覚醒剤が禁止される
コロンビアのイバン・ドゥケ大統領 (日本経済新聞 2018年8月8日の記事からコピー)
2018年6月17日にコロンビアの大統領選があり、イバン・ドゥケが選ばれました。僕がコロンビアに来た2004年にはアルバロ・ウリーベと言われる人が大統領であって、彼はいわゆる右寄りの政治家で、麻薬の販売で生きているゲリラを徹底的に取り締まりました。新しい大統領は彼の後継者です。左翼のゲリラの候補者が大統領になると本当に危険なので、コロンビアを去らなければならないとも考えていたので、ひとまず安心しました。僕は2003年4月にコロンビアに入国し、南米を一周し同年の9月に戻ってから首都のボゴタに住んでいました。確かに、首都のボゴタでも、また2006年7月に引っ越しした田舎のガタヴィタと言う町の近くでバスに乗っていても、よく警官に止められ身分証を求められ身体検査を受けました。ゲリラを捕まえようとしていたのです。それが徐々に少なくなり、2010年には、彼を引き継いだファン・マニュエル・サントスが大統領になって一段とゲリラが都会や町から消えていきました。彼に着いては2016年10月7日にノーベル平和賞を受賞したので、知っておられる方もおられると思います。話は少しそれましたが、去年は北部ベネズエラの国境近くのゲリラ団体の一つが解散しました。でもまだその辺りには別のゲリラ残っているし、それに隣国パナマやエクアドル、ブラジルの国境付近にもまだゲリラが活動していて、そうしたニュースがよくテレビで放映されています。 僕は若い頃ネパールに旅行して、ヒマラヤ山脈のバスすら走っていない地方を北、すなわち中国の方向に向けて歩いたことがあります。3~4日歩いたところで日本人が経営する旅館に泊まり、夕食後に出されたマリファナを吸って、凄い経験をしたことを記憶しています。よく考えてみるとインド、モロッコ、メキシコ等でも吸ったことがあります。また太平洋のグアム島とパラオ島の中間にあるヤップ島ではホテルに居た若者がくれたマリファナは品質が良く、一服だけで完全に幻想の世界に入り、余りのことに恐怖が沸き起こって医者を呼んでもらったことを覚えています。 幻覚剤の使用は、多分これらの国々でも禁止されていたような気がします。しかるにコロンビアではバスに乗っても、マリファナの匂いがするとマリアが言っていたのを思い出します。非合法なのですが時々は内緒で吸っていたと、僕は思っていたのです。ところが合法だったと言うではありませんか!イバン・ドゥケ大統領は、41歳と言う若さです。彼が10月1日に麻薬禁止令を作ったと聞いてびっくりしました。この国では、ずっと合法だったのです!!日本ではコロンビアの女性が売春婦で有名です。それに加え、ゲリラが公然と活動する国、さらに覚醒剤の使用が法的に認められた国は、現在では殆んどないように思います。しかし、ここフサガスガに住んでいると、全くそんなことは感じず、道に散らばるゴミを除いては、問題はありません。もっと言うと、常春のフサガスガにいると、この国は日本よりも住みやすい気がします。
コロンビアの三段跳び選手Katherine Ibarguen
2020年には東京でオリンピックが開かれますね。以前に開催された東京でのオリンピックは1964年でしたから、僕が16歳の時でした。56年振りと言うことになりますね。あの時の金メダル獲得数は16個で2004年のアテネでのオリンピックと同じで過去最高でした。しかし金銀銅メダルの合計では、2年前のリオ・デジャネイロが最高の41個を取っています。2年後はこの記録を超えることはできるのでしょうか?オリンピックは何もメダルの数が全てではありませんが、でも少し気になります。 こんなことを書いたのは、実は最近こちらのテレビでコロンビアの若い女子オリンピック候補選手が宣伝に使われているためなのです。日本が最初にオリンピックに出たのは1912年のストックホルム五輪だと出ていますが、メダル数は零個でした。コロンビアは1932年のロス・アンゼルス大会から参加していますが、メダルを取ったのは、1972年のミュンヘン五輪が初めてで、銀メダル1個と銅メダル2個でした。金メダルは2000年のシドニー五輪で1個、2012年ロンドン五輪で1個、2016年リオ・デジャネイロ五輪で3個取っています。自転車と重量挙げが強いようです。最近テレビの宣伝に出ているのは走り幅跳びと自転車の若い女の人で、それぞれ名前をKatherine IbarguenとMariana Pajonと言います。どちらも金メダル候補です。そして二人とも別嬪です。彼女らに栄光のあることを切に期待しています。
毎年2回は旅行しようと考えています。今年の5月にはパラグアイとブラジルに行ってきました。今度はコロンビア国内旅行でどこにしようかと考えていました。アマゾンは面白いのではないかと考えました。2004年にアマゾン川の下流にあるベレンから上流のマナウスまで汽船で1週間揺られたのを覚えていますが、その他は、ペルーで少しアンデス山脈を越えて見ただけです。ボゴタの南東、コロンビアの、ブラジル、ペルーとの国境にはLeticiaと言う町があります。アマゾン川が横を流れています。マリアは20年ほど前に2日だけ言ったことがあるそうです。
ボゴタからLeticiaまでは飛行機で2時間掛かります。13時41分にボゴタを出た飛行機は、晴れた空に飛び立ちましたが、暫くすると雲に覆われ、Leticiaでは大雨となって、空港上空を25分ほど旋回して、あわやエクアドールのキトーに着陸するかもしれないと機内放送がありましたが、なんとか降り立つことができました。Leticiaは雨の多いシーズンに入ったばかりで、このところ一週間ほどはずっと雨が降っているようでした。Leticiaの降水量を見ると、7月が158㎜と最も低く、11月は302㎜と倍近くになっています。大阪の降水量を見ると6月が206㎜と最も高く、11月は65㎜となっていますから、確かに雨の日が多いように思います。空港は思っていたとおり小さかったのですが、観光税を一人1,200円程取られました。
Leticiaの2日目は一日中、しとしとと雨が降っていました。しかし傘をさして町を歩いてみました。ホテルに帰るとサックスホーンの生演奏をしていましたので聴きました。夕方、マリアが友達から紹介されていた三輪タクシーの運転手に電話しました。Marcelaと言う大柄の若い女性で、すぐに来てくれました。ちょうど僕達のホテルの向かいに旅行代理店が会ったので、一緒に入りました。Leticiaでは必ず行こうと思っていたツアーの情報を聴きました。翌日7時45分に出発で、参加するなら直ぐにツアー料金一人4,300円を支払えと言います。僕達は雨の中、ボートでのツアーは嫌なので、翌日行くなら7時半に支払いに来ると言って旅行店を出ました。 3日目は運よく雨が上がっていました。8時半頃に、僕達を含む11人の客が小さな船に乗りました。運転手にガイドの男性が着いています。船着場から直ぐにアマゾン川に出ました。川幅は500m位でした。川の西側の向こうはペルーで、こちら側の南隣に2~3㎞三輪タクシーで行くとブラジルのLeticiaより少し大きなTabatingaと言う町があります。我々の小船は、このアマゾン川を北西に向けて70㎞程遡るのです。まず対岸のペルーの部落に着きました。ここではアマゾンの動物を開けっ放しの屋根の下で見せてくれました。3~4m程の蛇、ナマケモノ(熊の一種)、亀、多色の羽を持つ鳥、それに様々な小鳥等が足元を歩き回っていました。2番目の観光地からはコロンビアに戻り、猿の住む島に行きました。
Leticiaの町を走る三輪タクシー
猿の島で民族舞踊を踊ってくれた若い男女達
ここの猿は体長が30~40㎝位で、そこに長い尻尾が着いています。それが何匹も僕達の体によじ登ってくるのです。その横には7人の若い男女が居て、民族衣装で踊りを見せてくれました。広い敷地に建てられた風通しの良い大きな家での昼食後、3番目は更に少し北西に船は進み、家が、多くて数件あるだけの所に行きました。ここでは上半身裸の草の腰巻を付けた男一人と女達が、また踊りを見せてくれました。男はこの付近の人達がみんな日本人に似ていたので、何か親近感を覚えると同時に、我々との生活状況の違いに人生の不思議を感じました。彼は観光客に民族語を少し教えてくれました。最後はLeticiaから70㎞程の所にある街(?)Puerto Narinoに行きました。ここまでは殆ど人家のないジャングルで、ここから先も同じような無人の土地が続くのでしょう。Leticiaの空港に着陸する時に見えた大地は、緑一色のジャングルでした。しかし、ここでは初めて文明を感じます。この街に着いて船から出ると、すぐに一人350円の観光税を取られただけあって、家も洋風の造りで立派のものでした。ツアーが終わってLeticiaに帰ると船着場のすぐ近くの戸外会場でLeticia70周年フェスティバルをしていました。この日は水曜日で、土曜日まで4日間連続の催が組まれていたのです。大勢の若年男女が民族衣装で歌い、そして踊るのは、なかなか圧巻でした。 Leticiaの4日目、朝起きると歯が痛みだしたので、歯痛止めの薬を買いに行きました。その後、無料の博物館に行きました。そこを出て公園に行く途中、ラファエルと言う40過ぎの男に会いました。彼も日本人のような顔です。彼の家に招待されましたが、前夜には歯痛で睡眠不足だったので2回ほど居眠りをしてしまいました。そのため、早々と退出することになりました。14時半にホテルに帰り、少しベッドで横になり、17時35分に、前日のツアーで買ったのとは別の、木製の味噌汁茶碗を探しに行きました。前日は赤色の物を2個買ったのですが、もう一つ黒色の少し大きな茶碗があったのに買わなかったからです。それを探し回りました。しかし、結局見つかりませんでしたが、赤のもう少し大きな茶碗を更に二つ見つけて購入しました。その後またフェスティバルに行きましたが、そこでまたラファエルと彼のこの町では珍しく西欧風の顔をした友人に会い、コーヒーを2杯ずつ飲みました。ホテルに帰り、一人1500円程する魚の夕食を楽しみました。このホテルは朝食と夕食込みで2人で一日1万円位払っています。通常は朝食だけですが、夕食が二人で1,000円位と安かったので予約し、毎日美味な魚介類の料理を頂きました。
アマゾン川を背景に三輪車の運転手Marcelaと
5日目は朝起きると初めて晴天でした。2日目の夕方会ったMarcelaに電話して、彼女の三輪車で夕方の16時にブラジルのTabatingaに連れて行ってもらうようにしました。この町には美味しいチョコレートを売っている店があるとマリアが言っていました。日本人がブラジルに入るには入国許可書が必要ですが、5月に取っていたものが2年間有効なので問題なく入国できると思っていました。走っていると制服を着た警官みたいな人が立っていました。Marcelaはそのまま通り過ぎました。彼女はそこが国境だと言いました。こんな簡単な入国は初めてでした。入国するとチョコレート屋が数件並んでいました。暫く町中を走りました。この町にはLeticiaとは違って、町の所々に役所の大きな建物が立ち並んでいます。そこを通り過ぎるとアマゾン川を見下ろす場所に着きました。暫くすると空が曇ってきて、あっと言う間に真っ黒な雲に覆われました。そこで、Caipirinhaと言うレモン、砂糖、それにCachacaと言うアルコールの入った氷入り飲料を頂いていると、激しい雨になりました。三輪車に乗る気がしないので、一時間ほど他の観光客の4~5グループと雨の上がるのを待っていました。結局2時間40分の旅になり、3時間料金の2,150円支払ってホテルで分かれました。19時5分から2日目に演奏に来ていたサックスホーン奏者が、また素晴らしい音楽を聴かせてくれました。この日は22時まで3時間も演奏してくれました。美味な魚料理と僕の好きなサックスホーンの音楽と、素晴らしい最後の夜になりました。 旅の最終日、8時10分に目覚め、9時半まで朝食を取りました。ホテルのチェックアウトは13時でしたので、支払いを済ませ、荷物を保管してもらって、ちょうど13時に、昨日は雨のため良く見れなかったTabatingaにもう一度行くことにしました。今度はホテルの前に走ってきた三輪車に乗りました。Tabatingaの入り口で降りると、料金は110円でした。前日買えなかったチョコレート等の土産を、マリアは勿論買いました。この日も快晴で気温が上がっていました。暑いのでその辺のレストランに入ってコカ・コーラを飲みました。しばらくすると若い別嬪女が二人、歌を歌いだしたのです。素晴らしい声と音量でした。コーラを飲んで直ぐに出ようと思っていたのですが、Cevicheと言う海老に他の海産物の盛り合わせ料理を注文しました。16時20分にホテルに帰り、前日からツアーでLeticiaに来ていたマリアの叔母さんと従兄に会いに波止場へ出かけました。彼女たちは、この日、僕達が3日目に行ったツアーに行っていたのです。僕は彼女に買えなかった黒色の茶碗が見つかれば買ってくれるようにこの日の朝、スマートフォンの無料 メッセージアプリであるWhatsAppで頼んでおいたのです。あいにく見つからなかったと聞きました。茶碗の価格は2つで900円でしたが、マリアが200円の酒杯になりそうな小さなグラスをサービスしてもらったらどうかと言うのを、サービスしてくれると聞き違えて、900円を支払おうとしたら断わられたので、買わなかったのでした。旅行で意地を通し過ぎると、良くないという例です。
2017年の暮れに左下奥歯に詰めたセメントを包む金属コーティングが取れたので、いつも治療してもらっている男性歯科医のカルロスの所に行きました。彼は抜歯しかないと診断しました。そこでいくつか別の歯医者を尋ねました。2か所の歯医者で治療可能だと言われました。問題の歯を抜いて、最新の技術で人口歯に全て変えるのだそうです。12月18日、その内の1か所で35歳くらいの女性歯医者Andreaの所に行き、歯を全部抜いてもらいました。それから歯肉に埋め込むチタン製の棒状の物を作ってもらい、12月30日に歯茎に埋め込みました。4か月少し後の2018年4月9日に再チェックを受けました。ところが更に約6か月後の10月26日に歯が不安定になり少し動き出したのでもう一度、ネジのようなもので固定された入れ歯の上部を開き、一部の部品を取り換えてもらいました。これで左下奥歯の治療は終わりました。ところがこれとは別に11月7日の夜、ベッドに入ると右上の奥歯の周辺が痛みだしました。痛み止めの薬を飲みましたが、効かないので翌日の木曜日、抗生物質を飲み、夕方にまたAndreaを訪ねました。Andreaは専門ではないので、別の一般的な歯医者に見てもらう必要があると言いました。そこでカルロスの所に行きました。彼はレントゲンを見て、銀のコーティングを取って治療する必要があると言いました。随分迷いましたが、炎症しているだけなら投薬で痛みが消えると思って治療を受けずに去りました。12日まで、抗生物質を6日間飲みましたが、痛みがまだ少し残っていました。13日の旅行の前日、痛んでいる歯の詰めた部分が取れました。この日は日曜日なので殆ど全ての歯医者は閉まっています。やっと一歯科医を見つけて詰め直してもらいました。
翌日、Leticiaへの旅に出ました。抗生物質は一週間以上飲むと効かないとAndreaが言っていたので、服用を止めました。しかし詰め直した歯の痛みはまだ完全には取れません。旅行先で直ぐに歯医者を見つけて、診断してもらいました。その少し痛む歯に穴が開いていると言われました。その治療なら自宅の近くの方が良いと思いました。歯医者を去って暫くするとまた痛みが出て来たので、痛み止めの薬を飲み始めました。痛みが強いので8時間ごとに飲みました。11月23日の金曜日に自宅のあるフサガスガのカルロスに長距離電話をして、月曜日に診察の予約を取りました。24日の土曜日Leticiaから帰ってきました。この日から日曜日と徐々に痛みは軽くなり、月曜日の夕方、カルロスの所に行った頃には、痛みは20%位しか残っていませんでした。
カルロスに経過と症状を話すと、打つ手がないと言われました。カルロスには、以前に書いたとおり、「銀のコーティングを取って治療する」と言われていたし、Leticiaでは「穴が開いている」とも言われていたので、痛みは殆んどなくなったが、この際、穴を塞ぐ意味でも治療しておくかと思いました。ところが…、痛み止めの注射を打たれ、しばらくしてから、なんと、抜かれてしまったのです!!マリアに聞くと、カルロスは抜くと言っていたと答えました。言葉が通じないのは、本当に困ります。
歯を抜いた日の夕食は、歯が痛んでいたので食べずに、頬の外から痛みを氷で冷やしていました。布団の中で、抜いた歯の後は、老人性入れ歯で毎夜寝る前に外して保管しなければならないと考えると、気が重くなりました。しかし思いついたのです。ここにも左下奥歯のように、チタン製の棒状の物を入れ人口歯を固定することができるのではないかと…。翌日の11月27日、早速Andreaの所に行きました。多分可能だが、抜いたばかりなので、2週間ほど様子を見る必要があると言われました。左下奥歯の時は12万円ほど払ったと記憶していたのですが、この日に聞くと101,500万円だと言われました。この手術(仮に「手術①」とします)には人口歯を固定するために、歯茎に細長い棒状の物を埋め込む必要があるとのことです。しかし抜いた歯の三次元レントゲンを見ると、棒状の物を固定する小さい歯のようなものが一部分欠けているので、それらを埋め込む必要があり、それらが上手く歯茎に固着するかどうかという点で、手術の成功率は50%だと言われました。困ったと思いましたが、別の方法(「手術②」とします)もあると言われました。それは、抜いた歯の両側の歯に固定して埋め込む方法だそうです。この費用は95,400円と言われました。
12月18日、Andreaに「手術①」の埋め込み手術をしてもらいました。半年後にもう一度見てもらって、埋め込んだ小さい歯のようなものが歯茎に固着していない場合は、「手術②」でもう一度手術をしてもらいます。この場合、「手術①」は途中で止めて「手術②」に切り替えるので、その費用は143,00000円となります。この程度で済むのなら、入れ歯の不便さに比べれば安いものです。