(1)2002年7月27日 Tegucigalpaからのメール
ホンデュラスの国境
エル・サルバドールからホンデュラスへ国境を越えるのが、また大変でした。朝の10時半に国境に着いて、エル・サルバドールの出国とホンデュラスのビザは簡単に終わったんですが、ホンデュラスへのバイクの持ちこみ許可は、係員の昼食で一時間のロス、昼食が終わっても税関の責任者がエル・サルバドール側に行ったまま帰って来ません。そこで、その責任者を探しに、またエル・サルバドール側に戻りましたが会えませんでした。またホンデュラス側に戻り彼を待ちましたが、3時半になっても彼は職場放棄したまま帰ってきません。僕はその日の内に入国したいから早く来てるんです。このままでは日が暮れてしまいます。日が暮れると、この辺の国では動物との衝突事故ではなく、人間の襲撃が怖いんです。例の国境手配師が20ドル出すと早く済むと言います。また闇の入国税です。20ドルで急に事態は進展しだしましたが、手配師は大変でした。一つ書類ができると、エル・サルバドール側に行ったまま帰ってこない責任者の許可をもらうため、何回も何回も自転車で国境を往復していました。結局バイクの書類が揃ってホンデュラスに入国できたのは5時でした。しかも多額のお金が要りました。 エル・サルバドール側の手配師に5ドル、ホンデュラス側の手配師三人に20ドル、ホンデュラスのビザに10ドル(これは手配師に騙された可能性があります)、バイクの持ち込み手続きに45ドル、役人への賄賂に20ドル、合計100ドルもかかりました。手配師が全て処理してくれるので、僕はバイクの側でタバコを吸って待っているだけですが、バイクを連れてこの辺の国境を越えるのは疲れます。国境から35km離れた最寄の町のホテルに着いた時には、もう日が暮れかけていました。そのホテルは700円以上もしたのに、暑くて、しかも床に荷物を置いたら歩けないほど狭い上、トイレの水まで出ませんでした。
ホンデュラスの首都テグシガルパ
売春宿が建ち並ぶ通り
暑い上にホテルが高いので両国境の町をそれぞれ一泊しただけで、逃げるようにしてホンデュラスの首都テグシガルパに来ました。テグシガルパは約1000mの高さにあるので、さすがに気温は下がって快適です。中米の大きな町の多くが山の上にある理由がよく分かります。今泊まっているホテルは、テグシガルパでも一番危険と言われる地域にあって、近所は駐輪するスペースすらない、250円~300円くらいでも泊まれる売春宿が多い中で、900円もするだけあって二階が駐車場になっている上、部屋は広く、明るく、清潔です。ケーブルテレビに浴槽まであります。駐輪料金を一日220円取ると言われましたが、ホテルの経営者と交渉してタダにしてもらいました。浴槽のある部屋は、メキシコのカンクンで泊まったハイアット、シェラトン以来、7ヶ月半ぶりです。久しぶりに風呂に入れると喜びました。しかし、湯は壊れていて出ません。扇風機すら要らない涼しい部屋で水のシャワーを浴びるのには、少し気合が要ります。テグシガルパに着いて二日目に、エル・サルバドール同様停電しました。エル・サルバドールの国境の町ではシャワーを浴びている途中で停電して、水が止まりました。アメリカのキ?ンプ場の場合とは違って、身体の石鹸はほぼ洗い流されていましたが、髭を剃っていた顔は石鹸だらけでした。そのホテルは10ドルもしたので少し腹が立ちました。しかし、このホテルで停電した時はテレビを見ていたので被害はありませんでした。ホテルには蝋燭が用意されていました。久しぶりの蝋燭はなかなかロマンティックでした。
グアテマラ・シティーから田舎の小さな町を除いてずっと、夜の外出は危険と言うので夕食も日が暮れる前の5時か6時頃に取るようにしています。そうすると夜の11時頃にはお腹が減ってきます。仕方なく毎晩、一瓶230円のウォッカを500ccのビニールの袋に入った15円の水で割って飲んでいます。
5月の初めにグアテマラに入国して以来、この辺の地域は雨季に入り、毎日と言っていいほど夕方から夜になると雨がふります。先日は朝から夜まで一日中雨でした。こんなことは初めてです。夕方までは降らないと信じていたのに、テグシガルパ出発の日の天気を心配する必要が出てきました。8月で雨季は明けるそうなので、その心配もあと一ヶ月です。
このホテルの近くには小さな銀行がたくさんあるんですが、どこの銀行にもATMはないんです。一つだけ見つけました。しかし、一日の引き出し最高額が1万5千円ほどなんです。今まではずっと一回に5万円ほど引き出してきたので、ちょっと邪魔くさい気がします。しかも、僕のガイドブックでは、この国にはATMが少ないように書かれています。
インターネット・カフェも少ないようです。エル・サルバドール最後の電話通信では、なぜかホームページが更新できず、15分もホテルの電話を使ってしまい11ドルも取られました。ここのインターネット・カフェで、その送信できなかった一枚の写真を送ろうとしましたが、システムにプロテクトがかかっていてできませんでした。また、グアテマラ以降、中米、南米のほとんどの国ではAOLのインターネットの利用は有料になっています。これから先も通信手段の確保には苦労しそうです。
ホンデュラスには、スペイン語学校は西の端にあるマヤの遺跡で有名なCopanとカリブ海側のCeibaにしかないと思っていたんですが、インターネットで調べるとテグシガルパの他、何ヶ所かの町でもあるようなんです。早速テグシガルパの学校を二ヶ所訪ねてみました。授業料だけで一時間に10ドルもします。安い方の学校でも5.5ドル取られます。一時間5.5ドルで一日4時間勉強するとすると、週5日で110ドルかかります。グアテマラではこの110ドルで三食とホームステイが付いてました。同じ条件だと、テグシガルパではほぼ倍の費用がかかります。今僕は、テグシガルパで一週間80ドルくらいで過ごしています。それを考えると110ドルは高すぎるような気がします。これからCopanまで行く途中でさらに調査するつもりですが、安い学校がなければ自習するつもりです。そのため先日スペイン語の文法書を買いました。少し読んだだけですが、ちょっとづつ思い出してきました。とにかく、ビザもバイクの持ち込み許可も三ヶ月もらえたし、さらに三ヶ月の延長も可能なので、ホンデュラスではゆっくりするつもりです。
太一郎とはホンデュラスの首都テグシガルパで、スペイン語の文法書を売っている本屋を探している時に遭った。この日太一郎は恋人のRosaとともに婚姻届を出すために、テグシガルパから北西に200km離れた人口3万人のサンタ・バルバラから来ていた。太一郎の母親は三年前からサンタ・バルバラにSAKURAという名前の日本料理店を出していて、太一郎と妹の明佳(はるか)さんも母親と一緒にホンデュラスに来て三年になる。太一郎は24才で母親を手伝って日本料理を作りながら週三回、日本語を教えている。明佳さんは日本では高校二年生だが、こちらでは中学校に入っている。テグシガルパでは、日本料理に惹かれて太一郎とサンタ・バルバラでの再会を約した。
二週間後にサンタ・バルバラのSAKURAに太一郎を訪ねた。日曜日なので店は閉まっていた。近くに中華料理店があったのでそこへ行って昼食を取った。店の若い中国人が親しげにいろいろと話しかけてくる。マイケルという27才の若者だが、ここの店主だ。近くに温泉があるので連れていってくれると言う。一旦ホテルに帰って水着を取り、また店に戻った。 店に戻るとジープが用意されていて、そこに若い中国人の青年二人と現地の青年一人、それにマイケルと共に乗り込んだ。しばらく走るとマイケルが手にピストルを持っているのが見えた。おもちゃでなく本物だという。本物のピストルは持ったことがないというと、手渡してくれた。思っていたよりもずっしりと重い。マイケルは撃たせてやると言って、ダート道路の向こうにある養魚場に連れていってくれた。養魚場には鯉のような魚、スッポンのような亀、それに小型の鰐が同じ水槽に飼われていた。鰐は魚を食べていた。その鰐を驚かせるように、近くで一発撃った。手に物凄い反動が返ってきた。怖かった。
生まれて初めてピストルを撃つ
行った温泉は、山水で張られた10mほどのプールの両横に温度の低い湯船が二つ設けられていた。この辺りは暑いので、低めの湯の方がいい。久しぶりに温泉気分を堪能した。マイケルは入浴料72円を出してくれ、ビールまで買ってくれた。やはりアジア人同士は特別な親近感を覚える。 翌日、Sakuraは開いていた。二週間ぶりに会う太一郎も、海外生活を経験したものが何時も持っている、一歩控え気味だが深い愛情を秘めた、あの独特の感じを持っていた。さっそくメニューを見せてもらって、天婦羅そばをご馳走になった。メキシコでもエル・サルバドールでも日本料理を食べたが、料理人の長い海外生活のためか味は少し変質していたが、Sakuraはまだ三年だ。日本の天婦羅そばよりもずっと美味しかった。その後も毎日カツ丼なんかの日本食を食べさせてもらったが、みんな日本の店よりも量が多い上、美味しく、しかも450円くらいだった。Sakuraがあるから、食事についてはサンタ・バルバラは最高の条件にある。 太一郎の母親は病気で今、日本に帰っている。それで太一郎は借りているアパートには帰らず、母親が暮らしていたSakuraに移り住んでいる。泊まっていたホテルが少し高いので別のホテルに移ろうと考えていたら、一太郎は安いホテルと同じ金額で、使っていないアパートを貸してやると言ってくれた。彼のアパートは、ホテルの部屋よりももちろん広い。大きな机があり、冷蔵庫まである。暑い土地では冷蔵庫は大きな魅力だ。いつでも冷たいビールが飲める。結局、ホテルが値下げ交渉に応じてくれたので、太一のアパートには移らなかった。太一郎はアパートを月額6500円で借りている。次に長期間滞在する時は、光熱費を含めて倍額の1万3千円払ってやるがどうか、と言ったら太一郎は快く引き受けてくれた。太一郎は日本語で書かれたスペイン語のいい教科書を持っていた。テグシガルパで買ったスペイン語で書かれた難しい文法書と交換してくれた。
太一郎は週三回日本語を教えている
ある日、ホテルのロビーに座っていると、若い女がホテルの誰かを訪ねてやって来た。ラテンアメリカの女は、ホンデュラスに入ってまた一段と愛想が良くなった。特にこの町は美人が多く、太一郎たちの評判がいいからだろうか、誰もがアジア人の僕に信じられないほど親しげに微笑み話しかけてくる。しかも、若い女性も含めてだ。愛想のいいのは、ホテルに現われたFatimaもそうだった。話しかけるとすぐ友達になってくれた。スペイン語学校を探していると言うと、すぐに「私が教えてやる」と言ってくれた。しかも、お金は要らないと言う。彼女は23才の若さだが、この辺の国ではよくあるように早婚のシングル・マザーだ。6才の女の子がいる。ラテン・アメリカの男ドモは気楽なのか、無責任なのか、僕はこんな女達にばかり遭ってきた。しかし彼女達は平然と生きている。とにかく、グアテマラと比べるとスペイン語学校が倍ほどするこの国で、太一郎の安いアパートを借りてFatimaにタダでスペイン語を教えてもらえるんなら、グアテマラのスペイン語学校に入ったよりも条件は良くなる。Fatimaはパソコンを勉強したいと言う。それなら僕はパソコンを持っている。日本製のコンピュータなのでキーボードが少し違うけれでも、基本的なことなら別に問題はない。彼女にスペイン語を教えてもらう代わりに、僕が彼女にパソコンを教えることにした。グアテマラとサン・サルバドールでは、方言なんだろうか、話されているスペイン語が全くわからなかった。しかし、ホンデュラスのスペイン語はなぜかよくわかる。そういう意味でもこの国はスペイン語を勉強するのにいいのかもしれない。しかも、最大6ヶ月まで滞在を延長できる。 6月1日にグアテマラ・シティーに着いて以降二ヶ月以上、土地の人が危険だと言うので、日が暮れるとホテルから外へは出たことはなかった。しかし、サンタ・バルバラは田舎の町で、安全だ。連日Sakuraを夜の11時頃に出てホテルに帰っても、何の危険も感じなかった。よく言われるように安全は日本では当然のことだが、この辺の国では非常に貴重なことなんだ。
スペイン語を教えてくれるFatima
Fatimaは、保育所みたいな所で働いていたが、職を失って今は仕事をしていない。彼女の母親は、彼女と彼女の妹を残したままどこかへ行ってしまって、そのため彼女等はおばあさんに育てられてきた。そのおばあさんは今80才で、月一万円ちょっとの年金を受け取っていて、Fatimaの子供も含め女4人が、おばあさんの年金で暮らしている。一万円の年金の半分以上が家賃に消える。計算すると、この一家は家賃を除くと、一日170円で暮らしていることになる。食べるのにも困っていると聞いた。食べるパンすらないことが多いように聞いた。しかし、Fatimaはそんな暗い陰を見せず今、メルカード(市場)で料理を作って売ろうと考えている。今、僕はさらに北にあるホンデュラス第二の町、San Pedro Sulaにエスペランティストに会うため来ている。この後、サンタ・バルバラに帰ってから、Fatimaが市場に店を出すために必要な一・二万円のお金を貸してやるつもりだ。この国では、こんなお金で一人の人生を変えれる可能性がある。そして要らないと言う彼女に、僕はスペイン語の授業料を払うつもりだ。 安い住まいとスペイン語の先生が見つかった。全く期待していなかった日本語の教科書が手に入った。加えて安全な町だ。今僕は、サンタ・バルバラに長居してスペイン語の勉強をしようと思っている。
Reynaldo Lopez(左)とAlan
Elmerからはホンデュラスに入る直前に、同じSan Pedro Sulaに住むもう一人のエスペランティストReynaldo Lopezを紹介してもらっていた。Reynaldoがエスペラント語を始めたのは1998年というから、まだ四年だが流暢なエスペラント語を話す。世界エスペラント協会の代議員をしているくらいだ。元々は測量関係の技師だったそうだが、今は英語を教えている。だからエスペラント語を覚えるのも速いのだろう。52才と言うから僕と同じくらいの歳だ。僕がエスペラント語を始めたのはもう10年以上前だ。だからエスペラント語では、僕の方がずっと先輩だ。だが、僕は未だにエスペラント語がうまくしゃべれない。まったく自分で自分が情けなくなる。 Elmerと連絡がつかなかったので、Reynaldoに電話することにした。うまくしゃべれないのでエスペラント語で電話をするのは、少し緊張する。 San Pedro Sulaに来る前にも電話で連絡を取っていたので初めてではないが、やはり緊張する。Reynaldoが電話に出た。こちらはまたスペイン語混じりのおかしなエスペラント語だ。でも何とか意味が通じて、Reynaldoは仕事を終えてから夜の7時半にホテルに来てくれた。胸にはエスペラントの緑の星が付けられていた。9時までエスペラント語と英語でしゃべった後、夜が更けると危険だと言って彼はホテルを出た。 翌日、Reynaldoは午後の2時過ぎにAlanという若い男のクルマでホテルに迎えに来てくれた。Alanはエスペランティストではない。Elmerがコスタ・リカに行っている間は、ReynaldoはSan Pedro Sulaでたった一人のエスペランティストだ。相手がいないので鏡に向かって一人でエスペラント語をしゃべっているという。だから、Alanにエスペラント語を勧める魂胆なのだ。Reynaldoの気持ちはよくわかる。ホンデュラスには彼ら二人の他、エスペランティストはテグシガルパに一人いるだけなのだ。始めはエスペラント語とスペイン語でしゃべっていた。しかし僕のエスペラント語が頼りないので、途中から英語になった。Alanも英語が話せる。彼の英語はアメリカ英語だが、Reynaldoはイギリスにいたこともあって、そんなに強くはないがイギリス英語のアクセントでしゃべった。僕には英語の方がエスペラント語よりできるので都合がよかったが、おかしなことになってしまった。Alanはクルマでmondongoというスープを食べに連れていってくれた。その辺りは僕の泊まっていたホテルのある地域とは違って閑静な住宅地だった。
ホテルの近く、線路に建ち並ぶ店
道路にも店が…
僕はいつもホテルに閉じ篭っていて、外に出るのは、近所のレストランかインターネット・カフェくらいなものなので、この旅では本当に何も見ていない。こうして町の違った所へ行くのはエスペランティストと会った時くらいだ。僕がインターネット.カフェへ行きたいと言っていたので、AlanはSan Pedro Sulaの中心までReynaldoと僕を送ってくれ、そのままどこかへ去っていった。Reynaldoが連れて行ってくれたインターネット・カフェでは、なぜか僕のパソコンは接続できなかった。僕は一つのことをやりだすと、それが終わるまで他のことが見えなくなるという病気を持っている。三時間ほど接続を試みている僕にあきれて、Reynaldoは帰ってしまった。Reynaldoには本当に悪いことをしたと思っている。 Elmerは自宅の電話を取り払ってしまったので、週末には連絡が取れず会えなかった。そこで月曜日から何回も彼の会社に電話をした。最近彼の会社は、アメリカの会社の資本下に入ったからだろうか、本当に仕事が忙しそうだった。月曜日の夜に会うはずが仕事の都合で会えなかった。それで火曜日にしたが、まただめだった。木曜日の夕方6時に彼はホテルに来てくれた。僕は部屋で待っていた。しかし、ホテルの受付が僕が外出していると言ったので、彼はエスペラント語の伝言を残したまま帰ってしまった。金曜日にまた電話して土曜日に会うことにしたが、また会えなかった。彼とは何十回とメールで連絡を取り、会うことを楽しみにしていたので残念だった。 日曜日は一日中停電だった。月曜日、またいつかSan Pedro Sulaに戻ってきた時に、二人に会おうと思いながら、暑いSan Pedro Sulaを後にし、夜は涼しいSanta Barbaraに戻ることにした。
暑いSan Pedro Sulaから、また山中にある人口三万の小さな町Santa Barbaraに戻ってきました。
BMWのギアーボックスを溶接
アパート遠景
Santa Barbaraに着いてすぐ、日本レストラン“Sakura”の太一郎に会いに行きました。店の前の路上に荷物を積んだままのバイクを停めておいたら、太一郎が店の車庫に入れてもいいと言ってくれたので移動させました。万が一の盗難の危険を配慮してくれたこの太一郎の好意が、思わぬ災いを呼びました。ガレージの入り口が坂になっていて扉の下の鉄板に、車高の低いBMWのギヤーボックスの底を思いきり当ててしまいました。メキシコでもトペスに何回も当てましたが、トペスはセメントでしかも鈍角でなので大丈夫だったんですが、今度ばかりはアルミのギヤーボックスにヒビが入り、エンジンオイルが漏れ出しました。エル・サルバドールとホンデュラスではトペスがなくなって安心していたのに、この旅最大のトラブルです。BMWのバイク屋は隣のニカラグアの南のコスタ・リカまで行かないとありません。町外れの自動車修理屋で溶接してもらいました。エンジンに火を入れた時には、もう日が暮れかけていました。でも一応ほっとして“Sakura”に戻り、太一郎のクルマに先導されて彼のアパートに行きました。前にこの町を出る時、一日450円で彼のアパートに住ませてもらう約束をしていたんです。アパートの前の道は、大きな石がゴロゴロ落ちている未舗装の上り坂で、重いBMWで夕闇のその道を駆け上るのは本当に恐怖を感じました。この町を出る時に、この道をもう一度走らなければならないと思うとぞっとしました。それなのに翌朝、バイクを見ると、まだ少しオイルが漏れているではありませんか! 仕方がありません。放っておけません。勇気を奮い起こして悪路を下り、また修理屋さんに行きました。さらに二度の溶接を施してもオイル漏れは完全には止らなかったので、最後はプラスティックでコーティングしました。これで完全に止ったようですが、また半日かかりました。
寝室
アパートには寝室と台所、それにテーブルの置かれている部屋の三室があるので、広くて快適です。寝室の壁には扇風機が据え付けられています。しかし夜には厚い布団に潜り込むくらい冷えるので使うことはありません。そのくせ昼は暑いんです。屋根がトタンなのと、屋根の上の隅に窯があって、昼間はそこでトルティージャを焼いているので、室内はかなりいい温度になります。これではせっかく使ってくれとばかりの大きなテーブルがあっても、なかなか辛いものがあります。それで1500円出してもう一台扇風機を買いました。これでパソコンで旅日記やメールを書く最高の環境ができました。 しかし、書けないんです。20日ほど前にテグシガルパにいる頃から左手の小指のキーボードを叩く部分に痛みが出てきました。次にそれが親指にも移り、このアパートに来てからは左手の五本の指先まで広がりました。物が掴めないくらいに痛むんです。キーボードの打ち過ぎと思いましたが、ひょっとして安物の酒の飲みすぎで痛風でも出てきたのかとも心配しました。それで、ここ10日間ほどキーボードに触れていません。また、酒を飲むのも止めました。すると夜が眠れないという、まずい症状が出てきました。世の中、なかなかうまくいかないものです。どちらの効果が出たのか分かりませんが、なんとか左手も使って身体が洗えるようになりました。でもまだ、キーボードを叩くと指が少し痛みます。 このところ書くことがなくなったので、時間ができました。それで毎朝起きるとスペイン語の勉強をしています。夜には、ロッキー山脈のキャンプ場以来長い間読めなかったTom Clancyの“Executive Orders"の続きを読んでいます。1000ページ前くらいから、ストーリーの展開が速くなり、いよいよ面白くなってきました。このまま読み終えるのが、少し惜しい感じになってきました。
テーブルのある部屋
冷蔵庫のある台所
San Pedro Sulaで成功した、インターネット・カフェのLANからAOLのサーバーへの直接アクセスが、この町にただ一軒だけあるカフェではできませんでした。三日間そのカフェに入り浸り、店のニーちゃんとも親しくなりました。店のニーちゃんはテグシガルパの友達に何回も電話して、原因を聞いてくれました。どうも店のPC一台の設定を変える必要があるようなんです。その友達は来月の7日にこの町に来て、変えてくれるそうです。インターネット・カフェも、こんな訳のわからない客がいると大変です。 この町は夜に外に出ても安全です。町にはベッピンさんがウジャウジャ歩いています。ホンデュラスでも美人で有名な町だそうです。それにみんな「なんで~?」というほど愛想がいいんです。おまけに近くには温泉があります。加えて、太一郎の店では、日本以上に美味しい日本食が食べれます。店が休みの日にも、家族と一緒に食べさせてくれます。そのうち、すき焼きと水焚きも作ってくれるそうです。 ただ一つ残念なのは、簡単に取れると聞いていたバイクの免許証が、この町で取れなくなったことです。最近、 San Pedro Sulaの免許証を作る機械が壊れて、この町にあった機械をSan Pedro Sulaに持っていってしまったらしいんです。この国の免許証は日本で使えないのと、有効期間が最初は一年しかないというので、どうしようかと考えていました。日本から持ってきた国際免許は、有効期間がもうすでに切れてしまいました。それでグアテマラの大使館でスペイン語で書かれた、日本の免許証の証明書を発行してもらいました。しかしこれは、法的にはグアテマラ国内でだけ有効です。スペイン語の免許証を持っているとこれから南の方の国で役に立つかもしれないので、やっぱり取ろうかなとも思っています。免許証は3~4千円で「買える」そうです。太一郎も免許を取るつもりなので、彼のクルマに乗せてもらって、あさってSan Pedro Sulaに行くつもりです。