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嬉しい再会 - 僕の人生とバイク

バイク乗り達の宴会

2005年の7月16日に日本に帰ってから6年近く経ってまた2度目の帰国したのが今年2011年の3月でした。2005年と同様、暑い夏に帰りたかったのですが飛行機が取れず、3月にしたのでした。妻のビザの関係で日本には3か月滞在する予定でした。帰りの6月の梅雨はなるべく避けたい。しかし2月に日本入国となると寒い。それで出発を3月中旬にしたのでした。3月の中旬ならすぐに暖かくなると思っていたのが間違いでした。今年の日本の春は気温が低くて、3月14日に東京に着いたのですが真冬の寒さでした。私は妻のマリアとほぼ赤道直下、北緯4度に暮らしています。低い土地なら暑すぎるのですが、僕達の住んでいる所は高度1600mなので一年中初夏の気候です。日本も4月になれば桜が咲き暖かくなると思っていたのですが、 今年の春は寒い日が何時までも続きました。生まれて初めての寒さに遭遇した妻のマリアは体調を崩しました。5月の2日に九州に行ったのですが、まだ半ば病人でした。体調が戻ったのはずっと暖かくなった5月10日頃ですから、日本滞在3か月の内、約2か月は体調不全でした。今回の帰国の主な目的の一つは動脈硬化の再検診、虫歯の治療、それに健康診断等の医療を受けることでしたから、それを1か月と20日位で終えることができ、九州に旅行できたことは良かったと思っています。3か月の後、6月11日にコロンビアに帰ってきてもう2か月半経ちました。帰国後40日ほど、すなわち7月20日頃までは日本で買ったパソコンの整備や、マリアの母親、姉さん夫婦、その子供が合計2週間ほど我が家に来てくれたり、また隣の家の境界線が草木に覆われていたのが伐採されたのでそこに金網を張る工事に一週間ほど掛かったりして過ぎました。それから8月の27日までは2000年から2011年6月までのメールをhtmlに書き換える作業に追われました。こんな作業は考えていなかったのですが、今年の6月に日本から買ってきたパソコンに移行したら、メールが全部消えてしまっていたからです。僕はパソコンのことは殆ど分からないので、パソコンの仕事をしているマリアの弟に回復してもらいました。しかしまた次にパソコンを変えた時に同じことが起こると問題なので、メールを全てhtmlに書き換えることにしたのです。合計約7500枚のメールを一枚ずつhtmlに変換し複写するのは、本当に疲れました。こんなことは退職して暇な時間を持っている者にしかできないことと思います。

メキシコの乾燥地帯を走る

日本に帰国している間に妙なことが起こりました。アメリカから彼のパソコンに僕宛のメールが届いていて、差出人が彼の娘と同じ名前のNaokoと言う日本人だったというのです。メールは何処だと聞くと、弟のパソコンが潰れて全てのデータが消えてしまったと言うのです。そう言えば菜穂子さんからの最後のメールは2004年9月17日で、シアトルで結婚したという内容で旦那と二人で撮った結婚衣装の写真が送られてきました。僕は旅日記をずっと送り続けてきたのですが、いつも彼女へのメールには「そのようなメールアドレスはありません」と言うメッセージが返ってきていましたので、結婚してメール・アドレスを変更したものとばかり思っていました。それでさらに過去のメールを見てみると2003年10月10日付で、彼女が愛知の学友に宛てた引っ越し通知メールが見つかりました。そこには友達の16通のメール・アドレスが乗っていたので全員に、「誰か菜穂子さんの連絡先を知りませんか」とメールを送りました。するとすぐに連絡がありました。見るとアドレスは以前と同じではありませんか。今度は菜穂子さん宛ての一通のメールを送ったらすぐに返事が来ました。2004年9月17日以降も、何通ものメールを送っていたのに返事がないので「やんわりと断られているのかと思っていました」と書いていました。彼女はバイク乗りでした。僕は1991年の10月にバイクの免許証を取りました。43歳でした。僕は奈良の郡山に住んでいたのですが、すぐに近くの若いライダーが僕の家に集まってきました。彼女も、当時は京都に住んでいたのですが、そのうちの一人でした。彼女は僕よりも18歳若くて25歳でした。その12月にニュージーランドに行き、そこでバイクを買って一か月旅行しました。この年は自動車と衝突事故を起こし一週間くらいしかバイクに乗れませんでしたので、また次の年ニュージーランドに行き、バイク一周の旅を果たしました。それから1998年までアメリカ合衆国、オーストラリア、メキシコ、ベトナム、印度とほぼ毎年バイクで旅行しました。その間1994年のメキシコには彼女と二人で行きました。メキシコのカリフォルニア半島の入り口にあるティファナに隣接する合衆国の国境の街サン・ディエゴで、ホンダのRevel 450ccを2台買って例年どおり約1か月の旅を終えました。

話はもっと若い頃に戻ります。僕は小学校の5年生頃に野球を始めました。近所の子供が集まって作るチームに入ってました。中学生になり野球部に入りました。日曜日には大人のチームにも入り、毎日が野球でした。高校は岸和田高校でしたが、入学前には野球部後援会長等が家に来て入部を進めてくれたので、入学したら野球をするつもりでした。しかし入学前の春休みに父が急死したので、野球どころではなくなりました。そして大学を卒業し大阪市役所で環境関係の仕事に着いたのですが、歓迎会で野球部があることを知らされすぐに入部しました。しばらくして中学時代に野球をしていた連中が集まった時に、また日曜野球チームを作ろうということになりました。それから職場の野球部が潰れる42歳頃までは毎週末、野球人生でした。

ホテルに駐車したホンダRebel-450

サボテンと菜穂子さん

ホテルの前の菜穂子さん

もう一つ好きなことがありました。旅行です。1974年、25歳の時、それまで航空運賃が高くて夢の夢であった海外旅行でしたが、5か月位の給料でヨーロッパまで行ける飛行機があることが分かったのです。合衆国のチャーター便で乗客は殆ど学生でした。前日に東京に集まり、説明会に出て翌日の飛行機で出発するという仰々しさでした。それから1998年までほぼ毎年、合計30回の海外旅行に出かけました。一年間の休暇を全部まとめて海外旅行に使いました。また土日の野球が無くなり、バイクの免許証を取ってからは、天気さえ良ければ毎週末に温泉まで走りました。5月の連休には遠くまで出かけ、日本は北海道を除いて全て走りました。1991年、43歳でバイクに乗り出してからは全てがバイクでした。通常バイクは4台持ってました。全て中古車です。職場にバイク気違いがいて、修理技術を学ぶため彼の弟子になりました。退職する前年の2000年まで10年間、毎週2~3日、時には月曜日から金曜日まで毎日、仕事が終わってから終電車の時間までバイクの整備に明け暮れました。

そして2001年、僕はバイクによる世界一周を目指してアメリカ合衆国に渡ったのでした。菜穂子さんがシアトルで結婚したと言うメールが入ったのは2004年9月17日と書きましたが、それは僕が南北アメリカ大陸一周バイクの旅を終えてコロンビアのボゴタの友達の家に帰ったのが2004年9月18日ですから、二人の人生がほぼ同時に大きく変わったと言えると思います。

先に書いたように、その彼女からほぼ7年ぶりにメールが入りました。彼女は旅行が好きなのでコロンビアに来たいと言っています。もちろん望むところです。大歓迎です。ただ、そんなに長い休暇はすぐには取れないが、一週間位だったらすぐにでも大丈夫だと言って、いま切符の手配をしているようです。昨日から彼女と一緒に行ったメキシコの写真等を見ていました。この写真も、日本を出る前にスキャナーで複写したもので、画像は良くないが当時の記憶を生き生きと甦らせてくれます。彼女とのメール交換の再開も、過去11年間のメールを全て保存していたから可能だったのです。メールをhtmlに変換した上で複写するのに一か月以上かかりましたが、菜穂子さんと再会できる切っ掛けはメールの保存にあったと思えば気が済みます。そう、だんだんと、なんでも自分に都合の良い方に考える癖が付いてきました。

メキシコの警官は陽気だ