(1)コスタ・リカへ入る
コスタ・リカはちょっと変わった国だ。この国は世界でも珍しく、軍隊を持っていない。平和な国だ。だから治安の悪い中米では安全と言われている。これもまた世界的に珍しく、売春が公認されている国でもある。アメリカナイズされた国でもある。アメリカの年金生活者や観光客が多いので、比較的に英語がよく通じる。その分ニカラグアやホンデュラスと比べると物価が2割ほど高い。でもメキシコよりも安いので、そんなに懐は痛まない。最近ではパソコンチップのIntelの工場もあるらしい。よく言われるのが美人の国だ。ラテンアメリカではCosta Ricaは、Colombia、Chiliと並んで美人の国3Cの一つだと言われている。安全な所に美人とくれば、なにもアメリカ人だけが来るわけではない。ヨーロッパからの観光客も多い。この国は、最近では豊かな自然を売りにしたエコ・ツアーによる観光産業も盛んだ。
コスタ・リカへの入国手続きは簡単で、二時間で終わった。しかし、ニカラグア側で舗装状態の良かった道が、コスタ・リカに入ると悪くなり穴ぼことパッチだらけで景色を見ている余裕はない。国境からLiberiaの町までの80kmは山だけで他には何もない。期待していた美人どころか、人影すら見えない。
コスタ・リカでは教会まで近代的
国境に近い人口4万人の町、Liberiaはメキシコ以南の国の町とは違って、歴史を感じないモダンな感じのする町だった。中米の町には必ずと言っていいほど、町の中心に広場があってその横には何百年の歴史を持つ古いカテドラルや教会があうはずなのだが、この町の教会はコンクリート造りのモダンなものなので、拍子抜けする感じだ。目抜き通りにはアメリカ式のファースト・フードの店も多い。どこの銀行でもカードが使える。アメリカ風のスーパーまである。僕が泊まっている教会に近い一泊660円の安ホテルのすぐ近くには、中華料理屋が向かい合わせに二軒ある。それだけではない。教会の周りをちょっと歩いただけで7軒もあった。エル・サルバドールの日本料理店の西井さんから、中国人がパナマ運河を建設後、大勢の人が北に流れたと聞いた。その人達の子孫なのだろうか。そんな中華料理屋の近くで音楽が聞こえてきた。行ってみたらバーだった。ビールを飲みながら店内を見ると、大きなテレビから音楽が流れている。久しぶりにカラオケだ。歌うのは無料だと言う。日本のようにはケチケチしていない。しかしだ、店の中を見てもベッピンはいない。ここは3Cのコスタ・リカではないのか? ホンデュラスのサンタ・バルバラの方が上だ。 コスタ・リカで物価が上がったと言っても、中米の物価は低い。ニカラグアの一ヶ月の全旅費は3万5千円くらいだった。資本家は世界の経済の不公平を利用してか、あるいは作り出してかは知らないが、それでお金を稼いでいる。僕は、その不公平を利用して長い安旅をしている。でも、僕の方は消極的なので罪が軽いように思いたい。コスタ・リカでは3ヶ月の滞在許可をもらった。首都のサン・ホセではBMWのタイヤ交換とエンジンオイル漏れの修理をするつもりだ。ホンデュラスと比べ、コスタ・リカの平均月収は約二倍だと聞いている。カナダで修理した時ほどの人件費はかからないだろう。
Liberiaの安宿では、アメリカ大陸の北端から南端まで自転車で走るイギリスの若い男に遭った。彼は途中で、カナダのカルガリーの女性がロス・アンゼルスから同じく自転車で南下していた時に、彼女とメキシコで遭ってそのまま一緒にコスタ・リカまで来たと言う。自転車だから、てっきり初めから一緒に出発したんだろうと思っていた。僕が今までカップルで旅行していると思っていた人達の中にも、彼等のように旅先で知り合って、その後一緒に旅を続けている人も多いのかもしれない。観光客が増えたニカラグアとコスタ・リカでは、そういうカップルとも多く遭った。羨ましい限りだ。それにしても、自転車で数えきれない山を越えていくのは大変だ。凄い人達だ。人間は今もなお偉大だと思う。
コスタ・リカは豊かな海岸と言う意味だ。それなら海岸を見なければならない。Liberiaから西に向かいTamarindoと呼ばれるビーチに行った。観光客が多いのでホテルの高いことを心配していたが、700円ちょっとのホテルがあった。ここで日本人サーファーの高田春男さんにあった。Tamarindoはサーファーにも有名らしい。海岸では凧で引っ張られてサーフィンをする若者もいる。ヨットのように操作すると、波がなくても何時間でも滑れるから良い。しかし、人のいない所へ行けばいいのに水泳客の多い所を縫って回る。危ない。彼等は人に見てもらえなければ滑れないのか?悲しくて寂しい人達だ。
南米の南端まで自転車で走る英国青年のNigelとカナダから来たShannon
オランダから来たAnna
Tamarindoでも海には入らず、ホテルでずっとメールを書いていた。そこに隣のオランダ女性のAnnaが通りがかり、「バックパッカーにもパソコンとはおもしろいですね」と話しかけてきた。夕食に出ようとしたら、部屋から出てきた彼女にまた会った。ワインをご馳走してくれた。彼女は6カ国後しゃべる。その能力もあって、Tamarindoではアメリカ系の不動産会社、Century 21で働いている。働きながら世界中を旅すると言う。僕の若い頃の夢だった。ある日、彼女の仕事が終わってから一緒に泳ぎに行った。彼女は水着を持って出勤し、仕事が終わるとすぐ前の海で泳ぐのが日課のようだ。贅沢な生活だ。海に入る前に彼女は、「泳ぐのは得意ですか?」と僕に聞いた。僕は大阪では泉南の漁師町に育った。夏になると毎日近所の浜で泳いでいた。でも大人になってからはスノーケルと足ビレを付けて潜るのが専門だ。長い間何も付けずに泳いだことはない。でも「ええ、昔は」と答えた。一緒に海に入ると、彼女の泳ぐのは僕より速い。1m75cmの贅肉のない長身だと、はやり泳ぐのも速いのか。どんどん引き離される。しかも、どうも遠泳になりそうだった。だから途中で僕は海岸に引き戻した。海岸から彼女を見ていた。3~4キロ先まで泳いで行く。とうとう姿が見えなくなった。無理して一緒に行かずによかった。間違いなく疲れた末に溺れ死んでいただろう。彼女も南米に向かっている。ホテルに住んでいるとみんな来てはすぐ去っていくので、友達が欲しいと言った。エスペラント語を20分ほど紹介した。ヨーロッパ語を6カ国語もしゃべるので、さすがに理解が速い。エスペラント語の?詞を想像しては、どんどん聞いてくる。これからエスペラント語を勉強すると言っていた。彼女ならすぐに上達するだろう。メールで連絡して南米で再会することを約束した。
今も火を吹くArenal火山
Tabaconの温泉の川
Tamarindoがあまりにも暑いので、山の湖の近くにある温泉に行くことにした。湖の北岸に沿って走る道路は交通量も少なく、湖に近づいたり離れて湖を見下ろしたりしながらのライディングは快適だった。高度が上がったので少し涼しくなり、長閑で美しい風景の中を気持ち良くBMWに揺られていた。ところが次第に舗装道路が荒れてきて、湖の中ほどまで来ると、間断的にダートに変わってしまった。地図では全線舗装道路になっているのに、「それはないやろ!」とブツブツ言いながらやっと湖の東の端に出た。そこでArenalといいう1633mの火山が全貌を現した。この山の頂上は雲でなかなか見ることができないらいしいが、悪路を乗り切った褒美なのか、頂上から上がる噴煙までくっきりと見えた。昼間だから煙しか見えないが、写真を見ると夜には溶岩が山頂から流れ落ちるのが写されている。1968年に爆発して80人ほどの人が死んだらしい。未だに熱い山だ。だからその山から山麓に涌き出てくる水も熱い。そこに温泉地があった。道路沿いに何ヶ所か見たが、一番安い7ドルの温泉に行った。それは谷を流れる温泉の川だった。信じられないほどの水量の温泉が木々の高い壁の間を、小さな滝まで作って流れ落ちている。こんな豪快な温泉は日本でも見たことがない。流れ落ちるほどに背ほどの高さの瀬が何段かある。その瀬の下にはコンクリートのベンチのようなものが造られているので、そこに座ると背中を温泉の流れが叩く。腰元に流れ落ちた温水は天然のジャクージ風呂を作っている。しかも湯温まで適温だ。自然が人間の力を借りずに勝手に造り出した最高の温泉だ。北米大陸をカナダから熱帯のコスタ・リカまで下りながら温泉に浸かってきたが、いつも日本の温泉を持って来たいと思っていた。しかしできることなら、この?泉だけは日本に持って帰りたい。アメリカナイズされて、もう一つ興味が湧かなかったコスタ・リカだが、来てみるとなかなかのものだ。
「ペンション田中」は首都サン・ホセの高級住宅街にある。
電話をすると首都サン・ホセのアメリカ大使館の近くだと言う。ところが僕の持っている地図やガイドブックにはアメリカ大使館が載っていなかった。10回近く道を尋ねてやっと辿り着いた。僕が生まれて初めて泊まる日本人宿の「ペンション田中」はサン・ホセの高級住宅地内にあった。近所にはこの国の大統領も住んでいる。ペンションの看板はかかっておらず「理美容室Tamae」の看板がある。原則的には知り合いしか泊めないらしい。すぐ近所の中華レストラン兼ホテルまで来て、そこで聞いてもわからなかったので、店の電話を借りて「ペンション田中」に電話した。数百メートルの距離を、主人の玉枝さんがタクシーで迎えに来てくれた。 サン・ホセにはグアテマラ以来なかったBMWの店がある。サン・ホセへ来た目的はバイクの点検・修理とエスペランティストに会うためだ。まずBMWの店を探し当てた。近所には安宿がないと言うので、安宿が集まる街の中心部まで戻った。どこにも駐車場がない。その時、前日に電話してバイクが停めれると聞いていた「ペンション田中」を思い出した。さらにバイク屋から遠ざかるが行くことにした。着けば狭い入り口には階段が3~4段あってとてもBMWは入れることはできない。ちょっと前にオフロードバイクに乗る日本人の女性ライダーが来て家の中に入れたと玉枝さんは言う。でも僕の腕では全く不可能だ。玉枝さんはすぐ、向かいにある台湾人の知人の家の駐車場を借りてくれた。 「ペンション田中」は、4月1日から一泊15ドル(再度変更される可能性はあるが)になるそうだが、今はまだ10ドルだ。サン・ホセでは安い。着くとすぐに、ジャグジー風呂があるから入ったらいいと言ってくれる。洗濯、散髪もタダだと言う。ますます10ドルは安い。髪のカットの合間を見て、もちろん日本食は作ってくれる。コーヒーは無料でいつでも飲み放題だ。温泉以外では長い間湯船に使っていない僕にとっては、お風呂は、しかもジャグジー風呂は思いもかけないことだった。最高だった。しばらく温泉は要らないとも思った。 「ペンション田中」は、実は本気で宿泊業をやっているわけではなく、空き部屋があるから泊めているだけの本当の民宿だ。パナマで二年の海外協力を終えて日本へ帰る途中の若い日本人女性が、僕が着く一時間ほど前にチェックインしていた。その他はコスタ・リカ大学の博士課程で勉強している石坂広樹さんという日本人青年がいるだけだ。かれは三ヶ月ここに下宿している。ここに泊まる客は誰も部屋に鍵をかけない。やはり日本人宿だ。旅をしていて鍵が要らないというのは、本当に楽で気持ちがいい。ここはホテルではなく、普通の家なのだ。それに部屋には大きな学習机と、テレビまである。冷蔵庫ももちろん使わせてもらえる。家の中では靴も脱いで裸足になった。部屋の中も廊下も床は全て綺麗なタイルが貼られているので、裸足の方が気持ちがいい。ここには日本大使をはじめとして多くの日本人が散髪に来る。彼等が置いていった日本の本がたくさんある。僕は「中央公論」、「文藝春秋」、「正論」、「週間朝日」等に書かれているイラクや北朝鮮のニュースを読み漁っている。本当に日本に帰ったような感じだ。
美容室とペンションを一人で切り盛りする玉枝さんは、樺太で育った。8才の時敗戦になり、引き上げ船で日本に帰って来た。近所のロシア人とは涙の別れだった。樺太から途中まではロシア船だったが、ロシアの船員から親切にしてもらったと言う。日本に帰ってからは大分県で理美容師をしていた。20才の時結婚を申し込まれたが、仕事をはじめ他にすることが多いので付き合えないと言うと、その相手は農業技術協力するため船でアメリカに渡った。三年後帰国した彼と結婚した。後には千葉県の船橋で理美容院を二軒も持つようになった。そして今から27年前彼女が37才の時、夫の発案でコスタ・リカにやって来た。日本からの移住者としては最初だった。着いてすぐ、首都サン・ホセの近くのNaranjoという町にコーヒー園を買った。それでもまだまとまったお金を持っていた。しかしそのお金はその後、全て他人に騙し取られた。裁判で争った。相手側が権力を使って玉枝さん一家をコスタ・リカから強制送還しようと画策したこともあったが、Naranjoの市長が玉枝さん一家を名誉市民にすることによって守ってくれた。その後しばらくして彼女の夫は病死する。知らない国での子供を抱えての苦労は、想像するだけでも大変だっただろうと思う。
玉枝さんには二人の息子さんと一人の娘さんがいる。彼女は、子供が17才になると自立させるため彼等を家から出すようにした。やはり最初はみんな日本へ行き、その後はアメリカへ渡った。だから子供は全員三ヶ国語をしゃべれる。長男は日本で理美容師をしていて、ちょうど明日、栃木県に店を出すことになっている。次男の誠吾さんは、東京の青山で板前修業をした腕を活かして、このペンションの片隅に日本料理店を出していた。店の前にはアメリカや日本の大使をはじめとした高級車がズラリと並び多いに繁盛していたが、近くのレストランが次々と強盗に襲われたので、三年前に店を閉めた。今は他の日本料理店で働いている。娘さんは納豆まで食べるイタリア人と結婚し、二人の間には三ヶ月の子供がいる。長い間の苦労がやっと実を結んだといった感じだ。
玉枝さん
64才になる玉枝さんは、今でも週6日、朝の7時から夜の7時、時には9時まで立ちっぱなしで髪をカットしている。そろそろ引退を考える年齢だ。健康保険付きの年金が、あと一年半で入る。娘さん夫婦がサン・ホセの郊外に土地を買った。娘さん夫婦の家の隣に彼女も自分の家を建てる計画だ。今、家の設計に夢を広げている。日本の建築方式を取り入れた上で、池のある中庭に露天風呂まで造る計画だ。完成した折には見たいものだ。また彼女は忙しい中、趣味で籠を作ったり絵を描いたりしてきた。これからは習字を始めるらしい。つい最近アメリカの知り合いから送られてきた大きな封筒を開けると、中に筆が4本入っていた。長時間の労働の後でもまだ有り余る彼女のエネルギーは、さらに言葉の勉強にも彼女を駆り立てている。孫のためにイタリア語、英語、それにスペイン語の勉強をこれから始めるそうだ。三カ国語の教科書はもう既に買ってある。イタリア語と英語はわからないことはない。しかし、27年間もスペイン語の国に生きてきて、なぜいまさらスペイン語の勉強ですかと聞くと、孫のためには正しいスペイン語をしゃべる必要があるという答えが返ってきた。彼女の目は輝いていた。元気な人だ。?細・緻密で、かつ気取らずサパサパした人だ。日本とラテンアメリカのいい所ばかりを身に付けてきたように見える。これからは少しずつ仕事を減らし、優しい子供や孫に囲まれて余暇時間を自分の内面の理美容に当てるのだろう。これからは国内旅行をするつもりだと言う。平均的な日本人の老後よりずっと恵まれていると思う。27年前のコスタ・リカへの移住は正しかったと思う。既に日当たりのいい墓地を買ってあるらしい。
去年の8月9日にホンデュラスでエスペランティストに会って以来、7ヶ月以上もエスペラント語をしゃべっていなかった。コスタ・リカではエスペランティストと会うよう、ホンデュラスで会えなかったElmerに紹介してもらっていたGuidoとAntonioと以前から連絡を取っていた。いよいよコスタ・リカに入る前にまたメールを送った。するとFloritaという知らない女性からもエスペラント語のメールが届いた。短いメールだったが、「友達になりたい」という言葉が新鮮だった。
首都のサン・ホセに着いて早速GuidoとAntonioに電話した。泊まっていた日本人宿「ペンション田中」の名刺を見て、彼らに連絡先の電話番号を伝えた。しかし、彼らから電話が来ない。エスペランティストと言えども、やっぱりラテン・アメリカの人達は約束を守らないのかと少し疑いを持った。夜になって「ペンション田中」の女主人玉枝さんが、僕宛のファックスが届いていると見せてくれた。朝の11時と11時半に打たれたファックスだった。それで分かった。名刺の電話番号は古いもので、今はファックス番号に変わっていた。やはりエスペランティストは信用できる。
翌日の土曜日、朝の10時半頃Guidoがペンションまでクルマで迎えに来てくれた。二人で20kmほど離れたカルタゴの彼の職場に向かった。着いたところはこの国に四つある国立大学の一つコスタ・リカ工業大学(Instituto Tecnolo'gico de Costa Ricano)だった。彼は、実はこの大学で機械工学を教える教授だったのだ。30年ほど前に当時のソ連の大学に7年間留学したことがある。家が貧しかったので、高校卒業後全て無料のソ連留学を決めたらしい。彼は留学時に結婚したロシア人の奥さん、それに男の子供たちとサン・ホセの大きな家に暮らしている。奥さんも工学系の教授だ。彼の教授室のドアーには日本語も入ったエスペラント語のステッカーが貼られていた。彼はコスタ・リカのエスペラント連盟の会長でもある。 カルタゴのその大学でパソコンを使っていた息子さんを乗せて、僕たちは市内のある家に向かった。目指す家の前で小学生くらいの女の子を5~6人連れた男の人に会った。Guidoの知り合いらしい。彼もエスペラント語をしゃべった。女の子三人も少しエスペラント語がわかる。彼はCarlosと言った。実は彼とは前夜電話でしゃべっている。Guidoの家に電話した時に彼が出たのだ。カルタゴから150キロほど東南の町San Isidroからチェスの試合に出る女の子達を連れて来ていたのだ。彼とはSan Isidroで再開する約束をした。
Antonioと妻のAlejandra
夕方ペンションに帰るとAntonioから電話があったと告げられた。すぐに電話をすると、30分後に来ると言う。彼は6時半に、奥さんのAlejandraを連れてペンションにやって来た。Antonioは30才過ぎだろうか。でも大学で言語学を教える教授だ。若い奥さんは、僕がバイクで旅をしていると聞いて、二日後の月曜日にまたペンションに来て改めてインタビューをしたいと言って帰った。二日後のインタビューは奥さんのスペイン語の質問をAntonioがエスペラント語に変えて、僕もエスペラント語で答えた。どうも新聞社か雑誌社に投稿するつもりらしい。もし載れば、ひょっとして僕はコスタ・リカで有名になるかもしれない。 修理に出していたBMWが返ってきたので、10日滞在したサン・ホセを出て、Floritaに会うためまたカルタゴに向かった。カルタゴにはホテルが少ない上、駐車場がない。Floritaに電話しても留守のままだ。仕方がないので20kmほど離れたOrosiという温泉のある小さな町に移った。そこの温泉は生温いだけの冷泉でがっかりだった。OrosiからもFloritaに電話した。合計8回したが結局最後まで連絡は取れなかった。彼女の抱擁が楽しみだったが、元来たカルタゴの町を寂しく素通りし、Carlosの住むSan Isidroに向かうことにした。
カルタゴを出るとすぐに、パン・アメリカン・ハイウェイは高い山を登り始める。どんどん登る。山の上は濃い霧がかかって前がよく見えない。気温も下がる、久しぶりに皮ジャンを着、グリップ・ヒータをオンにした。それでも寒いくらいだ。その筈だ。一番高い峠の高度は3,491mもある。富士山の頂上に近い。険しい山を降りると、そこがSan Isidroだ。
San Isidroで再会したCarlosは病院で設備の維持管理の仕事をしている。彼もGuido同様、ソ連に7年間留学した。1972年のことで、Guidoより2年早かったそうだ。彼の話によると2000人くらいのコスタ・リカ人がソ連に留学したそうだ。コスタ・リカではGuidoの奥さん以外に二人のソ連人女性に会った。崩壊前のソ連はコスタ・リカとも深い関係を持っていたのだ。彼は仕事が終わってからも、若者にスポーツを教えたり近所の集会に出たりと忙しい人だ。だから顔が広い。一緒に街を歩いていると、ひっきりなしに知り合いに会ってなかなか前へ進めない。よく他人の面倒をみる人だ。僕にもエスペランティストを無料で家に泊めてくれるエスペランティストの住所を纏めた"Pasporta Servo"という本を持ってきてくれたり、当地のエスペランティストを紹介してくれた。その一人がLuisだ。
Luisは48才で、高校で簿記を教えていたが今は僕同様、失業中だ。彼もコスタ・リカで会ったエスペランティスト同様、酒とタバコはやらない。ある日、僕がインターネット・カフェにいると彼が僕を探しに自転車でやって来た。その後僕たちは映画を観に行った。僕が言い出したので、入場料は僕が払った。007の映画だった。大きな映画館に観客は僕たち二人を含めてわずか四人だった。映画館がどんどん無くなる筈だ。映画が終わってバーに行った。バーの客の女はベッピンばかりだ。San Isidroで初めて、コスタ・リカがColombia、Chiliと並ぶラテン・アメリカの美人産出国3Cの国の一つだということを確認した。軽い食事に加え、僕はビールの小瓶二本、彼はジュース二杯を飲んだ。勘定は僕が払うつもりだった。でも彼が払うと言って聞かない。失業中でもラテン・アメリカの男はプライドが高いのだ。ありがたくご馳走になった。 CarlosはManuelという、もう一人のエスペランティストを紹介してくれた。Luisと住民登録事務所に勤めているの彼を勤務中に訪ねた。彼は忙しい中、国境に向かってさらに60kmほど行ったブエノス・アイレスという小さな街に住むOlgaという女性エスペランティストの電話番号を教えてくれた。 それでブエノス・アイレスへ行くことにした。出発の前日に三ヶ月ぶりの雨を見た。出発の日の朝も雨が降っていた。中米もそろそろ雨季なのだろうか? 様子を見ていたが、昼前に雨が上がったので出ることにした。
Carlos(右)とLuis
住民登録事務所に勤めるOlga(左)
ブエノス・アイレスでは、月曜日の朝11時過ぎにOlgaの職場に電話した。彼女もManuel同様、住民登録事務所に勤めている。昼休み時間に三菱のMonteroという四駆でホテルに来てくれた。彼女はまだ若いが、少し太り気味の女性だった。コスタ・リカは中米では白人が多い国だが、原住民も12%いる。そしてブエノス・アイレスの付近では五つのインディオ語が話されていて、彼女はBribri語を話しCa'becar語も少し分かる。彼女はもちろんスペイン語もしゃべるので、スペイン語をしゃべれない原住民にとっては貴重な存在だ。ところで、この町に着く少し手前でブーツの踵がなくなっているのに気付いた。高い踵がなくなったので非常に歩きづらい。修理が必要だ。ホームページも更新する必要がある。ホテルで聞くと、この町にはインターネット・カフェがないという。しかし、彼女は一軒だけあるインターネット・カフェを知っていて、クルマで送ってくれた。おまけに看板のあがっていない靴の修理屋まで連れて行ってくれた。インターネット・カフェの方は閉まっていた。ホテルの電話も使えないので、この町ではインターネットへのアクセスはまず無理だ。 Buenos Airesを出て国境の町に向かう前日、ちょっと気になったのでディスクに書かれた日本のホームページの観光VISA情報をもう一度見た。やはりVisaが必要だと書かれている。パナマ大使館か領事館の電話番号をガイドグックで調べたが載っていない。ここから国境までは人口1万人のSan Vitoという小さな町があるだけだ。とても領事館があるとは思えない。これは大変だ。ひょっとしたら、また3,491mの峠を超えて首都のサン・ホセまで戻らなければならない。時刻は午後の3時。4時まではOlgaの事務所は開いている。彼女に助けを求めた。彼女は仕事柄、こういうことの理解は速いし、情報網を持っている。方々に電話してくれて、明日僕が行く予定の、国境に近いSan Vitoの町にパナマ領事館はあるが、日本人にはVisaが不要でツーリスト・カードを国境でもらえばそれで入国できるという情報を得てくれた。大助かりだ。Olgaがいなければサン・ホセまで戻るところだった。サン・ホセでは10日間何もせず日本の雑誌を読み耽ってはBMWの修理を待っていて、VISAのことはすっかり忘れていた。こんなことでエスペランティストの世話になるとは考えていなかった。エスペランティストはやはり特別で、頼りになる。エスペラント語をやっていて良かったと思った。
安心した後で、VISAのような大事なことをなぜ首都で処理しなかったのか、もう一度思い起こしてみた。そして3ヶ月半前の12月の初めに、先に南米へ行った岩渕研哉んからパナマへの入国にはVISAが不要ということを聞いていたことを思い出した。僕は、自分でも呆れるほど馬鹿だ。ホンマに情けない。先が思いやられる。でもここは、VISAを取りにサン・ホセまで戻らなかっただけでもましだと思っておこう。