(1) 2002年2月19日 Cuernavacaからのメール(1)
Cholulaの世界最大のピラミッド
曇天続きで風が強く、熱帯というのに寒いくらいだったベラクルスを12日ぶりに出て、ちょうど西にあるクエルナバカを目指しバイクを走らせました。10日以上Billyのアパートの前の駐車場で休んでいたR110Rは、なぜか至る所に白い埃が着いていて哀れなくらいでした。ベラクルスには大きな工場もないのにどこから飛んできたんでしょうか。 ベラクルスから西に100kmちょっと走るとコルドバという町があります。この辺りから山が増えてきて道路は一気にメキシコ高原に昇ります。黒い雲が前方を覆っていて雨が心配でした。でも高原に上がってしまうと今までの曇天が嘘のように晴れあがり、空は真っ青になりました。ユカタン半島ではパレンケから曇天が多かったので、バイクに乗っていて久しぶりに心も晴れ上がりました。しかも高度が上がったのに逆に気温も上がってきたんです。皮ジャン、皮パンでは暑いくらいです。しかし、これが僕が記憶しているメキシコなんです。コルドバからもう少し西に行くとメキシコ最高峰、5611mのOrizaba山があります。さらに西に進むと前方に富士山のような形の山が聳え立っています。Popocate'petl山で5452mあります。すぐ北にも壁のような山がありその最高峰はIztaccihuatlと呼ばれる山で、これも5286mもあるそうです。両方の山の頂には熱帯なのに少し雪が残っています。 Popocate'petl山の手前にはCholulaという小さな町があって、そこに容積が世界最大のピラミッドがありますが、今は木に覆われた山になっていて、頂には教会が建っています。ピラミッドの跡とは到底信じられない姿なんです。でも有名なマヤ遺跡のピラミッドも、みんな再建される前はこんな何ともない山だったんでしょう。それをあそこまで復元する考古学者と工事に携わる人達の努力には頭が下がります。 有料道路はベラクルスからメキシコシティーに向け、まっすぐ西に伸びていますが、僕が進む無料の一般道路は、 Orizaba山とPopocate'petl山の辺りでV字形に南に大きく迂回しています。しかしガイドブックを見るとPopocate'petl山とIztaccihuatl山の間に道路があってまっすぐ西に伸びています。でも、 Popocate'petl山は1994年に大爆発を起こし、今も火山活動が続いていて一般車両の通行は禁止されているので、仕方なく南に迂回しました。
このPopocate'petl山の西で道に迷い、道端の女の人に教えられるまま田舎の山道を進むと、夕暮れ前に目指すクエルナバカではなくメキシコ・シティーの郊外にある運河の舟遊びで有名なソチミルコに着いてしまいました。
メキシコ・シティー東南の山中
運河巡りのソチミルコ
時間も遅いので仕方なくそこで一泊し、翌日途中まで同じ道を引き返しクエルナバカにやっとたどり着きました。クエルナバカまであとわずか40kmというところで道を間違えたばかりに二日がかりの旅になってしまいました。 翌日の今日、メリダで1~2時間遭って再開を約束していたアキコさんが、12時の鐘と同時にカテドラルに現れました。鐘がなったら合いましょうと言っていたのが、そのとおりの正確さでした。彼女とは6時間半ビールを飲んだりしながら、久しぶりに日本語をしゃべりまくりました、彼女は明日メキシコ・シティーに行き、あさって日本に帰ります。帰ったらすぐまたベトナムに行くそうです。同じメリダのホテルで遭った日本の若い男性も日本に帰ってすぐモロッコに行き、そこから彼女にメールを送ってきたそうです。二人ともまるで忍者のようではないですか。それと、僕の知り合いの女性ライダーの一人は、今アメリカで、もう一人はオーストラリアで英語の勉強をしています。日本の若者もなかなかやりますね。アキコさんは少なくともこの一年間は、一ヶ月日本にいて二ヶ月海外を旅行しているそうです。日本に置き去りにされて、今バイクの免許証を取ろうとしているボーイフレンドのことが少し気の毒になりました。でも、またまたボーイフレンドには気の毒ですが、彼女とはまた世界のどこかで再会できるような気がします。 明日の朝、クエルナバカのエスペランティストがホテルに来てくれることになっています。きのう電話で連絡したら、エスペラントが出てこずスペイン語が先に出てきてしまうので苦労しました。予めエスペラント語はうまくしゃべれませんと伝えておきましたが、それにしても恥ずかしい思いをしました。相手もびっくりし、呆れていたと思います。もともとちゃんとしゃべれない上に、カナダのトロント以来もう半年にわたって一言もしゃべっていないので、明日はどうなることやら心配です。
(2) 2002年3月3日 Cuernavacaからのメール(2)
クエルナバカに着いて、もう二週間経ちました。今回の旅で一番長い滞在になります。この街ではこの旅で一番多くの人と友達になりました。まず会ったのがアメリカの大学でスペイン語を専攻したアキコさん。そこに現われたのが、サッカーで日本リーグの鹿島アントラーズの試験を受けようと考えているDiego。翌日にはエスペランティストのJorge、そしてカリフォルニアから来ている精神医でジャズトランペッターのSteve。そのスティーブとの再会を期待して行ったレストラン・バーでLiliaとAnaに遭い、その後インターネット・カフェで日本人に混ざっていたペルーから来たCarmen。Carmenはここの大学で絵を教えています。でも、滞在が長くなったのは、二人のセニョリータがほぼ毎日デートしてくれるのが、その原因です。
この間、Liliaの家に二回、Carmenの家に一度行きました。明日またCarmenの家に、あさってはまた二人のセニョリータとデートして、その次は三度目になりますが多分またLiliaの家に行く予定です。Liliaの兄のJuanはクルマを4台持っている他、バイクもKAWASAKIのNINJAと言うのかそんな650ccのバイクを持っています。モトクロスもすると言います。今日は日曜日、彼は一日中50ccのバイクを修理していました。僕もバイク修理の見習を10年間もしたので、懐かしい思いがしました。
ホテルの近所にあるバイク屋にYAMAHAのドラッグ・スター650が置いてあったので、値段を聞いて見ました。
170万円と言います。ほぼ日本の倍の値段ではないでしょうか? メキシコで見るバイクは大きなものでも150cc位で、こんな大きなバイクは贅沢品なんでしょう。高い関税がかかります。そんなメキシコでは僕の1100ccのBMWはみんなの羨望の的です。 クエルナバカのソカロの前に「紅葉(Momiyi)」という日本料理店があります。日本料理店はフロリダ以来二度目です。ここでお好み焼き、たこ焼き、焼き魚定食、親子どんぶりを食べました。値段は日本並みですがやはり日本の専門店の味は期待できません。でも、久しぶりの日本料理には満足しました。 あと三日ほどクエルナバカにいて、多分その後メキシコ・シティーに行きます。一時間位の距離です。今回はメキシコ・シティーには行かないつもりでしたが、数日前にエスペラントティストの女の人からメールが届いて、デートしましょうと言ってきたので、そうなれば当然予定変更です。 (3) クエルナバカの優しい女たち
日本料理店「紅葉(Momiyi)」の前のたこ焼き
アメリカとカナダは合計して五ヶ月余り旅行した。でもその間、僕が日本で知っていたモントリールのKaticaとダラスのTiffany以外には、知り合いになった女性は誰もいなかった。 メキシコに入ってもそうだった。アメリカでもカナダでも僕は旅を急いでいた。メキシコに入ってからもクリスマスまでに日本からの友達に会うため、ユカタン半島のカンクンを目指しての大急ぎの旅だった。だから、僕はずっと旅行者であって旅人ではなかった。でも、カンクンを出てからは、やっと僕の目指す旅ができるようになった。とにかくゆっくり行くことにした。だから。カンクンからメイシコ・シティーの近くにあるクエルナバカに着くまで、わずか2000kmの距離を移動するのに一ヶ月半もかかった。
途中のべラクスルでは、Billyに遭って一週間以上も彼のアパートに居候させてもらった。そこで僕のパソコンは革命を受けた。でもそれまで、バーの天使を除いてしゃべった女性は少なかった。
クエルナバカに来ることになったのは、メキシコで初めてJorgeというエスペランティストと連絡が取れ会えることになったのと、メリダで遭った日本人の素晴らしい若い女性と再会するためだった。 その日本女性のAkikoさんは、僕と再開した次の日に日本へ帰った。でも、彼女に会った同じレストラン・バーで、翌日カリフィルニアから来ているSteveに遭った。次の日に彼に電話したが、連絡がつかなかったので、彼がまた同じレストラン・バーに来るのではないかと期待して、またそこに行った。彼はいなかった。そのレストラン・バーは金曜日で、空いている席はどこにもなかった。見ると女が二人だけしかいないテーブルがある。勇気を出して、そのテーブルに座らせてもらえないか聞いて見た。それがAnaだった。しばらくしてトイレに行っていたLiliaが帰ってきた。そして、僕たちは友達になった。優しい彼女たちは、翌々日の日曜日から毎日ずっと、このオジさんとデートしてくれた。特にLiliaは、彼女の家に三度も招待してくれた。優しい二人にメキシコ女の良さを見た。 エスペランティストのJorgeとは、クエルナバカに着いてすぐ会った。
クエルナバカのエスペランティストの週例会。左から Ramo'n, Cecilia, Carmen, Diego, Jorge, Sofia。友達のCarmenとDiegoはこの日からエスペラントを始めた。
インターネット・カフェで遭った日本人とカルメン。左から増田母娘、カルメン、千春さん、後ろはカルメンの絵。
翌日はクエルナバカのエスペランティストの週例会が、僕の泊まっているホテルのすぐ近くのインターネット・カフェであると言うので行ってみた。そのカフェではでは店のLANにはうまく接続できなかったが、電話線が使えた。それで毎日そこに行ってはメールの送受信を行っては、僕が高橋真梨子の前に好きだったSarah Vaughanの歌をダウンロードしていた。そこへアメリカの大学を出てからユニセフで働いていたという日本の若い女性が現れた。彼女がしゃべっている相手は、彼女の絵の先生だと言う。Carmenという女性で、ペルーから来た人だ。クエルナバカの大学で絵を教えている。ペルーではドキュメンタリー映画の監督をしていて、あのマチュピチュには70回も行ったと言う。そのインターネット・カフェに架けられている絵は全て彼女の作品だ。具象画だが、写真のような絵ではなく、彼女の心象風景を描き出した個性的な絵だ。その絵の中には彼女の世界が、確固としてある。僕は写真のような絵よりも、こんな絵の方が好きだ。Carmenは、ペルーからメキシコに来て4年になると言う。彼女はこの近くのピラミッドの復旧にも参画したらしい。多彩な人だ。 カルメンは旅行が好きで日本へも行きたいと言っている。僕ら日本のエスペランティストは、外国のエスペランティストの世話をできる限り見るようにしている。そこで彼女にエスペラント語を奨めた。もう一人若い男前のディエゴも日本に興味を持っていて漢字まで書けるので、毎週木曜日に開かれているクエルナバカのエスペラント集会に来るように奨めた。二人とも約束どおり現われた。特に、芸術家のCarmenと翻訳家で多分メキシコを代表するエスペランティストのJorgeとは気が合ったようだ。こんな光景は僕には美しい。
画家のカルメン
エスペラントの集会が終わった後、翌日Carmenの家に招待されているので予備調査の意味で、彼女をソカロの近くにある自宅まで送っていった。彼女は、結婚していて子供のある息子と同じアパートに同居している。息子さんも奥さんも実に感じのいい人たちだ。バナナを一本いただいてから、彼女に誘われて彼女の友達の集まりに行った。10人位が集まっていて、中には若いカップルも一組いる。その他はみんな年配の人達で、見るからに品がようさそうだ。その中の一人の女性は霊感が強くて、僕の背後には何か強い守護神のようなものが見えると言う。みんなと一時間半ほどしゃべっていたら、カルメンとその霊感の女の人が席をはずした。しばらくして二人が帰ってきて、カルメンが僕に、霊感の女の人が僕にメッセージを伝えたいと言っていると言うので、彼女の横の席に移った。彼女は両手の指を僕の手の平に当て、僕の運勢を占ってくれた。彼女は、僕がこの旅で求めているピラミッドを探し当てるだろうと言う。ピラミッドの意味がわからなかった。聞くと、それは精神的なものだと言う。僕自身はこの旅に何かを求めているんだか、またそれが何なのか、まだわかっていない。ずっと役所で環境の仕事をしてきて、最後にその意味がわからなくなった。それで役?をやめた。しかし人生の目的は仕事だけではないとは、ずっと思っていた。そして残りの人生もそんなに長くない。それなのに、毎日が無意味に過ぎていく。何か別の世界を見る必要がある。多分これが旅に出た動機かもしれない。大げさに言うと、短い人生を生きていく中で、僕なりにその意味を探す旅であるのかもしれない。彼女の言うピラミッドが、それを象徴しているのであれば、それは僕にとって凄いことだ。でも、僕は何を知りたくて、何を掴みたいのか、わからない。それは仕事でもなく、お金でもないことはわかっている。大きな家もクルマも要らない。名誉、名声は元より要らないと思っていた。今、僕の求めているものは人の愛なのかもしれない。そして、今、具体的にはっきりしているのは、恥ずかしながら、それは女の愛だ。日本を出る時に半ば冗談で、「いい女に会えばそこでバイクのエンジンを切る」と友達に言ってきた。これは、実は冗談でなく正直な本当の気持ちなのかもしれない。
霊女が運勢を見てくれた集まり
霊感の女性はさらに続ける。僕の進む旅のルートはもう既に誰かの手により決められていて、途中で白くて長いアゴヒゲを伸ばした男の人が、僕を助けてくれるだろうと。彼女のその次の予言がショッキングだ。なんと、僕は一年以内に求める女性に出会い、子供を二人持つことになると言うのだ。僕は女は欲しいけど子供は要らないと言ったら、彼女はそれは運命だという。さらに彼女は言う、僕はもう二度と日本に帰らないだろうと。しかし、これは僕の望むところだ。持ち家もなくて、加えて少ない年金では日本にいたくても暮らせない。僕は女のこともあるが、もっと直接的には日本以外の住みかを探すために旅に出たんだ。是非そういう状況が生まれて欲しい。一年以内と言うと、グアテマラか南米だ。そこでバイク世界一周の旅が終わっても、僕は一向にかまわない。求める女がどんな女なのかも、今僕は知らない。トオルはその時、最後の恋をするんだろうか。できたらいい女であってほしい。でも子供はご免だ。ここの部分だけ運勢を変える訳にはいかないだろうか。 また、カルメンを自宅まで送っていった。空は満月だ。「毎月、満月を見る度にトオルのことを思い出しましょう。だからトオルも私のことを思い出して」とカルメンは言った。彼女は、実は詩人でもあるのだ。何か、心が宇宙の果てまで開かれているような感じの女性だ。だから僕の心も開放される。僕は生まれて初めて、僕の方から他人に別れの抱擁をした。 (4) クエルナバカのエスペランティスト
クエルナバカ
アメリカ、カナダでは大急ぎの旅だったので、エスペランティストとはトロントで一回あっただけだった。メキシコへ入ってからもクリスマスまでにユカタン半島のカンクンに着く必要があったので、また時間がなかった。そして、やっとカンクンについてインターネットでメキシコ・エスペラント連盟のホームページの中にメールアドレスをみつけ、メキシコのエスペラントと接触したい旨のメールを送った。早速、メキシコ・シティーに近いクエルナバカのJorge Luis Gutierrezから待っているという返事があった。 カンクンの後は時間に追われないゆっくりした旅をしたいと思っていたので、カンクンを正月の三日に出てクエルナバカについたのは2月18日だった。わずか2000kmほどの距離を移動するのに一ヶ月半もかけた。 クエルナバカはメキシコ・シティの南、100km足らずのところにあって、メキシコ・シティーの雑踏を避ける人が移り住んだり、遊びに来りするらしい。またスペイン語や英語の学校も多く、外国からの観光客もたくさん訪れている。街は坂が多くて、道は一方通行でしかも迷路のように曲がりくねっている。途中で何回も道を尋ね、一旦は目指すホテルのすぐ近くまで来ていたのに通り過ぎ、迷いに迷ってやっとソカロの近くのホテルに着いた。ユカタン半島では曇天の日が多く気温も低かったが、クエルナバカでは空は晴れ上がり気温も上がって、バイクをホテルの中庭に乗り入れると、皮ジャンの下のシャツは久しぶりに汗でびっしょり濡れていた。 ホテルに着いて早速、歩道の公衆電話からJorgeに電話した。話し中だった。インターネットをしているんだろうと思った。夕方にまた電話した。今度は返事があった。“Saluton(こんにちは),Jorge! Mi estas Toru."、ここまではよかった。しかし、次からはエスペラントが出てこず、スペイン語が先に出てくる。さらに、エスペラントがあまりよくわかっていないのに加え、路上の騒音で相手が何を言っているのか殆ど聞き取れない。静かなホテルなら少しはましだろうと思って、ホテルに電話しなおしてくれるよう頼む。世話のやけることだ。Jorgeも呆れていたことだろう。
二日後にJorgeがホテルまで来てくれた。自宅で食事をご馳走してくれると言う。家に行くのなら、インターネットにアクセスしたいので電話を使わせてくれるよう頼む。メキシコでは市内通話は200回までは無料だ。それなのにホテルの電話が使える場合でも一分間で75円も取られる。しかし、僕の泊まる安宿では回線が一本しかないので、その電話も使えない。それで、街の公衆電話屋を使うことにしてきたが、クエルナバカにはその公衆電話屋もない。そうなればインターネット・カフェへ日本語の処理ができる自分のパソコンを持ちこむことになるのだが、カフェのネットワークに乗れないことが多い。どうしようと困っていたので、Jorgeの自宅電話は大助かりだ。
Jorgeの自宅とフォルクスワーゲン
Jorgeの自宅はクエルナバカから北のメキシコ・シティーに向かう郊外にある。彼の赤いフォルクスワーゲンで向かう。自宅は小高い丘に囲まれた美しい村の中にある。20軒ほどの閑静な家が建つ村の入り口には、砦のような大きな木の門があって門番の人が開け閉めしているのには驚いた。家に入ると書棚には本がたくさん並んでいる。英語の本も多い。聞くとJorgeは新聞記者で英語の翻訳家でもあると言う。ついつい、話は言語の方に行く。彼のしゃべっている内容は大体見当がつくが完全には聞き取れない。流暢なエスペラント語だ。だから下手な僕にはよけいにわからない。そして僕のエスペラント語にはスペイン語がどんどん混ざる。エスペラント語とスペイン語はほんとうによく似ているので、彼らでもよく混同すると、Jorgeは慰めてくれた。そう言えば大阪エスペラント会で流暢なエスペラント語をしゃべる平井氏は、スペイン語の通訳と翻訳が仕事なんだが、彼もエスペラント語の中に時々だがスペイン語を混ぜてしゃべっているのを聞く。しかし、僕の場合はあまりにもひどすぎる。にも拘わらず、Jorgeは優しい笑みを絶やさない。トロントのエスペランティストと会ったときは、スペイン語は100%忘れていたので、知っているエスペラント語はすぐに出てきたが、今は忘れてしまったとは言え、メキシコで三ヶ月以上毎日スペイン語をしゃべっているので、簡単なエスペラント語までスペイン語が邪魔をして出てこない。僕がエスペラント語をやりだしてからしばらくしてスペイン語の勉強を止めたのは、この辺のこともあったからだ。クエルナバカであった若いメキシコの男にエスペラント語のことを話して、一例として、"Mi haves unu cigaredon en la mano." と言ったら「わかった」と言っていた。僕はJorgeに向かって、この例で言うと、"Mi tengo un cigarillon en la mano" としゃべっているのだ。 Jorgeは新聞記者としての仕事柄、インターネットの初期からそれに関わってきた。そのため決して若くはないのに、インターネットのことはいろいろとよく知っている。音楽や各種辞書をダウンロードするソフトのことも知っていたので、彼の家でダウンロードした。また、僕のホームページのエスペラント語文には正しいエスペラント文字が使われていないのでずっと気になっていて、いつか正しい表記に変えたいと思っていた。しかし、その方法がわからないまま五ヶ月半が過ぎてしまった。Jorgeにそのホームページを見せると、すぐにUNIコードをノートに書き、僕のホームページの一部のエスペラント文字をUniコードに変換し、正しく表示されることを目の前で示してくれた。「百聞は一見に如かず」だ。コード変換作業は、ワードパッドの置換機能を使えばそんなに手間のかかるものではない。Uniコードのことは、実はトロントのエスペランティストのScottから聞いて知っていた。それを僕は彼から聞いた途端、彼の説明をよく聞かずすぐコード変換プログラムが欲しいと言ったから、話が複雑になり結局とうとう今まで代替表記のままで来てしまった。その日Jorgeと別れてから、翌朝の三時までかけてホームページの一部を変換し、翌日残りのエスペラント文全てを正しいエスペラント文字に変換した。Jorgeと会ったことは、この点でも大きな収穫だった。
その日は、ホテルのすぐ近くのインターネット・カフェで週例会があるというので、もちろん行ってみた。メキシコ・シティーのエスペラント会には60人くらいの会員がいて、ほぼ大阪エスペラント会と同じ規模だが、クエルナバカは小さい組織だ。この日はJorgeを含め男性二人と女性三人が例会に来ることになっていた。しかしJorgeの他にカフェに現れたのはお医者さんをしている男性だけだった。Jorgeもそうだが、彼にも知性から来る品の良さと個人的魅力がそこはかとなく漂っている。彼はエスペラント語を初めてまだ三ヶ月と言う。でもその方が下手な僕にはちょうど良い。例会に集まった人数が少なくて少し寂しい感じもしたが、でも集まりは必ずしも数ではない。 次の日の夜、ソカロに面するレストラン・バーで二人のセニョリータ、LiliaとAnaに遭った。彼女ら二人はその後毎日ほど、街を案内してくれたり、郊外に連れて行ってくれたり、家に招待してくれた。それでクエルナバカの滞在が、この旅で一番長くなり二週間を超えてしまった。そのお陰で他にもたくさんの人と知り合いになれた。
メキシコ人の若者ディエゴとは同じレストラン・バーで遭った。カルメンとはインターネット・カフェで遭った。ディエゴは自分で日本狂と言うほど日本が好きで、いつか日本に行けることを夢見て日本語の勉強を続けている。漢字も書ける。最初に覚えた漢字はなんと、「悪魔」という難しい漢字だそうだ。苗字もTAKAHARAというペンネームを使っている。日本のサッカーリーグの鹿島アントラーズのテストを受けるつもりだという。カルメンはペルーからメキシコに来て四年になる。彼女は画家で、スペインの展覧会にも招かれていったことがあるらしい。今はここクエルナバカの大学で絵を教えている。彼女は多彩な人で、詩人でもある。メキシコに来る前、ペルーではドキュメンタリー映画の監督をしていて、インカの有名な遺跡マチュピチュには70回も行ったことがある。海の探検で有名なジャン・クストーとも二回、仕事で一緒にアマゾンにいったらしい。彼女はまた、クエルナバカの近くにあるピラミッドの復元作業にも加わってきた。彼女もいつか日本に行きたいと言う。それで二人に、日本のエスペランティストは外国からのエスペランティストの訪問を待っていて、行けば必ず歓迎してくれる、と言ってエスペラント語を奨めた。二人は、すぐにエスペラントをやると答えた。
Diego
この二人は、早速毎週木曜日に開かれているクエルナバカのエスペラント週例会に現われた。先週は二人で少し寂しかったが、この日はJorgeの他、Ramo'n、女性のSofiaとCeciliaのエスペランティストが集まった。今週来た三人も全員知的な感じの人達だ。 そこにカルメンとディエゴを加えて賑やかな集まりになった。例会の終わり頃、カルメンがスペイン語で自作の詩を朗読した時、すぐ後ろにあるPCでインターネットをしている人達からも大きな拍手があったのには感動した。しかし不幸にも、僕はそのスペイン語の詩の意味がわからなかった。でもスペイン語の勉強にもなって、楽しい集まりだった。 Jorgeの話によるとクエルナバカのエスペランティストは男三人と女三人と言うから、一人の女性を除いて、これでほぼ全員と会ったことになる。僕は友達のカルメンとディエゴが、この六人に加わってエスペラント語を続け、いつか本当に日本に行って日本のエスペランティストと会えることを心から祈っている。 トロントに次いでクエルナバカでも、エスペランティストの暖かさと真摯さに触れることができた。見知らぬ土地を流れ歩く旅人にとって、世界中にいるエスペランティストの存在は、大洋に浮かぶ島のようなもので、そこに着くと我が家のように安心でき、旅の孤独を癒すことができる。
Carmen