3回目の帰国(2)
網走のことは歌謡曲の「網走番外地」しか知りませんでした。網走には2泊したのですが、2泊目は網走湖の畔に建つホテル網走湖荘に泊まりました。インターネットを見ると網走監獄はホテルのすぐ近くにあります。このホテルは何もない所に一軒だけポツリと建てられていて、クルマのない僕たちはホテルの送迎バスで来た訳です。行ってみようと思ってもクルマはないし、それに入場料を見たら高いので止めにしました。しかしこのホテル、今回の北海道旅行で一番高い宿泊費、一人1万2千円払っただけあって、なかなか良いホテルでした。
網走からバスで知床斜里に行きました。知床と言う名前が付いているので行ったのですが、バス停のすぐ横に僕達が泊まるホテルと他には小さなホテルが2~3軒あるだけの寂しい所でした。少し歩くと漁港があり、それは僕の生まれた家のすぐ近くの泉佐野漁港を思い出させました。
ここで1泊して翌日、知床八景の一つ、オシンコシンの滝を見てウトロへ行きました。ここには大きなホテルが立ち並んでいて、僕達はその一軒に泊まりました。漁港の先端にある高台のオロンコ岩に登ると、そこからは海沿いのホテルとは別に、山の上に新しい大きなホテルが数件建っていました。こんな田舎の町に不釣り合いのホテル群ですが、南米のチリやアルゼンチン同様北海道も、観光客の大半を占める中国人によって支えられているのだと思います。中国人観光客が来る前には、どこを旅行しても土曜日以外はホテルに空きがあったように思います。それが、今ではどこのホテルも平日ですら満室です。そのため、北海道に着くや否や、連日ホテルの確保に追われました。いつも4~5日前からホテルを探していたのですが、なかなか見つからず、そのため毎晩夕食を済ますとホテル探しが僕の主要な仕事になりました。多数の中国人観光客のお陰で、ホテル代は安くなったようですが部屋の確保が大変になりました。
知床から、またバスで網走に戻り、一泊した後、網走から釧路まで4日間乗り放題の安いバス切符を買いました。バスは女満別空港、美幌駅、屈斜路湖を通って川湯温泉に行きました。屈斜路湖に下る峠では、天気さえ良ければ絶景が見えたと思われるのですが、あいにく小雨が降っていました。バスは屈斜路湖の周囲を回ったのですが、ホテルが2軒だけ見えただけでした。
川湯温泉では、NHKで相撲中継を見ました。この町は大横綱の大鵬が出た所で、小さな町の中央に大鵬相撲記念館があります。入ろうと思っていたのですが、小さい記念館なのに入場料が高いので止めました。他には無料の足湯があったのくらいで、大した温泉地と言う感じはありませんでした。
4日間友好の観光バス切符なので、翌日摩周湖まで戻りました。この日も雨でした。摩周湖を囲む外輪山の第1展望台までバスで登りましたが、濃い霧のため何も見ずにホテルに行きました。
翌日は信じられない位の上天気でした。雲一つなく360度晴れ渡っていました。それで第2展望台まで行きました。こんなに良い天気は一年でも余りないと観光バスのガイドさんが言っていました。
4日間有効の観光バス切符が切れるので、阿寒湖温泉に行きました。屈斜路湖、摩周湖と温泉を見ましたが、阿寒湖温泉は大きなホテルが並び立つ温泉です。一日目は、その中の「ニュー阿寒ホテル」に泊まりました。特に感動したのは、屋上に設けられた大きな、実に大きな混浴温泉でした。入口が男女別だったので、マリアを待っていましたが、彼女は屋上にも風呂があることを知らなかったそうです。残念でした。このホテルで2泊したかったのですが、このホテルも大量の中国人観光客のため満室で、すぐ近くの「ホテル御前水」に移らなければなりませんでした。
阿寒湖はマリモで有名です。旅館の近くの湖岸を歩いて見ましたが、それらしいものは見つかりませんでした。マリモは旅館と反対側の湖岸に生息していると聞きました。
帯広の手前にある十勝川温泉も田舎の素朴な温泉でした。この日も天気が悪く雨模様でした。翌日、帯広まで行きましたが、この日も雨でホテルに籠って一日を過ごしました。帯広では、札幌までのバスの切符を買い、街を歩いてFujimaru百貨店、長崎屋で時間を潰し、17時45分にバス停に行き、帯広を出ました。21時45分に札幌に着き、5分後に小樽行きのバスに乗りました。
宿泊先のホテル・ドームイン小樽に着いたのは22時55分で、すぐにホテルの無料サービスの蕎麦を食べて23時30分に部屋に入りました。それから風呂に入り、ベッドに横になったのは0時55分になっていました。
翌日は運河や倉庫等、小樽の街を散策し、夕方陽が落ちてから天狗山に行き、小樽の夜景を楽しみました。そして、この日も夜中に無料の蕎麦をご馳走になりました。
阿寒湖には大きなホテルが立ち並んでします。マリモは写真の左上の水面下に生息していると聞きました。
北海道では函館にも行きたかったのですが、時間がなくなり、最後は登別温泉に行くことにしました。インターネットで何日か掛けて旅館を調べていると、空き部屋が見つかりました。「登別グランドホテル」と書かれていました。2食付きで、一泊が一人1万500円だから、小樽のホテルと比べると決して高くはありません。ホテルの紹介記事を読んでいると、このホテルには1954年と1961年に昭和天皇と皇后が、そして2011年には現天皇が宿泊されていると書かれていました。
登別には、この旅館の他、大きなホテルが沢山立っていて、さすが日本を代表する温泉の一つだと思いました。
翌日は登別地獄谷から周囲約1㎞の池が温水で覆われた大湯沼まで歩き、さらに大湯沼川天然足湯で大湯沼から流れ出る温水に足を浸けました。この日の川の温度は高くて、僕は10秒も浸けておれませんでした。
24日の旅行を終え、札幌に帰りました。今度は、すすきのを止めて、札幌駅に近い「ニュー・オータニ・イン札幌」で泊まりました。ラーメン屋の夕食券が着いて二人、2泊で31,600円でした。札幌駅前ビル等を見て、ホテルで洗濯し、夜はファイターズ優勝のテレビを見ました。
翌日は、いよいよ北海道旅行の最終日。札幌では、ここ1か月ほど街の中心通りで祭りが行われていて、食べ物屋等、沢山の屋台が出ていました。
9月30日14時15分に羽田に着いて、八王子に住む友人の秦野高志さんの家には18時20分に着きました。その日は5年半ぶりの再会を祝して高級ウィスキーをご馳走になり、0時前に就寝しました。
あくる日は、高志さんに近くの高尾山に連れて行ってもらいました。高尾山は天然の樹林が保護されて生息している日本でも珍しい山で、登山客の数も日本一と言うことです。
10月2日には、高志さんのクルマで富士山へ連れて行ってもらいました。その日の夜は、大学の同級生である若林裕治さんと中野孝二さんの2人と飲む約束をしていたので、高志さんの家の近くの高尾と言う駅でクルマを降りて、電車で新宿まで行きました。45年ぶりに会った二人は、むかし通り元気なので安心しました。マリアに構わず3人で喋り通しました。ワインを2本もご馳走になり、高尾に帰ったのは23時50分でした。こんな深夜に係わらず、高志さんは駅まで愛車で迎えに来てくれました。コロンビアでは殆ど友達がいないので、本当にありがたく思いました。
翌日は、高志さんが東京駅の近くで、仕事のことで1時間ほど、人に会うと言うので一緒に出かけました。仕事が終わってから、歌舞伎座と魚市場に行き、有楽町で韓国料理をご馳走になりました。
10月4日は、今年の5月25日から7月5日までコロンビアに遊びに来て、我が家に泊まってくれた陽子さんに会いました。Skytreeに連れて行ってもらって、入場料も支払ってもらいました。そして高い、本当に高い所から東京の街を見下ろしたのです。こんな大きな街は世界でもここだけだと感じました。塔の上ではガラス板の上に立つことのできる場所がありましたが、少し高所恐怖症気味の僕は、とても怖くて足を置くこともできませんでした。その後は浅草、上野公園へと行きました。上野公園は若い頃行ったことがあると思うのですが、すっかり変わっていました。
日本滞在の約3か月の内、半分が過ぎました。これからは長く会っていなかった友達に会う予定です。そのためにメールを交換しなければなりませんが、僕の持ってきたのは通常のパソコンではないので、操作が少し厄介でした。
大阪へ帰って来たので、10月11日から大阪府熊取の姉の家に行きました。12日には市役所時代の古い友人である篠崎さんに会いました。彼の奥さんは相変わらずの美人でした。姉の家は13日に、北海道の札幌で買ったブルージーンズの生地で作ったナップサックを補充・強化してもらって大阪の弟の家に帰りました。
15日には、京橋から大阪城はすぐ近くなので、マリアと散策しました。16日は大阪天満商店街を歩きました。
17日は市役所勤務時代に事務所のあった船場センタービルに行き、梅田まで歩いて大学時代の友達が開いてくれる歓迎会に出ました。東京の同級生同様、彼等も現金そうなので安心しました。
19日には、松屋町の人形屋で置き時計を買い、再び船場センタービルに行き、壁飾り用の刺繍された布類を買いました。そして夜には、日本にいる頃に毎週行っていた英会話クラスの歓迎会に行きました。この英会話クラスは、僕が25歳くらいの頃4人で始めたもので、もうその頃の4人は僕も含めて止めていますが、四十数年経った今でも続いているのには感心します。
10月21日は人間ドックの検査に行きました。胃のレントゲン写真を撮るのに、昔は胃カメラを口から入れていたのに、鼻から入れると言われました。胃から戻すような感じがなかったのですが、鼻からは少し出血しました。その日は胃潰瘍がまだ出ているということと、腎臓に結石があるということでした。結石は今のところ大丈夫だと言われて少し安心しました。検査の結果は3週間後に出ると言うことなので、コロンビアに帰るまでに間に合うのか心配していましたが、何とか間に合いました。人間ドックを受けた後、弟も妹も胃にピロリ菌があったと言うので、僕も検査してもらうことにしました。やはり、ありました。1週間の薬を飲む間は一切禁酒と言うことなので、歓迎会の多い日本にいる間は避けて、コロンビアに帰ってから飲むことにしました。
10月22日は、昔のバイク仲間、山内良春さんと田中大介夫妻と子供2人が京橋まで来てくれて食事をしました。
10月25日に山内さんと奈良県と三重県との境界にある曽爾村の当たりに行こうと言われていたのですが、マリアが急に熱を出したので中止しました。 10月27日、薬局で買った薬ではマリアの様子が良くならないので、病院に連れて行きました。すると、マリアの発熱原因は胃腸炎と診断されました。 10月28日、病院でもらった薬が効き、マリアの調子が戻ったので、大阪環状線玉造で降りて、商店街を鶴橋まで歩きました。昔、勤めていた大阪市立環境科学研究所の前を通り、胃潰瘍で40日入院した桃山市民病院に行きましたが、今はいくつかの病院が統合されて別の所に移ったと聞きました。この日、鶴橋に来たのは、高校時代の友人、志儀和明さんと飲むためでした。久しぶりの再会を楽しみました。 10月29日、心斎橋からアメリカ村を難波まで歩き、高島屋の北西にある料亭の幻炉庵に入り、辻本雄次さん夫婦に会う。素晴らしい料理をご馳走になりました。僕は日本で初めて奥さん連れの人と会いました。コロンビアではいつも夫婦が一緒に食べたり、飲んだりするのに日本ではいつも男ばかりなので、この日は全く新鮮な感じがしました。知性も感じられ、非常に印象の良い奥様でした。辻本さんは息子さんが中国に住んでいるせいか、最近、中国に興味を持っていてよく旅行されています。きっと奥様も一緒だと思います。
辻本雄次さん夫婦にご馳走になる。コロンビアではいつも夫婦が一緒なのに、日本ではマリアにとって初めての経験だった。
10月30日、この前は天神橋商店街の環状線の外側を歩いたので、この日は環状線の中に向かって歩いていきました。環状線の外側は安くて美味しいタコ焼き屋があったり、信じられない程安いシャツやパンツ、それにアメリカ産の安い松茸を売っている店があったりして面白かったのですが、環状線の内側は普通の店ばかりで面白さに欠けていました。僕達は、大阪天満宮まで歩きました。以前にも来たことがあった筈なのに、全く初めて来たような感じがしました。 10月31日、夕方に大阪エスペラント語会の歓迎会が、地上300m、日本一の超高層ビルである「あべのハルカス」の28階で開かれました。実は、この日まで僕は大阪に日本で一番高いビルがあるとは知らなかったのです。市電の走る阪堺線の道路周辺を歩きましたが、この5年半の間に天王寺周辺も随分変わりました。この日の歓迎会には、2017年の12月頃コロンビアに来て、南米の一番南端の町Ushuaiaまでバイクで走ると言う、すざましい迫力の宮本義人さんも来ていました。彼は66歳と言いますから、全く恐れ入ります。僕も出来ることがあれば、何か協力したいと思っています。 11月2日、大阪港にある海遊館に行きました。入館したところは別に特別な場所がなくて、高い入場料を取られたと思っていましたが、巨大な水槽の中に入って行った時には唖然としました。巨大すぎるプールの中に、ジンベエザメや巨大なマンタ等が泳ぐ浴槽を、まるで自分が水中に潜っているように見ることができるのです。12時過ぎに入り入館し、17時40分まで全く飽きずに、水中の生き物を見ていました。開館が1990年と書かれていますから、当然、僕が大阪で働いていた頃です。なぜ行かなかったのかと思います。
11月5日、10月31日にエスペラント会で会った宮本さんが、琵琶湖のビワ湖バレーの近くに空き家を管理していると言うので、彼のクルマで見に行きました。この家は6年近く前の東北大地震の時、東北に住んでいた彼の友達が引っ越してきて住んでいたと聞きました。今は東北に帰ったので完全に空き家になっていて、いつでも使ってもらって結構だ、と嬉しいことを言ってくれました。家は5部屋ほどあったと思います。こんな部屋を使わせてもらえるなんて、まるで夢のようです。家を見せてもらってから、びわ湖バレーに行きました。高い入場料も、僕達二人分を彼が支払ってくれました。山の頂上は少し紅葉していました。この日は良い天気だったのですが、少しガスが掛かっていましたが、その山頂からは琵琶湖大橋が微かに望めました。
海遊館では巨大なジンベエザメやマンタ等に時間の経つのも忘れる。
11月6日、遅れましたが、勤務していた頃、いつも一緒に飲んでいた先輩の田中耕司さん、それに彼の飲み友達である三姉妹と、難波で昼の12時から飲みました。4時間ほど飲んだ後、すぐ近くに住む次女、川﨑喜美子さんの家に長女の山中美智子さんと4人で行きました。その間、田中さんの姿が見えなくなったので、喜美子さんが電話して迎えに行きましたが、なぜか逢えなかったと言って帰ってきました。また少し飲みましたが、僕と同じ年の美智子さんが、またマリアに和服をプレゼントしてくれました。5年半前に来た時にも頂いていたので、感謝のしようがありません。
琵琶湖を背に、南米の一番南端の町Ushuaiaまでバイクで走ると言う宮本義人さんと。
右から長女の山中美智子さん、次女の川﨑喜美子さん、田中耕司さん、三女の竹下みどりさん。
11月7日、コロンビアへ帰る日が迫って来たので、近くの区役所に住民票の解除に行きました。それを済ませて、12時過ぎに、弟と3人で姉の住む熊取に行きました。駅に着くと姉がクルマで迎えに来てくれていて、泉佐野漁港に行って新鮮な魚類等を買いました。ここは僕が生まれた所で、夏には毎日この漁港で泳いだり、その近くにあった砂浜でソフトボールをしたりして遊んでいました。今はすっかり変わってしまいましたが、やっぱり故郷です。 11月8日、泉佐野に帰ってくるといつも両親の墓参りに行きます。墓に着くと暫くして和歌山から妹夫婦がやって来て、姉、弟と共に6人で墓の掃除をして花を活けました。この墓は松本と書いた仏教の墓なのですが、僕は仏教徒でもないし、それに両親はキリスト教徒だったのに不思議です。すぐ近くにキリスト教の教会の墓があって、そこには両親の名前が彫られています。僕たちは、その墓地の雑草を除去しました。両親への挨拶です。その夜は、妹の家に行って泊めてもらいました。9日も妹の家に滞在しました。 11月10日、夕方、弟の家に帰ると、弟が体調を崩していてベッドで寝ていました。 11月11日、10月25日に山内さんと約束していた奈良県の曽爾村周辺に行きました。山内さんは父親のクルマで奈良の桜井の駅まで来てくれました。まず、紅葉が美しい談山神社に行きました。5日に行ったびわ湖バレーは色づき始めと言った感じでしたが、談山神社はそれよりも少し紅葉が進んだと言う感じでした。それから曽爾村周辺に行ったら夕暮れが迫ってきました。大宇陀の温泉に行きました。露天風呂もある、なかなか良い温泉でした。温泉から出ると、ライダー仲間の田中さんから電話があり、桜井の駅の近くのレストランで夕食を共にしました。
空港には夜中の24時前に着きましたが、友人のHernanはバイクで、彼の娘のMatzudy及び彼女のボーイフレンドのGerman、それにマリアの姉夫婦とお嬢さんが、車2台で迎えに来てくれました。Hernanは、この日の1か月半前に宝くじのようなもので、200万円ほどする車を当てていたのですが、僕の大きな3個のスーツケースの荷物を考え、車を娘に運転させて自分はバイクで来てくれたのです。
彼等は空港のあるボゴタに住んでいますが、一旦、姉夫婦の家に寄り、それから僕とマリア、それに荷物を載せた新車は、Hernanのバイクと共に、フサガスガの我が家に3時15分に着きました。それから6時20分までウイスキーを飲んで寝た訳です。
飛行機で寝ていなかった僕たちは、13時過ぎまで爆睡しました。前日は荷物の片付けに追われ風呂にも入れませんでした。
大阪で胃の中のピロリ菌の検査を受け、菌が見つかったので薬をもらっていましたが、飲むと酒が飲めないので、コロンビアまで持ってきていました。16日の夜にHernan達が帰ったので、翌日の17日から1週間、禁酒して飲みました。
彼等は空港のあるボゴタに住んでいますが、一旦、姉夫婦の家に寄り、それから僕とマリア、それに荷物を載せた新車は、Hernanのバイクと共に、フサガスガの我が家に3時15分に着きました。それから6時20分までウイスキーを飲んで寝た訳です。
飛行機で寝ていなかった僕たちは、13時過ぎまで爆睡しました。前日は荷物の片付けに追われ風呂にも入れませんでした。
大阪で胃の中のピロリ菌の検査を受け、菌が見つかったので薬をもらっていましたが、飲むと酒が飲めないので、コロンビアまで持ってきていました。16日の夜にHernan達が帰ったので、翌日の17日から1週間、禁酒して飲みました。
彼等は空港のあるボゴタに住んでいますが、一旦、姉夫婦の家に寄り、それから僕とマリア、それに荷物を載せた新車は、Hernanのバイクと共に、フサガスガの我が家に3時15分に着きました。それから6時20分までウイスキーを飲んで寝た訳です。
飛行機で寝ていなかった僕たちは、13時過ぎまで爆睡しました。前日は荷物の片付けに追われ風呂にも入れませんでした。
大阪で胃の中のピロリ菌の検査を受け、菌が見つかったので薬をもらっていましたが、飲むと酒が飲めないので、コロンビアまで持ってきていました。16日の夜にHernan達が帰ったので、翌日の17日から1週間、禁酒して飲みました。
少し紅葉が進んだ談山神社。