ホンデュラスとその南に隣接するエル・サルバドールの国境付近は、東西に山脈が伸びている。その山脈はさらに西方のグアテマラ、メキシコに続いている。中米は熱帯だから海岸に近い平地に降りると一年中暑い。それで避暑を求めて山の涼しさが恋しくなる。51日滞在していたサンタ・バルバラは山と平地の中間にある。日中は真夏の暑さだが、夜は涼しい。それでももっと涼しさが恋しくて、その山脈にひっそりと佇む小さな町を訪ねることにした。そしてうまい具合に、そこには温泉があった。
コパンのマヤ遺跡は石柱が特徴だ。
ホンデュラスとグアテマラの国境にはマヤの代表的遺跡であるコパンがある。その北方50kmほどのグアテマラ側には、コインにもデザインされている同じく有名な遺跡キリグアがある。どちらの遺跡もピラミッドというより、レリーフが施された高い石柱があるのでよく知られている。僕は30才の時にもこの二つの遺跡を訪ねたはずだ。キリグアは覚えていたが、コパンは記憶がおぼろげだった。でも、キリグアから未舗装のガタガタ道をミニバスに揺られてホンデュラスに入り、もう一つの遺跡に行ったのだけははっきりしている。そうなればコパンに違いない。よく覚えていないだけに再訪が楽しみだった。 コパンの遺跡は、石畳の静かな村の郊外1kmの近さにある。ここには2000年も前から人が住んでいて、コパンの村も古いので僕が訪ねた24年前にもきっとあったはずだ。しかし何も覚えていない。1kmの遊歩道を遺跡まで歩いた。国道沿いに入場券を売る大きな建物やレストランがあったが、これも記憶にない。木々に囲まれ、良く整備された道が遺跡のゲートまで続く。ゲートの入り口でオームのような形をした色鮮やかな大きな鳥が10羽ほどいた。この鳥だけは確かに記憶にある。しかし中に入っても、その後整備されたためか見覚えがない。登ったはずのピラミッドは、今は立ち入り禁止になっていた。ピラミッドの近くも、昔は再建工事中だったが今は整備されている。新しい遺跡をまた一つ見たような感じで、少し得をしたような気持ちになった。
遺跡のゲートに戯れる大きな派手な鳥。この鳥だけは見覚えがあった。
コパンの温泉の滝。大きく見えるが、実際は小さい。
ジャングルを流れる川の横にある温泉
知らなかったが、コパンには温泉があった。村から温泉までは21kmのダートなので、バイクはやめて日帰りツアーのトラックの荷台に乗って行くことにした。他に四人との相乗りだった。二人はともにイギリス人だった。一人はRichardという若い男で、もう一人は中年の男性でホンデュラスの若い奥さんと3才くらいの女の子を連れていた。歳をとっているのに若くて綺麗な奥さんと一緒の男に嫉みを感じた。道はきついカーブとアップダウンを繰り返す悪路だった。BMWで行かなかったのが正解だった。 この温泉には、旅行社の写真で見て温泉の滝があることを知っていた。写真だから大きな滝に見えたが、着いてみると2mくらいの小さな滝だったのでちょっと失望した。でも温泉は本物だった。82度の熱湯がジャングルを縫って落ちている。それが川に流れ込む。そこで入浴してみた。川の水で急に冷たくなったり、熱い湯が急に流れ込んで来たりして不思議な感触だった。川の傍には大きな露天風呂が二つあった。どちらも温めの湯だ。すぐ傍に高温の温泉が流れ落ちているのだから、湯温はいくらでも上げられるはずだ。しかし、こちらの人は日本人と違って低めの湯が好きなんだろう。それに浴槽の回りはジャングルが切り開かれて芝生になっているので、樹はなく熱帯の直射日光が照りつける。低めの湯の方が合っている。一方の浴槽は深かった。足がつかない。日本ではこんなに深い温泉を見たことがない。それでひたすら泳ぐことにした。
トラックの運転手に、道さえ舗装されていればいいのにと言うと、近いうちに日本の援助で舗装される計画だと言う。どうも日本の大使が温泉好きで何回も来ているらしい。ホンデュラスでもエル・サルバドールでも、日本のこうしたインフラストラクチャーの整備協力の話しをよく耳にする。ホンデュラスを走るクルマやバイクは90%以上日本製だ。大のお得意さんだからこれくらいの協力は当然なのかもしれないが、日本の旅行者としては鼻が高い。日本の海外協力隊員もホンデュラスのために働いている。この国の人がみんな愛想がいいのは、こういうことも原因かもしれない。日本は、アメリカのように他所の国に軍隊を送ることなく、いつまでも平和政策を続けて欲しい。
もう一つの温泉はコパンから東に160kmほど行ったグラシアスという、またジャングルに囲まれた山の中の小さな町にあった。この町は1526年に建設され、当時はスペインによる中米支配の中心だったらしい。しかし今は、植民地時代の面影をそのまま残して眠っているような静かな町だ。町の中心部の道だけに敷かれている石畳も、当時のまま放置されてきたような感じで、クルマが走ると砂埃が舞う。夜になると、通りには街灯が少なく、うら寂しい感じすらする。 ここの温泉は、コパンと違って6kmの近くにある。コパンほど観光客の多くないこの町には、ツアーもない。一泊400円しないホテルであったオーストラリアから来たサイモンは、温泉まで歩いて帰ってきた。サイモンはダートは整備されているのでBMWでも問題はないといった。でも、その気にならなかった。そして、バイクで痛めた僕の足はまだ完璧ではなく長い距離を歩けないので、500円も払ってタクシーで行った。町を出て4kmまでは、まるで舗装道路のようにダートは整備されていた。しかし最後の2kmは荒れていた。タクシーで来て良かったと思った。
ジャングルに覆われた温泉
ここの温泉もジャングルの中にあって、小さな売店が一つあるだけだ。すぐにプールのような大きな露天風呂の他に三つの露天風呂が目に飛び込んできた。ここはコパンと違って露天風呂の上は高い樹で覆われていて、熱帯の太陽は木漏れ日として少し射し込むだけだ。だから浴槽から出ると少し肌寒いくらいだ。でも、一つの露天風呂だけは40度もあって暖かい。湯に浸かると思わずふうっとため息が出る。ここの大きな露天風呂も深くて足が着かない。サンペドロ・スーラから来ていた二人の若い男が、その露天風呂に飛び込みを繰り返していた。僕は25年ほど前、コンタクトレンズを入れたまま水中メガネをかけて飛び込み、水中メガネに入ってきた水でレンスを失いかけたことがある。それ以来、飛び込みはしたことがない。しかし、今回はレンズの予備をたくさん持ってきていることもあって敢行した。レンズの方に気を取られて、海水パンツのゴムとともに付いている腰紐を締めていなかった。飛びこんだらパンツが脱げた。レンズを流されるのが怖くて目をつぶったまま飛びこんだのだが、その時一瞬目を開けてしまった。目に水が入ってきた。それですぐ、また目をつぶりパンツを引き上げ、手探りで泳ぎ戻っ?。幸いレンズは目の中に残っていた。やはり飛び込みは止めた方がいい。 どちらの温泉にもバスは出ていない。温泉好きの日本人なら、どっと人が押し寄せてきっとバスも出るはずだ。しかし、こちらの温泉では人はまばらだ。コパンの温泉日帰りツアーは、三時に温泉について4時には帰る予定になっていた。でも運転手は6時過ぎまで時間を延ばしてくれた。帰りには心配していた雨が降り出し、荷台で濡れてしまった。途中で日が暮れ村に帰り着いた時は、7時になっていた。この辺の人はおおらかだ。「ラテン時間」で得をすることもある。グラシアスの温泉の帰りは歩くつもりだった。足の痛みを心配していたが、幸い飛び込みをしていた若者のトラックに乗せてもらえることになった。荷台に乗っていると、ダートの砂埃がひどいので、トラックにしがみついたまま殆どずっと目を閉じていた。それにしても、こちらの人は親切だ。
この二つの温泉、日本ならすぐに大きなホテルが建てられ開発が進むんだろうが、そんな気配はない。ジャングルの中で自然に囲まれて、いつまでも蝶々やトンボが飛び続ける温泉のままであって欲しい。でも、オフロードバイクではない僕には、道路だけは早く舗装してもらいたいものだ。人間はどこまでも勝手なことを考える生き物なのかもしれない。
僕は今まで30回ほど海外を旅行したことがあるが、まだ外国に住んだことはない。ある町を旅で通り抜けるのとそこに住むのとでは、見えるものが大きく違ってくるはずだ。一度は外国の町で住んでみたい、住むまではいかなくても長期間滞在してみたいと思っていた。
この旅は期限がないので、その気になればいくらでも長い間一つの町に滞在できたはずだ。しかし一番長くいた所でも二週間程度だった。友達の家に泊めてもらったこともあるが、ほとんどはホテル住まいだった。そして、二週間もするといつも次の所を見たくなって尻がむずむずしてきた。
山麓に建つ新居
ところがサンタ・バルバラに来てもう4ヶ月を過ぎてしまった。最初の55日は海外で初めてアパートに滞在した。そして今は、サンタ・バルバラの町を見下ろす一戸建ての家に移り一人で寝泊りしている。サンタ・バルバラのホテルからアパートに移った時、すぐにバスタオル、石鹸、それにトイレット・ペーパーを買った。暑かったので扇風機も買った。この家は新築で部屋には何もなかったので、机と椅子、それにゴミ籠を買った。一週間ほど前から急に寒くなって冷水のシャワーが堪えられなくなったので、電気で温水を得る装置を買ってシャワーに付けた。近所の人達とも知り合いになった。ホテルと違って、まるで住人になったような気分だ。 ホテルからアパートに移ることになったのは、この町で日本料理店を出している太一郎という日本の若者が、その頃使っていなかったアパートを貸してくれると言ったからだ。アパートには5家族が暮らしている。家賃は部屋によって少し異なるが、一月7~8千円だ。5家族と言ってもその内の3家族は単身で、二人の男女はアメリカから来た平和部隊(Peace Corps)、もう一人は長年スペインに住んでいるフランス人の男だ。そのアパートの家主がDon Marioだ。 Don Marioは銀行に勤めていたが、40才の時23年間勤めてきた銀行での職を失った。その後は山で木を切っては僅かなお金を稼いできたと言う。
新居から見るサンタ・バルバラの町
トルティージャを焼くLeilyと次女のArmida
その間一家の生活を支えてきたのは奥さんのLeilyだ。彼女は23年間、アパートの片隅でトルティージャを焼いてきた。トルティージャはトウモロコシや小麦の粉を水で練って薄く焼いたもので、この辺の国の食事には必ず出てくる食べ物だ。Leilyの所では直径10cmくらいのトルティージャ4枚を8円くらいで売っている。近所の人たちが買いに来る。レストランにも売っているらしい。彼女はこのトルティージャで四人の娘を学校にやり、おまけにアパートまで建てた。アパートから入ってくるお金だけでも十分暮らしていけるはずなのに、いつもお金がないと言う。お金がないと言いながら、Leilyはアメリカへ旅行するためドルを集めている。僕には日本へ帰ったら、カメラとビデオを買ってきてくれと言う。実際はたくさんお金を持っているのだ。普段は質素に暮らしているが、僕が将来サンタ・バルバラに戻ってきて住むつもりなら、僕のためのアパートを建ててやると言ってくれる。 Leilyの四人の娘はみんな美人だ。長女のFanyは幼稚園の先生で、警官のAlexisと結婚してすぐ近所に住んでいる。三女のRositaと四女のDaniaはともに小学校で教えている。次女のArmidaだけはleilyを助けてずっとトルティージャを焼いてきた。Rositaも結婚していて同じサンタ・バルバラに住んでいるが、ArmidaとDaniaは独身で両親と同居している。僕は午前中の本によるスペイン語の勉強が終わると、午後は必ずといっていいほどDon Marioの家に行ってスペイン語をしゃべることにしている。僕にとってはスペイン語会話のクラスのようなものだが、授業料を払う必要はない。しかも会話の先生はみんな女で一人ではない。LeilyとArmidaは、年中無休で毎日トルティージャを焼いているので、必ずそこにいる。四女のDaniaは午後の2時頃には学校から帰ってくる。ここに近所に住む長女のFanyが加わり、しばしば僕は四人の女を相手にしゃべることになる。スペイン語会話の授業と考えると非常に贅沢な教室だ。
Don Mario一家の女たち
初めは真面目だったこれらの先生たちも、日が経つに従って冗談を言い始めた。母親のLeilyは僕と同じ歳ということもあってか、冗談がそのうち猥談に変わってきた。すぐに長女のFanyが母親に従った。それが次女から四女まで感染した。ところが、簡単なスペイン語の会話すら分からない僕に猥談なんか分かるはずがない。だから彼女等はあからさまなジェスチャーを交えることになる。その上、僕が彼女等に聞かれて一回だけ教えた男性器と女性器に対する日本語をみんなが大きな声で連発する。彼女等には日本語なので恥ずかしくないだろうが、僕の方はうろたえる。同時に、ラテン女のあっけらかんとしたストレートさに、閉ざされたこちらの心まで開いてくる。彼女等と顔を合わすと、お互い笑顔が絶えない。 アパートに住んでいた時には、Leilyは朝僕が起きて窓を開けると待ってましたとばかりパンとコーヒー、それにオレンジジュースの朝食を、午前中のスペイン語の勉強が終わると軽い昼食を差し入れしてくれた。山で取れたばかりのオレンジを手で絞って作るジュースは最高に美味しかった。そのうち四人の娘の一人がマッサージをしてくれるようになった。母親以下他の娘たちにも囲まれたハーレムのような状態でのマッサージだ。マッサージが終わっても、しばらくは恍惚の時間が流れて身体が動かなかった。次に、次女のArmidaが僕の衣服を洗濯してくれるようになった。時間をかけて服やズボンが破れるくらいまで手で丁寧に洗ってくれる。見ているだけでこちらが疲れてしまうほどだ。Don Mario一家は僕の面倒を、まるで家族の一人のようにみてくれた。 楽しいアパート暮らしが51日続いた後、ビザとバイクの延長許可を取りにサンタ・バルバラを出ることになった。僕は、その足でコパンのマヤ遺跡や温泉があるサンタ・バルバラの南の地方を2~3週間旅行した後、またアパートに戻ってくるつもりだった。ところが帰ってくる頃には、太一郎の母親が日本から帰ってくるので、太一郎がレストランに隣接する部屋を出てアパートに戻ってくるということが分かった。そのことをLeilyに言うと、長女が自分の敷地内に他人に貸すための家をほぼ建て終わっているので、僕が帰ってくるまでに住めるようにしてやると言ってくれた。それを聞いて僕はサンタ・バルバラを一旦離れ、2週間後にまた戻ってきた。僕の新居はほとんど完成していたが、玄関と裏のドアーはまだ取り付けられていなかった。太一郎の母親は6日後に到着することになっていた。そこで僕はそれまでの間、もう一度太一郎のアパートに泊まることにした。5日間で家は完成した。
新居の居間。右側に部屋が二つある。
完成した家は山の麓に建てられていて、部屋の窓からはサンタ・バルバラの町が一望できる。緑一色の山に抱かれて赤レンガの家が建ち並ぶサンタ・バルバラは、観光地ではないがなかなか風情がある。玄関のドアーを開けると居間になるはずの細長い大きな部屋があり、その右側にトイレとシャワー室を挟んで二つの部屋がある。裏には小さいがテラスのようなオープンスペースもある。僕にとっては生まれて初めての一戸建ての家だ。しかも、今まで住んだ所よりもはるかに大きな住まいだ。何か、金持ちにでもなったような気がする。この家の建設費は220万円程度だ。土地は日本では信じられないほど安くて、この家とFanyの家、それにニワトリが走り回る畑のような大きな庭を入れても60万円ほどだ。僕のBMWの約半値だ。家賃は太一郎に払ったと同じ金額、約1万4千円だ。 Fanyも母親同様、朝や昼には食事やオレンジジュースをよく差し入れしてくれる。彼女の料理は美味しくて、ホンデュラス料理が苦手な僕にも大丈夫だ。夕食はほとんど毎日、日本料理店“Sakura"で食べている。メニューにない料理も、材料さえ揃えば何でも作ってくれる。店が休みの日曜日にも家族と一緒に戴ける。太一郎が飲まないので、夕食にはいつもビールの小瓶一本しか飲まなかった。そこへ母親の初江さんが帰ってきた。彼女は飲む。僕と同様ヘビースモーカーだ。その上話がおもしろい。この旅に出て初めての飲み友達だ。だから彼女と連日深夜まで飲み狂っている。
南米の端まで走る岩渕研哉さん
新居でのディスコ・パーティー
パーティーで女たちに囲まれる
彼女は社交的で、パーティーも好きだ。飲んで話しが盛り上がり、我が家で若い男女を集めてディスコ・パーティーをしようということになった。アルコール類は僕、食事は彼女の負担だ。パーティーの前日、僕のホームページを見た日本人ライダーで、アメリカから南米の南の端まで走るという岩渕研哉さんが、うまい具合にサンタ・バルバラに到着した。我が家には四・五日泊まっていくと言う。それで急遽、パーティーは彼の歓迎会になった。パーティー当日の朝、トイレに入っていると研哉さんが「トオルさん、パーティーには女の人たちも来るんでしょう? トイレにドアーが要りますね」と言った。僕はいつも鈍感なので気がつかなかったが、すぐに大工さんを手配した。無事、ドアーはパーティーが始まる一時間ほど前に取り付けられた。パーティーはみんなが楽しかったと言うので、これからも隔週の土曜日に我が家で開くつもりだ。
我が家でパーティー開いたという話しが、すぐにDon Mario一家の女たちの間に広がった。母親のLeilyは勝手に、12月24日のクリスマスのパーティーを僕の家で開くことに決めていた。二日後の26日には初江さんが娘の明佳ちゃんを連れて三年間日本に帰ることになっている。時期が彼女等の送別会と重なってしまう。そこでDon Mario一家との合同パーティーを開くことにした。僕は26才の時から今まで、クリスマスはほとんど毎年海外で迎えた。いつもホテルの部屋で、大抵は一人だった。今年は特別なクリスマスになりそうだ。
今年も早や師走に入り日本では忘年会なんかであわただしくなってきたんだろうと思いますが、お元気でお暮らしでしょうか?
僕の長逗留しているホンデュラスのSanta Barbaraでは、このところ連日何かの催し物が行われていて、クリスマスに向けたお祭り気分が盛り上がっています。 学校の先生達も12月になって冬期休暇に入り、1月まで2ヶ月間お休みだそうです。冬期休暇だけで2ヶ月とこう言えば、日本のみんなは羨ましがると思いますが、一年の休暇は冬だけなので、そう言う意味では日本の教師の方がいいのかもしれません。そうは言っても、こちらの先生には休暇中の登校は全くないそうです。そうなるとやっぱりホンデュラスの先生の方がいいのかもしれません。僕も、なれるものならホンデュラスの教師になりたかった。しかし、しかし、ホンデュラスも日本同様財政難で、今年は学校の先生の給料が数ヶ月間支給されませんでした。そのため首都のテグシガルパでは、1~2ヶ月程前に教師による大規模なデモが行われて、火炎瓶が投げられ警察のクルマが燃やされました。そのこともあってか、今は給料が出ています。この国の人達は、お祭りでもデモでも、まだまだ元気です。
この家に移る前にいたアパートの四女も小学校の先生をしていて、今は休暇。時間ができたので彼女にスペイン語を教えてもらうことになりました。この前書いた「DonMario一家」の英文版をコンピュータのソフトで機械翻訳しましたが、誤訳が多いのでそれを修正してもらってます。スペイン語の小説も毎日読んでいますが、この方法の方がずっと勉強になります。スペイン語で書く自信がちょっと出てきました。英語を読めない友人達のために、同じ方法でメキシコ以降の旅日記を機械翻訳しメールで送ってきました。できれば全て正しいスペイン語に修正し、そしてされにできればホームページにスペイン語版も作れれば、と思っています。四女のDaniaはまだ23才の若い女性、そこまでは面倒を見てくれないだろうと思います。しかし、メキシコの大学で絵画を教えているオバさんが、彼女の絵が売れて旅費ができれば、僕の家に来るかもしれません。その時はかなり助けてくれるんではないかと期待しています。
今晩には、また我が家でパーティーです。今回も若い女性が集まります。