ペルーに入ろうとしたら道路が封鎖されていた。
ペルーに向かって国境に進むと、国境の手前1kmの所でクルマが停滞していた。向こうにガソリンを燃やしたような真っ黒な煙が立っている。そして大勢の兵隊が出動している。一人の男が、兵隊5~6人に抱えられて僕の横を連行されていく。少し前に進むと、道路がバリケードで封鎖されている。封鎖しているのはエクアドールの人達で、クルマで待っている人や兵隊から説明を聞いてもよく分からなかったが、何かエクアドールとペルーの間の物価の格差が原因しているようだ。国境の出入国には時間がかかるので、朝早く起きてそこに着いたのは8時だった。50分待って、バリケードまで様子を見に行った。するとデモ隊の人が通ってもいいと言う。もう三時間も待っている人がいる。しかし僕は長蛇のクルマを尻目にバリケードを通してもらった。お陰で国境に人の行き来はなく、出入国の手続きは、わずか40分で終わった。エクアドールと違って、ペルーの人たちはコロンビア同様実に愛想がいい。入国すると何人もの人が話しかけてくる。「どこの国からですか?」。「日本です」。「そうですか、Fujimoriは、…」。やはり来ました、この話題が。「うん…日本にいます。悪いですね、…」。でも、エクアドールで聞いた話では、Fujimoriの前任の大統領はみんな任期が終わると、テロを恐れて国外に脱出したと言う。そしてこの国には、コロンビア同様ゲリラが暗躍していると言われている。国境から数キロの所で税関の検問があった。職員は僕に、「これから先、警官以外の人がバイクを止めようとしても、絶対に止まらないように」と忠告してくれた。ゲリラは本当みたいだ。ペルーに入ったパンアメリカン・ハイウェーは、真っ直ぐにアンデスを下り太平洋に向かう。そしてそこにはSechura砂漠が広がっている。全長1,000kmの砂漠を、舗装状態の良くなったパンアメリカン・ハイウェーが真っ直ぐ南に走る。長い砂漠には点々とオアシスの町がある。砂漠の北の入り口にあるPiuraの町に泊まってから、南に200km離れたChiclayoの町に行った。エクアドールの悪路の反動なのか、僕は120km、時には130kmまで速度を上げてしまった。砂漠は暑いと思ったので皮ジャンと皮パンは脱いできた。転倒すれば大怪我だ。
Chiclayoに前インカ時代のピラミッドがあって、1987年に発掘作業が開始された。Chiclayoの北10kmほどの小さな町にその博物館がある。金の装飾品や土器等、多数の出土品が展示されている立派な博物館だ。Chiclayoのホテルは一泊730円なのに衛星放送の100局が受信できるテレビがあった。その一局に日本のNHKがあった。日本のテレビ放送を見るのは日本を出てから初めてだ。午後の3時半に大相撲が放映されていた。しかし日本は早朝の5時半、ビデオだ。武蔵丸が引退したらしい。現在横綱は一人で名前は聞いたことがない。2年半の間に相撲界も変わってしまって、知らない力士が多い。やがて朝の番組が始まった。テレビドラマ、料理番組とつまらない番組が続いたが、懐かしい思いで何時間も見てしまった。
Chiclayoの近くにあるピラミッドの博物館
砂漠を走る
Chiclayoで4泊したが、砂漠なので連日晴天だった。出発の朝、何と雨が降っている。道には大きな水溜りが出来ている。相当降ったようだ。小雨なので、またNHKを見て待っている間に雨は上がった。しばらく走ると空は晴れ上がってきた。それなのに遠くの景色は霞んでいる。砂塵のせいだろうか。まっすぐ南に向かうパンアメリカン・ハイウェーは、その霞みの中に消えていく。今日は砂漠の風が強い。昼を過ぎると風はますます強まり、チェンジを二速まで落とし、ウインドシールドに身体を隠す。海から道路に直角に横殴りの風が吹き付ける。砂漠の砂が道路を横切って走る。ジェットヘルなので右の頬を砂塵が打ち、痛い。思わず左手で頬を覆う。バイクが重いのでそんなに振られないが、軽量のオフロード・バイクなら大変だ。今日は涼しいくらいだったので皮ジャンを着て出発した。この辺りは南緯7~8度だ。赤道に近い砂漠なのに暑くはない。バイクで走っていて、もし皮ジャンを脱ぐと寒いくらいだ。インカ帝国をわずか200人に満たない人数で滅亡させたピサロは、1530年パナマを出てエクアドールの北部海岸に上陸し、Piura、Chiclayoと同じ砂漠を通ってきたはずだ。そのピサロが1533年にインカ帝国の王をだまし討ちにしたCajamarcaという町が、Chiclayoの東南の山中にある。黄金を略奪する目的があったとは言え、この砂漠を越えるのは容易ではなかったはずだ。
砂漠をさらに200km走った所にTrujilloというオアシスの町がある。ホテルの前にバイクを止めると、日本語が聞こえた。顔はペルー人だ。インターネット・カフェへ行くと、後ろに座っている人が日本語でしゃべってきた。あまり上手なので日本人だと思った。顔も少し日本人みたいだ。4世だと言う。栃木に8年住んでいて、今は2ヶ月の帰省中だ。どうりで上手なはずだ。ペルーと日本の近い関係を感じる。
砂漠のオアシスの一つ、Turjilloの町の中央広場
パンアメリカン・ハイウェーは砂漠を600kmほど貫いた所で、海まで迫ってきたアンデス山脈の中に入っていく。山はそんなに高くはないが、全ての山が砂で覆われている。山の岩が風化して砂に変わったのだろうか、あるいは砂漠の砂が風に運ばれ積もったのだろうか。中には頂上まで完全に砂で覆われ、巨大な砂丘になっているものも多い。パンアメリカン・ハイウェーはペルーに入って太平洋沿いに走っているものの海は見えなかったが、この辺りで初めて海に当る。ハイウェーの両側に見える全ての山は、その裾野を砂で覆われていて、それが海岸まで伸びて砂浜と合流する。どこからどこまでが砂浜なのかわからない。砂漠は道路まで飲み込むつもりなのか、ほんの5~6mだが、道路は数ヶ所で砂に覆われている。この道路は、巨大な自然に対する人間の挑戦のようだ。
リマに近いパンアメリカン・ハイウェー
5000年前に造られたCaralのピラミッド。山の麓に三つのピラミッドが見える。
リマの近くにある砂漠の町。山の麓に建設された町の道路は砂に埋もれている。
リマの手前200km、海岸から30kmほど山に入ったところに南米最古と言われるピラミッドがある。何と5,000年前のものらしい。エジプトのピラミッドと同じくらい古い。道路は舗装されていないと言うので乗合タクシーで行った。それが良かった。道路は砂を被っている。こんな所をBMWで走ったら間違いなく転倒だ。タクシーは遺跡の入り口で僕を降ろしてくれた。ところがピラミッドへ向かう道がない。幅が30cmほどの畦道があるだけだ。「Caralの遺跡」という小さな看板がなければ、向こうにピラミッドがあるとはとても信じられない。ピラミッドは3kmほど歩いたところにあった。途中で大きな川を渡った。川といっても水はない。12月になると水が流れてきて渡れないそうだ。川の両側だけが緑に包まれていてそれ以外は砂漠化している。合計8個のピラミッドはその砂漠の中にあった。切符を売る入り口も何もない。ピラミッドは遠くから見ると単なる小高い丘だ。メキシコ・シティーにあるピラミッドよりもずっと低いが、遺跡の面積は同じ位だ。しきりに発掘作業が行われている。この遺跡もいつの日にかは整備され、多くの観光客が訪れるようになるのだろうか?
砂漠に浮かぶ首都リマにある公園。木が茂り花が咲き乱れている。
同じ公園内にある日本庭園(?)
1,000kmの砂漠を走った所で首都リマが忽然と現れる。人口760万の大都市が砂漠の中にある。手前に続く町の道路は砂を被っていて誇りっぽいが、さすがにリマに入ると地面は舗装路と建物で完全に覆われ、空気中から砂は消える。町の中心には大きな公園があって、高い木が茂り花が咲き乱れている。まるで夢のようだ。この砂漠、昔はサハラ砂漠同様緑に覆われ、狩猟、農耕が行われていた。ピサロが1535年にリマの建設を始めた頃、この辺りはやはり砂漠だったのだろうか。何もこんな砂ばかりの所に町を造ることはなかったような気がする。ガイドブックによると、この先300kmにあるIcaには巨大な砂丘あると書かれているし、さらにその先150kmにあるナスカはテレビで見た時、緑のない荒野だった。リマから南の海岸地帯もどうも砂漠のようだ。ひょっとしてもう既に、チリまで続くアタカマ砂漠に入っているのか? それなら何処でも同じことだ。しかしリマの旧市街の中には川が流れている。ここにはきっと北の砂漠に点在したオアシスの町同様、緑があったのだ。ピサロにはそれで十分だったのだろう。それが都市の成長にしたがってどんどん砂漠の方へ伸びていったしまった。ラスベガスは始めから砂漠の中に造られた。しかしここの砂漠の規模は桁違いに大きい。それにここは砂丘が続く砂の砂漠だ。リマは砂の海に浮かぶ大都会だ。人間のエネルギーの強さを感じる。
リマから南のIca、それからナスカまでの450kmは、やはり砂漠だった。土地の人に聞くと、この砂漠は海岸沿いにチリまで続いているらしい。Icaとナスカはどちらも太平洋岸から50kmほど離れているので暑い。そしてペルー北部と同様、地平線が広がる膨大な砂漠が続く。そこを一直線にパンアメリカン・ハイウェーが走っている。内陸に入ったためか、海風がなくなった。だから120、130キロで飛ばした。ナスカの手前で砂の砂漠が瓦礫の砂漠に変わった。回りには低い山もある。ナスカの地上絵はそこに描かれている。パンアメリカン・ハイウェーはその真中を南北に貫通している。ハイウェーのすぐ横に展望塔があった。展望塔からは「手」と「木」の地上絵が見えた。展望塔から1kmほどナスカ寄りに小高い丘がある。そこからは絵は見えないが長く伸びる直線が放射線状に何本も見える。
翌日30ドル払って、飛行機から見た。飛行機はパイロットを含め4人乗りの小型飛行機だ。こんな小さな飛行機は始めてだし、左右の客が両方とも見えるように、地上絵の上を急旋回する。風はなく雲一つない晴天で、機上からの景色はよかったが、はじめは少し恐かった。空からは「鯨」、「宇宙飛行士」、「猿」、「コンドル」、「蜘蛛」等の絵が良く見える。飛行はわずか35分だが納得した。
Icaの町。教会の背後に大きな砂丘が見える。
ナスカの地上絵はこの飛行機で見た。
ナスカの墓地で1300年眠るミイラ
ナスカにはまだ見るものがある。地上絵はナスカの町の北、30kmくらいのところにあるが、南30kmの砂漠には1300年前の墓地があって、15ほどの墓が公開されている。上から墓を見下ろすと服を着たままミイラとなった死体が座っている。土葬したら勝手にミイラになったのではない。内臓を抜き去り、体内の水分と脂肪を取るため釜に入れ、さらに薬草で処理したらしい。ここでは一緒に埋葬された金や土器を狙った盗掘が盛んで、7年前までは不要な骨や頭蓋骨が砂漠に撒き散らかされていたと言う。写真で見たが砂漠の太陽に焼かれ白色化したそれらが、ずっと連なって地面を覆っている光景は異様だった。しかし今は警官がいる。小骨はたくさんあるが、頭蓋骨は一つ見ただけだった。でも一つでもあるということは、まだ盗掘は続いているのか。ガイドしてくれたCarlosは墓場の側の砂の中から下顎の骨を取りだし見せてくれた。観光客のために隠しているのだ。骨は骨は黄ばんでいて、虫歯のない丈夫な歯だった。ナスカの町の周辺は、砂漠の他のオアシス同様、緑で覆われている。そしてそこには綿等の作物が植えられている。しかし、川の水が使えるのは雨季の3ヶ月だけだ。地下に灌漑用水路を設け、山からの涌き水引いている。地下に水路を通すのは太陽による蒸発を防ぐためだ。所々に清掃用の竪穴が造られている。水路は1600年前に作られたという。ここの人々は、そんな昔から砂漠と戦ってきたのだ。水路のすぐ南には巨大な砂丘が空に聳えている。Icaの町でも見たが、ここのは桁が違う。標高2,080m、地上からの高さが1,400mもある。世界一高い砂丘だ。
また、ナスカの西20kmにはピラミッドが二つあると聞いた。それに地上絵、灌漑用水路と、この地方にもインカ帝国のずっと以前に高度な文明が栄えていたのだ。
僕はナスカでパンアメリカン・ハイウェーを東に逸れ、アンデス山中のクスコに向かった。僕のガイドブックには、このルートは山賊が出るので注意と書かれている。それでこの道は少し気がかりだった。また、リマの日本人宿で昼食を食べた時に、お女将さんが分厚いライダー情報ノートを見せてくれた。そこには「バスが走っているくらいなのだから行けるのだろうが、この道を走ったライダーは、口をそろえて二度と走りたくないと言っている」と書かれていた。非常に不安になった。でも、地上絵は是非見たいのでリオを出てナスカに向かった。途中で何人かに聞くと全員が、完全に舗装されていて良い道だという。事実、全く問題はなく、僕は何度でも走りたいと思った。日本人長期旅行者の多くは、各国の日本人宿で旅の情報を得ているようだ。コロンビアのゲリラについての情報も正確ではなかった。日本人旅行者の全員が僕に、サラリーマンが週末にゲリラとなって旅行者を襲うから絶対に平日に移動するようにと忠告してくれた。僕はこのことを、コロンビア人のエスペランティストをはじめ、数十人に尋ねた。全員が交通量が多く軍隊の警戒が厳重な週末の方が安全だと言った。命を賭け、戦争状態で臨んでいるの?ゲリラだ。それでもなかなか容易に手が出せないのに、素人のサラリーマンが週末にアルバイトとしてできるはずがない。日本人旅行者の多くが、スペイン語を苦手としているためなのか、または情報が偏っているためなのか、あるいは情報が古いのか、あまり当てにならない。こんな情報なら、むしろない方がいい。
僕のガイドブックにも、ペルーの道は悪いと書かれている。これはガイドブックが少し古いからかも知れない。ペルーに入ってからのパンアメリカン・ハイウェーの舗装状態は非常にいい。ナスカからクスコまでの道路についても、一部工事中の所を除いて問題はない。どちらも有料道路だが、コロンビア同様、バイクからは料金を取らない。ペルーの人たちは、道路が良いのは今日本に亡命している元大統領Fujimoriのお陰だと言う。彼は道路、学校を造り、テロリストを一掃したとして国民の、特に貧しい人たちの間で人気がある。貧しい人たちのために行う政治は良い政治だ。何人もの人から聞いたが、彼等はFujimoriは国のお金を着服したが、国民のために実にいい仕事をしたと言っている。そして彼の一日も早い帰国と大統領への復帰を願っている。彼に関しては大ヒットの歌まであるそうだ。彼は日本で生まれ、こちらへ来てからペルーの国籍を取ったという。僕は少し救われたような気がした。
ナスカを出るとすぐ、道は禿山の間を縫って一気に4,400mまで高度を上げる。上るにつれて白っぽくくすんでいた砂漠の空の青が濃くなる。同時に気温が下がる。グリップヒータのスイッチを「強」に入れる。上り詰めると、そこには草に覆われた高原が広がり、牛、羊、ビクーニャ、それにアルパカだろうか、動物が草を食んでいる。ビクーニャ、アルパカ、リャマは同じラクダ類らしいが、僕はアルパカとリャマとの違いは分からない。ビクーニャとアルパカまたはリャマはもっと大きい動物だと思っていたが、ともに奈良公園の鹿より小さいくらいで大型の犬ほどの大きさだ。ビクーニャはちょうど奈良の鹿のように茶色で毛が短く見えるが、アルパカの方は、白、茶色あるいは黒の一色か、またはその斑で毛が長い。真っ青な空にはコンドルだろうか、一羽大きな鳥が飛んでいる。いよいよアンデスに来たという実感がする。
アンデスのアルパカ(リャーマ?)
高原を過ぎると、また険しい山が続いた。しかしここには木が生えている。その山中、3,140mの高さに小さな町Puquioがある。クスコに雨季が近づいていると聞いていたので、一泊だけで出るつもりだったが、クスコに住んでいた人からクスコで雨が降り出すのは12月の20日過ぎで、しかもこの町からバスで一時間の所に温泉があると聞いて予定を変更した。しかし翌朝7時のバスに乗るつもりで15分前にバス停に行ったが、もうバスは出た後だった。バイクで行こうとも思ったが、やはり20kmのダートは嫌なので止めた。
Puquioの東のアンデス
アンデスの5000mの高原
Puqioの町はアンデスの深い谷の下にある。このルートで5,000mの峠を越えることは前から本を読んで知っていて、そのあまりの高さにいささか不安だった。5,000mというとアルプスのモン・ブラン(4,807m)やマッターホルン(4,478m)よりも高いのだ。Puquioから山を上り詰めるとそこはまた高原だった。見渡す限りの広大な高原で、もうそれ以上高い山はない。峠だとばかり思っていたが5,000mの高原だったのだ。そこではアルパカやリャマの数がさらに多い。まるで自然動物園の中を走っているようだ。たいした起伏がないので道路は真っ直ぐに造れるはずなのに、緩やかな曲線を描いて湖を縫いながら走る。5,000mの高原は100kmほど続いた。天気も良し。最高のライディングだ。バイクを止めてタバコを吸うと気絶して倒れそうになった。さすがに空気が薄いのだ。
インカの古都クスコ
クスコの裏通り
ナスカからアンデス山中を700km走ると、インカ帝国の古都クスコに着く。標高が3,360mもあるのでもっと寒いと思ったが、2,600mのボゴタよりも暖かい。四方を山に囲まれた小さな谷間にあり、谷は赤い屋根で埋め尽くされている。谷だけでは足りないので赤い屋根は山までせり登っている。北の山にはインカの遺跡が残っていて、そこからクスコの町が一望できる。ここにはインカの非常に大きな建物があったのだが、上部の石は全て植民地の教会や家屋の建設等のために剥ぎ取られ、今では基礎部分の巨大な石組みだけが残っている。カテドラルのある中央広場は山のすぐ下なのに、あまりにも大き過ぎて下ろせなかったのだろう。
Ollantaitamboにあるインカの遺跡
クスコにも見るべきものが多いが、ここを訪れる観光客の最大の目的は何と言ってもマチュ・ピチュだ。マチュ・ピチュはクスコの北西70kmほどの所にある。この間を鉄道が走っている。約4時間の旅だ。マチュ・ピチュは世界でも有数の観光地だけあって、ここを訪れるにはペルーでは考えられないほどのお金がかかる。入場料が20ドル。これにクスコからの電車代が往復55ドル。さらに鉄道駅から700m上にある遺跡までの往復のバス代9ドルが加わる。これではペルーの人達はなかなか行けなくなるので、彼等には別料金が設けられている。しかし外国人観光客にもお金のない連中がいる。そこで彼等はOllantaytamboというちょうど中間にある町までバスに乗る。Ollantaytamboは東西に伸びる「聖なる谷」にある。雪を抱く高い山に挟まれた緑の谷を川が流れる。Ollantaytamboからマチュ・ピチュへは谷が狭まり道はOllantaytamboで果てるのだが、ここまでのバス代は往復で3~5ドルだ。そこからマチュ・ピチュまで往復の電車代が24ドルなので結局半額で行ける。僕もこのルートを使った。バスの方が電車より速いし、それに鉄道は遺跡の多い「聖なる谷」の一部しか走らず、しかもそこにあるOllantaytamboまで素通りしてしまう。この町にはインカの町並みと大きな遺跡が残されている。通り過ごしてしまうのはもったいない。
Ollantaitamboに残るインカの町並み
「聖なる谷」
マチュ・ピチュ
マチュ・ピチュの真下の谷にAguas Calientesという町がある。小さいがホテルも多く、洒落たレストランが軒を連ねている。町の名前が温泉という意味で、期待どおり温泉がある。温泉に浸かってマチュ・ピチュを見る。なかなかのものだ。僕はその日、同室のアメリカ人旅行者Mathewと6時半に目を覚ました。過去30回の外国旅行で知らない人と同じ部屋に寝るのは、最初の海外旅行でのロンドンのドミトリー以来だ。彼は機械工学を勉強するためアルゼンチンに留学中で、休暇を利用して旅行中だ。当然スペイン語がしゃべれる。僕達は英語でなくスペイン語でしゃべった。朝、僕は雨の音で目を覚ました。Mathewは雨の中を出かけていった。しかしありがたいことに、雨は8時過ぎに上がった。僕は8時半のバスに乗った。バスで日本人女性の幡野直子さんにあった。彼女はカナダのおじいさんと流暢な英語でしゃべっていた。上手なはずだ。彼女はカリフォルニアの大学に留学した後キャシー・パシフィックのシチュワーデスをしていた女性だ。マチュ・ピチュに着いて彼女とHuayna Picchuに登ることになった。よく写真で遺跡の背後に見えるトウモロコシのような形をした山だ。頂上まで階段がついているが、ほぼ垂直に登るきつい登山だった。二時間かかった。遺跡を挟んでHuayna Picchuの反対側にも高い山がある。その山の途中までも登った。両山から見降ろすマチュ・ピチュは、二つの山にかかる吊り橋のような狭い山の上に建設された、まさに空中都市だった。こんな高いところまで石を運び上げるだけでも大事業だ。Huayna Picchuの反対側の山の背後700m下のAguas Calientesには川も流れている。それなのになぜ、どこからも見えないこんな山頂に町を建設しなければならなかったのか? 本当に平家の落人部落のようにスペイン人侵略者の目から逃れるために建設されたのか? 写真で何回も見たマチュ・ピチュは神秘に満ちていたが、実際に見るとやはりそれ以上だった。
クスコのホテルにバイクと荷物を預け、マチュ・ピチュで二泊、「聖なる谷」のCalcaで二泊した。Calcaはインカの遺跡でなく、温泉が目的だった。乗合タクシーで25分の所にあるMachacancha温泉は、客は僕だけで贅沢な感じだったが湯温は低くて失望した。このことをホテルの女将さんに話したら、クルマで北西に3時間の所には熱い湯のLares温泉があることを知らされた。さらに一泊して早朝にバスターミナルに向かった。20人もの乗客を詰め込んだミニバンは、11時に温泉のある町に着いた。ミニバンは1時20分にCalcaに引き返す。他に交通手段はない。2時間の短い入浴だったが、五つある浴槽の一つは日本の温泉のように高温で幸せを満喫した。
Laresの温泉
クスコのインターネット・カフェW@SINETのRuckminyと弟のDenis
クスコを出る前に、近所のインターネット・カフェからインターネットによる国際電話のことを良く知っているインターネット・カフェが中央広場に面した所にあることを聞いていた。メキシコでは銀行、ペルーに入ってすぐインターネット・プロバイダーと連絡を取るため、日本に電話する必要があって非常に苦労した。リマのインターネット・カフェで国際電話のサービスをしているのを見て、Net2Phoneというそのソフトウェアとイヤーホーンとマイクのセットを買った。インターネット・テレフォンは無料だと思っていたが、そうではなかった。しかし安い。日本へは一分間6円で電話ができる。しかしその料金の支払い方法がわからずリマを出た。田舎の町のインターネット・カフェはこのシステムを知らない。だからどうしてもクスコで解決したかった。中央広場のカフェはW@SINETというカフェだった。経営者はRuckminyという若い聡明な女性で、学校で物理や化学を教えるかたわら、弟のDenisとこの店を切り盛りしている。二人とも本当に優しくて、僕の頼みに対して嬉々として協力してくれた。まず支払いはリマのインターネット・カフェで聞いていたプリペイド・カードではなく、使用権としての番号だけを買えばいいことが分かった。リマで買ってインストールしておいたNet2Phoneでテストしたいと思ったら、Ruckminyは自分が持っている1ドル分のアカウントを使わせてくれた。しかしなぜか、このNet2Phoneが動作しなかったので、正しいものをダウンロードしてくれた。それで店から100ドル分のアカウントを買った。しかし100ドル分を使い切ってしまった時に、次のアカウントをどこで買ったらいいのかわからない。店を通さず、インターネットで直接買いたい。Net2Phoneのホームページを見たが、どうした訳か申し込みのメニューがない。Ruckminyはアメリカに電話してくれたが、電話は繋がらなかった。それでリマの元売りとチャッティングで連絡し、申し込みのページを見つけてくれた。これからはクレジットカードを使っていつでもアカウントが買える。日本のみならず世界中と電話連絡が取れる。僕のパソコンはとうとう電話機にまで変身した。クスコの東南から流れてきた川は、クスコの東で分岐しクスコからマチュ・ピチュまで鉄道と平行に流れる川と、クスコの北の「聖なる谷」を西にマチュ・ピチュまで流れる川になる。この二つの川はOllantaytamboの手前で再び合流し、マチュ・ピチュの横を流れてから北へ向きを変え、ずっと北でエクアドールのバーニョスを流れていた川と合流し、アマゾン川となる。僕は逆に、流れを遡りチチカカ湖へ向かう。
クスコとチチカカ湖畔のPunoは400kmの舗装道路で結ばれている。クスコを出ると、道路は川沿いの緑の美しい谷を線路と一緒に走る。クスコから120kmほどのSan Pedroという所に温泉があると聞いていたので期待してバイクを走らせた。着いたら何と、湯槽が一つでしかも手を浸けると水のように冷たかった。もちろん入らずに土地の人たちとしゃべっていると、さらに70kmほど先にAguas Calientesという温泉があると聞いた。その手前の町で泊まるつもりだったが、沸騰している温泉と聞いたからには行かずにはおれない。温泉は人家も何もない谷に突然現れた。道路のすぐ横の線路を渡った所にあって、緑の山裾が広がっている。残念ながら宿泊設備がないので、この日は見るだけにしてさらに30分ほど走った先にあるSanta Rosaという小さな町に泊まることにした。Aguas CalientesからSanta Rosaまでの道路から雪で覆われた山が三つ、四つ見えた。この辺りが一番高く、降った雨はクスコと反対のチチカカ湖に分かれて流れ落ちる。Santa Rosaの標高を聞くと4,150mだと言う。5,000mの高原は走ったが、こんな高い所で寝るのは初めてだ。夜タバコを吹かしながら飲んでいる時は分からないが、ベッドに横たわると妙に息苦しいい。何回も深呼吸する。ライターも困っているようだ。なかなか火が点かない。ホテルは安宿が一軒だけあって一泊150円だ。こんな安いのもこの旅で初めてだ。
クスコからチチカカ湖へ向かう道路は緑の谷を走る。
Universidadの温泉
Aguas Calientesの温泉
翌日、Aguas Calientesの温泉に行こうとホテルを出ると、道を歩いて来た人が、「Aguas Calientesの温泉の手前にUniversidadという温泉があって、そこの方が人が少ないし湯は綺麗だ」と教えてくれた。バスを降りると、温泉は谷の反対川の山裾にあった。これならバイクで来るべきだったと思いながら、2kmの道をあるいた。温泉は4室の小さな浴室に引き込まれていた。客は僕だけだった。一番湯の熱い部屋に入った。この旅行で初めてパンツを履かずに湯に入った。湯も熱く日本の温泉気分だった。そこを出てまた2kmの道を道路まで戻るのが嫌なので、山裾伝いの道をAguas Calientesまで歩くことにした。一時間以上もかかったが、谷を見下ろす眺めは良かった。アルパカもたくさんみた。Aguas Calientesの温泉では、地面の至る所から50度以上の熱い湯が噴き出している。一つの湯槽の温度は48度と書かれていた。さらに温度の高い湯槽があった。ペルーの人たちには熱すぎるのだろう、誰も入っていない。僕は一人で山を見ながら、「最高やなあ」と何回も呟いた。できることならこの温泉をボゴタに持って帰りたい。12月19日(金)夜7時に南米カップの決勝がテレビで放映された。ペルー対アルゼンチンだ。この小さなSanta Rosaにはテレビが少ないのか、いつも客のいないホテルの隣のレストランは満席になっていた。僕はペルーを旅行しているのでペルーを応援することにしていた。後半にペルーが一点入れた。僕は拍手した。しかし、20人ほどのペルー人は全くの無反応だ。この辺の国では国内試合であろうが、サッカーで味方のチームが点を入れると戦争に勝ったみたいな騒ぎになるのに、僕は拍子抜けした。無表情の日本人でも少しは反応するはずだ。クスコからこの辺りはインディオの人口が多くて、みんな普通はケチュア語をしゃべっている。この町はボゴタ、キトやリマとは全く違った世界なのかもしれない。
クスコとPuno のちょうど中間くらいにあるSanta Rosaからは、谷は次第に広がり高原に変わる。朝出る時に晴れていた空が曇りだし、短い時間だが雨の中を走ることになった。標高は4,000mくらいあるので冷える。前方の空は真っ黒な雲に覆われている。その下に入った時に雨が雹に変わった。雹がヘルメットに大きな音をたてて落ちるだけではなく、頬や顎に当って痛い。砂漠のサンドブラスト以上の衝撃だ。砂漠同様、左手で顔を覆う。道路はチチカカ湖の手前で低い山を上る。チチカカ湖が眼下に広がる。そして空は嘘のように晴れてきた。湖畔を見下ろしながら少し南に走ると、山の斜面からチチカカ湖に落ちるPunoの町が見えてきた。
チチカカ湖に浮かぶ葦の島
Punoに来たのは、チチカカ湖に葦で作った浮き島に生活する人たちを見るためだ。Punoの町は大きな入り江の奥にある。入り江の入り口は葦が群生していて、その中にいくつもの浮き島が肩を寄せ合うように浮かんでいる。観光船はその一つの小さな浮き島に僕達13人の観光客を降ろした。浮き島はもちろん、家まで全て葦で作られている。各浮き島には4~5mの見張り塔が設けられている。浮き島に足を踏み入れると、ふわふわして少し足が沈みこむ。浮き島の周囲は防波堤のように、40cmほど高くなっていた。僕はしばらくそこに腰を掛けてタバコを吸った。葦は湖の水分を吸い上げるのだろう、立ち上がると、パンツまで濡れていた。こんな所で毎晩寝るのはさぞかし気持ちの悪いことだろう。しかもチチカカ湖の標高は3,800mもあるので、夜は冷える。水は腐るほどあるとは言え、電気はない。葦は腐ってくるので定期的な補修も必要だ。放っておけば島は沈む。ここに住む人達は、なぜこんな不便を選択したのだろう。ペルーに入って42日。果てしない砂の砂漠から、アルパカの遊ぶ5,000mの高原、緑の谷間、そして葦の島が浮かぶチチカカ湖と走ってきた。Punoからボリビアの国境はわずか150kmだ。明日、ボリビアの国境の町、Copacabanaへ向かう。そこでクリスマスだ。