著作家小田実が大学の入学試験に出題された自分の文章に回答して50点が取れなかったとか、世界的数学者広中平祐が灘高生に出された数学の試験を受けたら50点しか取れなかった、ということを読んだことがある。
小学校の算数で、球の表面積がいくらになるという公式を覚えさせられた。この公式は、後に就職してから修士3人を含む有名大学の理科系学部卒業者5人がかかっても簡単には導き出せなかった。中学校の社会科では「コロンブスが****年にアメリカ大陸を発見した」と教えられた。西欧の人間がアメリカ大陸に上陸した時に、そこには既にアメリカインディアンがいたことは、西部劇を見て子供でも知っている。何が発見なのか!もっと言えば、遠く紀元前にヨーロッパから船に乗って自由に大西洋を渡ってアメリカと交流していたとする説もあるのだ。一方、太平洋をも超えて南米に達していただろうとも言われている。数学は問題を解く論理性を訓練するために、社会科は歴史の事実に基づいてその意味を解釈するために勉強しているのではないのか。そうでなければ時間の無駄だ。
中学校に入るとローマ字の読み書きから突然英語に変わった。当時、大阪の田舎に住んでいた私の周りには英語を話す外国人は一人もいなかった。学校には在日韓国人が何人もいた。なぜ韓国語ではいけないのか?一歩譲って英語としよう。では大学の第二選択語として、なぜもっと隣の国の言葉を取り入れないのか?これも譲るとして、我々は随分長い間英語を教えられた。中学校から大学を卒業するまで、合計10年間もである。しかし卒業しても英語はしゃべれない。これに対して学校はいつもこう答えていた。我々は読み書きを教えていると。私は大学卒業時に英語の読み書きが自由な人に会ったことはない。それよりも「なぜ英語を勉強するのか」と問う学生を育てる方が大事だ。「なぜ?」という視点が常に欠落しているから、問題解決能力が磨かれず、英語で言えば盲目的追随主義が横行するのだと思う。そこからは民族語を越えた国際共通語の必要性という発想は決して生まれてこない。
日本の教育の目的は、実は正にこの点にあるのではないかと思うことがある。何を言われても、間違った指示を受けても、文句を言わず黙々とロボットのように正確に仕事をし続ける人間を作り上げることが目的ではないのか。運動クラブには入らず、友達とは遊ばず、当然デートも我慢して、部屋に閉じこもり、一番元気で、良いはずの若い時代を無意味な事柄の暗記に終始する。「なぜ?」と考え出すと、こんな馬鹿げたことは正常な人間にできるはずがない。だから思考を停止した者だけが有名と言われる大学に入学できる。それは完全にロボット化されたことの証明だ。だから多くの大企業や役所はこういう人間を求める。考える人間は組織の経営や倫理まで問題にするから危険なのだ。このやり方は、社会が安定していて同じことを正確に繰り返すだけでいい場合は効率的であろう。しかし、現在のように大変革の時代には即さない。仲間と遊んでいないから、リーダーシップは取れない。どんな問題だって、「なぜ?」と考えて自分で解決したことが一度もない人間が、全く新しい問題を解決できるはずがない。おまけにロボットのように無気力になってしまっている。
日本が国際競争力に破れて、近い将来経済が破綻するとしたら、こういう若者を育ててきた古い世代の責任だ。自業自得と言うべきかもしれない。
私の老後にはあまり夢がないが、しいて言えば受験戦争とは無縁などこかの田舎で、自然の中で育った若者達と一緒に勉強し直すことかもしれない。世界地図を広げて自分の旅行してきた国々、また未知の国々の地理、歴史、文化、言葉、政治等を語り合う。教材としてはバイクも必要だ。この中には力学、球の表面積どころではない数学問う近代技術の粋が含まれているからだ。ついでにエスペラント語も勉強しよう。