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  1. (1)Patzcuaroからのメール

  2. (2) テキーラの美女たち

  3. (3) 「渡り」

  4. (4)Puerto Vallartaからのメール

  5. (5) 安宿のノラ

(1) 2002年3月21日 Patzcuaroからのメール

ちょうど二週間いたメキシコシティーを3月20日に出て、また太平洋岸にあるPuerto Vallartaを目指し西に向かっています。

メキシコ・シティーでは、エスペランティストに会ったり、隣の部屋にいたアフリカのナイジェリアから来た28才の男性とインターネット・カフェへ行ったり、食事をしたり、夜はほぼ毎晩何時間もしゃべって過ごしました。このことは、「メキシコ・シティーのエスペランティスト」と「アフリカからの密入国者」に書きました。「アフリカからの密入国者」はホームページに載せましたので、そちらをご覧ください。

「メキシコ・シティーのエスペランティスト」と、他に「クエルナバカのエスペランティスト」は、日本語で書き終えましたが、エスペラント版を大阪エスペラント会の機関紙用にこれから書くつもりです。まだかなり時間がかかると思いますが機関紙の掲載が終われば、ホームページに載せることができると思います。

(2) テキーラの美女たち

公衆電話屋の美女

メキシコの酒テキーラは、メキシコ・シティーを北西に進むとメキシコ第二の都市グアダラハラガあるが、その北西約60kmのところにあるテキーラという町で造られている。標高は、メキシコ・シティーからは1000mも低くなり、1200mくらいになるので暑い。熱帯の暑さだから、もう皮ジャン、皮パンはもう無理だ。去年の12月に太平洋岸をユカタン半島に入って以来、久しぶりにショートパンツとTシャツ姿になる。衣服は少ないほど気持ちがいい。 グアダラハラを出てテキーラに近づくと、山の至る所にAgaveと呼ばれるアロエに似たサボテンのような作物が植え付けられている。日本では竜舌蘭と呼ばれているが、どうも百合科の植物らしい。その竜舌がたくさん伸び出る根元のところにパインアップルのようなものができて、それからテキーラが造られると本には書かれている。 テキーラには、まだ僕が若かった27年ほど前に来たことがある。その時は確か、グアダラハラから日帰りのバスに乗って、テキーラ製造工場を見学し、その後近くのバーでテキーラを飲んで早々と帰ったので、どんな町だったのか、あるいはその頃は村だったのかも知れないが、よく憶えていない。

最初のインターネット・カフェの美女

二番目のインターネット・カフェの美女

しかし、今回は時間がある。町に着くといつものように公衆電話屋とインターネット・カフェに行って、パソコンが接続可能かどうかを聞きに行った。すぐに大丈夫です、という答えをもらえたが、それが二人ともベッピンさんなんです。本ではグアダハラには美人が多いと書かれてましたが、本当の美人は、片田舎の酒の町テキーラにいたんです。いつになく、思わず写真を撮らせてくれとお願いしました。これも快く引き受けてくれました。インターネット・カフェでは責任者がつかまらず、そこの美女を諦めて別のカフェへ行きました。ところが、ここもベッピンなんです。 僕は、美人の前では言葉を失います。三人の写真を紹介するだけにします。僕はテキーラに生まれたかった。世界の男性諸君、今晩はいい夢を見てください。

(3) 「渡り」

3月20日、メキシコ・シティーの西200kmほどの山中にバイクを走らせていると、もう姿を消したはずのオレンジ色の蝶々がひらひらと道を横切る。この近くには、蝶々の群生地がある。この蝶々は10月下旬から11月初旬にかけて、はるかカナダやアメリカから産卵のために飛んでくる。テレビで見たことがあるが、山の木が全て蝶々に覆われオレンジ色一色に染まっていた。その群生地の山に行くつもりだった。しかし、冬の間に生を受けた蝶々は、三月の初めにカナダ、アメリカに向けて飛び立ってしまうという。来るのが少し遅れてしまった。だから、諦めていた。蝶々にもゆっくり構えて遅れるものがいるみたいだ。数は多くない。最終部隊だろうか。僕も夏が過ぎてから、カナダからバイクに乗って渡ってきた。長い距離だった。蝶々の飛ぶ速さはバイクよりも数段遅い。それなのに、彼らはその長い旅を飛んでいく。生の脅威を感じる。

僕は一旦メキシコの東の端のユカタン半島まで行ってから、また西の太平洋岸まで戻ろうとしている。エリザベス・テーラーの映画「イグアスの夜」で一躍観光地になったプエルト・バジャルタに向かっているのだ。

この前プエルト・バジャルタにいたのは、去年の12月の2日と3日だった。今日は4月の2日だから、ちょうど4ヶ月ぶりだ。12月にはカナダやアメリカから年配の人たちが、このホテルにも大勢泊まっていた。プエルト・バジャルタだけではない。メキシコの至るところで、同じような人たちに遭った。彼らの多くは、仕事を引退していて、カナダやアメリカの厳しい冬を避け、南の温かくて、しかも物価の安いメキシコに越冬に来ているのだ。中には冬はメキシコで、夏は国に帰って仕事をしている人もいる。飛行機で飛んで来る人もいれば、クルマで来る人もいる。スクール・バスを改造してやって来た人もいた。

春になるとオレンジ色の蝶々と同じように、彼らもカナダやアメリカに帰っていく。四ヶ月ぶりにホテルに戻ると、カナダやアメリカから来ていた人たちは全て姿を消していた。今ホテルに泊まっているのはほとんどがメキシコ人で、外国人は全てヨーロッパから来た人たちだ。そのうちの幾人かを見かけた。みんな若い。「渡り」ではなくて、僕のように単に旅をする人たちなんだろう。

日本はカナダやアメリカと違って海に囲まれているものの、状況は似ている。日本の冬も寒い。そして南には物価の安い国々がある。むしろメキシコよりも物価の安い国々だ。地続きでないのでバイクでそのまま走れないのは残念だが、飛行機を使えばカナダやアメリカと同じだ。しかし、日本にはまだ彼らのような「渡り」をする人はほとんどいない。日本人は60才まで働きつづけても、まだ次の就職のことを考えて悩んでいる。それほど仕事が楽しくて止められないのかと言うと、酒で職場の憂さを晴らしているようだから、そうでもなさそうだ。大きな国際空港を造ったり、オリンピックを招致してみたり、サッカーのワールド・カップを開いて見たりしても、日本人はまだまだ井の中の蛙で国境の壁は厚い。国の経済も冷え込んだままだ。みんな将来に不安を持っている。特に退職後の年金生活は困難が予想される。しかし、カナダやアメリカの人たちのように、ちょっと発想を変えてみればよい。円安とは言え、まだまだ円は強い。国外に出るということを考えれば、まだ今も、日本建国以来の最大の好機だ。日本から南の国へ「渡る」と、円は10倍、100倍の価値を持っている。

カナダやアメリカの人たちの中には、定年退職後十年、二十年とメキシコに「渡り」続けている人がいる。おそらく彼らは身体が動かなくなるまで、メキシコへの越冬の「渡り」を続けることだろう。蝶々の場合は産卵の後一生を終えるので、帰って行くのは新しい生を受けた蝶々たちだ。そして、蝶々は世代を超えて面々と渡りを続けていく。カナダやアメリカの彼らの子孫も、きっと渡りを続けていくことだろう。僕は生まれて初めて冬の間ずっと温かい国で過ごし、一回だけの「渡り」を経験した。でも、オレンジ色の蝶々とは違い、あちこち移動して落ち着かない「渡り」だった。

(4) 2002年4月11日 Puerto Vallartaからのメール

二ヶ月前にベラクルスでBillyにアメリカから取り寄せてくれるよう頼んでいた128MBのメモリーが、やっとPuerto Vallartaのホテルに届きました。初めは二・三週間で届く予定だったので、クエルナバカかメキシコ・シティー受け取れるものと期待していたんですが、荷物がメキシコに入ってから何か手違いがあったようです。

メモリーと一緒にバッテリーもBillyから送られてきました。バッテリーは、ベラクルスのBillyのアパートに泊めてもらっている時から死にかけていました。Billyが自分のVaioに付いている倍容量のバッテリーを売ってやると言ってくれたんですが、当時はほとんどホテルの電話を使っていて、部屋の電気が取れるので取り替えませんでした。ところが、このバッテリー、ベラクルスを出てからしばらくして完全に死んでしまい、瞬間的に電気が切れた場合でPCが止まるようになりました。それにベラクルスを出てからは、ずっと安宿に泊まり、インターネットは公衆電話屋かインターネット・カフェを使っているので、そこにコンセントがない場合があります。バッテリーが重要になってきたので、本当にバッテリーが死んでいるのかどうかテストしたいので、メキシコ・シティーとグアダラハラではSonyのサービス・ショップを探し当てましたが、Vaioはメキシコではまだ売られていません。グアダラハラでは技術者がしばらく休暇を取っていて調べてもらえませんでしたが、このバッテリーの寿命は二年程度という情報を得ました。

そこですぐ、僕のコンピュータ医師のBillyにメールを送って、アメリカから取り寄せてくれるよう頼みました。ところが、Billyは倍容量のバッテリーをまだ持っていた上に、前日にまた同じVaioを買ったので、どちらのバッテリーでも譲ってくれると言ってくれました。倍容量のバッテリーはプラスティックのハードケースに納まらないので、標準のバッテリーにしました。

今、僕のPCはフリーズすることなく、インターネット・カフェや公衆電話屋でコンセントがなくても、機嫌よく動くようになりました。コンセントが使えないこのホテルのロビーにもPCを持ち出しては、みんなに見せびらかしています。

完成した僕の新しいPCシステムと「WINDOWSはみんな屑」だと怒る医師ラウルの写真を、「ベラクルスの救世主」のページに載せました。

もうしばらくしたら南のアカプルコの方へ向かいます。

(5) 安宿のノラ

こぼれる笑顔のノラ

はるか東のユカタン半島を回って、また太平洋岸のプエルト・バジャルタに戻ってきた。ここから南西に伸びる長い海岸線には美しいビーチがたくさんある。去年の12月来た時には、ユカタン半島で人と会う約束があったので大急ぎで駆け抜けてしまった。太平洋岸に戻ってきたのは、こうしたビーチでもう一度ゆっくりしたかったこともあるが、プエルト・バジャルタの安宿の受付をしているノラという女性のこぼれ落ちるほどの笑顔を、もう一度見たかったからでもある。 ちょうど4ヶ月ぶりにホテルの前にバイクを止めると、受付から「Tori, Tori!」と呼ぶ声が聞こえる。ノラだ。二泊しただけなのに憶えてくれていたのだ。4ヶ月ぶりに会ったノラの身体はほっそりとなっている。ダイエットで18キロも体重を減らしたらしい。お腹の贅肉が全部取れため、もともと大きかったお乳が一層目立つようになった。彼女はメキシコではそんなに多くない金髪で、目は灰色だ。僕は黒髪、黒目の女性に一層性的魅力を感じる。しかし、僕はお乳の大きい女性が好みなんだ。 30過ぎと思っていたノラは数日後に29才の誕生日を迎えるという。それなのに、もう11歳と2歳半の女の子がいる。高校生くらいの時に子供を産んだんだろうが、相手の男とは別れて女手一つで二人の子供を育てている。この安宿では午後の3時から夜の11時まで働いて月給は3万5千円、その内家賃が1万2千円と言うから、使えるお金は一日800円くらいということになる。11時に仕事が終わると1時間半かけて家まで歩いて帰る。暮らしは大変だ。それで月曜日の朝と唯一の休みの木曜日には、他人の家の掃除をして家計を支えている。この前来た時に、彼女が電話で「お金がないのよ」と言っているのを聞いた。11歳の娘からだと言った。娘はすぐ納得していた。子供の頃の貧しかった我が家を思い出した。 生活は苦しいはずなのに、ノラは底抜けに明るい女性だ。

ホテルの泊り客やホテルの前を通りすぎる人たちに声をかけては、笑みを絶やさない。僕が最初にこのホテルを訪ねた時もそうだった。昔からの知り合いのような親しげな態度だった。ホテルに駐車場はないのかと聞くと、ホテルの前の道路に留めておけば大丈夫、といとも簡単に言い切った。僕は、「このメキシコで…?」と一瞬考えたが、彼女の自然に出てきた言葉を信用した。「バイクは通りの角に止めていて、この道は一方通行の逆なんですが…」と言うと、「ああ、そんなもの、警官がいないから大丈夫」と言った。また彼女の言葉に従った。今回も10日間、路上駐輪をした。メキシコではもちろん、今回の旅でも初めてだ。バイクは無事だった。

唯一の路上駐輪

このホテルでは、ベラクルスのBillyから送られてくるVaioのメモリーとバッテリーを受け取るため、宿泊が長くなった。プエルト・バジャルタにも綺麗なビーチがあって、三月の終わり頃のセマーナ・サンタには観光客が押し寄せる。だから、その週をはずし次の週にやってきたのだが、この週もセマーナ・パスクアと呼ばれる週でまだたくさんの観光客が残っている。ホテルに着いて二日後の木曜日に、ビーチで彼女とデートする約束をして、行ってみた。メキシコでは珍しく、日本のビーチのように人で埋め尽くされている。彼女は、落ち合う場所を“Muelle de Playa de los Muertos"と書いていた。Muelleの意味を辞書で調べておくべきだった。ビーチに着くと向こうに海に突き出した桟橋が見える。

あそこに違いないと歩いていくと途中に小さな橋が二つある。確か彼女は英語のbridgeと言っていた。約束の時間がきた。こちらの橋で待って、向こうの橋を見る。子供を連れてくると言っていたから、すぐ目に止まるはずだ。しかし現われない。30分過ぎてから、地元の人に紙切れを見せた。Muelleは桟橋だという。メキシコ時間では30分は誤差範囲だと思って桟橋に行ってみる。彼女はいない。そこでまた一時間まったが、彼女に会えなかった。翌日、彼女の話では約束の20分前には桟橋にいたという。彼女はメキシコ時間ではなく日本時間だったので却って悪かったのだ。 その後はビーチには行かず、いつものようにホテルの部屋に閉じこもっては、連日たび日記やメール書きをしていた。

観光客で賑わうプエルト・バジャルタのビーチ

誤解の桟橋

胸に注目

そして休憩にはロビーに行ってはノラとおしゃべりして、ついでに彼女の胸を鑑賞しては喜んでいた。ある日、ロビーで二人きりになって、ソファーに隣り合わせに座った時、「ノラの胸は大きくて、格好がいいね」と言ったら、彼女は「私は重いからきらい。でも、それなら」と言ってTシャツをめくり上げて見せてくれました。ブラジャーから溢れ出していました。すぐにシャツを戻してから、二人で大笑いをしました。あっけらかんとしたラテン・アメリカ女性の、こんなところで僕は幸福を感じます。それにしても、あの日は得をしました。 プエルト・バジャルタを出る前日の木曜日に、また同じビーチでノラと子連れの短いデートをした。二歳半のテファニーは可愛い娘だった。ノラは近いうちにテファニーともう一人の娘を連れてアメリカへ渡り、そこでウエートレスをして暮らすと言う。女の強さを思い知らされる。心底から彼女の幸せを願いながら、プエルト・バジャルタを後にした。