Tres RiosのエスペランティストLuiz Albertoとは、招待のメールをもらった後、チャッティングもしていた。リオ・デ・ジャネイロを出る前夜、Ademarが彼に電話して、リオ・デ・ジャネイロを朝の9時に出発するので、僕がTres Riosに着くのは11時頃になるだろうと知らせてくれた。僕は彼が働くTres Riosの職場の住所と電話番号を教えてもらった。
6月24日午前9時、Ademarは息子のDenisの運転するクルマで、リオ・デ・ジャネイロの西の端から東北の端まで70kmほどの距離を先導してくれた。首都ブラジリアに向かう国道40号線に入った所で、僕達は男同士のくせに抱き合って別れを告げた。
リオ・デ・ジャネイロからは曲がりくねった山道を昇る。僕は遅くとも11時半にはTres Riosに着けるものと思っていたが、Luizの職場に着いたのは12時半だった。彼の職場は、日本で言えば教育委員会のような所だ。Luizは、実はTres Riosではなく10km離れた隣町のParaiba do Surに住んでいた。それで彼はTres Riosの中心に住んでいてこの町のエスペラント会の会長でもあるIvo Pinto Magalhaesの家に行くように僕に言って、道筋を示す地図を書いてくれた。Ivoの家はLuizの職場からわずか5街区ほど行った所にあった。また家の中にバイクが入らないので、奥さんのEdiが向かいの家のガレージに駐輪できるよう頼んでくれた。
Luiz達エスペランティストと昼食(左端がLuiz)
Ivoの家の二階に部屋を与えられ、荷物を部屋に運んでから大事なことに気が付いた。Ivoに僕がチェーン・スモーカーであることを告げた。彼は自分が喘息なのに、僕の部屋での喫煙を許してくれた。優しい人だ。着替え終わった頃に、Luizがやって来て一緒に昼食に出た。席に着くとすぐ、エスペランティストが次ぎから次ぎにやって来た。昼食を食べ終わるとLuizは職場に帰り、残ったエスペランティストがTres Riosのエスペラント事務所に連れていってくれた。ここにも5~6人のエスペランティストがやって来た。実はLuizが、僕が来たことを知らせてくれていたのだ。Ivoもやって来た。そこにいたエスペランティストの一人としゃべっていたIvoは、向かいの駐車場に止めた僕のバイクの安全性に不安が残るので、そのエスペランティストの家の駐車場に預けてはどうかと言い出した。それで僕達は彼の家まで歩いていった。立派な家の駐車場でここなら絶対に安全だと思ったが、遠いのでIvoの近所にある公共駐車場にバイクを移した。2泊で860円だった。そこへLuizがやって来てIvoと三人でビールを飲みに行った。ビールを飲んで9時頃になった時、Luizは彼の町に飲みに行かないかと言った。もちろん僕は同意した。すると彼は携帯電話で誰かに電話した。しばらくすると女の人が二人乗ったクルマがやって来た。これから行こうと言う。僕はIvoの家に帰り、上着を来てクルマに乗った。この辺の夜は冷えるのだ。20分ほどで着いたParaiba do Surの町は洒落た感じの、いかにも安全そうな町だった。田舎のこの規模の町は大抵メーンストレート以外は舗装されていないのに、この町は全て舗装路または石畳の道だ。運転している女性はAngela といって、Luizの職場の上司だ。僕達は助手席の若い女の人を家に送ってから三人で飲みに行った。Angelaはエスペラント語が分からないのでLuizが通訳してくれた。しばらくすると男のエスペランティストが現れた。僕達は1時まで飲んだ。こんな時間にTres Riosにはもちろん帰れないのでLuizの家に泊めてもらうことにした。
翌朝は9時半に起きた。もう随分前から電話が何回も鳴っているが、Luizはまだ寝ている。電話は1時間ほど鳴り続けていた。起きてきたLuizは、「しまった。ラジオ局からの電話だ。9時からトオルとラジオでしゃべることになっていたのに忘れていた」と言った。彼はずっと独身で、家に中国人夫婦を居候させている。僕が起きた時にはもう彼等はいなかった。この町で食堂を出す計画で店はほぼ完成している。Luizの書棚には本がたくさんある。英語やフランス語の本もあるが、ほとんどがエスペラント語の本だ。エスペラント語の本の中には、万葉集、井原西鶴、俳句の本もある。よくもこれだけのエスペラント語の本を読んだものだと感心した。
僕達は11時頃Angelaのクルマに乗った。彼等は、僕を連れてどこか役所と家具製造所へ行った。Tres Riosでは昼食会が企画されていてエスペランティストが僕たちを待ってくれたいる。Paraiba do Surの町を出ようとしたらAngelaのクルマがパンクした。パンクの修理には2時間半もかかった。約束の時間を大幅に遅れて3時頃レストランに着いたが、6人くらいのエスペランティストが待ってくれていた。その一人Jorge Linckが近くに自分が働くインターネット・カフェがあるので行かないかというので一緒に行った。その後、バスに乗って彼の家に行った。そこでシャワーを浴びさせてもらった。奥さんがケーキと飲み物を出してくれた。Jorgeは、僕がエスペランティストで最初にTres Riosを訪れた外国人だと言った。町中のエスペランティストは、熱烈歓迎の感じだ。
Jorge
エスペラント事務所で開かれた環境・エコロジーの講演
僕とJorgeは、エスペラント事務所で夜の8時から始まる環境・エコロジーの講演を聞くためバスに乗った。講演にはエスペランティストを中心に15人の聴衆が集まった。講演はポルトガル語でなされた。分からない僕を見て、Luizはエスペラント語に同時通訳してくれた。彼のエスペラント語は美しい。美しいが、僕が日本語でしゃべるよりも速いスペードで通訳してくれる。恐るべき能力だ。僕は精神を集中するため目を閉じて彼のエスペラント語を聞いた。しかし彼には悪いが、僕のエスペラント語力ではよく聞き取れない。ただ話題が、僕が大学から退職するまで関係してきた環境や生態系のことなので、単語を拾っては話の内容を大体推測できた。それにしても世の中には凄い人がいるものだ。僕は一生かかっても絶対に、彼のようにはエスペラント語が話せない。Luizの住むParaiba do Surの人口は3万5000人、エスペラント事務所のあるTres Riosの人口は10万人だ。ここのエスペラント語の普及には、日系二世のKazuhiko Ouchiが大いに貢献したと言う。だから二つとも小さい町なのに、Paraiba do Surには100人、Tres Riosには25人のエスペランティストがいるという。人口300万に近い大阪のエスペラント会員がわずか70人程度であることと比較すると驚異的な人数だ。僕はこの二つの町で、初めて「エスペラントの世界」を見たような気がした。
ブラジリアに住むエスペランティストJosias Barbozaは、5月の初めに僕の記事が“La Nacion”紙に載った後すぐ、招待のメールをくれた。僕は計画都市ブラジリアを以前から是非見たいと思っていた。Josiasの招待メールは渡りに舟だった。Tres Riosからブラジリアに向かって少し北に向かうと、山はなくなり広大な高原が広がってきた。道が真っ直ぐなのでスピードが出せる。リオ・デ・ジャネイロに到着した日からもう二週間近く青空が続いている。やはりバイクには青空がいい。ブラジリアの手前250kmの町を出る前夜、Josiasに電話した。僕はJosiasの住所はブラジリア市内だと思っていたが、郊外にある衛星都市の一つだというので、分かりやすい空港で午後1時に会うことにした。
人口湖に面するブラジリア
Josiasは約束の1時より10分早く、Fiatの1000ccに乗ってやって来た。早速Josiasの先導で家に向かった。家の正面に大きな鉄の扉があって、扉を開けると大きな駐車場があった。7つの寝室と3つのトイレがある大きな家に一人で暮らしている。部屋がたくさん余っているので以前にもエスペランティストを何人か泊めている。エスペランティストなら何時でも泊めてくれるらしい。
ブラジリアで泊めてもらったJosiasの家
彼には息子さん二人と娘さん二人がいるが、スペイン語の教師である奥さんとは離婚したらしい。しかし彼は、僕の滞在中、奥さんや娘さん達と二回も会って、奥さんとも楽しそうに話していた。とても離婚した間柄とは思えない。その奥さんと娘さんの一人は、僕がブラジリアを出る前日、ある新興宗教の町に僕を連れていってくれた。キリスト、インカやエジプトの王まで登場する変わった宗教で、大きな寺の中では奇抜な制服をきた信者達が祈りで病人を癒していた。知り合いがいないと、なかなか入れない場所だ。
Josiasの家には大きな庭があって、そこにはバナナ、パパイア、なすび(melongeno)、レモン、その他名前を聞いたが覚えられない木がたくさん植えられている。中でもカッサバ(manioko, タピオカは?)という木には、その生命力の強さに驚かされた。この木の幹は直径2cm位しかないのだが、地中に大きな根を持っていてそれが食用に供せられる。また葉は粉にして香りを付けるため米などに入れて料理される。このカッサバの根を取った後、木をそのまま地面に刺し込むと再び根を出す。あるいは枝の一部を切って地中にれば、そこから新しい木が成長する。枝は切ってから部屋に置いておき、一年後に地中に戻しても大丈夫だ。それほど生命力の強い木だ。こうした自然の恵みがJosiasの食卓を賑わしている。
Josiasの家族(右からJosias、次女Rosalia、元妻Marcina、長女Renataとその夫Joao )
Josiasの家の庭
Planet Unionのテレビ・スタジオ
Josiasは、僕より10ヶ月だけ年上の56才だ。同じ年齢だと言ってもよい。英語とポルトガル語の教師をしていたが、6年前に退職し、今は月額600ドルの年金で暮らしている。彼は(Worldwide brotherhood,)「一つの地球」 Planet Unionという所で 週5日ボランティアとして働いている。「一つの地球」は人類の福祉のためのNGO組織で、そうした活動を広く知らせるためケーブルテレビの番組を作っている。「一つの地球」は、より良い世界を作るためにはエスペラント語も必要だと考えているので、Josiasはそこでエスペラントに翻訳したり、また番組のためにエスペラントでインタビューしたり、エスペラント語を教えたりしている。「一つの地球」は湖畔の高級住宅街にあった。所有者はUlisses Riedelという弁護士で、彼は自分の大邸宅をテレビ・スタジオとして解放している。UlissesはこのNGOのために私財を使い果たしてきた。僕はこのスタジオでインタービューを受けることになっていたが、なぜかインタビューは行われなかった。テレビ・スタジオには15人ほどの人が働いている。その一人はBona Esperoと呼ばれる孤児院で育った。Bona Esperoは、約30年前ブラジリアの北250kmの所にブラジルのエスペランティストによって建設された孤児院だ。そこでは世界から集まってきたエスペランティストが孤児の教育を行い、同時にエスペラント語も教えている。僕は日本を出る前、できればここに長期滞在してエスペラント語を勉強するつもりだった。しかし、コロンビアになるべく早く帰らなければならないのと、ボゴタにもエスペランティストが何人もいて彼等と一緒に勉強できるので、Bona Esperoへ行くのは止めることにした。
ブラジル・エスペラント連盟の事務所があるビル
連盟の会長候補者の所信表明演説
ブラジリアに着いて2日後、7月2日にJosiasに連れられてブラジル・エスペラント連盟の事務所に行った。ブラジリアにはエスペラント関係の事務所が三つあって、連盟の事務所はその一つだ。事務所は、市内の中心部にある巨大なビルの中にあり、大きな部屋が6つもある。あまり広いのでその内の二つの部屋は使われず空室になっていた。誰かが寄付したらしい。羨ましい限りだ。連盟には15人ほどのエスペランティストが集まって、みんな忙しそうに仕事をしていた。今月Maceioでエスペラントのブラジル大会が開かれるので、その準備に追われていたのだ。この国内大会で新しい会長が選出される。その候補者がサン・パウロから飛行機で飛んできて、みんなの前で所信表明演説をした。自国語と変わらない流暢なエスペラント語には驚かされた。Josiasはかつて、このブラジル・エスペラント連盟の会長をしていた。在任中の1990年に、キューバでエスペラントの世界大会が開かれ、当然彼も参加した。大会の期間中、フィデル・カストロによる祝宴が開かれ、約70国から代表一人ずつが招待された。Josiasはブラジル代表だった。そしてカストロと握手をしたと言う。2007年には世界大会が横浜で開かれる。その時の日本の首相は同じことをしてくれるのだろうか?JosiasはMaceioで開かれる国内大会には参加せず、今月の24日から31日まで北京で開かれる世界大会に参加する。もう日が迫ってきているので、ビザの申請など旅行の準備に忙しい。中国へはノートパソコンを買って持って行くというので、パソコンや輸入品をたくさん売っているマーケットに行った。SONYやTOSHIBA製の大画面のノートパソコンが15万円位で売られている。これがパラグアイの免税都市Ciudad de Esteに行くと、半値以下で買えるそうだ。僕は知らずにCiudad de Esteを素通りしてきた。
Josiasは200ページのエスペラント語によるエスペラント語の教科書を3年かけて書き上げた。ちょっと見ただけだがなかなか良い教科書で、僕も欲しいくらいだ。ブラジル・エスペラント連盟は出版したいと言ったが、彼は世界のどこの国でも使える教科書にしたいと思い、2002年に中国の長春の大学に英語とエスペラント語を教えに行った。外国での経験を生かして教科書を改善する計画だった。ところが長春の大学は英語だけを求め、エスペラント語のクラスをなかなか組織しなかった。それではJosiasには意味がないので、彼は10か月でブラジルに帰国した。だから残念ながら、彼の教科書はまだ出版されていない。出版された日には、僕も買うつもりだ。
Josiasは語学を教えていただけあって、綺麗なエスペラント語をしゃべる。僕が聞き取れず聞き直すと、しゃべる速度を落とし、類似語を使ってしゃべってくれる。それでも分からないときは、辞書のように単語の定義で説明してくれる。なおかつ分からない時は、最終手段として英語の単語を使ってくれる。だから分からないまま聞き流すことはない。僕に分かるように話すためには、相当ゆっくり話さなければならないが、彼は8日間辛抱強く耐えてくれた。そのお陰で僕のエスペラント語は少し上達した。リオ・デ・ジャネイロで離陸した僕は今、エスペラント語でしゃべるのが楽しみになってきている。
計画都市ブラジリア
ブラジルの首都は昔、リオ・デ・ジャネイロだった。しかし1961年に、主要都市リオ・デ・ジャネイロやサン・パウロから1,000km以上も内陸部に入ったブラジル高原の、高度1,100mの所にブラジリアが建設され、遷都された。完全な計画都市は世界でも珍しい。だから僕はここを訪れたかった。ブラジリアの街は、川を堰き止めて造られた湖に面している。街の中心部には国会議事堂を中心に、10階建て程度の各省庁のビルが同じデザインでニ列に整然と並んでいる。Oscar Niemeyerの設計だろうか、半球形の建物も見える。従来のイメージを破ったモダンというより奇抜な形の教会も建っている。各国の大使館やホテル、学校も、それぞれ同じ地域に集めて建設されている。建物の多くはピロティー形式なので、都市に開放感を与えている。こうした建物を結ぶ道路はほとんど全て立体交差になっているので、交通信号はない。建物や道路は、その周囲に緑地を多く残しゆったりとした設計になっているので、他のラテンアメリカ諸国の首都に見られた雑踏はない。その分洗練はされているものの、今では人口200万の都市に成長したこの街の中心部には人間の臭いがしない。ちょっと無味乾燥な感じのする街だ。 リオ・デ・ジャネイロでも雨は降らなかったが、ブラジリアでも降らなかった。この辺では5月から10月まで、雨は一滴も降らないらしい。もう3週間もずっと青空が続いている。これから向かうブラジル東北部の海岸地帯でも雨は少ないらしい。アルゼンチンのブエノス・アイレス辺りからブラジルの南部まで雨の心配をしてきたが、これからは天気予報を見なくても済みそうだ。東北部の海岸にあるMaceio では、18日から5日間ブラジル大会が開かれる。10日間でそこまで走るのは少しきついが、急いででも大会期間中には着きたいと思っている。
ブラジルの東北部は赤道に近く、コブのように大西洋に突き出ている。南米大陸の一番東の地方だ。南の付け根に当るところにサルバドールがある。砂糖の取引で昔はブラジルで一番大事な都市だった。当時黒人の奴隷が集められたことから、今でも黒人の人口は多い。ブラジルでは、珍しく古い町並みが残るこの都市に、僕は何日か泊まるつもりだった。しかし古い建物があるセントロでは駐車場のあるホテルがなく、やっと見つけたらそこは連れ込みホテルだった。ホテルに着いたのは6時を回っていて、もう辺りは暗かった。こんなに遅いチェックインはこの旅で初めてだ。連れ込みホテルで24時間泊まると恐ろしく高くつく。僕はそのホテルで一泊しただけで北のビーチに向かった。
サルバドールの北にある砂浜
サルバドールから北は美しい砂浜が続いている。この海岸線では、1,000kmに渡って海亀が産卵する。ブラジル政府は、海亀の保護に乗り出し、最近は亀の数も増えたそうだ。この海岸線に、高層ビルの立ち並ぶいくつかの都会がある。第二時世界大戦ではアメリカの基地があったこれらの都会は、今では砂浜に訪れる観光客で賑わっている。またここの沖合いの海では石油が出る。だからこの地方はブラジルの経済にとって大事な所だ。僕は、南からこれらの町を繋いでバイクを走らせた。エスペラントのブラジル大会に参加するのと、メールをくれたエスペランティストに会うためだ。ブラジルの南部は寒いくらいだったが、この辺りは暑くみんなが泳いでいる。まずエスペラント大会の開かれているMaceioに着いた。ブラジル中からエスペランティストが集まっているので、ホテルは混んでいると思った。それでエスペランティストから情報を得るため直接会場へバイクで乗りつけた。会場は市内中心部にある大学で誰でも知っているので、比較的苦労せず着くことができた。入口に入るとすぐ、ブラジリアのテレビ局のカメラマンがテレビカメラを回しながらインタビューにやって来た。僕は、彼とは彼が働くブラジリアのテレビスタジオで会っている。カメラに向かって少ししゃべった時、横から「トオル」と呼ぶ声が聞こえた。リオ・デ・ジャネイロで家に泊めてくらたAdemarではないか。彼はMaceioは遠いので来ないと言っていたはずだ。しかし、2,200kmの距離を36時間バスに揺られて二日前にやって来た。どこに泊まっているのかと聞くと、大学の隣にある学生の寄宿舎だと言う。部屋にはベッドが三つあって、あのラジオでインタビューしてくれたエスペラント文化会館の館長であるGivanildoと同室で、ベッドが一つ空いていると言う。渡りに舟とはこのことだ。僕はそこに泊めてもらうことにした。
日本に留学したことがあるGizele Comini(左)
エスペラント大会では様々なプログラムが企画されていた。チョコレートについての講演会で。
四日間参加した大会では、リオ・デ・ジャネイロやブラジリアで会ったエスペランティストとも多く再会した。さらに北のFortalezaからメールをくれた医学生のHilbernon Filhoとも会った。同じFortalezaから来たRogerio Vascongelosは、日本語を勉強しているというので日本語でも少ししゃべった。彼はFortalezaでコンドミニアムを持っているので、そこに泊めてくれると言ってくれた。連日開かれた夜のパーティーでは、サン・パウロの近くから来たという女性Gizele Cominiが日本語で話しかけてきた。彼女は7~8年前富山市に10ヶ月、政府派遣で留学したと言う。彼女は弁護士の夫Venicioと一緒に参加していて、夫のいるテーブルに招待してくれ蟹料理をご馳走してくれた。さらに翌日は、夫とともにアラビア料理の昼食に招待してくれた。僕は日本大会にさえ行ったことがないのに、いきなりブラジル大会に参加した。大会にはポルトガル、フランス、キューバのエスペランティストを含め399人が参加していた。連日いろいろなプログラムが組まれているが、それよりもこうした知らないエスペランティストと会うのも楽しみだ。大会閉幕の前日、終日かけてブラジル・エスペラント連盟(BEL)の会長と役員の選出が行われた。異例のことらしいが、サン・パウロから二人の立候補者が出た。二人とも30代くらいだろうか、若い。その一人とはブラジリアで会って知っていた。立候補演説をするため、彼に続いてもう一人の立候補者が壇上に上がった。彼はまず、彼のグループの役員の名前を呼び壇上に招いた。何とAdemarが壇上に上がっていくではないか。演説の後、BEL会員700人の内、大会に参加している176人により投票が行われた。Ademarのグループは残念ながら落選したが、僕はBELの民主主義的運営の一端を見たような気がした。
僕は大会最終日、閉会式には参加せず500km北のNatalに向かった。ブラジルのビザが一ヶ月ほどしか残っていず、あまりゆっくりできないからだ。Natalでは、サルバドール同様駐車場着き付きホテルが見つからず、2時間捜し回ってビーチの前にホテルを見つけた。すでに日が暮れ暗くなっていた。パソコンを使おうとしたら、部屋のコンセントは2mの男でしか刺せないほど高い位置にあった。こんなの初めてだ。夕食を食べにホテルの隣のレストランでは、海老を注文したのに魚が出てきた。幸いホテルの近くにあったインターネット・カフェでは、店の経営者はOSがWindows-XPだから僕のパソコンは接続できないと言って耳を貸さなかった。おかしな町だ。
NatalのJose Mario Marques
しかし、会ったエスペランティストはまともだった。Jose Mario Marquesは58才で州政府に勤めている。定年まで後7年だ。彼は、僕がまだリオ・デ・ジャネイロにいる時メールをくれた。僕は、FortalezaのHilbernon同様、Maceioのブラジル大会で会えるのではないかと期待していた。しかし彼は多忙で、来なかった。Natalに着いた夜、僕は彼に電話した。翌金曜日の午後1時、Joseはクルマでホテルに来てくれた。Natalの街をクルマでざっと見せて回ってくれた後、彼は肉と魚が美味しいレストランへ連れて行ってくれた。レストランでは職場の仲間が10人以上も待っていた。一人がFortalezaに転勤するので、その送別会をしていたのだ。それほど忙しい人なのだ。しかし送別会が終わるとすぐ、外国人観光客も多く訪れるビーチまでドライブしてくれた。帰りにはFartalezaへ向かう道へもクルマで走り、教えてくれた。大きな都市を出る道順は何時も難しい。僕はポルトガル語が分からないので余計に難しい。しかし僕にはエスペランティストがついている。Joseがホテルまで送ってくれた時はもう夕暮れだった。
Natalの外国人観光客も多く訪れるビーチ
Natalが南米大陸のほぼ東端にあるので、ここから道は西に向かう。Fortalezaまでは550kmだ。Natalを出る前夜、コンドミニアムに泊めてくれると言ったRogerioに電話した。550kmも走ると、道が悪ければ到着は夕方になるし、このところホテル捜しに苦労しているので、彼の招待はありがたかった。しかし泊めてもらえるコンドミニアムは空室で、ベッドがないと言う。残念だがホテルを捜すことにした。Natalからの道は良く、Fortalezaへは思っていたよりも早く、3時前に着いた。しかし、駐車場のある安宿は見つからなかった。2時間半かかって見つけたホテルは2000円近くもした。ブラジルでは今まで泊まってきたホテルの倍の料金だ。
Fortaleza
Rogerio Vascongelos
早速、HilbernonとRogerioに電話した。2時間ほどして、Hilbernonの連絡を受けたエスペランティストが二人ホテルにやって来た。ValmirとSandraだ。すぐにRogerioも来た。二人が帰った後、僕とRogerioは夜の繁華街を歩いた。Rogerioのコンドミニアムの回りにはダンス酒場がいくつもあって、道にまで若い男女が溢れている。週末とは言え、まるでカーニバルの夜のようだ。僕は、中南米の大都会では夜の外出を控えていたのでよく分からないが、どの街でも日中でさえ人通りはあまり多くなかった。それとも夜になると人が増えていたのだろうか。この街も最近、観光で急成長したので若者が多いと聞いた。リオ・デ・ジャネイロのAdemarを別にして、エスペランティストには酒のタバコもやらない人が多い。Rogerioはタバコは吸わないが、ビールやウィスキーは飲んだ。Rogerioはほぼ毎晩、飲んでは僕に「日本語でどう言うのか」と質問を連発した。いつも日本語の教科書と分厚い日本語の辞書を持っていた。僕が答える日本語を何回も復誦する。家には日本の民謡や美空ひばり、南春男、八代亜紀の若い頃のレコードもあった。もうそんなに若くはないのに、何が彼の日本と日本語に対する意欲を駆り立てているのだろうか。彼は英語、フランス語、ドイツ語もできる。こんな生徒が何人もいるのなら、僕は喜んで日本語を教えたい。
Hilbernonは24才、医学部の4回生だ。僕が電話した翌日、彼はクルマでホテルまで来て、劇場や博物館、マーケット等、Fortalezaの街を案内してくれた。その後、夕方に彼の家に行った。僕は、リオ・デ・ジャネイロのラジオ局でエスペエラント語のインタビューを受けた時にもらった番組の収録テープを持って行った。彼のオーディオ装置を使ってパソコンにコピーするためだ。しかしコピーはできたものの、録音された音声は非常に小さかった。彼は自分のパソコンでコピーしてくれた。また、Fortalezaを出る日には、朝の8時にホテルに来てFortalezaの郊外までクルマで先導してくれた。Fortalezaの道は複雑なので、彼がいなければ迷ってかなりの時間を無駄にしたはずだ。エスペランティストが助けてくれるので、言葉の通じないブラジルでは特にありがたい。
Hilbernon Filho
ブラジリアで果たせなかったテレビ出演だが、Hilbernonが叶えてくれた。テレビ局に勤める若いエスペランティストAndreから出た話らしい。Andreは、約束の8時半きっかりにホテルに来て、バイクの前をクルマでテレビ局まで先導してくれた。インタビューはテレビ局の前のガソリン・スタンドで行われた。テレビ局には英語をしゃべれるスタッフもいるが、僕とHilbernonはエスペラント語でやることに決めていた。アナウンサーの質問をHilbernonがエスペラント語に直し、僕がエスペラント語で答える。カメラマンは、BMWでガソリン・スタンド内と通りを走る僕の勇姿も撮影した。収録したビデオは「モターサイクル・ニュース」で流されると聞いた。撮影の夜、一般のニュース番組でも流されているのを見た。リオ・デ・ジャネイロはラジオだったが、今度はテレビだ。やはりテレビの影響は強い。Fortalezaを出た後、田舎の小さな町で泊まった。バイクに乗った人が、テレビで僕を見たと言ってホテルまで連れて行ってくれた。僕は少し有名になった。
テレビ番組の撮影
テレビの撮影現場にはRoberto Albuquerqueも来ていた。撮影終了後、僕は彼のクルマの後ろに追いて一旦ホテルに戻った。彼のクルマの後部窓ガラスには"ESPERANT"と大書されているので、クルマを見失うことはなかった。着替えてから彼のクルマで彼の自宅に行った。大きな家でガレージの鉄の門は、自動で開く。大きなガレージにはクルマが2台停められている。こんな家に住みたい。彼はブラジル国立銀行に勤めている。ブラジルの公務員は給料が高いのだろうか。彼は、奥さんと子供さん二人とともにビーチに連れて行ってくれた。ビーチの後、家に帰りお手伝いさんが作ってくれた美味しい料理もご馳走になった。家の中ではタバコまで吸わせてくれた。次ぎにFortalezaに来た時には停めてくれると言う。ブラジルでは泊めてもらえる場所がいくつか見つかった。
Roberto Albuquerqueと家族(左からRoberto、息子さんのGaico、奥さんのHelia、娘さんのArina)
Wandemberg Ribeiroは、Fortalezaのエスペラント会の会長だ。50才の医師だが、儲からないと言うところをみると、貧乏な病人を助ける高潔な医者なのかもしれない。仕事は忙しいが70才まで続けると言う。彼が忙しいのは仕事のせいだけではない。二年前Fortalezaで世界大会を開いた時は、発狂するほど忙しかったと言う。彼は国内大会は全て、海外の世界大会にも何回か行っている。
Wandemberg Ribeiro
Wandembergが教えるエスペラントのクラス
彼は仕事が終わってから、市内にある国立大学でエスペラント語を教えている。生徒はほとんど全員が語学を専攻する大学生だ。4クラスで合計130人の生徒だ。これだけの若い生徒を持っているのだから、彼が「エスペラント語に生きる」と言いきるのも当然だ。その一つのクラスにHilbernonと一緒に行った。30~40人の生徒がいた。まだ4回目のクラスだというのに、Wandembergはポルトガル語を全く使わずエスペラント語だけで教えている。 僕が教室に入ると、彼はすぐに僕を紹介してくれ、何かしゃべるように言った。僕は自己紹介の後、旅のことをしゃべった。質問が相次いだ。語学を専攻しているとは言え、たった4回の授業でもうエスペラント語が分かるのだ。Wandembergは、彼の生徒の中から、将来エスペラント語を教える人材の出ることを楽しみにしている。僕はきっと何人も出てくると思う。ブラジルはエスペラント大国だ。
Fortalezaからアマゾン河口のBelemまでは1,600kmだ。一日に400km走るとすれば、途中で三回泊まることになる。道路地図を見ると、ちょうど中間の800km位のところから70~80kmの間の舗装状態が悪いとなっている。ちょうどその手前にホテルのありそうな街があるのでそこに泊まることにしていた。しかし道路はその町の前から荒れ始めた。町を出る時は覚悟していた。距離計で80kmを過ぎた時に綺麗な舗装路が現れた。僕はほっとした。しかし、すぐに道路はひどい状態になった。そこからさらに約200kmの道はアスファルトが剥がれてなくなり、半ばダートに化した。この旅で最悪の道路だった。250kmちょっと進むのに6時間もかかった。
FortalezaからBelemへ走る。バイクを止めるといつも大勢の見物人が集まってくる。
Belem
Belemは、ほぼ赤道直下の町で暑い。ガイドブックで目星を付けていたホテルに向かう途中で、駐車場のある三ツ星のホテルがあった。バイクを止めてレセプションの価格表を見ると一泊4,200円と書かれている。4~5日泊まればいくらになるか聞いてみた。2,100円だと言った。ブラジルのホテルは南米の他の国に比べて少し高いが、それでも平均して1,000円で泊まってきた。だから一泊2,000円を超えると、僕には即座に心理的抵抗が生まれる。それで予定どおりガイドブックのホテルに行った。心配していたとおり駐車場はなかった。Belemは、確かに暑い。もう次ぎのホテル候補に行く気がしない。暑さで僕は、2,000円の壁に妥協し、三ツ星ホテルに戻った。値段は1,900円になった。机があり、エアコンの効いたいい部屋だ。少し高いが泊まることにした。ホテルの近所にはYAMADAというスーパーマーケットがあった。大きな売り場が5階まであって、スーパーと言うより日本の百貨店だ。YAMADAは一軒だけではなかった。都心を少し歩いただけで5~6軒あった。YAMADAさんは移民なのだが、大成功した内の一人なのだ。僕のホテルから4街区ほど歩いた所にヒルトン・ホテルがあった。その裏に立派な造りの日本料理店“Miyako”があった。サン・パウロと比べると味が落ちるが、久しぶりの和食はありがたかった。“Miyako”の主人も移民で成功した一人なのだろうか。ブラジルの地図を見ると、Belemからマナウスまでアマゾン横断道路という道路がある。昔、本でも読んだことがある。しかしこの道路は、保守されてこなかったので今や通行不能と言われている。それで僕は仕方なくマナウスまで船に乗ることにした。船の切符は、不思議にもホテルの近所の旅行代理店では売っていなかった。教えてもらった旅行代理店に行った。小さな部屋に机が一つだけ、従業員も二人だけの少し心配が残る代理店だった。僕は一番大きな船で個室に泊まりたいと言った。大きな船だとバイクを積み込み易いし、個室ならタバコも吸えるし、荷物も安心だからだ。しかし、800人乗りの大きな船は一週間後にしか出ない。Belemでそんなに時間を食うと、べネゼーラに入る前にビザが切れてしまう。少し小さい400人乗りの船は4日後に出るが、個室はなく二人部屋だと言う。仕方がない。僕は乗客切符の11,000円に加え、バイクの輸送にも同じ11,000円を払った。
船には夕方の6時に乗ればいいが、バイクの方は、朝の10時に代理店に来たらそこから従業員が船着き場まで案内すると、代理店に言われた。なぜ直接行ったらいけないのか、僕はわからなかった。行ったらわかった。一方通行の道は難しい。加えてバイクを船の横まで運び込むのに一緒に着いて来てくれた従業員は何人もの人と話していた。いざバイクを船に積み込もうとしたら、フェリーではない。玉葱が満載された船の一番下の甲板に入れると言うが、バイクがぎりぎりに通れるだけのスペース開いていない。しかも、甲板は突堤から1m半ほど下にある。朝の10時半だった。荷役夫の一人が、「俺が積み込んでやるので、水位が上がる一時に戻って来い」と言った。それで僕はホテルに置いてきた荷物を取りに戻り、一時に船着き場に戻った。水位はいくらも上がっていなかったが、バイクは3時半に無事船に積み込まれた。当然、報酬を要求してきた。積み込んだ四人に対して1,900円だと言った。高いと言うと1,500円になった。僕が1,500円を払ったのを見た船客は、750円で十分だと言った。
Belemの船着き場
船は夜の9時に出港した。僕の部屋の相棒はAntonioという名前で、64才の男性だった。都合のいいことに彼もタバコを吸った。それで個室は取れなかったが部屋でタバコを吸うことができた。彼は22才の時に26才の友達と徒歩旅行に出て、8年間ブラジル中を見て回ったと言う。それを聞いただけで、彼が今までどんな風に生きてきたのか非常に興味があった。しかし、僕はポルトガル語は分からない。彼はエスペラント語、英語はもちろん、スペイン語もしゃべれない。ポルトガル語はスペイン語に近いのでほんの少しは通じる。通じると言っても、実は殆ど分からない。
船室の相棒、Antonio
僕は船にはコンセントがなく、パソコンは使えないものと思っていた。それで、五日かかると言われる船上では日記はノートに書いてあとは本を読もうと思っていた。この三年二ヶ月、一行も読む暇がなかったのでそれでも好いと思っていた。しかし嬉しいことに、船室にはコンセントがあった! 僕は連日、すでに日本語で書き終えていた旅日記三本の英語とエスペラント語への翻訳に取り掛かった。しかし困ったことに、船がアマゾンの途中の町に近づくと、エンジンを切りかえるのか必ず電圧低下か停電が起こる。その度にバッテリーが死んでしまった僕のパソコンは落ちてしまい、それまで書いていた文章が飛んでしまう。それを身振り付きのスペイン語でAntonioに話すと、彼は港が近づく度に僕に警告するために部屋に戻ってくれた。彼は以前、マナウスから南西のボリビアに近いPorto Velho行きの船で7年間働いていた。そのこともあってアマゾンには詳しい。港に着く度に僕は彼にコンピュータの地図を見せ、場所を確認することができた。時として人間の気持ちは言語を越えることがある。
船が港に着く度に電圧低下か停電が起こり、僕のパソコンが死んでしまった。
僕はAntonioと一緒に部屋に泊まったが、殆どの船客は多分半値のハンモックで寝ていた。一寸の隙間もなく二列にハンモックが吊られている。隣のハンモックと接触するくらいだから、船首に向かって左側が女、右側が男に分けられている。僕が個室を望んだのは、コンピュータやビデオカメラ等の盗難を恐れてのことでもあった。ガイドブックには、船室は高い割には暑いのでハンモックの方がむしろ良いと書かれていた。しかし部屋には空調があった。この船旅の三食の食事は船代に含まれている。バイクは船上で、ほぼ僕と同じ面積を占有するが、動かない、食べない、だから糞もしないのに何故僕と同じ値段なのかは理解できなかった。それはともかく、ガイドブックには船の食事は悪いので食料や水を持ち込むように書かれていた。僕はその指示に従った。しかし船の食事は美味しかった。しかも飲料水は用意されているし、売店には冷えたビールから焼酎まで売られていた。船室にはトイレとシャワーまであって、ガイドブックで想像したよりもずっと快適な旅だった。
ハンモックで寝る船客
アマゾンを進む船
アマゾン川には家はまばらだ。
アマゾン川はBelemからマナウスまで、ほぼ赤道に沿って流れている。世界最大の川だ。Belemでは向かいに細長い島があって分からなかったが、地図を見ると川幅は40~50kmもある。Belemからマナウスに向かう船は、川幅を狭めたり広げたりするアマゾンを進む。川の中に細長い島がたくさんあるからだ。でも、この川は巨大だ。川と言うより、無限に続く大きな湖だ。そんなに大きな川なのに、船は川の左岸か右岸に沿って遡航する。多分、川の真ん中は流速が速くて燃料が余分に要るためなのだろう。アマゾン川の両岸は巨大なジャングルだ。しかし所々に人家が見える。子供達は学校がないのだろか、4~5才くらいの子供が、小さな舟に乗ってアマゾン川で遊んでいる。小舟に乗っているのは不思議と子供達ばかりだ。日本では不幸なことに、親が危ないと言って絶対に乗せないだろう。でもアマゾンの子供にとっては、舟は自転車みたいなものなのだろう。舟に乗っている子供の中には、我々の大きな舟に向かって来てロープをこちらの舟に引っ掛け、船のヒッチハイクを敢行する者もいる。舟とアマゾンがあれば道路は要らないのだろうと実感する。川岸には丸太の集積場も見た。大した木材の量ではなかった。世界は森林破壊による地球温暖化の危機を叫んでいる。しかしこの広大なアマゾン流域の道路は整備されていない。幹線道路とも言えるアマゾン川の両岸にも都市は本当にまばらで、人家はほとんど?い。僕は衛星写真によるアマゾンの森林破壊の進行状態を、本やテレビの映像で見た。しかし、船から見る限りそんな大規模な開発が行われてきたとはとても信じがたい。
ある昼、船が突然止まって、また停電した。僕のコンピュータの画面も消えた。部屋の外に出てみると、何人かの船員が島に降りていくのが見える。どうも果物や何かを買いに行くようだ。数少ない外国人観光客の内、ヨーロッパからきた二人の若い男性も、ジャングル・ツアーだと言って上陸した。僕は、彼等と一緒に歩く気にはならなかったので、船の反対側に行きアマゾンの水面を眺めていた。遠くの水面に何か大きなものが動いている。僕は誰かが泳いでいるのだと思った。しかしよく見ると魚だ。7~8匹の大きな魚がイルカのように水面を跳ねている。“Opa!”だ。船員に聞くと、僕ほどの大きさの魚らしい。僕は、開高健がアマゾンの巨大魚を吊り上げにブラジルへ来て、“Opa!”という本を書いたのを思い出した。「健さん、ここにいますよ」と言いたかった。
アマゾンにもやがて陽は落ちる。僕は、Belemでは暑かったのでアマゾンでも暑いだろうと覚悟していた。しかし船上は案外涼しい。夜は寒いくらいだ。陽が落ちるとアマゾンは漆黒の闇に包まれる。河岸にはジャングルの黒い長い帯が続く。川面も真っ暗で見えない。船は、30秒間隔くらいでその川面や川辺をサーチライトで照らし、進路を確認しながら進む。Belemは世界でも最も降雨量の多い都市だと、ガイドブックに書かれていた。だから僕はこの船旅に雨を覚悟していた。しかし結局、僕は船で6泊したのだが、雨が降ったのは一日だけ、しかも朝の一時間だけだった。晴天の夜空に月はなかった。6夜も月は出なかった。そのためアマゾンの夜は余計に暗かった。その分だけ星は明るかった。
空は無数の星で飾られている。久しぶりにいくつもの流れ星を見た。そのうち、おかしな流れ星が見えた。その流れ星は点滅しながら数秒間で天空をまっすぐ横切った。飛行機は絶対にあの速度で移動できない。僕はUFOではないかと思った。人家まばらなアマゾンになら出て来ても不思議ではない。しかし、UFOは、しばしば直線で飛行せず急に方向を変えると言われる。また点滅の流れ星が見えた。この流れ星は、その飛行の途中で急に90度方向を変えた。僕は、今度こそUFOかもしれないと思った。船は、ある港町に着いた。そこでもまた見た。たまたま横に人がいた。彼に、「あれ見て! 何?」と言った。彼は退屈そうに、「ああ、昆虫ですよ」と答えた。街のかすかな光の中でよく見ると、一種の蛍だった。
アマゾンは広大な平地をゆっくりと流れる。両岸には山はない。だから夜空を遮るものは何もない。星は地平線の近くまで輝いている。船が進む前方に明るい星が見える。その星の下にも同じ輝きの星が見える。しかし、その位置は黒いジャングルの位置から考えるとアマゾン川のはずだ。僕は左右に首を動かしてみた。下の星が上の星と一緒に動く。上の星がアマゾン川の水面に映っていたのだ。僕はそれまで、月が水面に映っていたのを見たことがあるが、星は初めてだった。
船は、夜のアマゾン川を西に向かう。左岸のジャングルの上から細長い白い雲が北に向かって伸びている。アマゾンでは僕の常識を超えたことが起こってもおかしくはない。しかしこの雲はおかしな形だ。まるで夜空にかかった虹のようだ。あるいは白い川と言ってもよい。雲の虹の両側は満天の星だ。おそろしい数の星だ。これだけ星が多いと僕のコンピュータの星座ソフトでも星座は確認できない。南十字星は地平線の下に沈んで、最早見えないが、この賑やかな星空はロマンチックな映画に出てくる、あの嘘みたいに輝く夜空だ。映画は嘘ではなかったのだ。しかし、あの虹のような雲は邪魔だ。僕は雲をよく見てみた。その雲の中にいくつもの星が輝いている。では、雲ではない。天の川だ! 世界の天文台は高い山の上に造られている。厚い大気の層による影響を避けるためだ。この船はまるで、アマゾンから離れ宇宙船となって大気圏外に飛び出したみたいだ。僕はロッキー山脈やアンデス山脈でも凄い夜空を見た。しかし、こんなにもはっきりした天の川を見たことがなかった。
僕は、この細長いおかしな雲を6夜続けて見た。だから雲ではなく、間違いなく天の川だ。天の川は、実は一つの川ではなかった。天の川は、南の空40度位の所で二つの川に分岐して北に流れていた。西側の川は途中、三・四ヶ所で切れていた。我々の地球は銀河系の端にある。そこから僕は銀河系の全貌を、アマゾン川の船上で見ている。宇宙はもちろん三次元だ。天の川が二つの平行した川に見えるということは、我々の銀河系はまるでハンバーグの両側のパンのような形をしていることになる。円盤のような銀河系の真ん中が空虚な空間になっているのか? 常識で考えると、地球と同様、円盤の中心部ほど星の密度が高いはずだと思うのだが。宇宙はどこまでも神秘だ。
マナウス
船はマナウスに近づいた。真っ暗な前方にマナウスの街の灯がかすかに空を照らす。その明かりは次第に大きくなり、今まで暗闇に隠れていたアマゾンの水面を照らす。マナウスはまだ40kmほど先だが、それでもその灯でアマゾンの細かな波まで見えるようになった。僕は眼を水面から夜空に移した。街の灯で、すでに星は輝きをなくしていた。自然は繊細だ。たかがマナウスの街の灯でも夜空の星を隠すことができる。 マナウスから北へ800kmの所にBoa Vistaという都市がある。ここからべネゼーラまでは200km程度だ。マナウスからべネゼーラに抜ける道は一本だけあって、それがBoa Vistaを通っている。Boa VistaにはRio Blanco川が流れていて、これが南でアマゾンに合流するので、マナウスからBoa Vistaまでは船で行くこともできる。しかし僕はもちろんバイクで走った。マナウスを出ると、道路はジャングルの高い木の中を走る。マナウスから150km位の地点からはジャングルの木が道の両側で数百kmに渡り切り倒されていて、草地に変わり牛が放牧されている。これが基本的にBoa Vistaまで続き、Boa Vistaからべネゼーラまではジャングルは地平線の彼方に姿を消す。しかし、途中に原住民の大きな居住区がある。それはマナウスから200kmの地点から赤道の数10km南の地点まで130kmも続いていて、この部分だけは未開発で再びジャングルになる。この居住区の中では、クルマやバイクを停車することは許されず、一気に駆け抜けなければならない。ジャングルは近代文明を寄せ付けない原住民によって守られているという感じだ。僕は、アマゾンの森林破壊は言われるほど大したことではないのではないかと思ったが、この道を走るとそれは間違いだという気がした。マナウスの小さな灯でも星を消すことができたように、我々文明はやはり我々が想像する以上に自然を傷つけているのかもしれない。
マナウスからベネズエラに抜ける道は、舗装状態が良いと聞いていた。初めは確かに良かった。しかし途中から穴ぼこが現れてきて視線を道路から逸らすことはできなかった。1,000kmのこの道で唯一の都会、Boa Vistaに近づくに連れまた道が良くなり、穴ぼこは減ってきた。それで調子に乗ってスピードを110km位まで上げた。大きな穴ぼこは上り坂の頂点にあって見えなかった。大きな音を立ててバイクが跳ねた。Boa Vistaまで約100kmの所だった。
BMWを停めると必ず人が集まってくる。
しばらく走って、小さなレストランの木陰にバイクを停め、冷たいものを飲んでいた。BMWを停めると必ず人が集まってきてしげしげと鑑賞する。この時もそうだった。男の一人が僕の方を向いてバイクの中央のやや下の方を指差した。僕は「何か問題ですか?」と聞いた。「うん」という返事が返ってきた。見ると、車体を太いボルトで固定しているドライブ・シャフトの上部が剥ぎ取られ、ボルトが露出していた。アルミの溶接をできる所はないかと聞いた。彼はBoa Vistaの町の入口にあると言った。僕はスピードを落とし、Boa Vistaまでバイクに衝撃を与えないように静かに走った。溶接屋はできると言った。僕はほっとした。しかし若い溶接工は途中で黙って消えた。別の溶接工に聞くとアルミの溶接棒を買いに行ったと言う。少し不安になった。しかし、汚い仕上がりだが溶接は終わった。僕は1,100円ほど払い、何回も礼を言って町の中心まで走った。大きな駐車場のあるホテルが見つかった。ホテルの入り口にバイクを止めると、すぐにライダーが一人やって来た。少ししゃべって僕は駐車場にバイクを停め、荷物を降ろそうとしたらテールランプの赤いプラスチックのカバーが壊れてなくなっていた。またバイク屋捜しか、と思っていたらホテルの主人が来て、表で待っているライダーが話したいと言っていると伝えてくれた。彼は、その夜Boa Vistaのライダーズ・クラブのメンバーが集まるので来ないかと言った。僕はもちろん引き受けた。ついでにバイク屋はどこにあるのか彼に聞いてみた。彼はバイク用品店まで先導してくれた。お陰で何とか取り付けられるカバーを見つけることができた。
夜、ライダーの一人がYAMAHA Virago-250に乗ってホテルまで迎えに来てくれた。僕は知らない町で夜にバイクに乗るのは嫌なので後ろに乗せてもらった。集合場所はガソリンスタンドだった。日本製の1リッターバイクが十数台集まってきた。僕達はバーに飲みに行った。殆ど全ての人が奥さんを後部座席に乗せていた。飲み終わって3台のバイクが僕をホテルまで送ってくれた。僕はBMWの溶接部分を彼等に見せた。絶句した。何と溶接屋から5km位しか走っていないのに、既に溶接が剥がれているではないか!
ガソリン・スタンドに大型バイクが集まった。
ガソリン・スタンドに集まったライダー達
Boa Vistaのバイク屋"Suzuki"
翌朝、ホテルの従業員にバイク屋はないかと聞いた。横で聞いていた自転車のオジさんが連れて行ってやると言ってくれた。彼は汗だくで僕のバイクの前を走った。ブラジル人は本当に親切なのだ。バイク屋はSuzukiという店だった。修理工二人に破壊された部分を見せた。二人は、電気溶接だから簡単に壊れたので、アルゴン溶接なら大丈夫だと言った。それをできるのはBoa Vistaには二~三軒しかない。修理工の一人がすぐに電話して、破壊部分を持って溶接屋まで走ってくれた。一軒だけができると言う答えが返ってきた。明日は日曜日だが特別に修理してやると言ってくれた。バイク屋もモトクロスレースがあるので、都合よく店を開けていると言う。それで僕は翌日の朝、8時に戻ってくること言ってホテルに戻った。修理工のYbson Costa Fernandesは8時半に店にクルマで来た。来るなり、溶接工がいるかどうか問題だと言った。僕は、「きのう、彼は今日溶接してやると言ったではないですか」とYbsonに言った。彼は少し疑っているようだった。彼は何回も溶接屋さんに携帯電話をしてくれたが返事はなかった。それで彼は、僕を彼のクルマに乗せて溶接屋に行ってくれた。果たして、溶接屋は昨夜から何処かへ行って帰ってこないという答えが返ってきた。やっぱりここはラテン・アメリカだ。月曜日も8時にSuzukiへ行った。Ybsonが電話をするとしばらくして溶接屋さんが来てくれた。溶接する部分の周囲を全て取り外す必要があると言った。BMWのこの部分を取り外すのは容易ではない。他の3~4人の修理工も協力してくれた。そればかりではなく、彼等は何回もジュース、冷たい水、コーヒーを持ってきて飲ませてくれた。本当に優しい人達だ。
"Suzuki"の修理工。左がYbson。
昼前にやっとバイクの解体が終わった。ピックアップトラックが用意された。重いBMWをどのように積み込むのかと思っていると、修理工が4~5人集まってきてみんなでバイクを持ち上げ荷台に積み上げた。この筋肉があれば道具は要らないと太い腕を見せてくれた。僕は、修理工たちがBMWの破損部分は薄過ぎて強度が弱いのでもっと厚くすると言うのを聞いていた。それで同じ形をしているがもっと厚いものをアルミの塊から削り取るのかと思っていた。しかし溶接屋さんは上部が剥がれて下に残ったネジ穴の部分を溶接で埋め始めた。そしてその上にどんどん溶接を積み上げていった。なるほど、この方が簡単だし、強い。二時間後、破壊部分の修復は元の状態のように綺麗に仕上がった。この作業に払ったお金は3,800円だった。日本やアメリカではいくら取られることだろう。僕たちはまた4~5人でバイクをトラックに積み込み、Suzukiに持ち帰った。Ybsonは溶接部分にネジ穴を切った。バイクが元の姿に組み上げられたのは夜の8時だった。閉店の5時頃、一人の客が来て、Ybsonに「なぜ俺のバイクができていないんだ!」と文句を言った。Ybsonは平然と、「俺はこのBMWを修理していたんだ」と答えた。街の常連よりも一回で何処かへ去ってしまう旅人の方を優先する。ありがたいことだ。この修理のついでにエンジンオイル、シャフトドライブ液及び後部ブレーキパッドの交換、それにエアーフィルターの清掃もしてもらった。Ybsonは車体に下の方に隠れていた部分を調整して、きつ過ぎたクラッチレバーを緩めてくれた。またこの作業でなぜか、500rpmまで落ちていたアイドリングが正しい1000まで戻った。車体の破損は、実はメンテナンスを要求しているBMWの訴えだったのかもしれない。Suzukiの主人らしき人が、「こんな馬鹿なことは日本のバイクでは絶対起こらない。この剥がれ落ちた部分をBMWに送ってやれ」と言った。少し前にBoa Vistaから南に向かったBMWも同じ道で車体が折れたらしい。サンチャゴで起きたクラッチ盤の歯車の破損や、パタゴニアで起きたインジェクターの故障も深刻だった。しかしクラッチ盤は日本製の歯車に取り替えたし、今度のアルミ溶接は少々荒れた道でも大丈夫だ。メキシコでの風防支持部の溶接も、ブラジルでのサドルケース支持部の補修もまだ耐えている。僕のBMWは次第に南米仕様になってきた。
僕は、この事故がなければ夜Boa Vistaで二泊だけして直接ベネズエラに向かうつもりだった。しかし待ち時間ができたのでガイドブックを読んだ。ベネズエラの入国にはツーリストカードの提出だけでよいが、国境で貰えるかどうかは分からないと書かれていた。このことをYbsonに話したら、彼はBoa Vistaで用意した方がいいと言った。それで僕は滞在を一日伸ばし、Suzukiの近所にあるベネズエラ領事館に行った。ツーリストカードと言っても、ベネズエラのものは自分で書くのではなく、領事のサインが必要なビザと変わらないものだった。ツーリストカードの取得には黄熱病の注射も必要だった。
ある夜、僕のホテルには5台の大型オフロードバイクに乗った5組もカップルが泊まりに来た。彼等は35日間のツーリングに出ていた。ブラジル南部のCuritibaからベネズエラに入り、またブラジルのここBoa Vistaに戻ってきた。翌朝、彼等はGuyanaに入り、そこから東のSurinameと仏領Guianaを抜けてCuritibaまで帰る予定だった。二日後、彼等はまたホテルに帰ってきた。入国を拒否されたと言った。バイクのアクシデントがなければ、僕もベネズエラまでの200kmを往復するところだった。以前、パソコンでの問題発生が僕のパソコン・システムを進化させた。今度のバイクに関する問題発生は、ベネズエラへの入国拒否までも未然に防止してくれた。旅は順調だ。
このオフロードバイクのライダー達はGuyanaへの入国を拒否された。