南インド最大の都市マドラスはチェンナイと名前を変えたが、そこに第二次世界大戦後イギリスが残していったバイクRoyal Enfield-350が待っていた。日本製の100ccのバイクが多い中で、その重低音のエンジンが威容を誇るRoyal Enfieldはチェンナイの北、数十kmの郊外で一車種のみ月産2200台という規模で造られている。日本のバイクと比べるといろいろな部分の製造技術は遅れていて、たとえば350ccのエンジンにもかかわらず、日本の100ccのバイクよりもパワーが小さい。そのくせ日本のバイクのようにプラスティックは使われていないので車体は重い。逆にその分頑丈に造られているので、インドのガタガタ道には合っているのかもしれない。
チェンナイでバイクを手配してくれたのは、日本の海外技術協力の窓口になっているAOTS(Association of Overseas Technological Scholarship)のMukundan氏だ。彼はインテリで、インド人には珍しく分かり易い英語をしゃべる。
彼の奥さんも聡明で、かつ気品がある美人だった。「南インドをバイクで旅行します」というと、「"Zen and the Art of Motorcycle Maintenance"を読んだことがあります」と答える。この本は、日本ではライダーの間でもよくは知られていないが、アメリカでは隠れたベストセラーと言われている。同じRoyal Enfieldに乗るフランス人ライダーに会ったが、話はすぐこの本のことになった。本の題名からするとバイクの修理マニュアルのようだが、実は非常に難解な哲学書なのだ。
Mukundanの娘さんは21才でコンピュータの勉強をしていて、今秋アメリカの大学に留学する予定だ。 Mukundanは日本への留学を勧めたが、娘自身はアメリカにすると言って聞かないそうだ。正しい判断だと思う。日本のコンピュータ産業の未来は暗いし、日本そのものの繁栄が近い将来終わりそうなのだから。そしてチェンナイのアメリカ領事館には、連日アメリカに留学を希望する人達が長蛇の列を作っている。
インドでは最近コンピュータのソフトウェア産業が花盛りだ。AOTSの所長によると、インド人がソフトウェアの開発に向いているのは、インド人の思考はいつも近道を求めるからだそうだ。コンピュータのメモリーと処理速度が増大した今では、職場の業務を処理するプログラムは保守を考えるとき、むしろ冗長で分かり易い方がいいだろうが、オペレーティング・システムの開発に関しては近道を選ぶ思考過程が必要とされそうだ。ほんとうにいいものは短く、鋭いものでなければならない。インド人が会議をすると、みんなが近道を求めて主張し合うので混乱してなかなかまとまらないそうだ。でも新しいものは、こうした混沌の中から生まれるのかもしれない。
チェンナイには夜遅く着いて、
チェンナイのAOTSで開かれていた日本語クラス
翌日の日曜日はバイク屋が休みということなので、AOTSの事務所を訪ねた。ここでは土曜と日曜に日本語のクラスが開かれていて、その時も2クラス、20人程の人が日本語を勉強していた。南インドのこの辺りではタミール語が話されている。インドでは18の公用語があり、数千の言葉が使われていると言われるが、タミール語といえば言語学者の大野晋が日本語のルーツと言った言葉だ。日本語の達者な所長によると、単語だけでなく語順や表現方法も似ているので覚えるのは簡単だということだった。言葉を覚えるのに問題なのは、単語よりもむしろ語順であり、文の構造だ。韓国語が日本人にとって簡単なのは、多くの漢語を共通して使っていることよりも構文が全く同じであるからだ。 日本語が世界的に特殊であると言う人がいる。実はそうではなく、日本語は世界の言語の分類では旧言語のグループに属していて、旧言語の占める地域の面積は、西欧語等の属する新言語のそれを凌いでいる。タミール語も日本語と同じ旧言語に属しているのだろうが、日本人にとって、エスペラント語も含めた西欧語が覚えにくいのは構文の違いによるところが大きい。 言葉の問題に関わっている場合ではない。バイクを手に入れなければ旅は始まらない。 Royal Enfieldとは実は、初対面ではない。日本を出る前に、琵琶湖大橋のふもとのバイク屋にRoyal Enfieldが一台あると聞いてわざわざ見に行ったからだ。でもその時は、店員が買ってくれと言わんばかりにピッタリ横に着いていたので、気の弱い私はバイクを一瞥しただけで店を去った。よく見ておけば良かった。日本のバイクとは全く操作方法が違うのだ。まずエンジンのかけ方から分からない。試運転でバイク屋の裏通りを走ることにした。不安なのでバイク屋のニイチャンにも後部座席に乗ってもらった。ダメだ。走れない。ブレーキとチェンジが左右逆で、しかもチェンジシフトのアップ・ダウンも逆なのだ。翌日出発直前にもホテルの敷地内で練習したが、ギヤーがセカンドに入るとすぐエンストしてしまう。しかし練習ばかりしていたんでは、いつまでたってもホテルから出られない。まあ、なんとかなるだろう。チェンナイの街はローギヤーだけで走り抜けようと、意を決してバイクに跨った。これこそ冒険だ。
南インドでは極彩色のヒンドゥ寺院を見るのが一つの楽しみだ。
誰もいない長閑な田舎道で風を切って疾走すると、歴史から取り残されたヒンドゥ寺院が忽然とそびえ立つ、そんな光景を夢見ていた。それが違うのだ。インドには10億の民がいる。南インドは田舎といっても米は年に三度も穫れる。そんな所に人のいないはずがない。チェンナイから海岸沿いに南下した。ポンディチェリーまでは快適な道路で、時速80km、時には100kmも出せたが、そこから先がいけない。道路も狭く、悪くなる。人が歩き、自転車、バイク、乗用車、トラック、バスが走る。交通ルールはない。クルマは、とにかく前のクルマを追い抜こうとする。対向車が来てもそのまま進む。殺人ゲームだ。とりわけバスは危険だ。他のクルマやバイクより多くの人間を一刻も早く目的地に届けるという社会的使命に燃えているから、猪突猛進だ。この国は物価同様、人命も安いのだろう。一日に何回も跳ねられそうになって、道路の外に追い出された。 インドの道路で注意が必要なのは、気違いドライバーの人間だけではない。
サリーの女達
乾燥しているので日本の夏ほど汗は出ないが、喉が乾く。そこで1~2時間走るとバイクを停めてコーラを飲む。30円の安さだ。 インドの物価は低い。旅で一番問題なのは宿だ。インドへはテントを持ってこなかったので、ホテルに泊まる。安宿だと200円も出せば泊まれる。もちろんトイレ、シャワー付きだ。食事も安い。朝食はトースト、オムレツとコーヒーで60円。インド式ならもっと安い。朝食をバナナと紅茶ですましたことがある。紅茶は6円、バナナ一本も6円だ。夕食では、ビールは180円位と高いが、それでも料理を付けて300~400円ですむ。 しかし、これは日本人にとっては安いと言えるが、月給がおそらく一万円を切っているインド人にとっては決して安いとは言えない。それなのに私が借りたRoyal Enfieldは新車だと18万円もする。クルマは言うに及ばず、バイクだって金持ちの乗り物なのだ。それに加え、ガソリンは1リットル80円もして、日本と大差がない。インドにはウランはあっても石油はないのだ。
ウランと言えば、去年、1998年5月11日にインドはパキスタンとの南西部の国境付近にあるタール砂漠で、24年ぶりに核実験を行い世界を驚かせた。パキスタンもこれに対抗して17日後の5月28日に核実験を行った。第二次世界大戦の戦勝国であるアメリカ、ソ連、フランス、イギリスそれに中国は国連の常任理事国として核を独占し、広島、長崎での実地実験の後、戦後合計2047回の核実験を行ってきた。そして1970年3月に核拡散防止条約(NPT)が批准され、これら5国以外の国が核を保有できなくなった。インドはひとり、この身勝手な取り決めに反対し、4年後の1974年5月18日に最初の核実験を行うことになる。さらに1996年の包括的核実験禁止条約(CTBT)が国連で採択され、未来にわたる核の技術開発はコンピュータシミュレーションで行えるこれら5国に独占された状態になった。あの時、フランスと中国が駆け込みの実験を行ったことは記憶に新しい。そして今回のインドとパキスタンの実験である。日本のマスコミはこぞって両国を非難した。唯一の被爆国である日本には批判する権利があると言われているが、実際はアメリカの核の傘の下で安住し、まだ地球上に多数存在する核兵器を廃棄するよう強く求めない日本であるから、私には差別的条約だと言って一貫して反対するインドの立場の方が心情的によくわかる。インド人は誇り高いのだ。
旅行前にインドは危ないのではないかと心配してくれる人がいた。ここは南インドのパキスタンから遠く離れた田舎なので、パキスタンが攻撃しても得はしないし、仮にパキスタンに核ミサイルがあって、それが撃ち込まれたとしても射程距離300kmではとうていここまでは届かない。心配無用、ここは安全なのだ。
安全と言えば、インド人は貧困なのに、今まで全く危険を感じたことがない。アメリカでもヨーロッパでも夜の都会は危険な雰囲気が立ちこめていたものだ。メキシコの大都会では、夜8時以降はピストル強盗が出るから絶対外出するなと言われ、ホテルに閉じこもっていた。20年以上前にカルカッタで安宿を求め、夜空港からタクシーに乗ったことがある。スラム街のような所で降ろされ、運転手から約束の料金の倍を請求され口論になった。その間、次第に近所の人が集まってきて、20人もの人達に取り囲まれることになった。でも一切危険は感じなかった。みんな黙って聞いているだけだし、当の運ちゃんにしても凄むことなく、「新料金に改訂されたのだから、何なら警察に行こう」と必死で自分の主張を繰り返すだけだ。20年後、インドの大都会の夜を一人で歩いていても、物乞いやリキシャ、タクシーの運転手が声をかけてくるだけで、少しうるさいが危険は感じない。そして“No!”と言えば素直に引き下がる。まず彼等の言葉使いや態度が控え気味で、温和なのだ。これはヒンドゥ教のせいなのだろうか。
先にも書いたように、南インドにはヒンドゥ教の寺院が数多く残されている。
10世紀後半以降に北西インドから侵入したトルコ系ムスリムが、13世紀になってデリーを首都とするムガール帝国を打ち立てたが、その勢力はインド中北部が中心で南インドまで及ぶことはなかった。インド亜大陸最南端のコモリン岬まで約200kmという位置にあるマドゥライには、ヒンドゥ教の巨大な寺院が昔のままの威容を誇って空にそびえている。私の泊まっているホテルの屋上からは、高さ50mに達する巨大な建造物が五つ、東京の新宿、大阪のビジネスパークを見るように、高く頭を突き出している。インド中から巡礼が集まるスリ・メーナクシ寺院だ。これらの塔は石で造られていて、その周囲には無数の像が彫られ、極彩色の化粧が施されている。ヒンドゥ寺院は、城塞のように高い塀で方形に囲まれているが、五つの塔の内の四つは、塀の東西南北の入り口に設けられた巨大な門なのだ。偶像崇拝のヒンドゥ教徒の執拗までの意地を感じさせるもので、その労力を想像するだけで気が遠くなる。 この寺院が建てられたのは17世紀の中頃であり、日本では徳川幕府が鎖国し、キリスト教徒を弾圧した頃である。南のマドゥライでヒンドゥの代表的な寺院が建てられていたちょうど同じ時期に、2000km北方のデリーのすぐ南にあるアグラでは世界的に有名なイスラム建築が建てられていた。誰もが知るタージ・マハールだ。ムガール5代皇帝シャー・ジャハンが、死んだ愛妻ムムタズ・マハールのために建てた墓であるが、他のイスラムのモスク同様、一切の偶像はない。イスラム教は偶像崇拝を禁止しているからだ。ヒンドゥ教は、いわば何でもありの多神教、イスラム教は一神教。牛、象、ライオンの彫像まで出てくる、ごっちゃ混ぜのヒンドゥ建築と、高度に洗練されてはいるが冷たささえ感じる幾何学模様のイスラムのモスクを見るだけでも、両宗教の違いが知れる。 インドは言語も多様だが、宗教も多い。ヒンドゥ教、イスラム教に加え、
南インドのホテルから見えたヒンドゥー教寺院
Royal Enfield は最初から故障の連続だった。故障にバイク屋二人が駆けつける。
チェンナイからコーチまで1200km来る間にも、何回となく不調を訴えて休み続けていた彼がいよいよ動かなくなった。そこでホテルの近くにある腕のいいバイク屋でピストンとシリンダーを交換してもらうことにした。いくら鋼鉄でできたインド製のバイクでも、毎日走るとなるとインドの道はこたえるのだろう。こちらも混乱の極みの中の走行と相棒の不調のせいで、バイクの旅が疲れることを初めて知った。日本に置いてきた4台のバイクの頼もしさを知った。アメリカやニュージーランドの快適なライディングを思い出した。せめてもう少し安全な道を走りたいと思った。海岸沿いの町を避けて山の方へ行けば、少しはクルマも減るだろうと思った。 コーチから真っ直ぐ東へ200kmほど行くとコダイカナルという避暑地がある。この町は南緯10度だから日中は暖かいが、西ガーツ山脈中で2100mの所にあるので夜は冬の大阪なみの冷え込みだ。ここにはダライ・ラマとともにチベットを追われてきたのだろうか、チベット人を多く見かける。彼等には暑い低地よりも、やはり高い山が合っているのだろう。暑さに弱いのはチベット人だけではない。この小さな避暑地にはインド有数のインターナショナル・スクールがあって、そこに日本人児童も50人以上勉強しているという。10~12才の子供を日本からインドに送る親がいるとしたら驚くべきことだが、多分インドに滞在する親なんだろう。
コダイカナルから西ガーツ山脈を北上すると、避暑地が三つ現れる。
その一つウッティーでは、一泊3300円もするマハラジャの宮殿の一室に泊まった。高い天井と大きな窓、博物館でしか見られないような古い家具と大きな絨毯。広々とした部屋に運ばれてきたお茶は、銀のポットに入れられていた。しばしマハラジャの気分だった。 しかし、ほんとうのマハラジャはこんなものではない。ウッティーのさらに100km北には、古都マイソールがある。ここのマハラジャは、インド独立前まで日本の1/3の面積を占める地域を支配していた。そしてその宮殿の巨大さと豪華さには唖然とする。宮殿の外では乞食が溢れているというのに、この落差は何だ。宮殿は一般に公開されているが、今もマハラジャは宮殿のどこかに住んでいるという。 見学者は、ヒンドゥ教寺院同様、入り口で靴を脱がされる。
宮殿の屋根を見上げながら中庭を裸足で歩いていると、何か柔らかいものを踏んだ。馬か何かの糞だった。私はなぜか動物のクソには大きな抵抗を感じないが、人間のクソには特別な嫌悪を感じる。そしてインドでは両方のクソが、いたるところにばらまかれている。コモリン岬の、観光客で埋め尽くされて海岸でもそうだった。クソが散乱するくらいだから、一歩家を出ると道路はゴミ捨て場と化している。多くのインド人は、私のポケット灰皿を不思議がった。当然だ。 インド人は、秩序やルールというものが大嫌いのようだ。クルマは真っ黒な排気ガスをまき散らし、道路に煙幕を張る。ほんとうに前が見えないくらいなのだ。インドでは世界のブランド商品が何でも安く手には入るらしい。全てコピー商品という噂だ。商標やら何やらという、面倒な権利を守ろうとする概念はない。ましてや天から雨のように勝手に降ってくる衛星放送にお金を払うなんてことは論外だ。こんなインドは、家の中に歩けないほど物が散乱していても一向に気にならないズボラな私には向いている。チェンナイの国際空港では自由にタバコが吸えた。最近、多くの国の空港で禁煙が厳しく強いられている中で、この空港の寛容さには涙が出る思いだった。 マイソールからさらに北に100km行くと、ジャイナ教の町がある。
マイソールのマハラジャ宮殿
岩山の頂上にあるジャイナ教の寺院
岩山の頂上に巨大な石像があるので有名だ。参拝客は多いが、お坊さんの姿はほとんど見ない。ジャイナ教は、仏教とほぼ同時期、紀元前500年頃にヒンドゥ教を改革しようとして生まれた。一方の仏教は、ムスリムの侵略により一旦は完全に壊滅した。現在インドにある仏教は、第二次世界大戦後の新興仏教と聞いた。ジャイナ教の方は長い年月を生き残り、まだ450万人の教徒がいる。一切の生き物を殺生しないということで知られている。お坊さんとなると徹底していて、息をして虫でも吸い込んだらいけないというので、口に布を当てるという。下手に歩き回ると虫でも踏んでしまうから、寺のどこかにじっと隠れていたのだろうか。寺が閑散としていれば、町も田舎のほんの小さな町で、夜になると灯はなく、素晴らしい星空だった。インドの喧噪から隔離された、実に静かで平和な所だった。 それに比べ、この町から東へ100km行ったバンガロールはインドの近代化を象徴する大都会だ。バンガロールは、日本の半分の面積を占めるカルナターカ州の州都で、アジアで最も急激な成長を遂げている都市だと言われている。最近ではコンピュータ・ソフトウェア産業も盛んで、インドのシリコン・バレーとも呼ばれている。街の広い通りはクルマで溢れ、大気汚染も相当なものだ。ここではベトナムのホーチミン・シティーと同じように、防毒マスクの代わりに布で鼻を覆ったライダーを見た。ジャイナ教の小さな町とは好対照だ。 インドは全てが極端で、多様だ。様々な神、人種、言語、宗教、動物、音、臭い、ゴミ、クソ、病原菌、それに貧困が同居している。自然と人間が、一切の制約を受けず、丸裸の状態で存在が許されている。
文盲率50%という一方、日本語を学び、"Zen and the Art of Motorcycle Maintenance"を読む人達がいる。
学校には行かず毎日物乞いに精を出す子供がいる一方、日本の児童を受け入れる国際学校がある。
全く味の付けられていない卵焼きが出されると思えば、死人をも生き返させるような辛くて刺激のあるカレーが出される。
生水は病原菌の宝庫だから避けて、コーラを飲むと瓶のそこから電池が出てくる。そこでビールにしたら、これが日本酒並の強さでヘベレケになる。ではウィスキーにしようと思うと、時にはメチルアルコールが入っていて失明する危険がある。
150円で泊まれるホテルがあると思えば、2万円するホテルがある。
巨大なヒンドゥ寺院やマハラジャ宮殿の周りには、多数の乞食が徘徊する。
手つかずの漁村や、田舎で廃墟のように佇む町があると思えば、一方ではコンピュータ産業が興り、核施設まである。
いつもは世界中でも最もおとなしくて平和的な人々なのに、宗教の違いだと言って殺し合う。
インドは、南インドのヒンドゥ教寺院の塔のようだ。そこに彫られた多種多彩の無数ともいえる彫像が絡み合って一つの巨大な塔を形成する。思いっきり主張する一つ一つの彫像を見ていると、目眩がしそうなくらい疲れるが、次から次に発見があって退屈しない。
インド人には、人間が生まれたまま持っていた遠慮のないむき出しのエネルギーを感じる。彼等のそのエネルギーがヒンドゥ教の塔のように一つに統一される時、計り知れない核爆発を起こすことだろう。