アメリカ合衆国西海岸旅行
USAの太平洋岸の南にカリフォルニア州があり、その南のメキシコ国境に近い所にロス・アンゼルスがあります。サン・フランシスコはロス・アンゼルスから北に650㎞ほど離れた所にあります。東京から大阪が500㎞ですから岡山位までの距離です。シェラネバダ山脈はカリフォルニア州の東部をこの2都市を結ぶ線よりまだ北まで伸びています。そこからずっと東に行くとロッキー山脈に行き当たりますが、この間はずっと草木の殆ど生えないモハーベ砂漠に覆われています。マリアと僕はツアーバスでロス・アンゼルスから東にこの砂漠を横切り、北上してソールト・レーク・シティーを通り、さらに北に進みイエローストーン国立公園まで行きました。それから一旦ロス・アンゼルスに戻り、最後にサン・フランシスコとその東にあるヨセミテ国立公園を見て、ロス・アンゼルスに帰り13日間のバスツアーを終えました。
ロス・アンゼルスに帰ってからは映画の街ハリウッドに泊まって、日本人街、中国人街それに韓国人街も訪ねました。
8月6日から27日まで22日間の旅でしたが、僕は2001年のバイク旅行で殆ど全て行った所ばかりでした。分かっていたのですが、マリアに見せたいと思ったのです。
以後はその詳細です。
23時45分、ロス・アンゼルスに向けてマリアと飛び立ちました。翌日昼前の11時半に着きました。ホテルは空港から2㎞ばかりの距離にあって、送迎バスがあると書かれていました。しかしそのバスが見つからず、探し回りました。なかなか来ないので、何回かバスの運転手に聞きました。すると、そのバスはあると言います。空港内の観光案内所にも聞き、15時位まで探し回りましたが結局諦め、タクシーで行きました。タクシーは僅か2㎞の距離ですが、2,100円ほど取られました。ホテルについて聞くと、バスは空港に送り届けるバスはあるが、迎えに行くバスはないと言うことでした。
この日は日本人町のリトル東京へ行きました。ロス・アンゼルスは道路だけの街だと思っていたのですが、電車がありました。電車は乗り放題で200円位でしたが、間違って950円払ってしまいました。自動販売機からプラスチックの切符が出てくるのですが、駅を出るときには回収されませんでした。料金には切符発行料金が含まれていたのです。それを知らずに何回か新しい切符を買ってしまったのです。電車で4路線、3回電車を乗り換えてリトル東京に着きました。リトル東京は小さな区域ですが日本料理店があるので楽しみました。米国ではレストランで二人一食の料金は平均4,000円位でした。リトル東京は2,000円位でした。米国のレストランでは飲み物とチップで高くなるのです。また近くに日本小道具店があって、そこで2018年の日本カレンダーを1,650円で買いました。リトル東京のような所がボゴタにあれば、とつくづく思いました。
このツアーはインターネットで探しました。料金は一人967.30ドルと書かれていました。二人で1,934.6ドルと思って申し込みました。ところが二人分の料金は2倍ではなく、2,276,00ドルになっていたんです。そこに観光地等の入場料も別料金だったので、合計3,356ドルも支払うことになりました。結局思っていた価格の73%増しとなりました。申し込む前に隅々まで良く読まないといけないと思いました。それでも一人、一日に付き1万500円程度なので、まずまずの料金だったと思います。
ツアーは8月9日から21日まで、13日間のバスツアーでした。空港でツアーの係員と待ち合わせの予定でした。約束の12時になっても来ません。12時半に中国人の若い男が係員と称して来ましたが、約束のユニホームを着ていなかったので不安でした。そのうちに中国人の女子大学生が来たので安心しました。もう少し待つとさらに二人の中国人女子大学生が来ました。彼女らは友達同士だったのです。連れて行かれたホテルはバスタブ付きの良いホテルでした。
この日はサンタモニカの海岸へのツアーもあったのですが、一人2,750円もするので止めました。ホテルにはツアーの参加者、僕等を除き殆ど全員が中国人、しかも若者で満員でした。一年前に行った中国人で溢れていた北海道のホテルを思い起こしました。ここ数年、中国の経済がそろそろ破綻すると報道されていますが、この盛況ぶりはどうなんでしょうか。
5時20分に起床。6時から6時半まで朝食を取った後、大型バス2台に我々観光客が乗り込みました。中国人の若い男がガイドで、8日間一緒だと言いました。
まず、アリゾナ州のGlen Canyon DamとLake Powell を見てから、Antelope Canyonに行きました。先に殆ど行ったことのある場所ばかりと書きましたが、この場所は初めてでした。川が山を刳り抜いた後の洞窟を歩きましたが、自然の力の強大さを思い知らされました。
Antelope Canyon、Arizona州
Horseshoe Bendとは、コロラド川の上流にあり、川が大きく蹄鉄の形に蛇行している場所の名前です。ここも2001年にバイクで来ましたが、我々はバスの駐車場から遊歩道を下って、川の崖の上まで歩き降りなければなりませんでした。崖までは少し距離があるし、そこまで行かなくても川の全体が見えるので、僕は駐車場から少し降りた所でマリアを待っていました。 次はモニュメント・バレーです。地図を見ると、ここはアリゾナ州とユタ州の境界ですが、地図にはユタ州と書かれています。この会社のツアーは数日から最長で14日のツアーまで本当に沢山あるのですが、僕がマリアに一番見せたいと思ったのはモニュメント・バレーで、ここが含まれているのはこの13日のツアーだけでした。2001年にバイクで行った時はホテルも何もなく、ここには観光客を迎える小屋の様なものがあっただけで、僕は近くの山の上にテントを張って寝たのを覚えています。しかし今は大きなホテルが建ち、観光客の数も雲泥の差といった感じでした。その小屋も、今は立派な観光客用に改築された建物に代わっていました。ここから、下に広がる幾つかの岩山まで観光ジープが走っています。岩山と言っても唯の岩山ではなく、ロケット発射台のように細い岩山が天を突き刺しています。運転手は現地人ナバホ族の女性で、土埃がコンタクトレンズに入って目が痛いので、運転席の横に座らせてもらい窓を閉めました。ナバホ族は、モニュメント・バレー周辺には200人程度しかいないが、最近は人数が増えていてUSA全土では数千人位いると言っていました。このおばさん、混じり気の無いナバホ族なのか、顔が日本人に似ていて、英語をしゃべっているのが変という感じがしました。
Monument Valley、Utah州
バスツアーに出てから毎日暗い内に起こされます。この日もバスは5時半に出発しました。外は夜明け前で真っ暗です。暗闇の中をバスは走ります。日の出は6時40頃です。空に光が差し、太陽が上がってきます。周りが明るくなり、そのうち40~50軒の家がある部落を走り抜けると、また何にもない広大な砂漠が何処までも続きます。カリフォルニア→アリゾナ→ユタ→それにコロラドの西南部と走ってきましたが、360度拡がる真っ平らな土地はずっと砂漠で、殆んど人は住んでいません。2001年にこの辺りをバイクで走っていた時に、「役所を止めてよかった、自由だ!」と感じた喜びは、一生忘れられないと思います。 出発から1時間半後、即ち7時にMonticell と言う小さな町を通過。ずっと北に走ると珍しく小山が出てきて、その麓には風力発電装置が幾つも置かれていましたが、風がなく一つも回っていませんでした。砂漠の真ん中に置かれた近代装置に不思議な感じがしました。
この辺りは、少なくとも100㎞は何もない荒野です。こんな所に取り残されて、もしも車なども来ないとしたら、一日に30㎞歩いたとしても、砂漠の熱さに加え水も食料もないからきっと死んでしまうだろう。最初に北アメリカ大陸を東から西に移動した人達は、この不毛の土地が何処まで続くのか知らなかった筈だし、先ほどのMonticellと言う町もなかったはずです。あの人達は、きっとずっと北の草原のある土地を西に向かったのでしょう。ここなら、たとえ広大な土地を全部ただでくれると言われても、僕は絶対に断ります。だから今も荒野のままです。
この日はArches National Parkへ行きました。ここは昨日のモニュメント・バレーとは違って、山上にある虹のような形をした大きな岩で有名です。昔は海中にあって波浪によって刳り抜かれた大きな岩が、そのままこんな高い所まで押し上げられたのでしょう。2001年に来た時は、もっと山の高い所から見たのですが、今回は下から見上げるような所でした。
この後は海のように大きなソールトレイク湖に行きました。この湖は塩分が多くて生物はいないそうです。
ソールト・レイク・シティーを北に少し進みとアイダホ・ポテトで知られているアイダホ州に入ります。砂漠の土地に水が供給され、緑の畑に代わっています。この日の宿はYellowstoneの南西にあるIdaho Fallでした。だいぶん北上してきたのでしょうか、20時10分になってもまだ太陽は沈んでいません。2001年には、この辺をBMW1150で走っていた筈です。
イエローストーン国立公園はアイダホ州、モンタナ州及びワイオミング州の三州に跨っており、1872年に世界初の国立公園に指定されました。この日は日曜日のせいでもあるんでしょうか、すごい人出で公園内の道路沿いには多くの車が止められていました。ここでは中国人観光客の比率が小さくなったとは言え、それでも半数以上を占めています。
Yellowstone National Park、Wyoming州
イエローストーンは温泉があることでも知られていますが、温泉の場所は2001年に見た所とは違っていました。何か所もあるようです。ニュージーランドでも立派な間欠泉を見ましたが、ここの間欠泉もニュージーランドのものを上回るほど大きかったことを覚えています。これらと比べると日本の間欠泉は取るに足らない程の大きさです。この間欠泉にいくと大勢の人が、見物に集まっていました。僕達も行くと10分位で吹き上がったのですが、噴水量が2001年の時と比べて随分小さく、また噴水時間も10秒から20秒位に減っていました。なんかマリアに申し訳ないような気がしました。 2001年に来た時には公園内に2~3日泊まったことを覚えていますが、この公園内に巨大な湖があったことは記憶していませんでした。バイクならどこへでも行けるのに、ここだけは来なかったのかも知れません。 イエローストーンを南に下った所にあるGrand Tetonの山には、バイクで入って行ったような記憶があったのですが、僕達の観光バスはそのまま通過していきました。道路から山まではかなりの距離があり、注意して見ていたのですが山に向かっていく道路は見当たりませんでした。16年前の記憶はどんどん消えて行っているようです。ここはただの通過道路なのに、バイクなら25ドル支払わなければならないと書かれていました。何も見えないのに料金を取られるのには釈然としません。やはり何処かから入れる道があったのでしょうか?
Grand Tetonを出て着いた町はJacksonと言い、2001年にはここに泊まった記憶がありました。その時には高くても3,000円で泊まれたホテルが、今では3万円と聞いてたまげました。
Idaho FallsにあるBear World、Idaho州
この日はユタ州を北から南へ、Bryce CanyonとZionの二つの国立公園を見て回りました。Bryce Canyonは山肌が侵食されて針のように尖った岩山が無数に林立しています。Zion National Parkは巨大な岩山が大きな谷を覆っています。人間の記憶は当てにならないもので、Zion National Parkは2001年に尋ねたときの印象とはずいぶん違っていました。あの時は平原にバッファローを見たのでしたが…。この道だけではないのかも知れません。
State Capitol of Utah (ユタ州の州立議事堂)
4時半に起床し、朝食抜きでグランド・キャニオンへ出発しました。途中でフーバーダムを見ました。このダムは1929年10月24日の株価の急落で始まった合衆国の大恐慌を解決するため建設されました。
Bryce Canyon National Park、Utah州
バスがグランド・キャニオンへ近づくにつれてサボテンの背丈が高くなり、ついには3~4mになりました。このツアーでは2か所から大峡谷を見ることができました。最初の場所はグランド・キャニオンを見下ろす場所に近代的なビルが建てられていましたが、このビルに入るのに2,000円ほど取られると言われたので止めて外の崖の上から少し見ました。 ここでお金を払わなかったのが正解でした。次の場所では小さな食堂があるだけでその食堂のテーブルからは、深く削り取られた峡谷の下にコロラド川が流れているのが見えました。お金を取る場所より圧倒的にこちらの方が良かったと思います。2001年に行ったのは別の場所で、そこからは川に向かって降りて行く遊歩道があったと思いますが、たとえここにあったとしても疲れるし、足も傷むので歩かないのは確実です。
Grand Canyon、Arizona州
この日も宿泊はStratosphere Hotelでした。ホテルのランキングを見ると最高が星印の5つなのですが、このホテルには3つ付いています。この街の中心街の一番端にあった凄く立派なホテルと思っていて、小便だけして出て来たMandalay Bay Resortを見ると、5つ星に違いないと思っていたのに4つ星でした。それはともかく、この中国ホテルには他の米国ホテルと比べて、次のような幾つもの問題がありました。 ① トイレの座椅子の蓋が開いたままにならず、座椅子に落ちてくる。 ② 2泊したが、2泊目には部屋の掃除もベッドのシーツ替えもしていない。 ③ 石鹸は一つだけ。 ④ 無料サービスの珈琲、紅茶がない ⑤ 部屋の電灯が一部つかない ⑥ トイレの送風機と電灯が同じスイッチで、送風機だけを切れないのでいつもやかましい ⑦ 風呂の温水は試さなかったが、洗面所の温水は熱くなかった 僕が2001年に来た時は、この街に5泊しましたが、最初の4日間はホテルに籠り切りで旅行記を日本語と英語で書いていて、最後の一日だけ街を見て次の街にまた旅に出たことを覚えています。そういう意味では今回は2泊だけでしたが、見学だけでしたので、2001年と変わらなかったのかも知れません。
6時45分に起床し、8時にホテルを出て、8時30分にチョコレート工場へ行きました。工場の入り口前には大きなサボテン畑が設けられていて、二人で長い間見ていました。工場はさほど大きくなく、中ではチョコレートを一口呼ばれました。
午後は巨大ファッション街に連れて行かれ、ここでは中国人旅行用大型バスを30台ほど見ました。そして買い物街では9割以上の人が中国人でした。もし中国経済に問題が起これば、日本だけではなく全世界に多大な影響を与えることになります。
この日のホテル、Ramanda ホテルには18時に着きました。ホテルは廊下を改装工事していましたが、昨夜の中国ホテルよりずっと良いと思いました。珈琲器の使い方が分からず聞いたら、男の従業員がすぐに来て教えてくれました。
この日は19時に夕食に出ました。少し歩くと美味しい中華料理の店があったので、僕は鶏の唐揚げ、マリアは海老フライうどんを食べました。
この日は幾つかの選択コースから一つだけ選ぶという企画でした。行先には、ロス・アンゼルス市内ツアー、ハリウッドのユニバーシティー撮影所、サンジェゴのSea World、Palm Spring等々、何か所もありました。僕達は一人約1万円払ってディズニーランドに行きました。この金額はツアー代としてツアー会社に支払っていました。きっと高く売りつけられたと思っていたのですが、ディズニーランドの切符売り場で聞くと1万4千円位と言っていました。
毎日、大型バス1台で移動していたのに、この日ディズニーランドに行ったのは、我々二人と三人家族の中国人だけでした。我々は入口の所で別れました。
ディズニーランドはUSAには2か所あって、もう一つはフロリダ州にあります。僕はロス・アンゼルスの方に1978年の冬に行ったことがあります。しかしその当時はどうだったか記憶にありませんが、今回は、入り口が2か所に分かれているのを知りました。初めに行った方が空いていたのですが、大勢の人の並んでいる方が良いだろうと思って別の入口に行きました。僕達が入ったのは、後で気が付いたのですが、ディズニーランドFantasmicと言う方で、最初に入ろうかと思った方がディズニーランドAdventureでした。
Disneyland in Los Angeles、California州
翌日はサン・フランシスコに向かいました。ロス・アンゼルスを太平洋岸に沿って西北西に暫く走るとSanta Barbaraと言う海辺の観光地に着きます。1時間ほど海を見て50キロほど走って内陸部の小さな町Solvangと言う所に着きました。ここはUSAにあるオランダの町で、さすがにちょっと変わった雰囲気がします。ロス・アンゼルスの日本人町はほんの一角で、日本人が住んでいると言う感じがしませんが、ここは立派な田舎のオランダ町です。この日はサン・フランシスコに行くためだけの一日でした。
5時半に起床し、6時半にStanford大学について校内を見ました。この大学は構内の中心から東西南北を見渡しても、端が見えないと言った広大な敷地を持っていました。大学内は早朝だったせいか、はたまた日曜日だったためか、あるいは夏休みなのか、学生の姿は全く見えず、殆どが僕達を含めた中国人観光客で占められていました。びっくりしたのはこの大学に入るのに5ドルの料金を取られたことでした。
それからサン・フランシスコ市内に入り、市を一望できるTwin Peaksに上りました。2001年に来た時には快晴の好条件でしたが、この日は少し曇っていました。
次に行ったのが、有名なケーブルカーの乗り場がある市内中心部のパウエル通り。大勢の観光客が長蛇の列を作って待っていました。一人ならもちろん待たないのですが、団体だから仕方がありません。乗るまでに2時間も待たされました。ケーブルカーはどんどん坂道を登って行きます。坂の一番上の所がジグザグ道になっています。ここが世界一曲がりくねった坂道と呼ばれるロンバート・ストリートです。
Lombard Street in San Francisco、California州
パウエル通りを北に行くと海に出ます。ここはFisherman's Wharfと呼ばれ、超巨大な桟橋が出ていて、そこには多くの料理屋は土産物屋が並んでいます。桟橋の先端の東側には大きな日本料理店があり、また西側の海には浮桟橋が設けられそこには多くのアシカが日向ぼっこをしていました。ここから真っ直ぐ北を見ると、2.5㎞ほど前の海上に島が浮かんでいます。ギャングの親分アル・カポネも収容されていたAlcatraz島なのです。 Fisherman's Wharf から西に数㎞行った所にPalace of Fine Artsと言う建物があります。池の横に吹き抜けの高い建物が建っていて、中には何もありません。建設にかなりお金がかかったと思われますが、何のための建物なのかは分かりません。これが芸術と言う物なのかも知れません。 サン・フランシスコと言えばゴールデンブリッジ。もちろんツアーが見逃す筈はありません。2001年にはこの橋をバイクで渡ったのですが、今回は橋の近くの駐車場から眺めました。 次に新しい背の高い大きな教会に行きました。その後、サン・フランシスコ市庁舎へ行きましたが、この日は日曜日で庁舎は閉まっていました。 今までとは違い見る所が街中に集中しているので、忙しい一日でした。
この日はツアーの最終日で、ヨセミテ国立公園が最後の訪問地です。ヨセミテはサン・フランシスコから真っ直ぐ東に向かって行ったら当たるシェラネバダ山脈の中にあります。公園は高度600メートルから4,000メートルの地域を含み、公園内を流れるマーセド川は1,000m位にも及ぶ深さの渓谷を作り出しています。また滝も多く、ここには北アメリカで最も高い滝もあります。その滝の一つを間近に見ましたが、なかなかのものでした。
Yosemite National Park、California州
10時45分にホテルを出て、映画の街ハリウッドに地下鉄で移動しました。ハリウッドはマリアと2005年日本に行った帰りに、朝着いて夜出発と言う飛行機の便だったので、一日ツアーで訪れたことがあります。今回はUSAに来る半年前からホテルの予約を取っておきました。ハリウッドの中心、ハリウッド通りから少し入ったMotel 6 Hollywoodと言うホテルです。26日の夜の帰国便まではこのホテルに泊まる予定です。ホテルは高く、朝食抜きの二人の宿泊料が1万5千円ほどしました。この日は14時前にホテルに着いてシャワーを浴びたり、洗濯したりしました。夕食に、近くの待ち客が多い食堂に入り鶏の唐揚げを2つ注文しましたが、出てきたのは1つで、親指の倍くらいの唐揚げが二つだけ入っていて、後は全てポテトチップで、料金が1,300円もしたのにはびっくりしました。
11時25分にホテルを出て、2005年にも行った、小高い丘の上にあるYamasiro(山城)Hollywoodと言う日本料理店に行きました。大した丘でもないのに少々疲れました。坂の半ばに料亭に上がっていく立派な日本式の門がありましたが、入り口には鍵が掛かっていて入れませんでした。ここは夕方に開店するので誰も居ず、上には日本式の建物の料亭で丘の斜面には花園の中に小さな塔が建てられていました。ここは夜、開店した時に来るところでした。
ロス・アンゼルスの地図を見ていると、ハリウッドに近い所に韓国人街を見つけたので行ってみました。大きな通りの2㎞位がハングル文字の看板で埋め尽くされていると、そこはロス・アンゼルスではないような錯覚に襲われました。
マリアが姉の15歳のお嬢さんに特定の店で売っている服の土産を頼まれていたので、聞いていた住所から、ロス・アンゼルスの中心部にある地下鉄の駅で降りました。街角に娼婦風の若い女の人が2人いたので、聞いたら地下鉄で海の方に向かって12駅ほど離れた所にあると言われました。ここは高層ビル街のはずれですが、そこを出ると一戸建て、一階建ての家がずっと続きます。地下鉄を降りた所はちょっと日本の田舎の町と言う感じでしたが、1㎞ほど歩くと3階建ての長い建物が見えて来ました。聞いた通り、そこに目当ての店があり、水着、パジャマ、シャツとズボンを買いました。
地下鉄の路線図を見ると、市の中心部に帰らずそのまま10駅ほど乗って海岸まで行くと、ロス・アンゼルスの初日に行かなかったSanta Monicaの海水浴場まで行けることが分かりました。ここの海岸もサン・フランシスコののFisherman's Wharfほどではないが、桟橋の先端に店が出ています。ここのビーチは巨大で端から端までは歩いては行けない程の距離がありました。
Los Angeles, California州
することがないので、ツアーバスでビバリー・ヒルズを見ることにしました。インターネットで見たり、街で聞いたりすると一人1万円程すると言っていたのですが、一人5,500円の安い切符を見つけました。それを買いに行こうとホテルを出たら道端で切符を売っている人が居て、聞くと半値の2,250円で売ってくれると言われました。ちょっと信じられませんでしたが、本当でした。ツアーは13時50分から15時45分の2時間程度でした。近くの山からロス・アンゼルスを見下ろした後、麓のビバリー・ヒルズに入って映画スターの家等を見て回りました。少し前に死んだ黒人歌手のマイケル・ジャクソンの家が数十億円すると聞いて呆れました。
Hollywood in Los Angeles、California州
飛行機が出るのは夜の10時41分なので、またハリウッド通りに戻り、Madam Tussauds Hollywoodと言う蝋人形館に入りました。入館料は何と一人3,400円程しましたが、もう2度と来ることはないと思って奮発しました。沢山のハイウッド映画スター達が一堂に集められ、蝋人形も本人がそこに立っている様にみえるほど精巧に作られていました。 時間が掛かると思って16時頃にホテルを出たら、空港には18時に着きました。ウイスキーはマイアミを発つ時、1リットル入り50度の物を一人2本、合計4本買いました。
僕はずっと貧乏人だったので高級料理店には入ったことはありません。この旅行でも安い食堂ばかりでした。
ロス・アンゼルスの日本人街で日本料理を食べるのは当たり前ですが、ハリウッドでも日本料理店があったのです。ハリウッド通りの我々のホテルから近い所にありました。ある日、僕は玉子丼でマリアは野菜うどんを食べて二人で3,000円程支払いました。値段は2,600円程でしたが、チップが15%以上と請求書に書かれていたのです。この旅行で一番高かったのは空港近くのホテルの横にあるアラビア料理店で、二人で4,000円支払いました。
2001年に南米に向けてバイクで走った時は、食事にどれ程支払ったか良く覚えていませんが、ホテル代のことは良く覚えています。ロス・アンゼルスではエスペランティストの家に泊めてもらいましたが、ラス・ベガスではMotel 6 Hollywoodに泊まりました。一人で3,000円程度でした。二人では2~3割程度高くなるにしても4,000円を超えないと思います。空港近くのホテルの宿泊料は朝食付きで13,000円、Motel 6 Hollywood朝食なしで15,000円なので、USAの物価が上がったのか、ドルに対して円が現実には110円/ドル位ではなく400円/ドル位に安くなっているのか、USAへの旅行は本当に高くなりました。
バス旅行中も、朝食しか付いていなかったので夕食は支払ったが、平均して2人で3,000円位だった。良かったのは中国料理店の食べ放題で、料理が40~50種類と果物が並び、二人で3,000円位だったのです。お陰で食べ過ぎて太ってしまったのです。
ツアー中のホテルは全て浴槽付きでした。日本では浴槽は当たり前だが、こちらでは少し安いホテルだとシャワーだけであることが多いのです。この旅行では、バスツアーで12泊して二人で3,356ドル(110円/ドルとして369,160円)支払ったのですから、一人では184,580万円だから、一人一日1.420万円です。これは旅館代、バス代それに観光地入場料等も全て含みます。
今回の旅行で使った総経費は1ドルを110円として、飛行機代(116,780円)+ホテル代(96,894円)+バスツアー代(369,160円)で合計582,834円でした。
2017年7月の中旬にSMBC信託銀行(元、シティバンク日本)のインターネット情報が見れなくなりました。電話して聞くと、銀行の通知等が、弟が引越しする前の家に送られていたので弟が送らないように頼んでくれたのですが、郵便物だけてなくインターネットも切られてしまったのです。これを回復するには、僕の登録住所を弟の家からコロンビアに移さなければいけないと言われました。それなら移しますと答えたら、変更書類をSMBC信託銀行から受け取って申し込みしなければならないと言われました。
それで、7月20日、7月28日、それにUSA旅行直前の8月4日に電話をして、必要書類をコロンビアに送ってくれるように頼みました。8月28日にコロンビアに帰って来ても返事は着いていませんでした。すぐに電話して郵便が着いていないと言うと、今度は普通便ではなく、追跡番号の付いた特別便で送ってくれると言われました。
9月18日の月曜日に電話すると、9月14日にコロンビアに着いていると言われました。インターネットを見ると確かに特別便は到着したと書かれていました。
20日、フサガスガの郵便局に行きました。着いていないと言われました。首都ボゴタの中央郵便局に電話してくれましたが、電話がかからないと言われました。しばらく時間をおいて、僕達は電話屋から電話しましたが、掛かりません。仕方がないので翌日、ボゴタへマリアと行きました。係員に聞くと、少し前にフサガスガに送ったと言われました。
22日、遂に団地の入口の門番から受け取りました。もちろん特別便だけで普通便の3通は着いていません。この日は我々二人の友達に会い、我が家で久しぶりに酔っぱらうまで飲んで、翌日の土曜日、郵便局が昼に閉まってしまうのに、二日酔いで寝ていて変更書類は送れませんでした。月曜日の26日にとうとう送りました。日本へは郵便物は一か月以上、場合によっては1か月と10日ほど掛かります。そして郵便物は全て特別便でしか送れません。1通送るのにいつも730円位掛かりますが、この書類は非常に大切なので高いとは思いませんでした。
11月10日 1か月半掛かってSMBC信託銀行にやっと手紙が届きました。そして11月20日にインターネットで預金口座が見れました。口座が見れなくなって丁度4か月が経っていました。登録先の住所を変えるだけですよ!
9月1日、SMBC信託銀行からインターネットで預金が引き出せなくなったので、USAのシティバンクからインターネットで三井住友銀行へ送金しました。いくら待っても着きません。三井住友銀行に電話したら送金情報が誤っていて現在保有状態になっていると言われました。それで送金を解約するため、9月11日にシティバンクに電話したのですが、処理が終わって金額が戻ってきたという連絡が、9月22日になっても来ていません。
ここ数年、シティバンクUSAからはW8-BENと言う書類が送られてきて、その返事を書いて送る必要があります。今年もその書類が送られてきたので、9月13日に返答案を書いて送りました。しかし返事が来ません。それで9月19日に2通、20日にまた2通出したら、20日にやっと返事が来ましたが、9月19日の一通目に関する返答で、僕の送った添付ファイルが見れないと言う内容でした。すぐに、もっと新しいメールが着いていないのか質問した6通目のメールを送りました。さらに2通送ったら9月28日に遂に返事が来て、1か所記入が漏れていると書かれていました。9月29日の金曜日にその部分を記入し、まだ郵送を控え、返答案をEメールで送りました。
一週間待ちましたが、また返事が来ません。仕方がないので10月6日(金)に、僕とマリアの2通のW8-BENの正式書類を郵便局から送りました。
そしたら10月9日の月曜日に、シティバンクUSAから珍しく電話があったのです。スペイン語の長い、ややこしい電話なのでマリアに変わってもらいました。そしたら何と、USA以外の国の、ひょっとしてコロンビアだけなのかも知れませんが、預金者は口座を解約するようにと言うことでした。しかも、10月24日までにしないと預金額を返還できない可能性があると言うことでした。この銀行は数年前にも日本を含め、南米の多くの国から撤退していました。僕は定期預金も持っていたので、まずこれを解約する必要がありました。これはマリアとの電話の中でできましたが、処理に一日掛かると言われました。10月10日、シティバンクUSAの解約手続きをしようとして、全預金額を別の銀行を送りましたが手数料30ドルが別払いだったので送れませんでした。また1日待たされて、10月11日(水)預金額から30ドル引いた金額を送金して、やっと終わりました。10月16日、シティバンクUSAから口座閉鎖のためのEメールが届き、やっと処理が終わりました。
あんなに苦労したW8-BENですが、口座解約となった今は、全く不要となった訳です。
2017年10月7日の土曜日に、マリアの姉夫婦と15歳のお嬢さん、それにマリアの弟が我が家にやって来ました。彼らは一年に数回訪ねてくれます。お嬢さんのAndreaは学校が休暇に入るので一週間滞在することになりました。両親は二人とも建築家で、仕事があるので日曜日に帰りました。翌週の土曜日にまた来ました。夫のCarlosが一階の応接間でテレビをいじっていました。なんと海賊版の日本のテレビ番組を探していたのです。なかなか難しかったので、メキシコに住むもう一人のマリアの弟に電話したそうです。彼はパソコンのプロです。それで分かったのです。Carlosが我が家のテレビ2台に日本のテレビ番組35局が映るようにしてくれました。
僕が2階のテレビを見るのは限られていて、スペイン語の洋画を見るときだけです。こちらでコピーが一枚100円位で売られていて、今まで350枚ほど買いました。ところが、数か月前にパソコンでスペイン語の洋画が放映されているのを知り、もう街でビデオを買う必要がなくなりました。しかし、日本語のテレビ番組が見れるのとは随分違います。テレビ番組の録画はインターネットで毎日ほど見ていますが、テレビが直接見れるのとは少し意味が違います。コロンビアに来て、毎月3,500円位払えばNHKが有料で見れたのでずっとそうしてきました。それが小さな装置を2万円位で日本から買えば見れると言うので取り寄せ、NHKを解約しました。ところが5~6年前にその放送局が潰れてしまったのです。それ以降はテレビを直接見たことはありませんでした。
それが見れるようになったのです。日本はどうだか知りませんが、こちらではテレビでインターネットが見れます。そこに35局の日本テレビ番組が内緒で放映されているのです。そこでパソコンで見れないかとCarlosに聞きました。あるんです、日本のテレビ番組が。NHKの2チャンネルと民放の5局だけなのですが…。僕はテレビには余り関心がありませんが、NHKの大河ドラマが見れると言うのはありがたいです。
本当に、インターネットが米国の企業に取られる寸前に世界に無料で公開してくれた米国人には、ノーベル賞をあげてほしいと思います。