ってその美しさを増してくる人が多いように思える。やはり内面の美しさが結果として出てくるんだろうか? 彼女に会ったので、僕はエル・パライソの滞在を二日延ばした。彼女は二晩日本料理をご馳走してくれた。優しい女性でもあった。土地の人が日本人を見て「優秀で上品」と言うのも無理はない。アメリカの平和部隊もそうだが日本の海外協力隊についても、協力事業の成果もさることながら、現地の人達との接触を通じての文化的交流とそこから得られる相互理解の方が大事なんではないかと思う。一介の旅行者である僕も、この評判を落とさないよう注意しなければと再確認する。
元映画俳優のレーガン大統領。コントラは映画の中の幻想ではなく現実だった。
僕は昔ホンデュラスまでは来たことがあるが、ニカラグア以南は未知の土地だ。だからこの旅は、いよいよこれから始まるようなものだ。ニカラグアといえば、カリフォルニアに住む僕の旧友マイケルが、20年ほど前にボランティアで医療援助をしていた国だ。当時、彼からは毎月活動レポートがアメリカ経由で送られてきた。その頃、彼はまた僕に一冊の本を送ってくれた。"Where there is no doctor"という本だった。近代医療にばかり頼らず、その土地に適した医療を行うべきだという趣旨の本だった。直子さんが勤めるエル・パライソの文化会館の図書室で、偶然この本のスペイン語版を見つけた。若い日のマイケルに再会したような思いだった。国境地帯はずっと山道だった。雨なので国境から一番近い町、Ocotalに泊まるべく南に向かっていた。途中で東に向かう道がある。そこには"Somoto"と書かれている。マイケルの手紙でこの名前に聞き覚えがある。当時、サンディニスタはソモサ一族による長年の独裁を打倒し、革命を進めていた。マイケルが、アメリカの支援を受けてホンデュラスから進入してくる反革命勢力コントラの襲撃を恐れながら援助を続けていたのは、きっとこの辺りだ。同じ頃に、僕がスペイン語を勉強していたアジア・アフリカ・ラテンアメリカ連体委員会からも、ニカラグア援助のため自転車を送ったことがある。もうずいぶん前だが、まだ走っているだろうか? ロッキー山脈に続く山々が南に進むにしたがって低くなるように、物価もメキシコからグアテマラ、エル・サルバドールと下るにしたがって安くなった。そしてホンデュラスでは、安宿の宿泊費もメキシコの半値くらいの600~700円くらいになった。ニカラグアはホンデュラスとほぼ同じ位の感じだ。物価が安いのは旅をする者にとってありがたいが、現地の人たちにとっては貧困を意味する。ニカラグアに入ると、子供ばかりでなく大人までも物乞いをする人の数が増えてきた。エル・サルバドールが売春の国、ホンデュラスがエイズの国なら、ニカラグアは物乞いの国なのか。南のコスタ・リカではまた物価が高くなると聞いている。できたら安いこの国でまたゆっくりしたいところだが、この国の滞在許可は一ヶ月しか出なかった。 去年の8月の初めにサンタ・バルバラに着いた頃は、雨季とは言え夕方や晩に一時間ほど降って上がる雨が、12月になって朝や昼にまで降るようになった。カリブ海沿岸は一年中雨が多いが、特に9月から1~2月まではよく降ると書かれている。正月早々、カリブ海のCeibaという町に4日ほど行った。バイクを置いてバスで行った。よかった。ずっと雨だった。サンタ・バルバラは太平洋よりもカリブ海の方が近いので、その影響を受けているんだろう。1月に入ってからは梅雨のような毎日だった。おまけに10月頃になって急に気温が下がり、夜はずっと寝袋が要るくらいだった。しかし、サンタ・バルバラから太平洋岸に向かって3時間半ほど走り、山の上の首都テグシガルパに着くと、今にも降り出しそうな空が急に晴れ上がった。そしてニカラグアに入り、太平洋岸に出ると雨の気配はなく、熱帯の太陽が照り付けている。大して距離は離れていないのに、太平洋側は乾季だ。そして暑い。部屋の中ではパンツ一枚だ。扇風機がなければ眠れない。またビールの恋しい所に来てしまった。
古都レオンにある中米最大のカテドラル
ニカラグアで一ヶ月、コスタ・リカかパナマでもう少しゆっくりするとしても、5月までには飛行機にBMWを積んでコロンビアに入るつもりだ。地図を見るとパン・アメリカン・ハイウェーは、コスタ・リカの首都サン・ホセで一旦1150mまで上がるが、その他は太平洋岸の低地を通ってパナマ・シティーまで続いている。雨の心配はなく、安宿の冷水シャワーに怯えることもない。軽い風邪気味で少し崩れていた体調も、この暑さで戻ってきた。サンタ・バルバラの5ヶ月で、スペイン語もちょっとはしゃべれるようになった。ついでに、不要な荷物や本を太一郎の家に置いてきたし、スペイン語とHTMLの教科書は彼が買ったスキャナーでCD一枚にコピーしてこれも置いてきたので、荷物も多少は軽くなった。サンタ・バルバラで発見したAOLへのTCP/IP接続で、メールの送受信はインターネット・カフェからも数分でできるようになった。さらにサンタ・バルバラでは大事な情報を入手した。同じアメリカ大陸をバイクで旅しているドイウラさんと岩渕さんをインターネットで知り、南米ではカルネ(車両の免税通行許可書)は不要とメールで教えてもらった。コロンビアをはじめ南米の多くの国で必要と書かれていたんだが、これで少し気が楽になった。相棒のBMWは、何も手をかけなくても相変わらず快調だ。いよいよ未知の世界に出発だ。
ニカラグアの首都マナグアは、この国の太平洋側を縦断するパン・アメリカン・ハイウェーのちょうど中程にある。全人口520万の内の100万を占める、もちろんニカラグア最大のこの都市は、今まで南下してきたメキシコ以南の他の国の首都と比べると植民地時代の面影を全く残していない。まるでスプロール現象が起こったような新しい街だ。元々首都は北東に100キロほど離れたLeonだった。革新的なこのLeonとそこから南東に170キロほど離れた保守的なGranadaとの抗争を妥協的に解決するため、日本では幕末の頃、1857年に両都市の中間の位置に首都として建設された。ところが1931年と1972年に大地震が起こり、街は破壊された。その結果なのか、中米を縦断するティカ・バスのバス・ステーションの周辺にあって世界の旅行者が集まるホテル街も、まるで田舎町の住宅地といった感じの寂しい所だった。近所に店は少なくレストランにも看板はない。とても首都とは思えない。こんな首都は初めてだ。反面、緑が多いためか、この首都には平気でイグアナが出没するという。 ニカラグアはホンデュラス同様、嬉しいことに物価が安い。マナグアで泊まった安宿は、一泊わずか400円だった。その安宿で神取さんという大阪から来た大学生に遭った。彼は残念ながらバイクではなくバスでの旅行だ。前にも一年半休学してインド、ネパール、それにアジアの他の国々を旅したことがあるという。今回の中米の旅には去年の11月の半ばに出て、これから4月の就職までキューバへ行ってゆっくりすると言う。彼は6万円で6ヶ月オープンのアメリカ西海岸までの往復切符を買ったと言う。30年前、僕が最初の海外旅行でヨーロッパへ行った時の航空運賃は24万円もした。切符だけで4ヶ月以上の給料を払ったものだ。海外旅行は信じられないほど安くなった。彼は一日10ドルの予算で旅をしている。実際は12ドルくらいかかっているらしい。4月に就職して配属が物価高の東京だと、お金が貯まらず旅行ができなくなると嘆く。彼とは深夜の12時半まで飲んでしゃべった。
世界の旅人が集まる首都マナグアのホテル街。住宅地域の雰囲気だ。
娘さんの一人にスペイン語を教える九笹さん
翌朝は例の如く二日酔いだった。ホンデュラスで知り合った壮年海外協力隊員の稲本さんからメールが届いて、マナグアの日本大使館には京都出身で、気さくで面白い九笹さんという大使館員がいるので是非会うように言われていた。午後の一時過ぎから5回目の電話で5時前にやっと連絡が取れた。九笹さんは早速クルマでホテルまで迎えに来てくれた。乗っているクルマも変わっていた。韓国製の800ccの箱型のクルマで、席が6席もある実用に徹したものだった。彼は自宅で日本料理をご馳走してくれた。中米でもう20年も暮らしている九笹さんの経歴も、稲本さんの友達だけあって変わっている。彼は北海道大学水産学部の大学院を卒業してから、北海道庁に就職した。それが3年ほど経った27才の時に海外青年協力隊員になり、ホンデュラスに来た。そこで現地の女性と結婚し、今は7人の子供のお父さんだ。九笹さんはニカラグアに移り住んで4年になると言う。日本大使館では、ニカラグアの学校や病院の建設の仕事をしている。マナグアの彼の家は大きい。日本では大金持ちしか住めないような大きな家に住んでいる。ホンデュラスでは牧場を持っていたと言う。そしてホンデュラスにはまだ、1000坪?らいの大きい家を一軒持っている。3000万円以上で売れるのではないかと彼は考えている。この国で3000万円は莫大なお金だ。ニカラグアの銀行の利子は年率10%だ。平均月給が1万円か1万5千円位のニカラグアでは、その利子だけで贅沢に暮らしていける。その夜、九笹さんとは朝の2時まで飲んではしゃべった。僕は二日酔いで朝の九時まで寝てしまった。起きた時には九笹さんは既に出勤していていなかった。この辺がだらしない僕との大きな差だ。14才の娘さんが朝食の準備をしてくれていた。二日酔いでオレンジジュースしか喉を通らなかったが、最高に美味しかった。息子さんはタクシーが拾える通りまで送ってくれた。よくできた子供達だ。この国の教育がいいのか、あるいは九笹さんの教育がいいのか?
グアテマラにも火山が多かったけれども、ニカラグアにも多い。カナダから太平洋岸に沿って続く山脈は、ニカラグアまで来ると高度を落として、火山は平原に飛び石のように並んで、それが南のコスタ・リカの国境にまで広がるラテンアメリカ第三の湖、ニカラグア湖の中にまで火山島を作っている。この火山に沿って、レオン、首都のマナグア、そしてグラナダというニカラグアの主要都市が、北西から南東に並んでいる。火山があるなら、もっと温泉があってもいいはずだ。しかしない。暑いので温泉を捜す気も起こらないのだろうか。グラナダの安宿で遭ったイギリス人の若いカップルは、町外れにある火口を見ていたく感激していた。イギリスには火山がないと言っていた。僕は火山の国から来た人間だから大して興味が沸かない。知らない人には美しいだけなのだろうけど、実は火山は怖い存在なのだ。地震が起こる。グアテマラ・シティーも地震を避けるために建設された首都だが、それでも皮肉にも地震で大被害を受けた。ニカラグアの古都レオンも地震で消滅した元々の町から遠ざけて建設された町だ。10日ほど前にメキシコのColimaという所で大地震が起こったというメールが届いた。この辺りは、日本以上に地震が怖い所なのだ。
首都マナグアを挟んでレオンの反対側にあるグラナダ
首都マナグアを挟むレオンとグラナダは古い町だ。レオンは人口14.2万人、グラナダは8.5万の小さな町だ。両都市とも植民地時代の古い町並みが残されているためか、世界中から観光客が訪れている。ニカラグアはサンディニスタの革命による内戦の後、アメリカにより隣国から送られてくるコントラとの激しい戦闘を続けてきた、どちらかというと暗いイメージのある国だ。それなのに今、意外と観光客が多いのは少しばかり驚きだった。エル・サルバドールとホンデュラスではあまり観光客を見なかったが、ニカラグアには多いのだ。マナグアの九笹さんは、任期を終えた青年海外協力隊員でもニカラグアにはまた旅行で帰ってくる人が多いが、ホンデュラスには少なかったと言っていた。ホンデュラスまであったマヤの遺跡も、もうこの国にはない。エル・サルバドール、ホンデュラスと比べると物価も似たようなものだ。ホンデュラスのサンタ・バルバラほどベッピンも多くない。それに暑い。人も特別に愛想がいいわけではない。それなのになぜ、外国人観光客が多いのか? 確かにレオンやグラナダには、植民地時代の古い町並みが残されている。でもそれだけで来るのか? 世界で唯一の鮫の泳ぐ大きな湖、?カラグア湖があるためか? でもこの湖の水は土砂を巻き上げ澄んでいないから、いくら暑くても泳ぐ気にならない。鮫が怖くて強がりを言っているのではない。最近では鮫は減っていてなかなか見ることもできないそうだ。あるいは、前の二ヶ国と比べるとこの国は少し安全であるためか? それともサンディニスタ革命のその後を見たいからなのか? よく分からないが、グラナダでは特に大勢の観光客がウロウロしている。観光客が多いためか、勘定書きにチップが含まれていたり、そうでない場合でも強制的にチップを要求してくるレストランもある。
グラナダの安宿で受付をするミチェルの臍ピアス
グラナダの安宿で遭ったカティの臍ピアス
最近、世界を旅行する若い男女にはカップルが多い。僕が初めて海外旅行をした30年前のヒッピー時代には、大抵は一人旅で男は長髪だった。不思議なことに今、カップルで旅をしている男達にも長髪が多い。それに、昔はマリファナだったが、世界的に禁煙のこの時代に、彼等の多くが男女ともタバコを吸っている。欧米の自国で吸いたいのに吸えないからなのか。それと、男女ともに刺青やインドの女性が付けている鼻輪で身を飾っている人達が多いのも当時とは違う。そしてなぜか当時より、女の方が男より強そうに見える。時代は変わった。若者の間で、男が元気を失った分だけ相対的に女が強くなったのは、日本だけでなく世界的傾向なのか。女たちの中にはグループで旅をする者も結構いる。やはり安全を意識してか? ホンデュラスの危険と言われる大都市には、毎朝街の通りに死体がころがっていると言われている。でも、僕が25年前に行った時には、危険を感じずに夜中まで遊んだものだ。今、若者が複数で旅に出るのは安全のためなのか、それとも冒険や未知の旅人との新しい出会いを排し、安定だけを求める精神の保守化の結果なのか。遅れ馳せながらヒッピーを指向して一人で旅する僕には、カップル?若者は羨ましい気がする一方、何か物足りなさを感じる。
ドイツから来たハンスとカティ。予算不足のため部屋の外で自炊する。
グラナダの安宿でドイツの若いカップルに遭った。男はHans, 女はKatiと言った。Katiは鼻輪はしていないが、脚と背中に小さな星の刺青をし、臍にはピアスがある。スペイン語で話しかけたら、「えぇ?」と聞き返された。それで英語にした。すると英語は分からないと言う。最近ではヨーロッパの若い人達はほとんど流暢な英語をしゃべる。僕は英語をしゃべらないと言うドイツの若い女性に、今世界でただ一国、アメリカのイラク攻撃に反対するドイツ人の反骨精神を見たような気になった。それで僕も、英語に反対してエスペラント語を勉強していると言った。しかし、彼女はスペイン語を勉強中で、中米にいる間はスペイン語で通したいと考えているだけだった。単に僕のスペイン語の発音が悪かっただけなのだ。僕の勝手な誤解だった。少し恥ずかしかった。でも彼女は彼と供に、ニカラグアでは一年間、個人的にボランティアをすると言う。貯蓄が少ないのだろうか、彼等はホテルのドアーの前で自炊をしている。同じようにボランティアをしようとするアメリカの若い女性にも遭った。彼女は鼻輪をしていたが、ドイツの女性同様、頼もしい存在だと思った。観光客だけではないのだ。時代は変わったというものの、世界にはまだまだ元気な若者がいる。
長さが177km、平均幅が58kmもあってコスタ・リカの国境まで伸びているニカラグア湖には火山島がある。オメテペ島と呼ばれるこの島は、1610mのConcepcion火山と1394mのMadera火山が爆発で一つにくっついた島だ。特に北側にあるConcepcion火山は湖面から富士山のように美しい姿を見せている。そしてこの島にはスペインの侵略前にあった石像が未だに残っている。今も工業文明の波に現われていない素朴で平和な島だ。
Rivasの近くの港からOmetepe島へ向かう。
メキシコの一番細くなった所でも、またニカラグア湖の付近でも山は切れていて平地が続いている。そのせいなのか風が強い。メキシコでも横風にバイクがあおられ怖い目をしたが、この辺りも走りにくかった。コスタ・リカに近い国境の町、Rivas付近では、大西洋からニカラグア湖まで川を遡り、湖を横断すると後は20kmの陸路を辿ると太平洋に出るので、パナマ運河建設前にはアメリカ大陸横断にこのルートが使われていたこともある。Rivasから少し離れた港からフェリーでオメテペ島に渡った。一時間の船旅だ。風が強いためか海のように大きな湖の波は高く、小さなフェリーはよく揺れる。ロープでいい加減に縛られたBMWが少し心配だった。 島のホテルはどこも安かった。一泊なんと240円だ。この旅で一番の安さだ。しかしその分、部屋にはトイレやシャワーはない。北のニカラグア湖岸にあるグラナダで泊まったホテルは600円だったが、やはりベッドだけの部屋だった。しかし、暑いので小便の回数も少なく、シャワーも着ているものが少ないのでそんなに不便は感じない。それに、グラナダのホテルではサソリが二匹出て気持ちの悪い思いをしたが、この島のホテルでは不思議と蚊すらいない。夜は涼しくて扇風機は不要だ。そうは言っても、このホテルの部屋は荷物を置くのに困るほど狭く、ベッドは身体の幅しかない小さなものだった。それで部屋を見た時、他に駐車場のある安宿はないかと聞いた。宿の主人は快く別のホテルを紹介してくれた。商売を離れた親切にびっくりすると伴に、感激した。別のホテルは駐車場が部屋から遠いので、結局止めにした。離れた駐車場から重い荷物を運ぶのは嫌なのだ。バイクで旅をすると宿の選択にも制限が付いてくる。 夕食は近くの安宿のレストランでとった。値段は同じだが、この安宿の方が設備はいい。だから宿泊客も多い。しかし残念ながら駐車場がない。夕食を食べていてカナダのケベック州からきた二人連れの女性に遭った。一人の方が僕に聞いた、「そんなに長旅をしていて日本を恋しく思いませんか?」。答えはもちろん、"No"だ。実は日本を出る前に、半年か一年旅を続けていると、精神的なスランプに陥るのではないかと恐れていたのだが、そんなものは微塵もない。恋しく思うのは日本の温泉だけだ。
夕食を終えて10時にホテルに帰った。心配していたが門は開いていた。他の部屋には電気が点いていない。宿泊客は僕一人だ。宿帳には一ヶ月宿泊客はなかった。部屋は狭いが大邸宅に住んでいる感じだ。部屋の前の体育館ほどあるロビーにはBMWを止めている。誰もいないから最高に安全だ。だから離れた共同便所に行くのにも、部屋の施錠は不要だ。鍵の不要な日本社会のありがたさを思い出した。中米では安全が大事なのだ。部屋が狭いといっても、テントよりましだ。電気はあるし、扇風機まである。もちろん高級ホテルではないので、多少の不便はある。枕がないので洗濯用の衣類を詰めた袋で代用した。裸になってシャワーを浴びようとしたら水が出なかった。トイレに電気はなかったので、小便するのにも懐中電灯が要った。まるでキャンプ場だ。それでも、高橋真梨子の歌を聴きながら、一箱80円のタバコを吸い、1.75リットル800円のラム酒を飲めれば、最高に贅沢と言うものだ。
島を一周する道路は舗装されていない。それでBMWをホテルに置いて南島のMeridaという所まで行くことにした。南島に入ると道にクルマは走っていなかった。道を行くのは馬と牛と豚だけだ。それで心配になってバスを降りる時、運転手に帰りのバスの時刻を聞くと、明日の朝4時までないと言う。バスに乗る前に、バス停で遭ったニイちゃんが帰りのバスはあると言っていたが、それは平日のことで日曜日はないと言うのだ。ホテルに帰ってくるつもりだったので手ぶらだった。しょうがない、泊まることにした。Meridaは欧米のバックパッカーが集まる安宿が一軒と数個の家があるだけの町だった。その安宿も一泊240円で十数人の若者が泊まっていた。日本人は僕が初めてだと言われた。そこではスペインのバスク地方から来た人達にも遭った。スペインからの旅行者には滅多に遭わないのだ。昼はハンモックでそよ風に揺られた。夜になると明るい半月が照らす湖面が幻想的だった。空気が澄んでいるせいか、星の数も多かった。北斗七星が北東の地平に立っていた。夜風が涼しかった。美しくて平和な島だ。帰りのバスがなかったことを却って幸運だと思った。
Meridaに限らずオメテペ島の子供は、すぐに道案内をしたり手伝ってくれたりする。ニカラグアは物乞いの国だと思っていたが、ここでは違う。子供達はお金を要求しないのだ。彼等は島の自然と同じで、素朴で純粋なのだ。豊かな自然は豊かな人間を作るのか。ここでは子供達の心までもが澄んでいる。 翌日は3時のバスに乗った。わずか35kmの距離を帰るのに3時間半かかった。悪路に加えバスが古くて走らないのだ。ホテルに帰ると日は暮れていた。車窓から見るニカラグア湖の対岸は遠くに霞んでいた。大きな湖だ。
UdoはこのTriumph-850で2年間南米を走り回り、今北に向かっている。
町に帰って夕食の後、グラナダの安宿で遭ったドイツの若者Udoに再会した。彼は向かいのレストランでBMW-F650で南米の端まで下るアメリカのニューテキサスから来たEdwardと飲んでいたのだが、レストランを出た僕の姿を見つけたのだ。Udoもバイクで旅をしていて、ドイツを出て二年になる。Triumph-850で南米を一周し、これから北へ上がるところだ。僕と反対だ。彼はポルトガルからリオデジャネイロまで船で渡った。僕は、またその逆を行くかもしれない。 ニカラグアの滞在許可が切れそうなので島を出ることにした。午後12時半のフェリーに乗るため、12時前に船着場に行った。ずぐにUdoが見送りに来てくれた。彼と別れてからフェリーを待つ。次の4時のフェリーが出る頃になってもフェリーは来ない。待っている間に、島に住むライダーのオジさんとしゃべっていた。彼の話ではフェリーの遅れは、バナナを積んだトラックがフェリーで横転したためらしい。この日僕の胃は、久しぶりに不調で吐き気を催していた。彼は、胃に良いと言って、小麦と牛乳に薬草の入った暑いスープのようなものを買ってくれた。物乞いをするどころか、おそらく彼よりもお金をたくさん持っている僕に施しを与えてくれるのだ。この島の生活は貧しく見えるが、人の心は豊かだ。彼とは世界の政治状況や日本の経済状況なんかをしゃべりながらフェリーを待っていた。彼のスペイン語は比較的よく分かった。ちょっと自信が付いた。こうなればフェリーを待つのもいいスペイン語の勉強になる。出発が夕方の6時になると言うので、翌日のフェリーに乗ることにし、5時頃ホテルに戻った。バスと言い、フェリーと言い、この島の交通機関は当てにならない。 しかし、不運がまた幸運を呼んだ。またいつものレストランに行くと、昨日遭ってしゃべったオランダ女性のAstridと再会し、食事を伴にすることができた。彼女も公務員で旅行が好きだ。話しをしていると僕と似ていて、昇進の代わりに旅行を取っているようだ。しかし、彼女の場合は4ヶ月、僕の場合は一ヶ月だった。ヨーロッパと日本との間にある大きなギャップを知らされた。彼女は多言語の国から来たオランダ人、英語を入れて5カ国後ほど話せる。しかし、僕たちは不慣れなスペイン語で通した。最近ではラテンアメリカを旅行する欧米人と僕との共通言語は、英語よりもむしろスペイン語になりつつある。スペイン語の地域だから、当然ながら英語よりもいい。しかしエスペラント語でないのは悲しい。
バイクの旅は自分がミスさえ起こさなければ、思った時間に行きたい所へ行けるので本当に楽だ。しかし一方では、いつも話し相手もなく一人だし、計画どおりに走ればハプニングもない。この島ではバスとフェリーを使った。そしてハプニングが起こった。それが却っていい結果をもたらしてくれた。ミスやハプニングがなければ、旅は退屈なのかもしれない。