ギアナ高地
ベネズエラの国境は、アマゾン流域の低地からギアナ高地を上り詰めたところにある。1,000mほど上るので空気が涼しくなり気持ちがいい。それに道路が良くなり、穴ぼこを気にせず周囲の景色を楽しめる。雄大な高原だ。久しぶりの快適なツーリングだ。国境の町Santa Elenaから50~60km走ると右手のGuyanaとの国境沿いにRoraima山が見えてくる。ギアナ高地には"Tepui"と呼ばれる頂上の平らな山が100ほどあるが、特にこの辺りには多く、Roraima山もその一つである。さらにしばらく走ると今度は左手に山高帽のような形をした山が見えてくる。地図の位置からすると、おそらく落差が1,000mに近い世界一高い滝、エンゼル・フォールズのある山だ。この滝に通じる道はなく、滝を見るためには飛行機に乗らなければならない。快適な高原も北へ200kmほど走ると終わり、道路は山を下る。草原がまたジャングルに変わり、暑くなる。Santa Elenaから300km走ったところにはじめて町らしい町El Doradoがあった。「黄金郷」という名前も良い。僕はここに泊まることにした。小さな町なのでホテルはすぐに見つかった。大きな駐車場のある二階建てのホテルだった。二階の部屋には空調があるが、僕は荷物を運び上げるのが嫌なので扇風機だけの一階の部屋にした。一泊440円の安さだった。部屋は薄汚く、トイレには水道がなくポリタンクに色の着いた水が用意されていた。だから大便は辛抱し、顔を洗い歯を磨くのには飲料水を使った。それに少し気になることがあった。駐車場の片隅にはテーブルがいくつも置かれて、そこで男たちがビールを飲んでいる。彼等は夜遅くまで飲んでいた。
ギアナ高地を北へ下ると道はジャングルの中を走る。
ブラジルを出る前に、ベネズエラは泥棒が多いので、特にバイクには気をつけるように言われていた。そのとおりになった。Santa Elenaでは、バイクのハンドルに付けていた、漢字で書かれたコンパスを盗まれた。コンパスを盗まれたのは、この旅で初めてだ。幸いスペアーを持っていたので大した被害にはならなかった。それもあって、El Doradoの駐車場の酔っ払いは気になっていた。幸い朝起きてもバイクは部屋の前にあった。しかし走り出すと、バイクが少し左右に振れて不安定だ。両輪のタイヤの空気が少ない。酔っ払いに抜かれたのに違いない。ジャングルの道にはバイクを停める所がない。それにチューブレス・タイヤに釘なんかが刺さっている時にバイクを停めると、空気は完全に抜けてしまう。僕はスピードを落とし次ぎの町まで走った。ガソリン・スタンドで空気を入れようとバイクを停めたら、前輪の空気は完全に抜けた。そしてタイヤには穴が開いていた。空気圧が低過ぎたので本当にパンクしたのだ。運が悪いことに、ガソリン・スタンドのコンプレッサーは故障していた。1kmほど先にパンクの修理屋があると聞いた。僕はタイヤが車輪から外れはしないかと恐る恐る走った。この旅でパンクは初めてだった。オリノコ川はベネズエラとブラジル国境付近から流れ始め、ギアナ高地を囲むように半円を描きながらベネズエラの中央部に出た後、東に向かい大西洋に流れ出る。ギアナ高地から北のオリノコ川に近づくに連れ、次第にジャングルは消える。河口の大デルタの入口にCiudad Guayanaという、初めて大きな町が現れる。ベネズエラで石油が出るのはこのデルタ地帯と、西の端のマラカイボ湖の辺りだ。ベネズエラは産油国なのでガソリンが安い。極端に安い。ハイオクで1リットルが4.3円、ノーマルなら3円ほどだ。ブラジルは80円ほどしたので一日に500km走った時などは、ガソリン代だけで2,500円ほど払った。しかもブラジルのガソリンにはアルコール燃料が混ぜられているという噂で、そのためかエンジンの調子が悪かった。それがベネズエラではガソリン代は極めて無料に近く、質も良いので燃費も良くなった上、BMWは力強さを取り戻した。150kmくらい毎に給油したが、ガソリン・スタンドで支払うお金は40円くらいだった。従業員の給料はどこから出るのか心配になったくらいだ。ベネズエラの道路が良いのは多くが有料道路になっているためだろう。しかしこの国でもバイクからはお金を取らない。オリノコ川を渡る橋で一度だけ払ったことがある。何と、2.2円だった。
ベネズエラはバイクで旅をするのにはお金がかからず良い国なのだが、一つ困ったことがあった。銀行のATMで銀行カードやクレジットカードが使えないのだ。いくつかの銀行で試みた。英語のメニューのある銀行は少ない。応答はスペイン語だ。その応答が呆れるほど速い。1秒と待ってくれない。半分も読めない内に、処理が中断されてしまう。ある銀行では暗証番号を入れないままどんどん処理が進んでいった。そして最後の最後に「ダメです」という答えが返ってきた。これに似たことはラテン・アメリカでは日常よく起こる。しかしコンピュータまでもなのか! 僕は、「これらのプログラムの設計者を出せ」と怒鳴りたかった。それで銀行は諦めて両替屋でドルを交換した。公定レートは1ドル1,920ボリバールだが、両替屋は2,500くれる。カードが使えないので、却って僕は得をした。
この国のコンピュータに関しては、銀行のプログラムがおかしいだけではなかった。Santa Elenaのインターネット・カフェでメールを送ろうとしたら1通を送るのに数分かかった。その後、音声データに関する4MB程度のフリーソフトをダウンロードしようとしたら、何と96分かかった。短気な人はこの国を旅行できない。
Ciudad Bolivarの四つ星ホテル
銃を持ったホテルのガードマン
Ciudad Guayanaには早く着いたので、オリノコ川沿いに100kmほど西のCiudad Bolivarまで行くことにした。Ciudad Bolivarは、南米をスペインから独立させたSimon Bolivarの名前を取ったオリノコ川沿いの街だ。僕はこの街に住む人にギアナ高原で遭って、セントロには駐車場のある安宿はないが、少し離れた所に駐車場のある新しいホテルができていることを聞いていた。着いたホテルは立派なホテルで、受付の女の人は二日前にオープンした四つ星ホテルだと言った。一泊1,500円と言うのでいつもどおり値切ったがダメだった。日が落ちてから夕食に出ようと門を出た。門には三人のガードマンがいて、みんな40cmほどの長さの鉄砲を提げていた。治安は悪そうだ。その一人が、「この辺りは危険だから歩いてはいけない。昼間でも身包み剥がれる」と言った。このホテルには既に大きなプールができているが、レストランはまだ建設中だ。僕は電話で中華料理を注文してもらって部屋で食べた。出前の中華料理は高い上に不味かった。注文したビールも来なかった。電話代だと言って65円も取られた。ガソリンが15リットルも買えるではないか! それに四つ星ホテルと言っても、一歩も外出できないとなるとまるで刑務所ではないか。ベネズエラの安宿やレストランの値段は、ブラジルと変わらない。しかしホテルの部屋には机と椅子、電話、冷蔵庫、それに灰皿がなくなった。ブラジルと違って、この国のレストランではタバコが吸えるようになったのに、灰皿がないのは気に入らない。それよりも同じ値段というのに、ブラジルのホテルでは必ず出されたあの豪華な朝食までなくなった。レストランの食事からも、ブラジルのバイキング形式が消え、一品の注文になった。ブラジルが恋しい。
さらに悪いことには、ホテル、レストラン、それにその辺の店に働く女の人が、ブラジルに比べ無愛想になった。エクアドールやチリまではひどくないが、女の人の半数から笑みが消えた。中には怒っているように見える女もいる。ますますブラジルが恋しい。
僕は、カリブ海に面する首都カラカスの方向に向かった。しかしカラカスの治安が悪いと言われているのでカラカスには寄らず、その西150kmのValenciaに行った。エスペランティストが待っているからだ。ベネズエラに入ってからはだいたい二晩泊まっては移動を繰り返してきたが、Valenciaでは5泊した。エスペランティストのPaulは、ベネズエラにも悪徳警官がいると言っていた。
Valenciaではいよいよ山が見えてきた。アンデス山脈の北の端だ。さらに西に進むと山は高くなる。アンデス山脈は南からコロンビアに入ると三つに分岐する。一番東の山脈はベネズエラに入ってマラカイボ湖を挟み、さらに二つに分岐する。湖の東側の山脈はMerida山脈と呼ばれている。僕は、とうとうまたアンデスに戻ってきた。
Valenciaを出てゴルフ場の中にあるよな気持ちのいい田舎の道を走っていた。途中の小さな町に着く度に警官が検問をしている。何回も停められずに無事通過できた。また検問だ。僕は、「またか、きっとこの国も日本同様、こうした税金泥棒が国を滅ぼすのだろう」と思いながら検問に近づいた。すると今度は止められた。パスポート、運転免許証、バイクの許可証、登録書を見た後、医療カードがないと言い出した。いよいよタカリだ。別の警官が、「ドルを持っているか」と訊いた。僕は、「日本は円を使っているのでドルは持っていないがベネズエラのお金なら持っている」と嘘をついて財布を見せてやった。埒があかないと思ったのか、もう一人の警官が、「昼飯代が要る」とずばり言ってきた。こんな警官に拘わっていると碌なことはない。僕は「いくらですか?」と訊いた。警官は「5,000ボリバール(220円)」と言った。確か5,000ボリバール札は持っていたはずだが、一番先に10,000ボリバール札が見えた。ぐずぐずして警官にさらに高額の紙幣を見られるのが嫌なので、そのままそれを渡した。警官にお金を巻き上げられたのは、コロンビアとアルゼンチン以来だ。
翌日気を取り直して、アンデスのカーブのきつい山道を一気に3,550m上り詰めた。峠を少し下ると谷間に美しい村があって、背後の山頂には天文台があった。もうここは寒いので皮ジャンを着てグリップ・ヒータのスイッチを入れる。さらに山を下っていくと高い山に挟まれた細長い谷が現れる。そこにMeridaという街がある。Meridaはベネズエラでは珍しい観光の街だ。観光客が多いのでホテルやレストランも安い。僕はEl Doradoと同じ440円で泊まったが、このホテルの部屋は広く、もちろん水は出た。この街には世界最長で最高のロープウェーがある。標高1,577mのMeridaの街から4,765mのEspejo山頂まで12.6kmのロープウェーが架けられている。
またアンデスに戻ってきた。
アンデスの美しい村。中央の山の頂上に天文台がある。
世界最長で最高のロープウェーからMeridaの町を見下ろす。
4,765mのEspejo山頂
料金は頂上までの往復が1,850円だ。途中、三つの駅で乗り換える。二つ目の駅から曇りだし、そこからは厚い雲になった。ロープウェーが山頂に着いた時、子供の歓声が上がった。山に雪を見たからだ。山頂は息苦しく寒かった。Meridaからコロンビアに入る道路は、一旦山を下りマラカイボ湖の南の低地に出る。また暑くなる。しばらく走るとまた山を上り出した。ホテルを出る時は快晴だったのに、にわか雨にあった。山の中を50kmほど走ると谷間に大きな街があり、道はそこまで下る。この街からコロンビアとの国境の町San Antonio del Tachiraまでは30kmほどあって、また山を上る。上り詰めると再びダラダラと下り始める。僕はTachiraで一泊して、早朝に国境を超えるつもりでいた。Meridaの夜は涼しくぐっすり眠れた。Tachiraでも涼しい夜を迎えたい。山を下り切るとまた暑くなるので、早くTachiraの町が現れないかと思いながら走っていた。しかし、国境の町は山の下にあった。また暑い。国境を越えると道路はすぐにアンデスの上まで上る。ブラジルのサンパウロ辺りからずっと暑かった。これからは逆に寒くなる。僕はわずか18日でベネズエラを走り抜けた。コロンビアを出たのは11ヶ月前だ。僕は南米を一周し、またアンデスへ、コロンビアへの国境まで戻ってきた。
ベネズエラのValenciaに住むエスペランティストPaul Gonçalvesは、21才の大学生だ。大学で語学を専攻している。彼は、僕がまだパタゴニアのウシュアイアにいる2月25日に、ホームページを見てメールをくれた。ベネズエラで会う唯一のエスペランティストだ。あれからベネズエラへ来るまでちょうど半年かかったが、Valenciaで僕を待ってくれていた。
Valenciaは首都カラカスの西150kmほどの所にある人口200万の都市だ。ブラジルとの国境から1,300kmを走って9月2日に着いた。暑いのでホテルに着いてすぐシャワーを浴び、ビールを飲んだ。それから彼に電話した。彼は40分後に母親の白いFordに乗ってホテルへ来てくれた。会って、彼の背の高いのに驚いた。1m90cmもある。
彼は、早速近くの温泉に行こうと言った。僕のホームページを読んで、僕が温泉の好きなことを知っていたのだ。僕はベネズエラに温泉があるとは知らなかったので嬉しい驚きだった。温泉は大きなホテルの中にあった。ホテルに泊まらなくても220円払えば誰でも入れる。大きな敷地に湯槽五つほどと、プールがある。ここは暑いのでプールの方が良いと思う人もいるからだろう。温泉の一つは泥湯だ。入浴客は体に泥を擦りこんでいる。周囲を木々で囲まれた温泉は緑かかった湯で、いかにも自然に涌き出たと感じだ。ここの温泉は都会が近く交通の便もいいためか、あるいはベネズエラには温泉が少ないためか、中南米の温泉では珍しく湯槽や湯槽の周囲は入浴客で溢れていた。ただ一つ、誰も入っていない湯槽がある。足を浸けると最初は痛いほど熱かった。しかし僕は体を沈めた。良い湯だ。しかし外にいても汗ばむくらいの気温なので温泉のありがたさが半減する。
Valenciaの近くにある温泉
PaulとLisette
ホテルには夕方の6時半に戻った。Paulはドイツ語のクラスに行って、また8時半に迎えに来てくれた。今度は青のFordだ。それに運転席に若い綺麗な女性がいる。なんと彼女もエスペランティストだと言う。彼女の名前はLisetteで、大学生で電気工学を専攻している。実は、Paulも少し前まで電気工学を専攻していて、彼女は同級生だったらしい。Paulは2年半電気工学を勉強したが、語学の方がおもしろいので大学を変えたのだ。彼女は、僕達をプールやサッカー場のあるメンバーズ・クラブに連れていってくれた。僕達は、敷地内を散歩した後クラブ・ハウスのレストランへ行った。しばらくするとAndresが来た。Andresもエスペランティストだ。彼は大学で英語、スペイン語、それに日本語を教える教授だ。Paulに日本語を教えたこともある。奥さんは中国人の2世で中国語を話すので、彼は中国語もできる。そして奥さんは漢字が書けないのに、彼は2,500もの漢字が書けると言う。僕は最近ワープロばかり使っているので、もう2,500の漢字は書けないかもしれない。いずれにしても、外国人でそんなに多くの漢字が書けるというのは驚きだ。Valenciaには四人のエスペランティストがいる。もう一人は、現在ヨーロッパを旅行中だ。僕はValenciaに着いたその日に、この街の全てのエスペランティストの歓迎を受けた。翌朝、約束の8時きっかりにLisetteが彼女のクルマでPaulと一緒にホテルに来てくれた。ベネズエラの典型的な朝食を食べさせてくれると言うのだ。僕は食べ物にはあまり興味がないので、海の幸以外はメニューにあっても調べはしない。それでこの三年三ヵ月、朝食はパンばかりを食べてきた。彼等のお陰で、土地の人が朝食にどんなものを食べているのか初めて知った。
僕はベネズエラでは二つのことを知りたいと思っていた。一つはこの国で僕のBMWを売ることが可能なのかどうか、もう一つはベネズエラから日本までの航空券の値段だ。コロンビアは中古車の輸入を禁止している。僕はコロンビアに帰ってもBMWを登録することも売ることもできない。南隣のエクアドールでは入国時した時にパスポートにバイクのことを記載されたので売ることはできない。それでベネズエラでの売却については、すでに半年前PaulがメールでTumotoというバイク屋のホームページを教えてくれていた。Tumotoという名前なら、日本人だ。それでベネズエラに着けば直接店に行っていろいろ聞こうと思っていた。しかし、ベネズエラに入国した時、この国でもパスポートにバイクの記載がなされた。それでこの国でのバイクの売却は不可能になった。残るは航空券だ。コロンビアの航空券は南米一高いと聞いている。僕のガイドブックによるとベネズエラが一番安いと書かれている。本当にそうで、コロンビアとの価格差が大きい場合、僕は日本へ帰る時ベネズエラから飛行機に乗るつもりだ。PaulとLisetteは、僕を旅行代理店に連れていってくれた。1,500ドルだった。Paulは帰国直前の値段は、メールするとまたその代理店で聞いてくれると言ってくれた。エスペランティストの友達がいるといろいろと便利だ。
Bolivarがスペイン軍を破ったCaraboboの古戦場
三日目、Paulは朝の9時にホテルへ来て、Valenciaの25km南西にあるCaraboboの古戦場へ連れていってくれた。11才になる弟のFelipeも一緒だった。着くと偶然、大きな記念碑の前で、バッキンガム宮殿等でも行われる衛兵交代式が始まったところだった。ここは南米の英雄Simon Bolivarが初めてスペイン軍を破った所だ。1921年、Simon Bolivarはこの地で一万の兵を率いて一万二千のスペイン軍と戦った。彼には125人のイギリスからの援軍もあったが、数では劣っていた。しかし戦闘はわずか1時間でBolivarの勝利に終わった。1時間だが4,000人が死んだ。Bolivar側の死んだ兵士の中には男に変装していた女性も混じっていた。埋葬する時に判ったらしい。この戦いで勝利したBolivarは3年でコロンビア、エクアドール、ペルー、ボリビアと矢継ぎ早に解放していく。ボリビアの国名は彼の名前に由来している。ベネズエラに入ってValenciaまでずっと田舎の町を通ってきた。田舎なのでインターネット・カフェはなかった。唯一の都会Ciudad Bolivarではセントロから少し離れたホテルに泊まり、治安が悪いので昼でもホテルから外へ出ることができなかった。それで国境のSanta Elena以外はインターネットにアクセスできず、メールの送受信もできなかった。しかしPaulの家にはパソコンがあってインターネットと接続されていた。しかもLANが敷かれていたので、インターネット・カフェ同様、僕のパソコンも簡単に接続できた。Santa Elenaでは信じられないほど通信速度が遅く、4MB程度のフリーソフトをダウンロードするのに96分もかかった。同じベネズエラだが、Paulの家の回線速度は非常に速かった。それでホームページの更新もあっという間に終わった。僕は二日間彼の家でインターネットに接続した。そしてPaulの家では喫煙すら許してくれた。インターネットを終えた後、Paulとその父親のLuiz、それに友達のMiguelとともにドミノというゲームをした。このゲームはアマゾンの船上なされているのを毎日見たが、僕は初めてだった。マージャンと同じ四人で行うゲームで、マージャンの牌に似たものを使って遊ぶ。しかしマージャンとは違って二人一組で勝敗を競う。僕と父親のLuizは同じ組で、Luizは僕らの組をSamuraiと命名した。そしてSamuraiは勝利した。奥さんは優しい人で、僕達がドミノをしている間、食べ物やビールを出してくれた。また、PaulとLuizはビンゴへも連れていってくれた。Buenos Airesの日本人宿でどんなものか話には聞いていたが、初めて見た。
Paulが語学を学ぶ大学
大学で旅を語る
Valenciaの五日目、月曜日は忙しい一日になった。Paulは僕の紹介文書を書いた上で、自分の大学、新聞社、テレビ局と連絡を取って、僕がこの旅についてしゃべれるよう手配してくれていたのだ。Paulは約束の朝8時ちょうどにホテルに迎えに来てくれた。この日は僕は彼のクルマに乗らず、BMWに跨った。大学は30分ほど離れた山の麓にあった。この大学は私立で英語、フランス語、ドイツ語、それに日本語の講座を持っている。この国の国立大学の授業料は無料だ。Paulはその無料の大学の電気工学を中退して、この私立大学に入り直した。エスペランティストはPaulだけだ。日本語も専攻する学生は一人か二人しかいない。アルゼンチンのNeuquenの高校ではスペイン語でしゃべったが、ここは語学の大学、みんな英語が分かるというので英語でしゃべることにした。クラスが終わってから大学長と副学長に会い、それから僕達は軽い昼食を済ましテレビ局に向かった。NC-TVという公営のテレビだ。僕はインタビューは英語で行われると聞いていた。しかし女のアナウンサーはスペイン語で質問し出した。だから僕も下手なスペイン語で答えた。いくつかの質問は聞き取れなかった。それをPaulはエスペラント語に直してくれた。次ぎは新聞だ。僕はまたBMWに跨った。大きなビルを持った"El Carabobeño"という新聞社だった。ここでもスペイン語だった。でもテレビと違ってカメラが回っていないので楽だった。
ブラジルのFortalezaのテレビ"Motorcycle News"の収録ビデオは大学生のHilbernonがコロンビアに帰ったら送ってくれることになっている。Valenciaの新聞記事等はPaulが送ってくれる。南米一周の旅も一年4ヶ月を過ぎ、そろそろ終わろうとしている。この間、多くのエスペランティストに会った。コロンビア、アルゼンチン、ブラジル、ベネズエラではエスペランティストに学校や大学でしゃべれる機会を与えてもらった。また、コロンビアを除く残りの三カ国で新聞、ラジオ、テレビとのインタビューを持てたのもエスペランティストのお陰だ。それだけではない。エスペランティストを通じて、僕には普通の旅行者では味わえない楽しい思い出がたくさん残った。
NC-TVのインタビュー
"El Carabobeño"新聞社の前で写真撮影