2004年1月12日も雨だった。チリの国境事務所はボリビアの国境を出てから15kmも離れた所にあった。チリの国境は真っ白な山に囲まれていた。この辺りの標高は4,800mもあると聞いた。こんな高い国境は初めてだ。ここは南緯18度でまだ熱帯だ。しかも今は真夏だ。それなのに寒い。そこへ雨と雹だ。加えて、チリ側の道路は穴ぼこだらけで、カーブになるとアスファルトは剥がれダートになった。チリの道はボリビアより良いだろうと思っていたのに、ひどかった。雨雲で景色はよく見えないが、ここはチリの国立公園なので綺麗なはずだ。しかし僕は道路の穴ぼこだけを見ながらアンデスを下っていた。そのうち道路は厚い雲の中に突入した。前が見えない。僕は足元のセンターラインだけを頼りにトボトボ走る。アンデスは徐々に高度を下げる。高度が下がるにしたがって雨は小降りになってきて、晴れ間も見えてきた。国境から100kmを過ぎると道路は良くなった。そして青空も広がってきた。目指すAricaの町までは90kmだ。アンデスは太平洋に向かって緩やかに下っていく。下りきったところで海が見えた。港がある。それがチリ最北の町、Aricaだ。そしてそこはアタカマ砂漠だ。Aricaの町と空は砂煙の中に霞んでいた。しかし空にはもう雲はなかった。ボリビアはUyuniでは晴れたが、その他はほとんど雨だった。青空はいい。バイク旅行に青空は絶対に必要だ。
アタカマ砂漠の緑の谷間
アタカマ砂漠
Aricaを出ると、パンアメリカン・ハイウェーはしばらく、谷に降りては、また山に登りを繰り返す。アンデスから太平洋に流れる川が深い谷を作って道路を横切る。川には水がないが、谷は緑だ。ペルーの砂漠は全く平坦で退屈だったが、アタカマ砂漠のこの辺りには変化がある。しかし、禿山から見下ろす谷が深いので走っていて恐い。やがてアタカマ砂漠には谷もなくなり、どこまでも続く平坦な砂漠になった。ペルーの砂漠にはオアシスが点々とあったが、ここには何もない。したがってガソリンスタンドもない。AricaからSan Pedro de Atacamaの温泉へ向かう分岐点までの530kmにガソリンスタンドは2軒しかなかった。その分岐点を過ぎてすぐに、ガソリン不足の警告灯が点いた。少し前にCalamaという次の町まで87kmと書いた標識を見た。残るガソリンではこの距離は走れない。幸い地図にはCalamaの手前15kmほどの所にもChuquicamataという町が載っている。しかし70kmとなると途中でガス欠する可能性が高い。僕はスピードを80kmまで落とし、ギアーをトップに入れた。登り坂もトップで走った。小便したいのも辛抱した。やっとChuquicamataの町が見えたところでバイクを止め、道路際で立小便をした。幸いChuquicamataの町の入り口にガソリンスタンドはあった。この日、僕はいつもよりは早く、8時15分にホテルを出た。久しぶりに400kmも走るからだ。途中でガソリンスタンドがないと聞いていたので、60km走って一度給油した。これでCalamaまでは十分走れると思っていた。ペルーの砂漠でもそうだったが、午前中はあまり強い風が吹かない。それにペルーの砂漠は細かい砂の砂漠だったが、アタカマ砂漠は固い土の砂漠だ。だから風に吹き飛ばされる砂の攻撃もない。それにオアシスもなく、ペルーのパンアメリカン・ハイウェーほどではないが舗装状態のいい道路が一直線に続いているのでスピードが出せる。しかもボリビアでは質の悪いガソリンしか手に入らず、バイクの調子が少し悪かったのだが、チリに入るとオクタン価が97%のガソリンが売られているので、エンジンは元気を取り戻した。そのためちょっとスピードを出し過ぎた。だからいつもよりもガソリンが早く減ったようだ。
San Pedro de Atacamaの温泉は、谷の下にある。
自然の浴槽から温泉の川が流れ出す。
ボリビアの最南端で、山の向こうにあると聞いた温泉に入るため、はるばるSan Pedro de Atacamaにやって来た。あの時、国境を越えることができていたらわずか30kmの距離だったのに、遥か北に迂回しここに戻ってくるまで10日もかかった。温泉は僕のガイドブックには載っていないが、San Pedro de Atacamaから北へ舗装道路を30km行った所にあると聞いていた。しかし、ホテルに着いて聞くと、ダートの道だと言う。タクシーは高いし、それにここは砂漠なので雨で道がぬかるむ心配もない。思い切ってバイクで行くことにした。道は部分的に洗濯板状態だったが、そんなに悪くはなかった。しかし、谷の下にある温泉まで降りる道が悪かった。石が多くバイクは飛びあがった。油が少し漏れているクランクケースが石に乗り上げ、大きな音を立てた。でも止まって見る余裕はなかった。バイクを倒さずにそのまま谷の下まで降りるのがやっとだった。幸い油漏れが悪化した気配はなかった。温泉は葦のような植物に囲まれ、大きな湯槽を造ったあと、川となって谷を流れ下っていた。温泉の回りを小鳥が歩き、トンボが舞っていた。岩山に囲まれた綺麗な温泉だったが、湯温が33度と低いのが欠点だった。砂漠と言えども高度が高いので空気は涼しく、湯から外へ出ると寒いくらいだった。やっぱり温泉は熱くなければいけない。温泉に浸かったので、山を下りまたパンアメリカン・ハイウェーに戻った。パンアメリカン・ハイウェーはアタカマ砂漠を南に行くに連れて山を縫って走るようになる。アンデスは海まで迫っていて、そこにある港町はみんな坂の町だ。パンアメリカン・ハイウェーは、数100km走るとこうした港町に寄り、また内陸部に数10km遠ざかる。これらの港町はチリ硝石や世界一の産出量を誇る銅の積み出しに建設されたものだ。北の小さな村でチリ硝石の博物館があった。チリの人の話によると、低コストの化学肥料の出現に押されて、硝石からの肥料の生産はなくなったらしい。アタカマ砂漠の町はこうした港町だけだ。その間は何もない。もちろんガソリンスタンドもない。常にガス欠の恐怖を抱きながら走ることになる。だから僕のBMWにとっては、こうした港町は本当のオアシスだ。
港町は僕にとってもオアシスだ。チリの港町では美味しい海の料理が食べられる。ある小さな港町にはパンアメリカン・ハイウェー沿いにレストランを兼ねた安宿があった。部屋は狭くて決して快適とは言えなかったが、一泊1000円以上はするチリのホテルの中では、800円という安さだった。しかも部屋の横に駐車場があったので泊まることにした。2時半に着いてすぐ魚のフライを食べた。新鮮な白身の魚で本当に美味しかった。夜になった。何か別のものはないかと聴くと、"Erizo"があると言う。何かと聞くと、冷蔵庫から出して見せてくれた。何とウニではないか! 少しだろうと思いながら注文すると、皿に山盛りで出てきた。ウニだけで満腹したのは生まれて初めてだ。ビールの小瓶とで730円だった。料理も1000円ほどするチリあっては、満足できる夕食だった。
パンアメリカン・ハイウェーは北の果てのAricaから1,600km走って、サンチャゴの手前470kmのLa Serenaという町辺りでやっと砂漠を抜ける。僕はペルーの南の海岸地帯の850kmは走っていないが、そこも砂漠のはずだ。であれば、パンアメリカン・ハイウェーはペルーの北の端からLa Serenaまで4,000kmの砂漠を貫いてきたことになる。La Serenaは南緯30度で、南回帰線はLa SrenaとAricaとの真中くらいにあるAntofagasta辺りにある。Antofagastaに着いたのは1月17日、メキシコのMazatlanで北回帰線を越えたのが2001年11月29日だから、もう2年2ヶ月以上も熱帯にいたことになる。首都サンチャゴの緯度は、すでに南緯33度25分だ。これは北半球で言えば、日本では潮の岬、アメリカではロス・アンゼルス辺りだ。南半球では今は真夏なので日中は暑い。しかし夕暮れには涼しくなる。教会の見える広場のベンチに座ると、夕暮れの涼しい風が身体を撫でる。熱帯では低地では暑く、山の上では寒いかのどちらかだったが、暑い昼の後の夕暮れの涼しさは、日本の夏を思い起こさせる。
La Serenaの町。ペルーから続く4,000kmの砂漠はLa Serena辺りで終わる。
Alan Gordillo
このところ砂漠を時速130kmくらいで走ってきて、ヘルメットに問題のあることに気が付いた。僕の頭が小さくなったのか、あるいはヘルメットが大きくなったのか、風でヘルメットが後ろへズレるようになった。それだけではない。バイザーが風で上へ持ち上げられる。バイザーを左手で押さえて片手運転をしなければならない。これから先、風の強いパタゴニアをこんなヘルメットで走るのは難儀だ。それでサンチャゴに着けば新しいヘルメットを買おうと思っていた。コスタ・リカで交換した後輪のタイヤもそろそろ換え時だ。エンジンオイルとオイル・フィルターも換える必要がある。サンチャゴのBMWの店については既にインターネットで調べておいて、Fax番号はあるが、電話番号が分からない。電話帳にも店の名前はない。BMWの店に関するインターネットの情報は古いことがある。住所を見て、行っても店のないことがあった。それでFaxを送った。Faxは届かなかった。それでサンチャゴのバイク屋街に行って、どこかのバイク屋で聞くことにした。バイクを路上に止めて、店に入った。後ろでバイクのエンジン音が聞こえた。振り返るとBMWに乗ったライダーが僕のBMWを見ている。店で聞くよりもこの人だ。彼はAlan Gordilloという名前で、警察でバイクの修理をしているプロだ。ここの警察の白バイは全てBMWだ。修理は任せておけと言ってくれる。彼はヘルメット、タイヤ、エンジンオイルの購入に付き合ってくれ、最後にオイルとオイルフィルターを交換してくれた。BMWのオイルフィルターの交換には特殊工具が要るが、もちろん彼は持っていた。彼のお陰でバイクに関する用事は半日で終わった。サンチャゴの北東100kmに南北アメリカ大陸最高峰のアコンカグアがある。標高は6,960mでほぼ7,000mだ。北米最高峰でアラスカにあるマッキンレーは6,194m、ヨーロッパ最高峰のモンブランが4,807mだから、この山よりも高くて7,000mを越える山というと、アジアのヒマラヤ、ヒンズークシ、そしてテンシャン山脈まで行かないとない。僕の持っている1980年版の古い南米地図では、チリからアルゼンチンに通じている舗装路はただ一本で、その道路はアルゼンチンに入ってすぐ、この山の南側を通過する。僕はこのルートを取ってアルゼンチンに入ろうと考えていた。しかしできることなら、砂漠の南にあるチリも見たいと思っていた。カリフォルニアで南米北部の地図は買ったのに、南部の地図を買わなかったのが失敗だった。メキシコからずっと探してきたがどこの国でも入手できず、とうとうチリまで来てしまった。そしてやっと手に入れた2003年版の地図では、チリの南の方からアルゼンチンのパタゴニアに向かう道路が舗装済みになっていた。アコンカグアは見たいが、僕は温泉のある南に向かうことにする。
首都サンチャゴ
チリに入国して三日目、知らないアドレスからメールが届いた。サンチャゴの南130kmにあるRengoという小さな町に住むエスペランティスト、Daniel Carrascoからだった。彼は、ホームページで僕がチリに入国することを知り、電話番号を付けて是非会いたいと書いてきた。後に分かったのだが、もう一年以上もメールで連絡を取り合っているアルゼンチンのエスペランティストRoberto Sartorが彼に知らせてくれていたのだ。ちょうどその時、僕はサンチャゴの南の方に住むエスペランティストを探す必要があると思っていた。というのは、三ヵ月前にコロンビアで落とした二つの銀行の新しいキャッシュカードが日本の弟の家に届けられていたので、それを国際宅急便で送ってもらって、チリのサンチャゴで受け取りたいと思っていたからだ。国際宅急便会社では、銀行のキャッシュカードは送れないと言うので、弟にスペイン語文法や南米の歴史の本を買ってもらって、そこにカードを隠して送ってもらうことにしていた。荷物は、サンチャゴの宅急便会社の営業所で受け取ろうと考えていた。Danielのメールを受け取る前日に弟がメールを送ってきて、僕のサンチャゴ到着日程を見ながらいざ送ろうとすると、宅急便会社は個人宅にしか送れないと言っていると書いてきた。もうサンチャゴで受け取るには時間がない。それでサンチャゴから南のエスペランティストを探そうとしていたところだった。エスペランティストは信用できる。渡りに舟だ。インターネット電話ですぐに彼に電話した。ペルーのクスコで使えるようにしたインターネット電話は、国際電話だけではなくこんな時にも本当に役に立つ。彼は本の引き取りを快く引き受けてくれ、その場で彼の住所をメールで僕に送ってくれた。5分後にインターネット・カフェで受け取ったその住所を、僕はすぐに弟に送った。お金が引き出せる唯一のVisaカードが三月で切れるので、この二枚のキャッシュカードは早く受け取りたいと考えていた。Danielのメールは最高のタイミングだった。弟から日本時間の1月19日に荷物を発送したというメールが届いた。僕は北の砂漠で荷物の運送経路をインターネットで追い続けていた。僕は、サンチャゴには1月21日に着いた。ホテルに着いてすぐ、インターネット・カフェに行った。まず宅急便会社のホームページを見ると、荷物もすでにサンチャゴに着いていた。Danielの住むRengoまでは、税関で時間がかかったとしても、ちょうど僕がRengoに着く頃には荷物は届けられているだろうとひとまず安心した。ほっとした後、新着メールを見るとまた知らない人からエスペラント語のメールが届いている。今度はサンチャゴに住むRicardo Bravoというエスペランティストからだ。あるエスペランティストから僕のサンチャゴ到着を知り、外国のエスペランティストとはしゃべったことがないので、サンチャゴに着いたら家に泊めてくれるという内容だった。しかし僕はもう既にホテルに重い荷物を降ろしていた。それにバイクのタイヤとエンジンオイルの交換が終われば、三日後にはサンチャゴを出ることにしていた。だから彼の家に泊めてもらうつもりはなかったが、すぐに電話した。彼はその日の夜の10時前に僕のホテルに来てくれた。僕達は一時間ほどしゃべった。彼は、実は僕のことをDanielから知らされていたのだ。
そして、Danielとは会ったことがないが、二日後の土曜日に彼がサンチャゴのRicardoのアパートに来て、初めて会うことになっていると言う。Ricardoのアパートはサンチャゴの中央広場の真ん前にある。それで僕も二人に加わることを約束して、僕達はその日は別れた。二日後の昼頃、Danielから電話があった。待っていた荷物がサンチャゴに着いているが、彼が税金の1,300円ほどを払わないと72時間後に荷物は日本に送り返されると言ってきた。僕はサンチャゴの宅急便会社の電話番号を聞いて連絡を取り、すぐにタクシーで駆けつけた。宛名はDanielになっていたので、僕は受け取れず税金だけ払ってRengoで受け取るつもりだったが、宅急便会社は僕に荷物を簡単に引き渡してくれた。大事な用事がサンチャゴで片付いたので、ありがたい税金だった。
サンチャゴの中央広場(Plaza de Armas)
チリのエスペランティスト、Ricardo(右)と Daniel
土曜日、12時過ぎにRicardoのアパートで彼とDanielに会った。Ricardoは29才で語学を教えている。Danielは顔一面にヒゲを生やしているので年齢よりも老けて見え、僕は25才くらいと思ったが、何と17才だった。これから大学で語学を学ぶと言う。まだ高校生なのに流暢な英語をしゃべる。日本では大学を卒業しても、ほとんど誰も英語がしゃべれないことを思い起こし、まず彼の英語に驚かされた。ところが英語だけではなくエスペラント語まで流暢なのだ。29才のRicardoのエスペラント語が流暢なのは不思議ではないが、Danielはまだ高校生だ。僕は、彼がまだスペイン語すらしゃべれない赤ちゃんの頃からエスペラント語を勉強している。それなのにまだたどたどしいエスペラント語しかしゃべれない。僕は肩身の狭い思いをしながら彼等の会話に加わった。そのうちDanielはRicardoのパソコンでインターネットにアクセスし、世界各国の7人のエスペランティストとチャッティンングを始めた。僕は、チャッティングは文字に拠るものだとばかり思っていたが、彼等はマイクを使ってエスペラント語で本当にお喋りをしている。チャッティングが終わると、Danielはエスペラント語以外の国際語のホームページを開き出した。Ricardoは僕に、他にも700ほどの国際語が考案されているが、機能しているのはエスペラント語だけだと言った。いつもエスペランティストからは多くを教えられる。僕はバイクのメンテナンスも終わって翌日サンチャゴを出ることにしていたので、その夜二人に別れを告げた。日曜日の朝、サンチャゴの南400kmにあるChillanに行くため5時50分に起きた。ホテルを8時半に出て数キロ走ると、クランクケースから変な音がしてバイクが止まった。幸い20m先にガソリンスタンドがあった。日曜日なのでほとんど全てのバイク屋は閉まっている。僕は、数日前にオイル交換等をしてくれたBMWのプロ、Alan Gordilloと連絡が取りたかった。彼のメールアドレスは知っているが、電話番号は聞かなかった。電話帳を調べても彼の名前は載っていない。そのうちガソリンスタンドの従業員が、サンチャゴに一軒だけ開いている店があるという情報を得てくれた。そこへ行くのにタクシーを捕まえようとすると、ガソリンスタンドにいた客に、僕をその店まで乗せていってくれるよう頼んでくれた。店に着くと、どこかから修理工を呼んできた。事情を説明すると、修理工は頼りないロープを探してきた。僕達はガソリンスタンドに戻り、BMWを牽引しようとしたらすぐにロープは切れた。僕は、ガソリンスタンドの従業員がレッカー車の連絡先の名刺を持っていることを覚えていたので、その従業員に頼んで電話してもらった、30分後に来ると言ったレッカー車は2時間後に来た。でも、自動車の牽引用のクルマなので、バイクはまたロープで引っ張ることになった。僕は10年ほど前メキシコで同じことをして恐い思いをしたのでイヤだと言った。それで修理工がバイクに乗った。無事店に戻ると、修理工は階段のある狭い廊下の奥にある自分のアパートの前にバイクを運んだ。僕は少し不安になった。修理を最初から見たいと彼に言ったが断わられた。まだ何もしていないのに6,000円要求された。ますます不安になった。何時に修理が終わるのかと聞くと、明日来いという。いよいよ不安になり、今日また戻ってくるが何時が好いか、と訊くと夜の八時だと答える。遅すぎると言うと6時になった。僕は不安だった。レッカー車の運転手も同じ不安を感じアパートを出た後、僕にサンチャゴに友達はいないのかと訊いてきた。もしかしてバイクは修理されず、そのまま売り飛ばされるかもしれない。運転手は携帯電話でエスペランティストのRicardoに電話してくれた。Ricardoはすぐにタクシーで駆けつけてくれた。僕達はレッカー車で修理工のアパートに戻った。Ricardoは修理工と話をしてバイクを取り戻してくれた。修理工は、バイクのシートだけをはずしただけで、まだ何も仕事をしていなかった。それなのに、さらに2,000円要求してきた。Ricardoのお陰で1,200円になった。Ricardoは自分のアパートの近所に公共駐車場を見つけたので、そこへバイクを運び、僕は高いホテルに泊まらずに彼のアパートに泊まるように言ってくれた。それでレッカー車でバイクを一旦その駐車場まで運んだが、すこし遠い上に、よく考えるとRicardoが仕事に出る早朝に、遠い駐車場にあるBMWをバイク屋のトラックに引渡し、また修理が終わりサンチャゴを出る時に、バイクを路上に止めたまま5階のアパートから多くの荷物を出すのが嫌だったので元のホテルに戻ることにした。
バイク修理人、Ricardo。BMWはバイクの形を失った。
翌朝、電話帳に載っていたMotorradという店に電話した。MotorradはBMWのホームページの名前なので、僕は店にトラックはあるものだと信じ切っていた。しかし、ないと言う。それでまた昨日のレッカー車に電話して、ホテルまでバイクを取りに来てもらった。結局全部で10キロほどの二日間のレッカー車代には1万2,000円ほどかかった。行ったMotorradはBMWの店ではなく、非常に対応が悪く、バイクの修理もその日はできないと言った。その時、店に来ていた現地のライダーが別の店の方がいいと言って、店の名刺をくれた。その店にもMotorradという大きな看板が掛かっていたが、実際の名前は”Cross Team”だった。この店は従業員の対応も良く、すぐにチーフ修理工を呼んでくれた。40才のRicardo Aravenaだった。僕は、温和な顔をしていて真剣に話を聞いてくれる彼をその場で信頼した。彼は、この大きなバイク屋の店主でもある。奥さんはイギリス人だ。僕は別の店で、サンチャゴにBMWを修理できる人は三人しかいないと聞いていた。その一人は警察でBMWのバイクを修理していて、エンジンオイルを交換してくれたAlanだ。しかし僕はRicardoなら大丈夫だと感じた。「直せますか」と聞くと「直せる」という即答が返ってきた。彼は即座にどこが悪いのか僕に説明してくれ、30秒ほどバイクを見つめて作業行程を考えていた。僕はこれでRicardoは本当のプロで、彼に任せておけば絶対に大丈夫だと確信した。僕にスペイン語が分かるのかと聞くので、あまり分からないと答えると英語の分かる人に電話しようとした。必要経費を僕に告げようとしていたのだ。それくらいなら僕にも分かる。5万円だと言った。僕はついでにエンジンオイルの漏れも止めてもらえないかと聞いた。完全に止めてやると言ってくれた。彼は、実はモトクロスライダーでもあるのだ。僕の日本におけるバイクの友達であると同時に修理の先生でもあり、僕がバイクの免許証を取って以来10年間仕事が終わってから必ず毎週、しばしば一週間に5日、僕の何台ものバイクを改造し修理してくれた蔵矢氏もモトクロスライダーだった。彼等の修理や整備にかける情熱とその精度は並大抵のものではない。僕は、5回も修理に出しても止まらなかったオイル漏れだが、今度こそは止めてもらえると信じた。Ricardoはエンジン部分だけを残し、バイクの大部分を解体した。ずっと見ていたが、大変な作業だった。バイクが急に止まったのは、クラッチ盤の中心にある軸受けの歯が完全に磨耗していて、そのためシャフトドライブにエンジンの回転が伝わらなかったのが原因だった。彼はすぐにその部品を注文してくれた。部品は一週間後にしか入手できないという答えだった。僕は、ゆっくりしているとパタゴニアは寒くなるので一週間は待てないと言った。そこでRicardoは僕を連れて何軒もの店を回り、自動車に使われている同様のクラッチ盤を捜そうとしてくれた。だが、見つからなかった。それで僕達はクラッチ盤を作っている工場に行き、日本製の似たクラッチ盤を見つけ、壊れた軸受けの部分だけを交換することにした。閉店前に行ったので仕上がりは翌日の正午になると言われた。しかし注文した場合の一週間とは大きな違いだ。値段もBMWの純正品は3万円もするのに、わずか2,000円で済んだ。バイクは彼の二日間の作業で動くようになった。二日目の夕方から、Ricardoはオイル漏れの溶接の準備に、夜の9時までかけて元の修理部分を剥がしてくれた。三日目には溶接が終わりオイル漏れは完全に止まった。最後に防御用の鉄板をクランクケースの底部に取りつけることになった。僕達は鉄工所へ行って鉄板を買い、切ってもらった。わずか300円だった。Ricardoは風を通す隙間を作るため、その鉄板に円筒形の金属を溶接し、最後に塗装してくれた。本当にプロの仕事だった。彼は僕のBMWを、まるで自分のレース用のバイクを修理するような情熱で修理してくれた。わずか三日間の付き合いだったが、彼との別れが寂しかった。>
バイクは三日目の夕方6時に、完全な姿に戻った。僕は、エスペランティストの方のRicardoが休暇中で荷物の運搬を手伝ってくれるというので、この日の朝にホテルを引き払い彼のアパートに移っていて、彼と夜の9時に会って、前にも一緒に行った日本料理店に行きサンチャゴ最後の夜を過ごすことにしていた。それで修理工のRicardoも招待することにした。彼は喜んで来てくれ、普段は飲まないビールを特別だと言って一緒に飲んでくれだ。僕は長い間頭痛の種だったオイル漏れまで止まったので、幸せな気持ちだった。修理工のRicardoの目にも、一つの仕事を終えた満足感が溢れていた。僕はラッキーだった。バイクが止まったのが、もしチリの北の砂漠だったらどうなっていただろう。それがサンチャゴのしかも都心であってよかった。そして最終的にRicardoの店にバイクを持ちこむことになったのには、何か運命的なものを感じる。ここまでしてくれるバイク屋はサンチャゴ、いや世界中でも滅多にないだろう。
僕は昔、日本でスペイン語のクラスに12年間通った。そのうち数年間はチリから来た先生だった。僕は、彼女同様、チリ人は優しいものと思っていた。ところが実際来てみると、この国であったチリ人は彼女とは反対だった。実を言うと、僕はチリの人が嫌いになりかかっていた。ホテルでもレストランでもチリの多くの人は、エクアドール同様、冷たかった。特に、サンチャゴで僕が泊まったPlaza Brazilのすぐ近くのLos Arcosというホテルはその極みだった。一泊25ドルも取りながら、従業員の客を客とも思わない横柄な程度に僕はずっと気分が悪かった。そんな経営状態が反映したのか、僕の滞在中に宿泊客がホテル内でお金を盗まれ、警官が三人調べに来たことがある。駐車場の問題さえなければすぐにも出たいと思っていた。ある日、31回目の海外旅行で初めて、受付のカウンターを叩いて文句を言った。さらに最後にホテルを出る朝、ベッピンだがカウンターを叩くほど腹の立った女がまた言った、「昨日の一泊分払ってもらってません」。「何イー!!!」。昨日の朝、客を無視して無駄話をしていたため、僕が払った25ドルの領収書も切らず記録も取らなかったからだと言いたかったが、あまりのショックの上に僕の貧しいスペイン語能力では残念ながら言えなかった。その上証拠はないし、既に僕の荷物を積み込んだタクシーの運転手が待っているし、その荷物を5階の部屋まで運び上げるため、エスペランティストのRicardoがアパートの外で待ってくれているので、怒りと絶望感の中で25ドルを払った。もしエスペランティストの二人、RicardoとDaniel、それにバイク修理工のRicardoに会っていなかったら、チリは最悪の印象を持った国になっていただろう。仏陀の心境どころか、チリではもう少しで人間不信に陥るところだった。
サンチャゴの南にはもう砂漠はなく、緑の田園地帯が広がっている。4車線のパンアメリカン・ハイウェーが、その中を遥か南まで伸びている。舗装状態が良いのと、パタゴニアには寒くなる前に着きたいので、僕は130kmのスピードでクルマを抜いて走る。一日400~500km走って緯度を一度ずつ上げていく。
パンアメリカン・ハイウェーの東にはアンデス山脈が平行に続いていて、アルゼンチンとの国境はアンデス山中に引かれている。サンチャゴから南のアンデスの西麓には温泉がたくさんある。僕はパンアメリカン・ハイウェーを300~400km走っては、東に向きを変え、また100kmほど走ってアンデス山麓の温泉に向かう。
Chillan温泉
Chillan温泉
最初の温泉は、Chillanの東南にあるTermas de Chillanだった。ガイドブックには温泉地のホテルは高いと書いていたので、Chillanの町の安宿に泊まって、翌日に温泉に行くことにしていた。チリで新たに入手した二冊目の2003年版の地図には、温泉までは全線舗装になっている。念のため何人かにも聞いたが間違いないという。ところがChillanの町から74km走った所で舗装道路が切れた。温泉まであと6kmという表示があった。信じ切っていただけにショックだった。でもここまで来てから引き返す訳にはいかない。エンデューロバイクには全く問題のないダートだが、BMWにとっては悪路だった。チリでは何もかもが高いが、温泉の入湯料も700円もした。日本とあまり変わらない。それだけに更衣室やシャワールームがきちんと設けられていた。浴槽は段々畑のように山の傾斜に沿って四つあり、上から2番目の浴槽が40度で一番熱いと聞いたのでそこへ入った。でも頼りないので、熱湯の噴出口の側に移動した。さすがにそこは少し離れないと熱かった。一人のオジさんが話しかけてきた。自分もバイクに乗っていると言う。ついでにさらに南にあって行くつもりの温泉について聞いてみた。道は完全舗装で近くには安宿もあると言う。大事な情報だ。空が曇ってきた。雨のダートを走るのは絶対に嫌なので少し早いが帰ることにした。更衣室にはロッカーがなかったので、ヘルメットからブーツまでみんな浴槽の側に置いていた。だから、その辺で着替えるため適当な場所を探していた。しかし身を隠す場所が見つからない。すると先程しゃべっていたオジさんが僕の荷物を見ていてやる、と浴槽の中から身振りで伝えてくれた。やっぱりライダーは優しい。
Claudio(左)と彼の仲間で宴会
二番目はTemucoの東南にあるPuconという所に向かった。Puconまであと50kmという所でBMWが暴走し出した。アクセルを戻してもスピードは落ちない。チェンジの切り替えも不能になった。僕は道端にバイクを止める適当な場所を捜しながら走った。しかし見つからない。向こうに脇道が見えたので、キルスイッチでエンジンを止め、そこにバイクを止めた。見ると、左側のエンジンのアクセル・ワイヤーが劣化していてアクセルが開いたまま戻らないのだ。二人の若者が僕を見に来た。近くにバイク屋はないかと聞くと、30km離れたVillarricaまで行けばあると言う。僕は左側のアクセル・ワイアーを外して右のエンジンだけで走ることにした。Villarricaで早速、バイクの修理屋を捜しバイクを持ち込んだ。バイク屋は劣化したワイヤーだけを見事に交換してくれた。費用は2,000円だった。ついでにインジェクターのガソリン供給量も調整してくれた。夕方の6時になっていた。バイク屋は、Puconの宿は高い上、土曜日なので混んでいると言った。そこで僕はVillarricaに宿を取ることにした。これが却ってよかった。PuconだけでなくVillarricaの近くにも温泉がある。しかしこの辺りの温泉へ行く道は全て未舗装路だ。それならわざわざPuconまで行くことはない。同じことだ。ホテルのElizabethは親切で愛想の良い女性だった。あちこち電話して、温泉行きのツアーを手配してくれた。僕はVillarricaの南東60kmのConaripeの温泉に行くことにした。その夜10時頃、夕食からホテルに帰ると、Elizabethが他の客が僕と話したいと言っていると伝えてくれた。サンチャゴから来た男4人のグループだった。一番年上のClaudioは43才でYAMAHAのV-Maxをはじめ日本のバイク数台を持っていると言った。僕達はホテルの炊事場で飲んでから、外のバーでまた飲んだ。寝たのは朝の4時半だった。
Conaripe温泉
Conaripe温泉
Conaripeの温泉は立派なホテルの中にある温泉だった。ここには浴槽が三つと水風呂が一つあって、一番熱い浴槽は41度で前日の温泉より一度高いだけだが十分気持ちの良い温度だった。僕は浴槽の側で、スーパーで買っておいたVicunaの生ハムをチリ・ワインで食べたりして4時間半温泉に浸かった。それなのに温泉を発つ前に、吐いた。ホテルに帰ったのは夜の9時前だった。この日はClaudioから、炊事場で作る夕食に招待されていた。この日は新しい仲間が三人増え、昨夜同様、Elizabethも加わった。夕食が始まってしばらくすると深夜の12時になった。一人がテーブルを立ち、Claudioに「44才の誕生日、おめでとう」といって抱擁を交わした。そのあと次々と彼に続いてClaudioと抱擁した。僕は日本人で、そんなことをしたことがないので、したかったができなかった。宴会は何時果てるとも知れなかった。僕は2時に退席して床に付いた。最後はOsornoという町から東、アルゼンチンの国境手前20kmにあるPuyehoe温泉に行った。僕はPuyehoeも先の二つの温泉同様、小さな町だと思っていた。しかしPuyehoe温泉は山の中に一軒だけあるホテルだった。見るからに高そうなのでホテルの受付で、「ここは僕には関係のない場所だと思いますが、いくらですか?」と聞いた。答えの55ドルに僕は悩んだ。3km戻った所に同じ経営のホテルがあって、そこは35ドルでここの温泉は無料で入れると教えてくれたが、僕は迷った。バイクの調子は悪いし、夕刻も近い。小雨も降り出した。それに皮ジャン、皮パン、ヘルメット、ブーツで温泉に来て、また帰るのは大層だ。僕は受付の前でタバコを吸いながら考えた。「チリでは全てが高かった。それに今日はチリ最後の夜だ。お金がないわけではない。もうこの先、温泉がないかも知れない。今日は温泉に浸かって久しぶりに快適なホテルで寝てやろう」。ドルでも払えたが、チリのペソが余っているのでペソで払うことにした。高級なホテルなので言われる金額をそのまま払った。しかし部屋に入って考えてみると9,000円も払っている。55ドルは大体6,000円くらいだ。3,000円も余分に払っている。これはドルで払うべきだと思って受付へ戻った。受付の女は、もう処理済なのでできないと言い張る。こんな簡単なことがなぜできないのか、僕は信じられなかった。それで責任者と話がしたいと言った。責任者は簡単に認めてくれた。受付で男の従業員に理由を聞いた。外国人がドルで支払った場合にはかからないが、ペソでの支払いには19%の税金がかかると知らされた。概してチリの人は無愛想で冷たい。そしてホテルやレストランで接客する人の多くは女性だ。僕はチリで女嫌いになりかけている。
Puyehoe温泉のホテル
Puyehoe温泉
このホテルの温泉は、中南米では珍しく室内風呂だ。ちょっと日本のジャングル温泉の雰囲気だ。浴槽は三つあって一つは水風呂だ。熱い方の風呂の温度は昨日の浴槽と同じ41度だが、室内のせいか、さらに熱く感じる。5分も入っていると身体が温まって出たくなる。そして隣の37度の風呂に移動する。37度だといくらでも入っておれるが、そのうち熱い湯が恋しくなる。僕はこの移動を3時間半繰り返した。一泊55ドルの高級ホテルだけあって、設備が良く、バスタオルから浴衣まで用意されている。まるで日本の温泉にいるみたいで、55ドルは高いが納得できた。 翌日、バイクを止めて何回も吐いた。よく考えてみると、長時間温泉に浸かった後には、しばしば胃の調子が悪くなり、吐いている。日本の温泉にはよく、「10分以上の入浴は身体に良くないので、お控えください」と書かれている。旅に出てからストレスは皆無だ。それなのに、時々胃の調子が崩れ吐くことがある。ひょっとして温泉が原因なのかもしれない。そうであったとしても、僕はこの先も温泉を求め続けるつもりだ。