アンデス山中でゲリラを警戒する兵士達
Cucutaは、コロンビア側の国境の街だ。とうとうコロンビアに戻ってきた。ベネズエラ側の町San Antonio del Tachiraを朝の7時に起きて数キロ先の国境に向かった。コロンビアは一時間の時差があるのでまだ朝の6時だ。コロンビアにはゲリラが出没して、旅行者を襲うと言われているから早く国境を通過して200km先のBucaramangaの街まで行きたかったからだ。ベネズエラの国境は簡単に通過できた。コロンビアの国境事務所はそこに見えている。いよいよ最後の入国手続きだ。入国管理事務所では頼み込んで、二ヶ月の滞在許可をもらった。次ぎはバイクだ。20mほど離れた税関事務所に行った。しかし、事務所の戸には鍵が掛けられていて誰もいない。きょうは日曜日だが、国境は日曜日でも開いているはずだ。近くにいた警官に聞いてみた。何と、「きょうは、日曜日。明日、明日。コロンビア人はあまり働かないんだ」と言う。唖然としたが、仕方がないのでCucutaで一泊して、翌日市街にある税関事務所DIANに行くことにした。しかし、一つ良い情報が入った。警官にゲリラの情報を聞いてみたら、昼間の移動なら大丈夫だと言う。ベネズエラ側の町Tachiraのホテルでは、「バイクは危険で行けない」と言われたので心配していたが、ほっとした。CucutaからBucaramangaへは、しばらく走った後、カーブが連続した山道を駆け上る。峠は3,800mの高さだ。ずっと晴れていたのに頂上付近から曇り出した。道路は厚い雲の中に突入し、ほとんど前が見えない。黄色のセンターラインを頼りにトボトボ走る。悪いことに、下り道になって雨が降り出した。激しい雨だ。雨に打たれながら走る。しかし運良く雨は10分くらいで上がってくれた。道はどんどん下る。そしてまた晴れてきた。僕は地図を見てBucaramangaは山の中にあると思っていたのだが、深い谷の底にあった。
Giron
Bucaramangaは大きな街だ。7km離れた所にGironという小さな町がある。僕は大きな街は嫌いなのでここで泊まることにした。Gironは、植民地時代の町並みが残されている綺麗な町だ。石畳の道の両側には、オレンジ色の屋根に白壁の家が昔のままの姿で建ち並んでいる。家々の戸と窓は全て黒に塗られていて、白い壁と調和して美しい。クルマは少ないし、その上、歩道が高いのでクルマに跳ねられる心配もない。中南米の大都市では道路を渡るのはそれこそ命がけだが、このような田舎の町は心が落ち着く。それに犯罪もなく安全だ。この町は、高度が下がったので快適な暖かさだ。夜でも寒くはない。ホテルの近くの古い教会に面した広場は、ライトアップされて美しかった。僕はベンチに座り、旅の静かな喜びを噛み締めていた。
Giron
San Gil
San Gil
Gironの町をボゴタに向かって出ると、道はまた険しいアンデスを上る。ここからボゴタまでは山の尾根伝いの道で舗装状態も良く、バイクで走っていて本当に気持ちが良い。100km先に、また古い町がある。San Gilという町で、山の斜面にあって坂の多い町だ。この町の道路の石畳は大きく、本当に畳くらいの大きさなので走りやすい。Gironでは、家々の戸や窓は全て黒だったが、この町では緑も混ざってくる。この町から30kmほど北西にBaricharaという村がある。この村も坂だ。San Gilよりクルマも人も少なく、静かだ。戸や窓は全て緑に変わった。白壁に緑も美しい。坂道を上り詰めると展望台があると言うので行ってみた。白い川が流れる深い谷の向こうには、もう一つの高い山脈が続いている。緑の山の中腹には、Baricharaと同じくらいの大きさのオレンジの村が二つ見える。警官二人が一台のオフロード・バイクに乗ってやって来て、僕のBMWの横に停まった。
しかし調べに来たのではなく、珍しいからしゃべりに来たのだ。彼等は、「あの川を渡ってはいけない。ゲリラにバイクと持ち物を全て盗られる」と言った。川のこちら側は大丈夫だと言うので、さらに10km先のGuaneという村へ行ってみた。川に向かってその村まで下る。本当に小さな村だ。真昼間というのに、クルマはおろか人影さえ疎らだ。まるで数百年前から眠りつづけてきたような村だ。この村の戸や窓には緑に混ざって、茶色が入ってきた。石畳の道の石は小さく凸凹なので歩きづらい。こんな小さな村なのに、広場に面した所に少し洒落たレストランがあった。もちろん客は僕一人だ。僕は茹で玉子二つとコーヒー、ジュースの昼食を取った。
Barichara
Barichara
レストランの中庭のテーブルから誰もいない広場を見ていると、空気までが数百年前のものと思われた。僕はSan Gilで二泊して、さらに250km南下してコロンビアでは植民地の町として有名なVilla de Leyvaの町に向かった。この町はTunjaという都会から30km程度、首都のBogotaからも130kmくらいの近さなので訪れる観光客も多い。そして、Bucaramangaという都会に近いGiron同様、洗練された感じがする。町の中心には中南米の町に必ず見られる、教会を背後にした広場がある。しかし、この町の広場は少し変わっている。他の町の広場には必ず木が植えられベンチが置かれているのに、ここには何もない。人頭大の凸凹の石が敷き詰められているだけだ。
Guane
Villa de Leyva
Villa de Leyva
少しメキシコ・シティーのソカロのようだ。暑くないから木陰を作る木を植えなかったのだろうか。しかし、それはそれで開放感がある上に独特の美しさがある。この町の道路には同じ石を使われていて、バイクでは非常に走りにくいものの、芸術的な町の景観に趣を添えている。道路の両側の家々は、ここでも白壁で統一されている。その白壁に取り付けられた厚い木の立派な戸や道路に向かって突き出た緑のバルコニーには、現代建築にない重厚な美がある。この町も美しい。僕は、この美しいコロンビアでまたしばらく滞在するつもりだ。ベネズエラからコロンビアに入って、ブラジル同様女の人達の愛想が良くなった。物価も南米の国の中では安い方だ。この国で暮らすのも良いかもしれない。衣食住を考えると、「衣」は、もう成長することがないからそんなにたくさん要らないし、それにアンデスの山の上では暑くないので夏服は要らない。「食」は、夕食でも自分で作れば100円くらいで済む。カフェで朝食を食べても30円くらいだ。タバコも安いものは一箱50円で買える。それに「住」も安い。首都ボゴタでも安いところでは一ヶ月の家賃として一万円も出せば日本よりずっと大きな家に住める。問題は酒だ。南米の他の国では焼酎は、1リットル入ったもので安いものなら100円か200円、高くても300円出せば買えたが、コロンビアでは1000円近くする。日本では年々、年金の支給額が減額されてきて、ベビーブームの団塊の世代が受給する数年後には多分さらに減額され、借家だと年金だけで生活するのは非常に困難だ。しかしコロンビアに限らず、中南米の国ではゆったりと暮らせる。
コロンビアは美しい。アンデスは美しい。アメリカとカナダで美しいと思ったのは、ロッキー山脈だけだ。北から南下してくるとパンアメリカン・ハイウェーはニカラグアから平地に下り、パナマまでは暑いだけだった。それがコロンビアでは再び高度を上げ、アンデスの尾根伝いを走る。山道は変化があるのでバイクに乗っていて楽しい。アンデスを眺望しながらバイクを走らせるのは最高だ。南のエクアドールまでは山の中で涼しいが、ペルーに入るとすぐ砂漠だ。暑くなる。そこからは4,000kmに渡ってずっと海岸沿いの砂漠だ。道は真っ直ぐでスピードが出せるが、景色は単調だ。砂漠はチリの首都サンティアゴの近くまで続く。僕はサンティアゴの南からアンデスを東に横切りパタゴニアに入った。そこから南米大陸の南の端までは草も疎らな半砂漠だ。パタゴニアから北のアルゼンチンは大平原だった。それがウルグアイ、パラグアイと続いた。ずっと単調な景色だった。ブラジルにはブラジル高原があるが、山を上ってしまえば再び広大な平原で山は見えない。その後は北ブラジルからベネズエラまではジャングルで暑い。コロンビアで再びアンデスに戻ると、それまでの暑さが嘘のように涼しくなる。そしてその山中に美しい植民地時代の町や村が点在する。白壁で統一された昔のままの美しい村は、北メキシコのAlamosという小さな村以来だった。このような町や村には、世界遺産のキトやクスコにはない美しさと静けさがある。
僕は南北アメリカを3年3ヶ月旅した。日本には「可愛い子には旅をさせよ」という諺がある。旅は多くの哲学者や文学者を生み出してきた。仏陀はネパールで生まれたがインドに旅して悟りを開いた。ゲーテもイタリアまで旅をした。日本の旅人、松尾芭蕉は旅をしながら俳句を残した。僕には文学はよく分からない。しかし、旅に出ればひょっとして、仏陀の心境の一端でも垣間見ることができるのではないかと期待していた。だが、僕の脳みそは仏陀と比べてあまりにも小さかった。彼は大きな木の下で何年も思索に耽っていた。僕はバイクで走っていた。バイクから色々な景色は見たが、思索に欠けていた。だから仏陀に近づくことは、残念ながら一歩もできなかった。でも、僕はこの旅でエスペランティストをはじめとして多くの人に助けてもらった。僕はこの3年3ヵ月の旅を通じて人間の愛を見た。メキシコでは白昼、バイクに積んでいた荷物を盗まれた。アルゼンチンのブエノス・アイレスでは強盗に襲われた。警官にはいわれのない罰金を何回も取られた。しかしこれは例外で、殆どの人,特にラテン・アメリカの人は優しかった。次第に愛が消え索漠とした社会が形成されつつある日本から出て、ラテン・アメリカではまだ人間の愛で生き、死んでいこうとする人間が大勢いることを知って、僕はほっとした。僕には哲学者になるほどの能力はない。真・善・美も大事だろう。しかし、僕らの人生には愛も必要だ。僕はこの旅でそれを見た。それで十分だと思う。ラテン・アメリカの教育水準は低く、そのため確かに貧困だ。しかし僕は、愛のラテン・アメリカが好きだ。