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バイクが生き返る

バイクが生き返る

完全に改造され生き返ったSavage-650

1か月以上たってもバイクを売ったGustavoと言う人から何の連絡もないのでこちらから電話しました。こちらから電話したと言っても僕はスペイン語がまだ分からないのでマリアに電話してもらいました。何の連絡もないので少し不安になったのです。ひょっとしてバイクを修理する気がなくて、32万円ほど出して日本から買った部品の全部渡したのに、それを全部売ってしまって修理するつもりはないのではないか、さらにバイクの所有者名義はまだ僕になっているので、それでゆすられるのではないかとだんだん悪い事ばかりを考えてしまいました。それで電話したのです。 8月5日にマリアから彼に電話してもらいました。彼はコロンビアの国境地帯の油田地域で仕事をしていると言うことでした。こちらの国の油田に働く人の給料は滅茶苦茶高いと聞きました。少し安心したのですが彼の家があるボゴタに、帰ってきたら一度訪問すると言いました。了解してくれたので、バイクは売り払っていないと思いました。彼は8月18日(月)に帰ってくると言いました。マリアから、「彼が国境付近で3週間働いて10日間は自宅で過ごすので、8月22日の金曜日に彼の家に来るくように言われて予約した」と言われたと思っていました。僕は、Gustavoから、日本から部品を取り寄せることはできないか、と聞かれていたのでもう少し時間が欲しいと言いました。そのことをマリアに言うと、彼は一週間したらまた仕事に帰らなければならない、と言われました。では、仕方がない金曜日にしようと言うと、彼女が予約したのは金曜日ではなく20日の水曜日だと言われました。僕の聞き間違いだったのです。僕のスペイン語の不出来具合はこんな調子なのです。 それで予約通り20日に彼の家に行きました。マリアから彼の家はボゴタでは良い地域にあり、彼の奥さんは大学で教えていると聞いていたのでどんな豪邸に住んでいるのか楽しみにしていましたが、期待に反し普通の家でした。でも彼は40歳位なので、これが普通なのだと思いました。家の入口にガレージがあって、そこにバイクが置かれていました。なんとバイクは完全に分解されていて、錆も完全に落とされ、ピカピカに光っていました。僕が塗装に出していたガソリンタンクを含め、バイクの塗装は完全に取り除かれていました。塗装し直すつもりなのです。僕はボゴタのスズキで修理してもらったエンジンが少し心配でしたが、案の定欠陥だらけでした。そしてバイクの配線も少し心配でした。日本から念のため取り寄せて新品に変えようと思ったのですが、Savageは1989年に製造を中止されたので、運悪くこの部品はありませんでした。そこで僕の住むフサガスガのバイク屋で交換してもらいました。配線図等重要なページは日本から買っていた修理マニュアルのコピーを残していたので、それを配線の種類ごとに色鉛筆で着色しGustavoに渡しました。それから電話で頼まれていた日本からの部品の取り寄せはできないと彼に伝えました。日本でバイクの修理にいつも協力くれていた人との連絡が着かず、メーカーのスズキに電話したら僕が買ったアメリカ製のバイクには一切協力できないと言われました。それで日本のその友達が、彼の同級生でバイク屋を経営している友達に頼んで特別に取り寄せてくれていたことを知りました。とにかく、Gustavoに日本からの部品取り寄せは無理だと言うと、彼は家族の者が10月にアメリカ合衆国へ行くので買ってきてもらうと言いました。こちらで無くしたバイクの修理マニュアルとパーツリストもアメリカ合衆国から取り寄せると言いました。彼は本当にバイクが好きなんだと実感しました。僕は、彼がバイクを売り払っているのではないかと思っていましたが、絶対にありえないことを確信しました。それどころか、この国ではバイク屋よりも彼の修理の方がずっと良いと思いました。バイクが直るかどうか少し心配でしたが、絶対に大丈夫だと確信しました。本当に良い人に買ったもらったものです。

11月中旬、彼から電話がありバイクの登録変更の手続きに言ったら、2012年から3年間のバイクの登録税が収められていないと言われました。領収書は彼に渡していたので支払ったことは彼も承知しているのですが、支払った店か、あるいは役所のどこかで止まってしまったのだと思います。この国では良く起こるそうです。これを調べるのは大変だとマリアは僕に言いました。最悪の場合、3年間で2万円位なのでもう一度支払ってもたいしたことはありませんが、どんなに手間がかかっても、それはしたくないと思っています。

国境地帯にいるGustavoに電話しました。彼はボゴタにいる奥さんに電話すると言いました。一週間しても奥さんから連絡がないので、彼女とそれに息子さんのメール・アドレスを聞いていたので二人にメールを送りました。また一週間何の連絡もないので、12月2日、マリアと二人で連絡なしで家に出かけることにしました。一時間半ほど家の近くで待っていたら19時頃、奥さんが仕事から帰宅しました。35歳位の感じの良い人でした。彼女からバイクの登録書等必要な書類を受け取りました。翌日、バイクの登録税についてボゴタに住んでいるマリアの弟に、どこの役所に行けば良いのか聞いていたので、行きました。結局、登録税の一年分が違った役所に支払われていたのです。2年前にバイクを友達のHernanにあげたので彼が登録税を払っていたのですが、2013年に関して支払う役所を間違えていたのです。正しい役所に支払うのに1年半遅れたので3倍近くの罰金を含め1万3千円ほど支払い、間違って収めた登録税の返還手続きをするのに一日かかりました 12月21日、Gustavoから電話があり、バイクの修理は大体終わったと連絡がありました。大修理の結果バイクは見違えるようになりました。部品は主に中国からインターネットで取り寄せたそうです。そして、中国にない物だけをアメリカ合衆国から取り寄せたそうです。彼が修理の進行状況を多くの写真でインターネットに載せていますが、全く見違えるバイクになりました。新品同様です。僕がフサガスガのバイク屋に取り換えてもらった全配線ですが、大丈夫なのか気になっていましたが、これも最後に交換して最終調整に入ったと聞きました。これからまた油田地帯に帰り、3週間後にボゴタに帰ってきた時には、いよいよバイク登録書の僕の名前をGustavoに変えることができると期待しています。

バイクとクルマの免許証

僕は2003年にコロンビアに来ました。入国したばかりで、その当時、コロンビアのバイクの運転免許証は日本のバイク免許と国際運転免許証を示すだけでもらえました。手続きも簡単で、今住んでいるフサガスガから一時間半ほど山を下った所にある、ヒラルドットと言う街にバイクで遊びに行った時に申請して一日で貰えたことを記憶しています。当時は入国したばかりでコロンビアの住民登録証は持っていませんでしたから、パスポート番号を記入した運転免許証をもらいました。その後この国に住むことを決めてから自動車の運転免許を、お金を出して買いました。冗談だと思われるかもしれませんが、本当なのです。申し込みに行き、耳目の検査を受け、その後バイク運転教習所で教習料か何か、8,000円くらいを払ったまま一度も教習を受けませんでした。2週間か3週間してから行くと免許証が出来ていました。この免許証にはコロンビアの住民登録証番号が書かれていました。これが正式なのです。

パスポートは10年で更新することになっていましたから、2011年1月に首都ボゴタの日本大使館で発行してもらいました。バイクは2012年の11月頃にボゴタに住むコロンビア人の唯一の友人であるHernanにあげました。普通はパスポートを持たずに住民登録証を携行していますし、ましてや期限の切れた古いパスポートは持っていませんから、この2年弱の間に警察に捕まっていたら問題でした。とにかくバイクもなくなり免許証は差し当たって不要だったのですが、日本の免許証は2011年に帰国した時更新せず無効になりましたが、もし日本に帰った時にコロンビアの免許証があれば日本の免許証を発行してもらえるし、南米の国ではコロンビアの免許証があれば大丈夫みたいなので更新しようと考えて、住居のあるフサガスガで免許センターと耳目の検査センターの説明を聞きに何回も訪ねました。そして2014年7月28日に、耳目の検査を8,000円ほど出して受けました。その後、免許センターでバイクの免許証更新は、発行されたヒラルドットの街に行かなければならないと聞いていたので、9月15日にマリアと二人で行きました。ヒラルドットの免許センターで相談した後、向かいの免許更新登録事務代行所で、もう一度耳目の検査をヒラルドットで受けると登録事務は我々がするので問題なしと言われました。7月28日にフサガスガで受けていると言っても、その検査は街が違うので使えないと言われ、また8,000円払い検査を受けました。そして免許更新登録事務代行料5,500円を支払い、帰宅しました。

代行事務は10日ほど掛かると言われたので、9月25日にマリアが電話しました。僕ではスペイン語が良く分からないからです。今日は役所が閉まっていると言われました。それで翌日再び電話してもらいましたが、今度は電話が繋がりませんでした。10日ほど待って10月6日の月曜日11時半頃、またマリアに電話してもらいました。15時にもう一度電話するように言われました。マリアが電話すると今度は、相手が16時半に電話すると言って切りましたが、電話はありませんでした。翌日またマリアに電話を頼みましたが、マリアが自己紹介をしているうちに電話が切られ、その後2~3回電話しましたが繋がりませんでした。次の日10月8日にはマリアがもう電話したくないと言うので、言葉の分からないまま僕が電話しましたが要領を得ませんでした。運が悪いことにそれから一週間はヒラルドットの街は祭りで免許センターを含め事務所は全部閉まっていると言われました。10月13日は国の祭日だったので、14日にまた僕が電話しましたが相手がノラクラ答えたので、日本大使館に電話をすると言って切りました。すぐに大使館に電話したら、大使館からその業者に電話してくれました。同時に僕のスペイン語では無理なので、スペイン語がペラペラで同じ街に住む和合さんに頼み、業者に電話してもらい、彼とヒラルドットに行くと言ってもらいました。10月16日、代行事務業者に電話したら10月17日に出来ていると言われましたが、和合さんが行けないので20日の月曜日に受け取りに行くことを告げました。

月曜日は和合さんのクルマで行きました。免許センターは11時に閉まってしまうので、7時40分に我が家に迎えに来てくれた和合さんと出かけ、免許センターには9時ちょうどに着きました。1時間ほど待たされ、女の係員の話を聞くと、今日は専門の係員がいないので明後日に電話してくれと言われて、仕方なく帰ってきました。マリアは賄賂を要求しているようだと言います。もう僕はこれ以上、いつ乗ることになるか分からないバイクの免許証に時間とお金を掛けたくないと思っていました。免許証と耳目の検査結果は申請時から2か月間しか有効期間がないので、あと20日少ししかありません。多分、更新は出来ないと思っていました。 しかし4日後の10月24日、またヒラルドットへ行きました。9時半に免許センターに着き、強い日差しの中、長い行列を並んで、11時半にクルマの免許書類のための指紋を取ってもらいました。しかしバイクの免許は古いパスポートを見せても貰えませんでした。僕はクルマの運転は怖くてしようとは思わないのですが、とりあえず貰っておきました。またバイクの免許が必要になれば、2万円くらい出せば買えるので、それはその時に考えれば良いと思っています。

私の住んでいるこの住宅地域は、後で述べる「音楽パーティー」の家と比べると話にならないくらい小さな家ですが、フサガスガでは郊外にあって比較的高級そうな所です。32軒の家の土地が売られていて、ここ2年ほどで5軒ほどが新築されて残るのは後6軒の土地だけです。半分程がセカンド・ハウスですが、殆どみんなクルマを持っています。この住宅地域を出るとパンアメリカン・ハイウェーと言っても片側1車線の狭い道路ですが、それが走っているだけで、他に時々未舗装の一車線道路が一本あるだけです。最近クルマが随分増えましたが、それでも前の道にはバスがドンドン走っているので5分も待てば十分です。ボゴタ等に住んでいる人にはクルマは必要かも知れませんが、僕のような者に取っては、無い方がずっと安くて、しかも楽です。そう言う理由もあってバイクを手放した訳です。

フサガスガで洪水

バイクの免許証の問題が一応片付いたので10月30日にヒラルドットへ行く途中にある馬鹿でかい遊園地のような所に、マリアの姉さんから貰った入場券を持って出かけました。山の下にあるここはカンカン照りの上天気でした。大きなプールで泳いだりして16時のバスに乗り17時時20分にフサガスガに帰ってきました。途中フサガスガへの山を登って行ったら天気が悪くなって、バス停に着くと大雨になりました。日暮れにはまだ少し時間があるのに周りは薄暗くなっていました。こちらではいつも15分~30分くらいの小雨が降る程度なので、バス停からのバスも出ずそこで待っていました。やっと小雨になりバスも動き出したので乗ってバス停を出ると道路は水浸しで洪水のようになっていました。いつも行く道は通れず別の道を走りました。家に帰るとテレビを見ていたマリアに呼ばれました。なんとフサガスガの道路が封鎖されていた街角が洪水に遭っていたのです。 こちらの街では道路に排水溝は設けられておらず、雨が降ると道路に水が流れ、暫く水の引くのを待っていることがありますが、テレビではこんな洪水は初めてだと言っていました。

翌日はハロインでした。こちらでは子供だけではなく大人まで変装して街に繰り出します。子供が近所の家を訪れると、家にいる大人たちはお菓子などを与えます。僕とマリアはスーパーマーケットに買い物に出かけました。この辺りは昨日の洪水の被害から免れ、何もなかったような賑わいでした。 薬を飲む毎日

僕は7年前に脳梗塞になり、それからずっとアスピリンに加え、Cilostalと言う薬を飲んでいます。100mlの一錠が100円少しする、こちらでは少し高い薬です。これを毎日一錠飲んでいたのですが、3か月ほど前に医者から少し減らしても良いと言われたので、初めは半分に割って飲んでいたのですが、邪魔くさいので二日に一錠飲むことにしました。2か月ほど経つと足の爪の近くの部分に赤みが差してきました。それでまた8月から1日1錠に戻しました。とにかく日本大使館で見てもらった医者は、薬は一生飲まなければならないと言っていたのを思い出しました。難儀なことになりましたが、僕が病気になったのは30歳過ぎに胃潰瘍で50日間入院したのと、この脳梗塞だけなので、まだ良い方かも知れません。

コロンビアのお金

コロンビアの通貨であるペソは1ペソが約0.05円に当たりますが、1ペソ硬貨は無く、最低の硬貨は50ペソで、約2円50銭です。しかし店では販売金額を支払われない金額、たとえば21,960ペソと言うように書いています。僕は当然いつも22,000ペソ支払うのですが、時には50ペソのお釣りなし、時には有りで、良くわかりませんでした。それをマリアに聞くと店によって違うと言います。銀行ではいつもお釣りなしで22,000ペソ、他の店では22,000ペソだったり21,950ペソで50ペソのお釣りをくれたりすると言います。21,950ペソか、または22,000ペソと書けば良いだけの話なのに、なぜしないのか僕には分かりません。

コロンビア通貨の値上がり

フサガスガの主要道路に押し寄せる水

2014年10月30日 フサガスガに起こった洪水で流される家々

バイクもクルマも水浸し

2014年10月31日のハロウィンでは子供だけでなく大人までも変装して街を練り歩く。

コロンビアはここ数年経済状態が良いそうで、近所の空き地にはどんどん家が建てられています。僕がこの家を中古で買ったのは7年半前で、その頃はこの国の通貨であるペソはそんなに高いと言う気がしませんでした。それが数年前から家の価格はドンドン値上がりしてきて3倍くらいの値段で売られています。今ではとてもこの家は買えません。僕の収入は日本の年金だけで、それが値下がりしているのですから二重に堪えます。おまけに電気やガス代などがランク3からランク5に値上げされたばかりか、ここ2~3 前に守衛さんを増やしたので団地の住宅管理費が1万千円くらいになり、以前の3倍位に上がりしました。いまでは何もしなくても毎月10万円くらい掛かります。年金は毎月16万円少しですから、円が値上がりしないと近い内に赤字になりそうです。 10月に始めに1ドルが2,000ペソ弱、1円が18ペソ強だったのが12月の終わり頃には、1ドルが約2,400ペソ、1円が20ペソ近くまで上がってきています。それでちょっとだけ、楽になりかけてきましたが、7年半前の状態になるためには1円が40ペソ位にならなければなりません。ペソは世界の経済が可笑しくなった7年くらい前から値上がりしているのです。コロンビアは麻薬の取引とか言ったことが盛んですから、普通の経済感覚では理解できない国なのかも知れません。

音楽パーティー

去年の3月頃から2週間に1回の木曜日には、スーパーマーケットで無料の音楽コンサートが開かれるようになったと以前書きました。そしてまた2週間後の金曜日に無料カラオケ大会が同じ場所で開かれるようになったので楽しみにしています。ある日、その音楽コンサートで近くに座っていた女の人たちとしゃべったら、彼女たちは毎週金曜日に映写会をしており、その週は日本の漫画映画をすると言って誘われました。その一人がその日の漫画を提供した人でした。マリアと二人で行きましたが、言葉がスペイン語に吹きかえられていたのでさっぱり分かりませんでした。漫画提供者の旦那が親切にしてくれて、我が家に遊びに来ると言いました。そのこともあって翌週も行きました。その週もスペイン語による日本の漫画でまた分かりませんでしたが、マリアが楽しそうだったので良かったと思いました。映画が終わって話をしていると、彼等は毎月の最終土曜日にどこかに集まってパーティーをしているので来ないかと誘われました。この国は物騒なのであまりこのような誘いには乗らないようにしているのですが、彼等はみんなお金持ちで問題なさそうなので喜んで引き受けました。町の中心の教会の近くの喫茶店で集まると言うので二人で行きました。そこからメンバーの一組のご夫婦の車で会場に行きました。驚いたことに豪邸でした。こんな大きな家がフサガスガに?るとは知りませんでした。敷地が野球場くらいあってプールの横に立派な家が建てられていました。プールから少し離れたところに大きな屋根で囲われた宴会場がありました。この辺りは全てこのような大きな家が建てられています。僕は漫画提供者の夫婦の家だと思っていましたが、彼らはその近所の一軒に住んでいると言いました。もし彼等が我が家に来ていたら、貧弱な我が家にびっくりしたのではないかと思います。

このパーティーには50人位の人が集まりました。ソフトドリンク、ビールや高級ウィスキーが出されたので僕はウィスキーを頂きました。ちょっと酔っぱらった頃に食事が提供されました。それが終わると始まりました。歌です。5組か6組の歌手たちが延々と歌います。 その人達は自分の歌を吹き込んだ音楽ディスコを売っていました。僕も一枚買いました。この国では音楽だけで生きていける人が少ないので、歌手以外の職業を持っています。その日の歌手の一人にマリアの出身大学の教授もいて、マリアとしゃべっていました。日が落ちると歌手の大部分は去りましたが、歌手の一人が残り更に歌い続けました。彼もマリアの大学の教授と言うことでした。日がたっぷり暮れると、始まりました。踊りです。こちらでは結婚式でも誕生パーティーでも必ず踊ります。それが長時間に及びます。僕の結婚式では朝の4時頃まで踊り狂っていました。こちらのパーティーの一曲は長くて、その日も僕は一曲踊ると長時間休んでいました。しかし時々、パーティー会場の全員が輪になって踊るのでその時は仕方なく輪に加わりました。でも幸いなことに、この日は老人が多く、夜の11時頃にパーティーが終わりました。もちろん会費を支払いました。一人1,500円だったので本当に安いと思います。ずっと参加したいと思っています。

海外旅行

コロンビア人は入国許可が下りないので海外旅行が難しいと言われていました。それが2年ほど前から易しくなって南アメリカの国々にも行けるようになりました。マリアの姉さんが一年ほど前に母親と一緒にアルゼンチンに行ってきました。なぜ旦那と一緒に行かなかったのかと聞くと、彼は旅行が好きではないからだと言います。まあ、とにかく僕もフサガスガに来てからは、一度日本に帰っただけで何処にも行っていません。なぜ旅に出ないかと言いますと、こちらに来て家を買ったからです。家を買って旅に出るお金がなくなったと言う訳ではありません。何回も言いますが、こちらで家を留守にすると泥棒が入るからです。この団地では2~3年ほど前からガードマンを増やしていますが、やはり年に1~2軒の泥棒が入っています。しかしこちらの泥棒はガードマンや住人の知り合いが多いと聞きます。年金生活の僕の家では乗用車もなく、街へ出るのにもいつもバスで行きます。従ってお金を持ってないことはみんなが知っていると思うので余り心配はないのかも知れません。しかし、半年ほど前に隣ともう一軒向うの家に入った3人の泥棒は、テレビを盗んで去って行ったのをビデオカメラで見ましたから、安心できません。

とにかく、そんなことを言っていたらもう2度と旅行できないことになりますから、だれか留守の家に来てもらって旅に出ようと思っています。それで去年はUSAのフロリダ半島に行こうと思っていましたが、合衆国の田舎はクルマがないと旅行が大変困難なので止めました。そこで、ロッキー山脈を中心とした12~13日のバスツアーに参加しようと思っていたら、ぜひマリアに見せたいと思っているイエローストーン公園は、高度が高く気温が低いので真夏に行く方が良いと分かったので止めて、また止めにしました。それで今年こそ行こうと思っています。その前に今年は結婚して10年目に当たります。そこでマリアの誕生日の5月6日にコロンビアにあるカリブ海の保養地に旅行しようと思っています。マリアの姉さんが去年の9月頃にインターネットで安い飛行機の切符を見つけて買っておいてくれたのです。一人1万円くらいと言うので普段の30%くらいの値段だそうです。 少し気が早いですが、来年の旅行も考えています。南アメリカの南端まで行こうと思っています。マリアとは2006年に日本のバイク乗りの友達が来た時に、三人でペルーのティティカカ湖や世界的観光地である空中都市マチュピチュ等へ行ったきりです。今度はアルゼンチンやチリに行って、氷河やアンデスの美しい高峰、それにパンパスの大平原等をマリアに見せたいと思っています。あと南米で見せたい所はアルゼンチン、ブラジルそれにパラグアイの国境にあるイグアスの滝ですが、これは再来年になりそうです。

トンネルが3年で封鎖

コロンビアにはアンデス山脈が走っていますから、その東側はアマゾンで、西側は高い所で4,000~5,000mの山に囲まれています。僕の住んでいるフサガスガは高度2,500mのボゴタから西南に1,000mほど山を下った所にあります。僕の家の前の道は片側1車線の道路ですが、首都ボゴタからアンデス山脈をチリ、アルゼンチンまで抜けるパン・アメリカン・ハイウェイが走っているのです。僕の街からさらにバスで30分ほど下ると標高500mほどの所に出るのですが、ここに2年ほど前、トンネルが掘られました。2~3キロくらいのトンネルです。コロンビアはその西側は殆どが山なのに、僕はこの国にはトンネルがないと思っていたのですが、マリアからこの国のどこかに、このトンネルよりも長いものがあると聞きました。まあ、それはともかくとしてボゴタからのパン・アメリカン・ハイウェイもどんどん片側2車線に改良されてきました。トンネルが掘られた部分も2車線あって、旧道の2車線と合わせると片側2車線となった訳です。コロンビア政府も案外、やるものだと思っていました。ところがこのトンネル、この前バスで走ってみたら、トンネルの天井が何かおかしくなっていました。マリアに聞くと、トンネルが崩れそうなので、もうすぐ閉鎖されると言うことでした。3年でトンネルが閉鎖!?この国では日本では全く考えられないことが起こっているのです。

人気演説家の横井研二

音楽パーティーのあった豪邸

こんなに凝った変装をした子供まで。

2014年11月6日土曜日、この国の人気演説家である横井研二さんが講演にくると2日前に同じ街に住む和合さんから聞きました。横井さんがフサガスガに来て演説するのは2回目です。1回目は2011年10月19日の水曜日でした。もう3年も前になります。実は横井さんはコロンビア青年会議所により「2010年度の傑出した10人の若者」に選ばれ、それから演説活動を開始して大変忙しい日々を送っています。 横井さんは日本人の父親とコロンビア人の母親の間にコロンビアで生まれました。10歳まではコロンビア、パナマ、コスタリカで暮らしていて、それから両親とともに日本に移りました。日本では24歳まで居てコロンビアに帰ってきました。25歳で子供を作り、その子供が12歳になると言いますから現在は37歳くらいでしょうか。4年前、即ち彼が33歳までは何をしていたのか少し気になります。彼は首都ボゴタの、彼に言わせると貧民街に暮らしています。とにかく現在はお金には困っていないだろうと想像しています。なぜなら1時間か2時間の講演料が50万円と聞いたからです。日本ではびっくりするほどの値段ではないかも知れませんが、この国では大金です。でも彼はカソリック関係の組織で講演するときには講演料は取らないと聞いていますので、実際どれくらいの収入があるのか分かりません。それと彼の講演にはいつもブラジルから来た、やはり日本人2世(あるいは3世)の男や、11月6日には3人の演劇グループがいましたから彼にはいくら入るのか分かりません。まあ、とにかくすごい人気があって、1回目も超満員だったし、この日も1000人ほどの、会場に溢れるほどの聴衆がいました。 スペイン語の勉強

実は僕は2014年10月頃からインターネットでスペイン語の聞き取り練習を始めました。そして最初に選んだのが横井さんの講演でした。インターネットで“Yokoi Kenji”で検索したら彼の講演の一部が聞けます。40本の動画が見つかり全部聴きました。その後は、彼以外の人達の講演録画を聴きました。そうしている内にスペイン語の吹き替え映画が沢山出ているページを探し当てました。ヨーロッパのスペイン語とアルゼンチンのスペイン語で吹きかえられた5か所位のページで約900本位の番組があります。それならテレビを見れば良いではないか、と思われるかもしれません。こちらのテレビはいくつか有料の局があっていずれもチャンネル数が60~70以上あります。そこにはスペイン語吹き替えの映画もあるんですが、テレビだと時間が決まっていていつでも見られる訳でもなく、しかもこちらのテレビには5分くらいの長い宣伝が入るから良くありません。その点、インターネットではいつでも見られるので全く問題ありません。しかし勉強材料とは言え、彼らがしゃべっているスペイン語は殆ど分かりません。でも、コロンビアに住みだして10年ほど経ちましたが、友達もいなくて、スペイン語をしゃべるのは妻のマリアだけで、普通は毎日起きると日本語の本を読んで、午後は散歩か日本のテレビ録画を見ているだけですから、全くスペイン語は上達しませんでした。それに7年ほど前に脳梗塞で記憶力が悪くなったのもあります。新しいことを記憶するどころか、記憶していたこと、例えば友達の名前もどんどん忘れてしまいます。これを少しでも防ぐ意味でもとも思った訳です。殆ど絶望的な状態ですが、ボケ予防にでも良いのではないかと思って、スペイン語の勉強を始めた訳です。

コロンビアで人気の演説家、横井研二