パプアニューギニアからオーストラリア東北部の海岸に平行して南へ、約2000㎞にわたる珊瑚礁が緩やかな弧を描いて線状に伸びている。このグレート・バリア・リーフは、オーストラリアの大陸棚の端に住み着いた400種の珊瑚虫が作った、豪華絢爛な万里長城だ。そこには1500種の魚類と、4000種の軟体動物、それに350種類の棘皮動物が棲息していて、巨大な生態系を形成している。
グレート・バリア・リーフの最大の観光地、ケアーンズは南緯17度にあって熱帯だ。グレート・バリア・リーフは、その南端では300㎞も海岸線から離れているが、ここケアーンズでは、わずか80㎞の海中にある。普通、珊瑚礁は陸地からせいぜい数㎞以内に見られるものだが、ここでは観光客は3時間の船旅を覚悟しなければならない。
念願のグレート・バリア・リーフに潜った。
グレートバリアーリーフ
パンを投げ込むと群がる魚
我を忘れて魚と遊んで船に上がると、両脚は熱帯の強い日差しに焼かれて、痛い。強烈なやけどだ。翌日は歩くこともできず、ホテルの部屋で一日中、氷で脚を冷やすはめになった。2年前のクリスマスはニュージーランドで交通事故、そして今回の同じ日は、両脚の大やけどでベッドの中。クリスマスは異教徒にとっては厄日だ。 オーストラリアの東海岸には、海岸線と平行にグレート・ディヴァイディング山脈が連なり、内陸部と海岸部を分けている。オーストラリアの全人口1700万のほとんど大部分が、この東部海岸線に住んでいるが、山を越えずっと西に進んでいくと、そこは広大な砂漠のはずだ。東部海岸の喧騒から離れて、西へ向かう。そこには圧迫の歴史を生き抜いたオーストラリア原住民、アボリジニーも多く住むはずだ。オーストラリア東北部の山脈は決して峻険ではなく、長く広がる丘のようなものだ。ここから西に広がる大平原では、牛の放牧が盛んだ。オージービーフは、このあたりの道路で草を食む牛の末路なのだ。道の際には、牛やカンガルーの死体が横たわっている。病死なのか、事故死なのか、異臭を放つ動物は今は語らない。でも、おそらく車にはねられたのだろう。 オーストラリアの道路では、「コアラ横断注意」、「カンガルー横断注意」、「ダチョウ横断注意」、そしてもちろん「牛との衝突注意」の標識を見かける。実際、薮から飛び出してきたカンガルーを寸前のところで轢き殺すことがあった。道路の横を走るダチョウとは競走した。そのダチョウは案外遅く、時速40㎞だった。また、道路横断中の体長1mにも及ぶ大トカゲも目の前に見た。この国の道路は、自然動物園の中を走る道と思えばよい。
東部海岸線を一歩西に入ると、もう交通信号はない。信号のかわりに交通を遮断するのは、牛だけだ。牛の半数はエンジン音に驚いて道を空けるが、半数は狼狽なのか、それとも反抗なのか、こちらを凝視して動かない。その結果、何頭かは平和な牛の一生を閉じることになる。ここは牛の王国だ。なのに、自分達の縄張りに闖入する人間に殺されるとは、彼らにとってモウ、迷惑な話なのだ。
道路にはクリスマスのせいか、車を見ない。170㎞先のガソリンスタンドを目指してバイクで走ってきたのに、出会った車は1台だけ。俺様は、まるで先頭を走るマラソンランナーだ。世界で一番速いランナーなのだ。道の両側で拍手を送る観客は、牛だ。その牛の足元に、奇妙な円錐形の土山がまるで墓石のように林立している。小さなもので50㎝、大きなものだと1.5mもある。蟻塚だ。
蟻塚
一番大きなものだと3~4mにもなるという。全く、自然は想像を超える。 グレート・ディヴァイディング山脈から西へ伸びる道は、ただただまっすぐだ。道の両側の木々の緑の壁は、遠くへ行くとだんだんせばまり、白い小さな一点を残して地平線に消える。さらに西へ向かうと、気候は乾燥して、木々は姿を消し、ただ一本の道路が広大な土地を真二つに分け地平線へと沈む。ここは陸ではなく海だ。360度、何も視界をさえぎるもののない際限のない平面だ。波のない大洋だ。100~200㎞毎に点在する小さな町は、大洋に浮かぶ小島だ。今走っているこの道路は、その小島と小島を結ぶ無限に伸びる滑走路だ。 家もない。人もいない。この大平原で目に映る生き物は、馬と牛と羊だけだ。全ての人間が地球上から消えてしまったみたいだ。人類の痕跡を残すものは、コンクリートの長い帯の中央に引かれた白い線だけだ。車もこない。これはもう道路の意味をなくした道路だ。もし、現実に人類文明が一瞬に滅びて、映画「猿の惑星」の世界になったら、この無限の直線はナスカの地上絵同様、永遠の謎になるだろう。 ただ一人のライダーが、シドニーでレンタルした YAMAHA XT 600 にまたがって、この空間を西へ西へと爆走する。暑い。気温は42度だ。しかもライダーは真冬のジャケットに皮ズボンだ。体に当たる風は、まるでサウナ風呂の熱さだ。それなのに、彼はなぜ砂漠の方向へ、灼熱地獄に向かって進むのか? 無機性の馬に乗る、この旅人の行動はライダー自身にもわからない。 しかし、彼にとってバイクの座席は思索の椅子なのだ。話しかける相手はいない。ラジオのニュースも聞こえない。カー・ステレオの音楽もない。一日中向かい合うのは自分自身と自然だけなのだ。ライダーに聞こえるのはヘルメットを切る風の音と、かすかにベースを奏でるエンジンの低い音だけだ。この果てしない単調さの中で、ライダーは人生、愛、冒険、そして死を幻想し、金属の馬の上で白日夢に耽る。
東海岸の小さな漁村だった。
テントを出ると、海上に出た三か月が長い尾を引いて海面に映っている。この月は、一向に空に昇ろうとせず、いつまでたっても海の少し上の所でじっとしている。そのうちだんだんと細くなり、線状の弧になったと思うと、三つの点に分裂し、最後には一つの星となって消えてしまった。不思議な宇宙ショーだった。 熱帯の燃え盛る太陽が大地を焦がす。蜃気楼なのか、大地は端から溶けてきて海になる。ライダーが進む道路の先端も水路と化す。彼は今、その水路を通って海の上を走ろうとしているのだ。でもライダーが前進すると、水路は後退する。果てしない追いかけごっこが続く。 水平線上に小さな黒い点が現れる。しかしライダーは道路の消える一点を凝視したままだ。道路はどこまでもまっすぐだし、景色は何時間も変わらない。ギヤーはトップに入れたまま、アクセルは一定。これでは部屋で椅子に座って、一枚の写真を何時間もじっと見続けているようなものだ。しかし、あの黒い点はクルマだ。注意しなければならない。同時に、道路を横切る動物にも注意を払わなければならない。この国では動物の方がもっと危険だ。今まで何頭の動物の死体を見てきたことか。ひどい所では道路際100m毎に死体が並んでいた。120㎞の速度のバイクであんな大型の動物にぶつかれば、まちがいなく心中だ。牛は動きが鈍いからまだいい。問題はカンガルーだ。カンガルーは、あっという間に道に飛び出してくる。この動物は夜明けと日没に出没すると聞いているが、油断はならない。ライダーは最も孤独な旅人であるだけでなく、一番死に近い旅人でもあるのだ。 それにしても、人間の造ったこの「工学的」馬はタフだ。一日平均500㎞もの距離を走ってもビクともしない。しかも、このサラブレッドは速い。時速120㎞は、一番速い本物のサラブレッドの60㎞をはるかに凌いでいる。しかも疲れを知らないときているのだから、俺はこんな馬を造り出した人間を、ほんとうに偉いと思っている。 この旅で、生まれて初めて「生物学的」馬に触れてみた。
東海岸のキャンプ場。ここで不思議な宇宙ショーを見た。
マーガレットと馬に跨る娘のケリー
本物の馬はほんとうに美しい動物だ。マーガレットの可愛い娘ケリーは乗馬が得意で、彼女のレースでの優秀な成績を讃えるトロフィーが所狭しと家の居間に飾られている。ある日、彼女は黒い乗馬帽と乗馬ズボンに身をかため、馬にまたがった。亜麻色の髪を靡かせながら馬を走らせる少女、俺は飽きることなくじっと彼女と馬を見続けていた。少女と馬が一体となって、上下に波を打つように進んでいく。なめらかで優雅な動きだ。馬の走る容姿はハーレーだって、とてもかなわない。また、その毛並みの感触、実にソフトで温かく、もちろんバイクの冷たさとは比較にならない。 マーガレットは自分の馬にマントを着せている。それは、もちろん我々の衣服同様、体を暖めるだけでなく、おめかしをするという意味もあるが、馬の場合、それ以外に太陽光による毛の脱色を防ぐことと、うるさいハエをシャットアウトすることも目的なのだ。必要なら顔にもフードを付けて完全に身を覆うが、脚とお尻の部分は隠せない。そこで馬は、四六時中、脚で地面を蹴ったり、長い尻尾を鞭がわりにしてハエを追い払っているのだ。もちろん俺のバイクにもカバーは掛けている。でも、それは盗難よけのためだ。 最近、バイクは俺にとってガールフレンドのような存在になってしまった。でも、このガールフレンドは荷物をほとんど運べないし、雨が降ったら大変だ。バイクはクルマに比べると、交通手段としては落第だ。馬も牛に比べると、一部の競争馬を除くと経済的価値は少ないようだから、マーガレットにとっても6頭の馬は恋人のようなものなんだろう。彼女は毎朝、馬にシャンプーをする。彼女は言った、「シャンプーした後、馬が一番最初にすることは泥にまみれることよ」。そして一頭は入浴後5分に、それを実行した。バイクも一緒だ。いくらきれいに洗っても一雨降ればドロドロだし、いくら手を掛けても潰れるときは潰れる。恋人をもつと報われないことの方が多いものだ。
彼女の馬には、それぞれ個性があるだけでなく、心がある。俺様の馬にも個性はある。でも、心はない。彼女の馬は能動的だけれども、俺の5頭のバイクは一頭残らず、全く受動的だ。俺のバイクに対する愛は一方的だけれども、彼女の馬への愛は相互的で、時として報われる。でも、彼女は言う、「馬がいるから旅行に出れない」と。俺様のバイクは、餌も与えず、シャンプーもせず、日本に置いたままだ。どちらがいいのか、俺にはわからない。