今は大学で数学を教えている人が、10年前私の勤めている職場で大気拡散シミュレーションのプログラムを作っていた。仕事が終わると時々一緒に飲みに行った。ある晩、ビールを飲みながらSFの話になった。彼は当時日本SF協会の会長をしていて、その年の日本大会の招待客は小松左京にしようかなとか言っていたので、アシモフにしたらと言ったら、「アシモフは大の飛行機ぎらいですから…」ということだった。その数学の先生はSFを書くのではなく、SF小説の批評をしていて、たとえば光速を超える宇宙船から仮に虹を見たとしたら、それは円形に見えるはずだとか言っている内に、話はビッグバンに飛躍し、とうとう「では、宇宙の全質量を計算してみましょうか。紙とペンは…」にまで及んだ。実にたまげた人だ。
私も人里離れたキャンプ場で立ち小便でもし、つい満天の星空を見上げる時、宇宙のことを想像することがある。アシモフは彼の著書の中で、宇宙の生成についていくつかの仮説を紹介している。ビッグバン説、宇宙の循環説、反宇宙説、等々。今、世界で受け入れられているビッグバン説では、宇宙は小指ほどの大きさから大爆発を起こし、無限の彼方へ膨張しているそうだ。そして、そこには数千億の銀河があり、その一つ一つの銀河は数千億の星からできていると言われても私の想像力を超えている。それゆえ確立論的に天文学者は、地球以外にも生命が存在することに肯定的だ。逆に、生化学者は生命誕生に必要な偶然の確立の低さゆえに否定的だ。どちらを信じていいのかわからない。さらに分からないことに、原子物理学者は物質の成り立ちを追求し、物質の無限の分解に答えを求めようとしているようだ。極大の世界が極小の世界と同じような構造をしているとしたら、大変不思議なことだが、いつもこの辺で頭がビッグバンを起こして分解し、テントに帰り寝ることになる。
宇宙といえば誰でもアインシュタインだ。アインシュタインはおもしろい人だ。彼は晩年、若手の教官が質量に光速の自乗を掛け合わせるとエネルギーに変換されるという例のE=mC2の理論を紹介しているのを聞いて、それは間違っていると言ったらしい。この理論は、その時彼自身によって否定されたのだが、彼のもう一つの有名な理論である、時間が観察者によって変化するとする相対性理論は、皮肉にも少数だが他人によって否定されだしている。
この理論から謝ってタイムスリップという奇妙な現象が考案され、多くのSF小説が生み出されたが、相対性理論そのものがもし嘘だとしたら、今まで世界中の膨大な数の物理学者が、百年近くもアインシュタインにタダ飯を食わせてもらったことになる。だが驚くことはない。コペルニクスは地動説を唱えたが、では神学者達は1800年にわたってタダ飯を食っていたことになるのだ。というのも、地動説は紀元前3世紀に既にギリシャで知られていたということだ。
現代の神である科学も、ほんとうかどうかわからない。毎日こせこせ働いて過ぎてゆく人生の意味もわからない。でも、星空を見て無限の宇宙空間と時間を思うと、気持ちが大きくなる。小さなことで思い悩むのは馬鹿げているという思うようになる。どうせ短い人生だ、どうころんでも大差はない。焦らず気長にいこうと余裕が出る。エスペラントもまだ百年ちょっとだ。宇宙から見ると百年は一瞬だ。気長にいこう
宇宙