横浜の中華街
2001年6月に日本を出てから、2005年7月16日に一度日本に帰りました。それからまた5年8か月が経ち、二度目の帰国をしました。僕が30歳の年、日本人の妻を持ったウイスコンシン州に住むアメリカ人の友達の家に行ったことがありましたが、若い奥さんは、僕が着くと日本が懐かしいのか、泣き出したことがありました。僕は毎年1か月の旅行なので、外国に住むとなると、やはり日本が恋しくなるのだろうと思っていました。それから20年経って、僕は世界一周を目指し旅に出たのですが、日本を恋しく思ったことは一度もありません。年を取って感性が薄れて来たからでしょうか。2005年に帰国した時には、まだ結婚する前のマリアと一緒でしたから、彼女の日本入国ビザを取れるかどうか心配でした。役所の研究所に勤務するバイク仲間に頼んで、彼女の身分保証書等日本入国に必要な書類を書いてもらいました。男は麻薬、女は売春婦として日本で暮らしている人が多いと言われているコロンビア人の日本入国ビザの確保は難しいのです。ところで、前回はバイクで彼女に日本を見せるのが目的でした。今回は健康診断とパソコンを買うのが主な目的だったのです。今回も前回同様、夏に帰国するつもりでしたが、飛行機が満席で航空券が買えませんでした。外国人の日本滞在可能期間は3か月です。3月に入国すると6月に出国となります。6月には梅雨に入ります。それで日本入国をを3月14日にし、帰りを6月11日にしました。3月の半ばならそろそろ春で寒くはないだろうと思っていたのですが、東京は真冬の寒さでした。実は、今回は高校、大学と一緒だった友達が八王子に住んでいるので、彼の家に一週間ほど厄介になることにしていたのです。30年振りくらいで新宿を見ました。駅の周りの飲み屋街は対して変わっていませんでしたが、反対側の高層ビル群は、テレビで見ていましたが凄い変わり様でした。
大阪では枚方の友達の所に寄り、それから大阪の京橋にあるエスペランティストの家に厄介になることにしました。彼はエスペラント仲間だけではなく、2005年に日本に行った時にはバイク2台で紀伊半島を一周した間柄です。そして翌年の2006年3月にはコロンビアに僕達を訪ねてくれました。彼は80歳になりましたが、まだまだ健康で僕達が行った時も時々、自動車を運転して荷物運搬の仕事をしていました。彼は京橋に家を二軒持っていて、その一軒には奥さんが、もう一軒には彼が一人で住んでいるのですが、毎朝決まって奥さんの所で朝食を取るのが習慣でした。僕たちは彼の家に3月22日から6月5日までお世話になりました。
大阪に着いたら、まず最初に住民票をもらいに行きました。2001年に日本を出た時から住民票を日本の役所から抜いていたのです。住民票をもらうためには、まず戸籍謄本を取る必要がありました。僕の戸籍は泉佐野市にあるので、そこに住む姉に電話して取り寄せてもらいました。戸籍謄本を手に入れた時には4月になっていました。それから住民票をもらい、今回の帰国の目的の一つである身体の検査をするために必要な健康保険証をもらいに行きました。妻のマリアは滞在期間が3か月と短いので保険証はもらえませんでしたが、コロンビアで海外旅行保険を買って来ていたので、仕方なく諦めました。4月8日に健康保険証を手に入れたので、すぐに断層Ⅹ線写真を撮ってもらいに行きました。4年前にボゴタの病院で撮ったフィルムも持って行っていたのでそれも見せると、その後は悪くはなっていないと言われました。次に胃カメラ等を飲んで癌の検査をしてもらいました。これも異常なしとの診断を受け、ホッとしました。一万円以上掛かると思っていたのですが、2~3千円で済みました。並行して歯医者へも行っていたのですが、こちらは時間もお金も掛かりました。大阪を出る寸前まで通いました。
4月になって少し寒さが和らいできました。4月9日には、昔のバイク仲間が新しいメンバーを引き連れて、大阪城で桜を見ながら一杯飲もうと企画してくれました。殆ど全員、僕よりも20歳近く若い連中で、明石から来た人は結婚して素晴らしい奥さんを連れて来てました。
待望の新幹線に乗って上機嫌のマリア
4月14日には大阪エスペラント会へ行きました。コロンビアでは田舎に住んでいるので全く縁がなくなってしまったのですが、皆で協力して一つのことをやるのを見て羨ましい感じがしました。4月12日には市役所で30年近くも友達だった人と会いました。昔、一緒に良く飲みに行った飲み屋のママをしていた人も来て、マリアと4人で昼間から夕暮れまで飲みました。4月25日には特別に大学の同窓会を開いてくれ、4月28日には元の職場の野球部のメンバーの一杯飲み会と次第に酒を飲む機会が増えてきました。その間空いている日に医者に行き、パソコンやコロンビアへの土産を買って回りました。マリアに大阪の街を見せる意味もあった訳です。
日本でのもう一つの仕事であるパソコンの購入も4月19日に済ませました。2005年に日本に帰って来た時には9万2~3千円で買ったパソコンですが、今回はさらに安くなっていて6万5千円で買いました。プログラムのインストール等は、コロンビアに帰ってからゆっくりしようと思っています。
そうこうしている内にゴールデン・ウィークになりました。先に書いた元飲み屋のママが、九州の諫早出身で、去年の暮れにそこに新しい家を建てたので一緒に帰りましょうと誘ってくれました。4月28日に一緒に九州に行こうと誘ってくれたのですが、電車も混んでいるだろうし、それに初日からずっと面倒を掛けるのも良くないと思ったので、少し遅れて5月2日に行くことにしました。諫早に着いたら、家の周りを彼女とマリアの三人で散歩しました。日本の田舎の良さが残された素晴らしい所でした。諫早からは長崎、ハウステンボスに行きました。5月5日の連休までは、彼女の二人の妹さんも大阪から来ていてご馳走してくれました。三人姉妹が大阪へ帰ってからも、隣2軒には彼女の兄弟が住んでいるので、一緒に食事をしたりして楽しい日々を過ごしました。余り長居をするのも良くないと思って5月9日には別れを告げて、雲仙に向かいました。
大阪城では満開の桜の下で昔のバイク仲間と飲みました
鄙びた杖立温泉
それからは島原温泉、阿蘇の温泉に泊まりました。阿蘇では雨に会い2日間ホテルに閉じ込められました。仕方なく阿蘇を去り、杖立温泉で一泊しましたが、日本の九州まで来て阿蘇を見ないで帰すのはマリアには良くないと思ったので、翌日また阿蘇に引き返しました。今度は天気が良かったのですが、少し霞んでいて阿蘇は完全には見えませんでしたが、まずまずだったと思います。僕はマリアがもっと感動すると期待していたのですが、良く考えると僕たちはもっと雄大なアンデス山脈の真ん中に住んでいるのです。でも、日本が世界に誇る温泉は別です。コロンビアのアンデス山中には温泉もありますが、日本の温泉と比べると、質量ともに全く比較になりません。僕たちはさらに湯布院温泉と別府温泉に行きました。8日間の温泉旅行を終え、5月17日に大阪に帰りました。大阪に帰ってからは友達、それに弟や姉妹に会ったりと毎日多忙でした。役所へ入って退職まで続けていた英語のクラスの同窓会もありました。マリアも、気温が上がり、そのためか体調も良くなったのですが、大変だったと思います。
帰国まで一週間となった6月5日には、また日本に着いてすぐお世話になった八王子の友達の家に行きました。彼は日本に着いた3月同様、一週間の休みを取って韓国から帰ってくれていました。富士山に連れて行ってくれたり、高校、大学と一緒だったもう一人の友達と会ったりと楽しい日々を過ごしました。それと一つ大事なことを書き忘れるところでした。大阪のビデオ・レンタル屋で48本の「寅さん」映画を見つけ、コピーしようと思って取りあえず10本借りました。家に持って帰ってコピーしようとするとロックが掛かっていてできませんでした。それで諦めていたのですが、何と八王子の友達が全巻テレビからコピーした物を持っていると言うではありませんか!毎晩、4日程掛けて勿論全巻をコピーしました。この友達の家には奥様のお父様で90歳の人が元気に暮らしています。75歳くらいに感じられるほど健康です。奥様は料理も上手くて魅力的な人です。子供は男女一人ずつなのですが、男の子供さんは横浜の方で暮らしていますが、妹さんは親と同居しています。美しくて、さぞかし男性にもてているんだろうと思わせます。こんな日本の素晴らしい家族を後にして6月11日、日本を離れました。