パラグアイに入る前のことだった。アルゼンチンにいた5月5日から、アルゼンチンやウルグアイ、それにブラジルの知らない人から何通もメールが届くようになった。みんな"La Nacion"を読んで僕のことを知ったと書いている。ブエノス・アイレスのジャーナリストでありエスペランティストのRoberto Sartorのメールにも、"La Nacion"の名前とアドレスがあった。それで僕は、"La Nacion"はきっと彼が関係するホームページだと想像して、トップページにアクセスしてみた。スペイン語のページだった。期待に反し、何のホームページなのかよく分からなかった。それでRovertoが書いていたページに直接アクセスした。すると現れた。ブエノス・アイレスで僕をインタビューしたAndres Asatoの記事だ。僕が彼に送った写真も出ている。
Andesに送ったもう一枚の写真
僕はインターネット・カフェの従業員に、「"La Nacion"を知っていますか? これは何ですか?」と聞いた。彼は、「"La Nacion"はアルゼンチン最大の新聞で、南米はおろか、北米でも読まれている新聞だ」と言った。僕は彼に、「このホームページには"La Nacion"紙の全ページが載せられているんですか?」と聞いた。彼は新聞と全く同じ内容だと答えた。日本ではこんなことは考えられない。僕についてのその記事は5月5日のものだった。僕は、その記事をインターネット・カフェでダウンロードして、ホテルの部屋で辞書を引きながら読んだ。かなり長い記事だった。僕やエスペランティストにとって非常に好意的な内容で書かれていた。しかし、部分的に誤解を招いたところがあったり、僕が言わなかったことが書かれていたりした。まず、間違っていた部分だが、これはほとんど僕の拙いスペイン語に起因するものだろう。それは次ぎのようなものだ。(1)Andresは、僕がBMWで一年弱に渡り旅を続けてきたと書いてくれたが、実際は三年弱だ。これくらいのことは、僕でもスペイン語で言えたはずだ。彼の記憶違いなのか。でも、彼は当然筆記していた。ひょっとして彼は、三年は長過ぎるので記事にそぐわないと思ったのかもしれない。(2)僕が温泉狂であることはもちろん語った。でも僕は、ホンジュラスの温泉について語った記憶はない。僕の旅日記は、ほんの一部ではあるがスペイン語でも載せている。おそらく彼はこの記事を書くため、僕のスペイン語版ホームページを全て読んでくれたのだろう。ただ一行だけ書くためにも、新聞記者は時間を使っていることを知った。
(3)Andresの文面からは僕が退職するまでの勤務先は大阪府のように感じる。僕が大阪の自治体に勤めていたとしか言わなかったからだ。実は大阪市役所で働いていた。それはともかく僕が環境技術者として働いていたことは書いてくれた。僕は30年ほど前に見たメキシコのチワワのすざましい大気汚染が忘れられないので、そのことを話した。そのこともAndresは書いてくれた。しかし、彼は"rio Bravo"のことについても書いた。確かインタービューのその時、Andresは川のことを言った。しかし僕は分からないままうなずいた。それが僕の言葉になっていた。実は僕は、"rio Bravo"の汚染については知らない。辞書を見ると"rio Bravo"はリオ・グランデ川だと出ている。リオ・グランデという名の川は中南米には至る所にある。地図を見ると一番大きなリオ・グランデ川は、アメリカのコロラド州からメキシコの中央部を通り、メキシコ湾に流れ出る川だ。そんなことすら知らなかったので、僕はこんなことを言ったことがないのは明白だ。しかし彼はリオ・グランデの汚染のことを知っているのだろう。Andresは僕の無知を補ってくれた。
(4)Andresは、僕が空港での3時間待ちの間にエスペラント語の本を読み、エスペラント語をしゃべることができた、と書いているが、僕は空港とは言わなかったし、3時間でエスペラント語の基本的文法が分かったと言いたかったのだが、説明が足りなかったようだ。いくら人造語とは言え、3時間でエスペラント語がしゃべれるというのは不可能だ。
以上のことは、お互いの単なる誤解から生じたことだ。僕も旅日記を日本語からエスペラント語、英語、あるいはスペイン語に翻訳する時、かなり日本語とは違った表現にすることはある。ましてや、拙いスペイン語しかしゃべれない僕を相手のインタビューだから、多少の誤解は仕方がない。しかし、次ぎのことは単なる誤解を超えている。好意的な創作だ。
. (1)世界中の本がエスペラント語に翻訳されているのは事実だ。しかし僕はエスペラント語の本はほとんど読んでいない。AndresとのインタビューにはエスペランティストのRobertoとSilviaが同席していた。そして彼等はエスペラント語について語った。その中で、おそらく作家だろうと思うが、Martin Fierro と Jorge Luis Borgesの名前が出てきたのだろう。僕は彼等の名前すら知らない。でもAndesは、僕がエスペラント語で書かれた書物で知ったと書いた。これは僕にとって、非常に好意的な嘘だ。
(2)Andresは、僕がブエノス・アイレスで強盗に襲われた時のことを書いている。僕は皮製のポケット灰皿を取られたのだが、彼はライターが入っただけの財布と書いた。この灰皿は僕がAndresに見せたから、言語を越えて彼は確認したはずだ。おそらくこんなポケット灰皿なんかラテン・アメリカでは存在しないので、誰も分からない。だからこういう表現にしたのだろう。さすが新聞記者だ。プロの物書きだ。
新聞の記事が、必ずしも正確に物事を伝えているとは限らない。僕の場合は好意的な「嘘」だったので良かった。これが逆に悪意によるものだったら大変だ。マスコミはその気になれば、こうした嘘で人心を動かせる力を持っている。そして、マスコミに従事する人達はAndresみたいな善人だけとは限らない。一歩間違えば、マスコミは非常に危険な武器になる。僕は日本のマスコミが権力と闘うという使命を忘れ、次第に権力側の広報機関に変質して行っているのではないかと危惧している。にもかかわらず日本人の多くは、活字になればそれを絶対的事実だと信じ切っている。恐ろしいことだ。
"La Nacion"紙に掲載されたインタビューの本文は、次ぎのホームページで見ることができます。当然スペイン語ですが…
http://www.lanacion.com.ar/04/05/05/ds_598257.asp?origen=amigoenvio
このインタビューは、Robertoの発案で実現した。この記事を読んだウルグアイのエスペランティストSandra Burguesからもメールが届き、もしよければウルグアイのラジオ番組や新聞に記事を書きませんか、と言われた。しかしメールを受け取った5月6日には、僕はもう既にウルグアイを出てアルゼンチンに戻っていた。惜しい機会をなくしたものだと残念に思っていた。しかしその後、ブラジルの首都ブラジリアに住むJosias Barbozaというエスペランティストから、テレビに出ないかというメールが届いた。それにしても、エスペランティストというだけの理由で、こんな機会が与えられるというのは一般の旅行者では滅多にないことだ。
僕は今、パラグアイの首都アスンシオンにいるが、これからブラジルに入る。ブラジルはポルトガル語の国だ。僕はポルトガル語は分からない。しかしブラジルのエスペランティストからも招待のメールが届き出した。彼等と会えばブラジルでも言葉の問題はない。日本を離れ海外でエスペランティストと会って、いろいろなことを経験させてもらう。僕は今、この旅でエスペラント語による実りを刈り取っているような気がする。
パラグアイの首都アスンシオン
パラグアイの首都アスンシオンは、パラグアイ川の東岸にある。西岸はアルゼンチンだ。ここの国境事務所もウルグアイ同様、両国が同じ建物内に設けていてパラグアイ側にあった。しかし、ここは少し雰囲気が違う。ウルグアイの国境ではほとんど人がおらず閑散としていたが、この国境では入出国と関係なさそうな人が大勢いる。両替屋と入出国事務を助けることを仕事にする人達だ。さっそく後者の一人が僕に近づいてきた。この商売をする人達は、国境越えが難しい中米のグアテマラからニカラグアまで多くいたが、その後は長い間見たことはなかった。嫌な予感がした。アルゼンチンの出国は簡単に終わった。しかし、パラグアイの税関はバイクを持ち込む手続きには三日かかると言い出した。周囲にはホテルも店も何もない。川を一つ越えたのでもうアスンシオンの市内のはずなのに、アスンシオンまでまだ30kmもあると言う。訳が分からないが、とにかくこんな所に三日もバイクを置いておく訳にはいかない。僕は、北米から南米まで多くの国を通って来たが、そんなことを言う国はどこにもなかった、と抗議した。これがパラグアイ人の誇りを呼び起こしたのか、なぜかそのまま入国を許された。バイクに戻ろうと?ると、頼みもしないのに子供が僕のBMWを磨いている。20円ほどあげたら喜んでいた。これまた頼みもしないのに勝手に入出国事務を助けてくれた人も、お金をくれと言う。倍の40円を見せたら不服そうな顔をしている。気に入らないのならそのままバイクに乗って立ち去ろうと思ったが、中米ほどしつこくなく控えめなので気の毒になった。100円出したら納得した。パラグアイの経済事情は中米並みに悪いのかもしれないと思った。数km走ると警官が待っていて止められた。入国するとすぐ警察のチェックがあるのは、この辺の国では普通のことだ。でも五日前にウルグアイからアルゼンチンに入って100kmほどの所で警察の検問に会い、交通保険がないといって3,500円ほどの罰金を取られたことを思い出した。嫌な予感がした。アルゼンチンではその前にも、ブエノス・アイレスの手前で同じように罰金を取られかけ、結局750円の賄賂で切りぬけた。アルゼンチンではバイクに消火器を積んでいない場合も罰金を取られる。アルゼンチンよりもどうも印象の良くないパラグアイだ。何を言われるかも分からない。悪い予感が的中した。パスポート、先ほど貰ったバイクの一時輸入許可証、それにカリフォルニアでのバイクの登録証を長い間見ていた警官が、最後に保険証を見せろと言い出した。僕はブエノス・アイレスで、ウルグアイ、パラグアイ、ブラジルでも使える国際保険を買おうとして何社も保険会社を回ったが、何処もバイクに乗る外国人旅行者には売ってくれなかったと釈明した。しかし警官は35ドルの罰金を払えと言って耳を貸さない。保険が必要なら入国時に売るべきだ、アスンシオンで買えるのなら、すぐに買うと言ってもダメだった。それで、コロンビアでは警官が保険会社まで連れて行ってくれたのに、パラグアイではなぜそうしてもらえないのか、とまた抗議した。では、その保険を見せろと言う。僕は期限の切れたコロンビアの保険だけではなく、中米のどこかの国?アメリカの保険証も見せてやった。またパラグアイ人のプライドを刺激したのか、解放されやっとアスンシオンに向かうことができた。
先ほど越えた川は、実はパラグアイ川ではなかった。パラグアイ川を越える橋は、アスンシオンからかなり離れた郊外にあった。後に聞いたのだが、こんな遠い所に橋をかけたのは、アルゼンチンに攻め込まれた場合に首都を直撃されないようにするためらしい。平時は国境事務所も同じ建物にあるくらいだから両国は友好関係にあるのだろうが、有事を想定すると、海に囲まれた日本と違って、川一つの国境にはこんな配慮も必要なのだ。橋の上からは、ブエノス・アイレスほどは大きくないが高層ビルのある町が遠くに見える。僕がアスンシオンに来たのは、人口50万人のこの小さな首都の中心街にある日本人ホテル「ホテル内山田」で、日本食を食べるためだけだ。高層ビル街に向かって走った。中心街に入ってから何人にも道を尋ねたが、ブエノス・アイレス同様、目指すホテルにはなかなか辿り着けなかった。
「ホテル内山田」は一泊10ドルだが、ブエノス・アイレスの「日本旅館」とは違って立派なホテルだと聞いていたが、最後に道を聞いた時、あそこだと言って指差された建物を見てびっくりした。19階建ての立派なホテルだ。ホテルの一階の他にもその奥に雨のかからない大きな駐車場がある。19階建ての新館の横に7階建ての旧館がある。新館の部屋は全て一泊50ドルだが、旧館には10ドルの部屋がある。僕はもちろん10ドルの部屋に泊まった。ベッドと机がそれぞれ二つ、それにもう一人寝れそうな大きなソファまで置かれている大きな部屋で、エアコンと冷蔵庫まである。トイレには湯船まである。ホテルに着いた5月10日は暑かった。すぐに湯船にお湯を張って汗を流した。ホテルでの入浴はメキシコのカンクン以来だ。
ホテル内山田
「ホテル内山田」は、安宿の日本人宿のイメージとはかけ離れた高級ホテルだ。ホテル内には、テニスコート、屋内プール、サウナ風呂、会議室、資料室、フィットネス・ルーム、19階の展望室、和食レストラン、コインランドリーがあり、マッサージ機まで置かれている。また数台あるPCが無料で使える上、PCの接続にはLANが張られているので、僕のPCも専用に置かれた机で簡単に接続できる。大きなロビーや食堂にはNHKの衛星放送を受信できる大画面のテレビが置かれている。その食堂では朝食のイメージを遥かに超えた豪華な朝食が、ビュッフェ形式で朝の6時から10時まで用意されている。だから6時と10時に二回食べて、昼食を抜くバックパッカーもいる。コーヒーは一日中いつでも好きなだけ飲める。朝食とコーヒーは無料だ。レストランでの和食はそんなに高くない。たとえば、一人で食べきれないほど大きな鍋で出されるスキヤキは560円だ。安いだけではなく、日本のスキヤキと変わらないほど美味しい。僕にとっては、カンクンで泊まった200ドル近くしたシェラトンやハイアットのホテルよりずっといい。だから半月も泊まってしまった。
ホテル内山田の屋内プール
アルパを弾く岡本美奈子さん
Guarani語を勉強する中島由理子さんと先生のNorma
このホテルの名前は漢字でしか書かれていない。安全のため東洋人しか泊めないからだ。韓国時人も泊まっていたようだが、ほとんどが日本人だ。そしてその多くは、留学や仕事でパラグアイに長期滞在している人達だ。みんなアパート替わりにして宿泊している。長期滞在者には一ヶ月500ドルで部屋を解放している。その中に日本人女性が二人いた。一人は岡本美奈子さんという17才の高校生だ。こちらで一年間ハープの演奏とスペイン語の勉強をするためやって来た。ある夜、みんなで彼女の演奏を聴かせてもらったが、スペイン語でアルパと呼ばれるその楽器の音色は美しかった。あまりにも良かったのでプロの演奏するCDを一枚買ってしまった。もう一人は中島由理子さんという方で、パラグアイの原住民の言語、グアラニ語を勉強するためここ数年、毎年このホテルに来ている。大学の先生かと思ったが、普通の主婦だ。今回は一ヶ月の滞在だ。パラグアイではスペイン語に加えグアラニ語が日常的に話されている。中島さんの先生は22才の美しい女性、Normaだ。彼女は大学生だ。彼女から日本の領事で古川義一さんという人がエスペラントをしゃべると聞いた。それで電話して会うことにした。会う場所は大学だった。彼は仕事が終わった後、そこでNormaと一緒にグアラニ語を勉強していた。彼は、市内の別の場所にあるグアラニ語の学校でも勉強していて、そこからもうすぐグアラニ語の教員の免許をもらえるそうだ。こんな領事がいるとは、日本人として鼻が高い。
Guarani語を勉強する人達のパーティーに招待された。
ある日、Normaからグアラニ語を勉強している人たちでパーティーをやるので来ないかと誘われた。もちろん行くことにした。パーティーの会場は、例のグアラニ語の学校にある二階の大きな部屋だった。夕暮れに中島さんとNormaの三人でバスに乗って行った。ラッシュアワーで混んでいたので、バックパックに入れたビデオカメラが心配だった。観光客もさほど多くなく安全そうに見えるアスンシオンだが、この街も日が暮れると危険なので外出は控えるようにとみんなが言う。とっぷり日が暮れた薄暗い通りを歩いて、無事グアラニ語の学校の学校に着いた。パーティーには30人ほどの人が集まった。軽い料理や飲み物を持ち寄って開かれた質素なパーティーだった。突然現れた部外者の僕を、みんなは暖かく迎えてくれた。女性はみんな頬にキスしてくれた。僕についての紹介はスペイン語とグアラニ語の両方でなされた。僕は、もちろんグアラニ語はしゃべれないのでスペイン語で挨拶した。その後ギターに合わせた合唱が始まった。パラグアイでは有名な曲らしいが、僕はもちろん歌えない。黙って聴いていた。その内ダンスが始まった。こちらではダンスがないとパーティーは終わらない。僕も何人かの女性に誘われて見よう見真似で踊った。やがて三々五々人が去り、パーティーは終わった。中南米の多くの国の通貨単位はペソである。しかしこの国ではグアラニという単位を使っている。そのグアラニ語を、インディオの言葉がどんどん消えてい?ている南北アメリカにあって、パラグアイではそれを残していこうとする人々が多くいることに、僕は心強さを感じた。グアラニ語のような民族言語ではないが、僕もエスペラント語を残し、さらに発展させたいと思っている。パラグアイには移住者等日本人及び日系人が7,000人ほど住んでいる。日本人が集まって住む町は、今まで旅してきた南米の他の国にもあったのだが、僕は訪ねたことがなかった。パラグアイにもあるはずだ。できれば訪ねてみたいと思っていた。僕はアスンシオンを出たらまっすぐ東に向かい、ブラジルの国境の町まで行き、そこでイグアスの滝を見ることにしていた。しかしアスンシオンからは350kmほどもありそうなので、その日はパラグアイ側の国境の町Ciudad del Esteに泊まり、翌日ブラジルに入りたいと思っていた。しかしこの町は、ガイドブックには治安が悪いと書かれている。それで、もう少し手前にホテルのありそうな町がないかと地図を見た。一つある大きな町は国境から200kmも離れている。「ホテル内山田」には宿泊客を無料でタクシーのように運んでくれるクルマがある。ある日、その運転手としゃべっていたら国境の手前40kmの所にColonia Yguazuという日本人移住地があって、そこにはホテルもあると聞いた。好都合だ。そこに行くことにした。
アスンシオンから東、Colonia Yguazuへ向かう国道7号線は、イグアスの滝の近くでブラジルに入る。アスンシオンから川を隔てて西側はアルゼンチンなので、この道路はパラグアイでも最も重要な国際道路だ。この道路沿いには、チリの砂漠やアルゼンチンのパタゴニア、さらにウルグアイを抜けてアスンシオンまで走ってきた道路と違って、小さな町や村がいくつもある。また交通量も多い。だからガソリンスタンドもたくさんある。チリに入ってからずっとガス欠を心配してきたが、やっとその心配がなくなった。道路の両側には草地があり、少し離れて木々が立ち並んでいる。その草地では牛が草を食んでいる。その向こうは緑一色だ。長閑な道路だ。
日本人移住地Colonia Yguazuには南米一の鳥居がある。
アスンシオンから4時間、"Colonia Yguazu"の看板が見えた。道端にいる人に、「福岡旅館はどこですか?」と尋ねた。道路の北側を入っていった所にあると教えてもらった。左折すると石畳の広い道路に入った。ガソリンスタンドに続いてスーパーマーケット、立派な農協がある。正面に赤い大きな鳥居が現れた。南米で一番大きな鳥居だ。その背後が大きな公園になっている。鳥居の左手奥には教会、さらに少し行くと日本人会館がある。鳥居の右手の方には体育館、その向こうにサッカー場と野球場が二面もある。ラテンアメリカでは野球場は珍しい。やはりここは日本人移住地だ。福岡旅館は、鳥居を右手に取って二街区行ったところにあった。普通の大きな民家で看板もかかっていない。その手前で一台のバイクが止まっていた。見ると、アスンシオンの「ホテル内山田」で一緒だった榊義人さんだ。彼は8ヶ月かけて、カナダから中米を抜け、エクアドルからは僕とほぼ同じコースを駆けて来た。世界一周を目指している。しかし、彼は僕より一日早くアスンシオンを出て、Colonia Yguazuの北の方に行ったはずだ。訳を聞くと、赤土の道路が雨でぬかるんでいるので迂回してきたらしい。国道7号線沿いの"Hotel Yguazu"に泊まっていると言うので、福岡旅館は止めて僕もそこに行くことにした。
バイクで世界一周を目指す榊義人さん
"Hotel Yguazu"は、建設されてまだ8年の綺麗なホテルだ。床はピカピカのタイルで覆われ、日本の旅館のように入口で靴を脱ぐ。玄関で靴を脱ぐホテルは三年間で始めてだ。部屋は一泊1,500円を1,150円にしてくれた。朝食込みだが、残念ながら「ホテル内山田」と違って洋食だ。しかし部屋自体はこのホテルの方がいい。浴室には湯船はないが、部屋にはまだ新しいベッドが二つとベッドほどの長さの豪華なソファ、テーブル、机が置かれ、大きな窓の横にはエアコンも備え付けられている。Colonia Yguazuは南緯25度で熱帯に近い。でも今は5月の終わりだ。冬だ。アスンシオンはそれほどでもなかったが、東に向かうにしたがってどんどん寒くなってきた。だからエアコンはありがたい。それに階下の大きな食堂兼ロビーには、NHKが入る大きなテレビが置かれている。
Colonia Yguazuの「ホテル・イグアス」
1955年に移民した官沢忍さん
宿の主人は官沢忍さんという方で、北海道の工業高校の土木科を卒業した後、1955年に両親と共にColonia Yguazuより南のChavesに移民した。彼がまだ20才の頃だった。5年後の1960年、日本政府が現在のColonia Yguazuを含めた、日本の香川県に相当する878平方kmの広大な地域をパラグアイ政府より買い取り、移住地の開拓に着手した。その時、土木を学んだことのある官沢さんが、現在のJICAに採用された。国道7号線は前年の1959年に開通していたが、まだ舗装されていない赤土の道路だった。Colonia Yguazuは熱帯に近い上、世界でも最も肥沃といわれる土壌がある。だから、この辺り一帯は20~30mの高さの木に覆われたジャングルだった。その中をできたばかりの国道7号線が、一筋の赤い線を引いているだけだった。官沢さん達測量隊は、日中でも陽が差し込まないジャングルに入った。暗いジャングルの中で仕事を続けると、心理的窒息状態になり太陽の下で深呼吸すべく、唯一空が見える国道7号線に出てはほっとしたと言う。それが今ではジャングルは全く姿を消し、大豆が植えられている。そして裏作には小麦が植えられる。翌1961年の8月22日に、最初の入植者14家族がColonia Yguazuにやって来た。その後入植者は増えていったが、入植はそれほど容易ではなく、入植者の2/3はこの地を去ったと言う。今、この移住地に残っている日本人は200家族だ。大きな家に住み、裕福に暮らしている。大きな土地や商店の経営にはパラグアイ人やブラジル人を雇っている。この移住地の人口は1万人だが、一家族を5人とすると日本人は1,000人程度だ。日本人移住地とは言え、今では日本人は少数派だ。
「ホテル・イグアス」の管理人用の大きな家
「ホテル・イグアス」から見た官沢さんの土地と背後にある開拓地
官沢さんは、他の移民とは違って若い頃からJICAで働いてきた。彼がこの土地で働き出して数年後、道路に面した南側の土地だけが売れ残った。周りを低い丘に囲まれた谷になっていて水はけが悪いからだ。でも彼は土木を学んでいたので、排水する術を知っていた。それで国道7号線沿いに1.3km、国道から450m続く土地を買った。土地の価格は0.3平方km(1km×300m)単位で52万9000円だった。今ではColonia Yguazuの、いわば目抜き通りだ。そこにガソリンスタンドや商店が建ち並ぶ。その真中の一番低い土地に"Hotel Yguazu"が建っている。土地が広いからホテルはゆったりとした敷地の中に建てられ、プールまである。ホテルの管理人のために建てた家は、僕も管理人になりたいと思うほどの、トイレが三つもある大きな家だ。おまけにガレージまである。使わない土地は、パラグアイ人やブラジル人に分譲している。官沢さんはこの辺では普通だが、日本人の僕にとっては実は大地主だったのだ。彼は55才で退職した後、横浜の土木関係の会社に4年間現場監督として勤めた。その会社では、彼は唯一の外国から来た日本人だった。日本人労働者に、彼がパラグアイに大きな土地を持っていると話しても誰も信じなかった。官沢さんは、アスンシオンにもプール付きの家があって、その家はトイレが八つもあると言うから、おそらく日本人には想像すらできないほど大きな家なのだろう。アルゼンチンのNeuquenで会った若い移住者の沖西一昭さんもプール付きの大きな家に住んでいた。僕は生まれてこの方、ウサギ小屋と海外から揶揄されるアパートにしか住んだことがない。もちろん日本からの移民の人たち全てが、官沢さんや沖西さんのように成功した人ばかりではなかっただろう。でも日本では一流大学と言われる大学を卒業した後、一流企業に就職してそこそこ成功した人でも、たとえばプール付きの家には住めない。彼等のことが、僕の29年間の役所生活を含めて、全く馬鹿らしく思えてくる。しかし今、僕は退職して日本を去りコロンビアで住もうとしている。でも僕は、彼等移民と違って土地の開拓はしない。コロンビアに戻れば、旅日記をまずスペイン語に、次ぎにエスペラント語に翻訳しようと思っている。だから官沢さんのような成功を見ることはない。しかしそれでも、コロンビアでは奈良の公団住宅よりも大きなところに住めると思う。死ぬまでに一度、大きな家に住んでみたい。それもあって僕は、Marcelaが待っていてくれるコロンビアに帰る。