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七年前にメキシコをツーリングした時は、有料道路以外の道路は穴ぼこだらけだった印象をもっているが、旅行者が持つこうした不満がメキシコ政府に届いたのか、道路は良くなっていた。今回は有料道路はほとんど使わず、しかもマヤの遺跡へ行く時には田舎道も走ったが、道路から穴ぼこは消えていた。そして、大きな都市を一歩出ると交通量も少ないので、非常に走りやすい。さらにメキシコでは冬から初夏まではバイクの天敵の雨は降らない。ツーリングには持って来いの国だ。 道路には乗用車は少なく、バスやトラックが多い。アメリカやカナダで多かったキャンピング・カーは全く見ない。バイクは街中を宅急便が走っているが、バイクで旅行している者はいない。メキシコ中で僕だけではないかとすら思えてくる。バイク旅行者は珍しいので、すれ違うクルマや沿道の人達から声援が飛んでくる。僕はまるでオリンピックのマラソン選手のような気分だ。街中でも信号がないところが多いくらいだから、一歩、町を出ると遠く離れた次ぎの町まで、もちろん信号はない。だから、100キロや110キロで走れる。

漁村の道

バイクタクシーの道

しかし、これが危ないのだ。メキシコでは信号の代わりにトペスと呼ばれる障害物が道路に横たわっている。これは人為的に道路に造られたコブで、ちょうど丸太を半分に切って道路に置いたような格好のものだ。100キロの速度でこれに乗り上げると、おそらくバイクは吹っ飛んでいくと思う。町や村の入り口には、必ずこのトペスが道路に横たわっている。ここではクルマもほとんど停止状態まで速度を落とすので、そこに住む人達のためには信号よりも確実で安全だ。少々強引だが、人間優先の考え方がはっきり出ていておもしろい。たいていは100mや200m前に、「トペス有り」の標識が出ているが、時には警告なしに、家もなく予想もできないところに置かれていることがあるので、あわてて急ブレーキを踏むこともある。一度、全く人家のない所を70キロくらいで走っていて連続した二つのトペスに突っ込んでしまった。転倒は免れたものの、ハードプラスティック製のサドルバッグのステーが乗り上げた衝撃で折れてしまった。だから、メキシコでは道路ばかり見つめていて、景色を楽しむ余裕はない。また、このトペス、中には背の高いのもあって、車体の低いBMWのエンジン部分にガシャンと当たることがある。それが必要以上に、これでもかこれでもかと並べられると、いくら人間優先の崇高な思想とは言え、頭に来ることがある。「なんで、こんなとこに要るねん!」、「なんで、こんなに高くせんとアカンねん!」とヘルメットの中で一人つぶやく。

トペスもクルマの流れを完全に止めてくれるが、停車から駐車にまで及ぶのは、おそらく州が変わる毎に設けられている軍の検問だ。カリフォルニアの南のティファナからユカタン半島のカンクンまでの間は、毎日のように検問に捕まった。大抵は「どこから来てどこへ行くのか」と「バッグの中身は?」の質問に答えるとすぐ通してくれるが、バッグを開けさせられたことが何回かあった。こちらは何も怪しいものは持っていないので大丈夫だとは思うが、何しろ相手は迷彩服に長い銃を持っているので決して気持ちはよくない。この検問、メキシコの南に行くにしたがって頻繁になる。メキシコ人に聞くと、この当たりには麻薬が多いのが原因らしい。 この他に交通の妨害をするのは人間だけではない。道端にはロバや馬それに牛などがいてハラッとすることがある。でも道路上に死骸を一匹も見なかった。オーストラリアではクルマに跳ねられた無数のカンガルー、時には牛の死骸が道路上に放置されて悪臭を放っていた。メキシコではこれらの動物による交通事故がないのか、あるいはすぐに片付けるのか、それはわからない。注意が必要なのは道路上ばかりではない。道路横の密林から小型のカラスみたいな鳥が飛び出してきて、ウィンドシールとバックミラーの間に挟まり、10秒間ほどバイクで運んでやったことがある。間近で見るその鳥の顔は異様で怖かった。

自転車タクシーの道

ジャングルの道

海辺の道

このように、本来はもっと速く走れるメキシコの道路だが、種々の妨害があるのでなかなか進まない。アメリカとカナダの一日平均走行距離は500kmだったが、メキシコでは半分の250kmにまで落ちてしまった。 メキシコの道路は良くなったと言えども、アメリカやカナダで走った道と比べるとやはり舗装状態はよくない。そのアメリカでもバイクの振動でウィンドシールドのステーが折れたので溶接してもらった。メキシコに入って、カリフォルニア湾の東岸をカリフォルニア半島の先端くらいまで走った石畳の町で、左右のステーが二本とも折れてしまった。オアハカへ来る途中のガタガタの山道で、一度修理したサイドバッグのステーがまた折れた。 こんな道路をメキシコのドライバーは疾走する。僕はメキシコではトペスのない直線道路で、通常は90~100、舗装状態の良いところでは時々110キロで走っていた。しかしメキシコでは調子の悪いクルマ以外はみんな、あっと言う間に我がR1100Rを抜き去っていく。それに、アメリカやカナダではクルマはみんな、「そこまでやりますか」と言うほど慎重で、安全運転に心がけていたが、メキシコの交通マナーの悪さは日本以上だ。だから当然交通事故が多い。道端には至る所に墓が建てられていて、そこに花が添えられていた。特に急カーブのところに多かった。シエラマードレ山脈の一番高い所にあるカーブでは大きなトラックが横転していた。でもこのトラックは崖から落ちなかっただけ幸運だ。カリフォルニア州沿いの険しい岩山の山頂では、カーブを曲がりきれなかった乗用車が少なくても10台ほど、深い谷に落ちてスクラップ場のように積み重なっていた。このカーブで今まで何人死んだんだろうか。そこには例の墓が特に多かった。だから僕は、日本からライディング用の皮ジャンと皮パンを持ってきた。しかし、それもユカタン半島で盗られてしまった。

馬も行く街の道

石畳の道

こうした交通事故を減らすために、道にはパトカーや白バイがいるはずだ。それを何を勘違いしたのか、日本には罰金を取るためだと思っている警官が多い。メキシコも同じだ。ただしメキシコの場合、罰金はそのまま警官の小遣いになるという噂がある。7年前のツーリングではメキシコシティーで一日に3回も、4回も警官に停められた。でも罰金は取られず、許してくれた。今回はメキシコでの滞在が半年近くになるが、一回停められただけで、結局罰金は免れた。この点、日本の警官は決して許してくれない。僕は可愛いところがあるメキシコの警官の方がずっと好きだ。ユカタン半島のカンクンとメリダでは、コンピュータ屋さんを探して街中をトロトロとバイクで走っていた。メキシコでは、場所を探すのに最低5人に道を尋ねる必要がある。多数決で決めるのだが、それでも見つからないことが多い。トロトロ走っているところへ白バイが追いついてきた。ドキッとした。しかし二つの街の二人の警官とも、親しげに話し掛けてきて、「それなら俺について来い」と言って先導してくれた。店を探しながら走っていれば事故の元だ。だから、これらの警官は立派に仕事をしていたということになる。警官に限らず、メ?シコの公務員の給料は不当に安いとみんなが言う。でもみんなの顔の表情は明るい。 カンクンやメリダに限らず、メキシコの街のほとんどでは一方通行になっている。カナダのモントリオールで初めて一方通行に出会った時にはうろたえた。しかしメキシコで一方通行に慣れてくると、却ってこの方が走り易い。でも、メキシコの市街地の道路上には路上駐車のクルマが所かまわずズラリと並ぶ。メキシコ人はアナーキスティックだから、ホテルの入り口の前にも平気で駐車する。ある時は三人がかりでクルマを少しだけ移動させ、バイクをホテルの中庭に入れたこともある。入れるのはいいけれど、ホテルを出る時が大変だ。別のホテルではとうとう玄関からは諦めて、裏部屋の廊下を通って脱出した。その路上駐車、メリダで気付いたのだが、夜になると一斉に路上から消える。この国は白昼堂々、群集の目前で僕のバイクに積んだ荷物を強奪するほどの泥棒の国だ。深夜の路上駐車は論外だ。

尾根の道

アカプルコのエスペランティスト、Luisの奥さんのBerthaから、家の電気代が10年間で10倍に値上がりしたと聞いた。気が付かなかったが、ガソリン代も毎月値上がりしているらしい。確かに7年前と比べて倍ほどの値段まで値上がりしていて、世界でも最も高い国の一つの日本とあまり変わらない。でも、メキシコは世界有数の石油産出国だ。その理由を何回もメキシコ人に聞いた。みんな政府の失政が原因だと言った。 メキシコの有料道路は日本並みに高い。今回の旅でアメリカとカナダで払った有料道路料金はサンフランシスコの橋を渡るのに払った50セントか1ドルだけだ。メキシコへ入ってからしばらく有料道路を走ってしまった。メキシコはアメリカやカナダと比べて全てが安い。旅をしていると宿泊費と食事代は避けられない。メキシコでは、安宿は700円から2000円、安食堂では300円から400円で食べられるから、そんなにお金がかからないはずだ。それなのに旅費はそんなに下がっていないことに途中で気が付いた。それは毎日気を止めずに払っていた高い有料道路代とガソリン代のせいだった。有料道路は、大抵の場合平行して一般道路が走っているので避けることができるが、ガソリンは不可避だ。僕もメキシコ政府の失政を恨む。 メキシコはトペスとガソリンの値上がりさえなかったとしたら、バイク・ツーリングに最高の国だ。

(2)トオル流メキシコの旅のスタイル

アメリカのサンフランシスコの北から旅を始めて10ヶ月半を過ぎた。この間に、ナイアガラの滝のあるバッファロー、ユカタン半島のカンペチェ、メキシコシティー近くのクエルナバカで三回、日本の若者と遭った。日本の若者はもうみんな死んでしまっていると思っていたのに、彼らの眼はギラギラと輝いていた。短い期間とは言え、彼らも旅人になっていた。僕の若い頃と同じだ。だから一瞥しただけで彼らの心境がわかる。彼らはすぐに日本に帰るんだが、心を白紙にして世界を見て回る若者がまだいるということは、ひょっとして日本はもうしばらく大丈夫なのかもしれない。おそらく、旅人は、あるいは旅をしようとする者は世代を超えて、時代を超えて、いつもそこにいて、そして同じなのかもしれない。彼らはみんなガイドブックの「地球の歩き方」を持っていた。「地球の歩き方」も昔と比べると随分良くなった。でも、"Lonely Planet" と比べると、まだ雲泥の差があるので僕はそれを使っている。だから今まで、このような素晴らしい日本の若者と遭うことが少なかった。「地球の歩き方」も何とか手に入れたいものだ。

今までで、一般家庭に留めてもらったのは7回だ。初めの三回は、サンフランシスコの少し北にあるLohnert Parkのマイケルの家、モントリオール近くのKatiの両親の家、ダラスのTiffanyのアパートで、三人とも日本で知り合った昔からの友達だ。アメリカではその後二回カリフォルニアで、旅で知り合った人たちの家にそれぞれ一泊させてもらった。PlacervilleのBaker夫妻とサンフランシスコのBMWライダーMichael Berghoferの自宅だ。メキシコではベラクルスのBillyとアカプルコのエスペランティストLuisの家の二ヶ所だ。その他は、アメリカやカナダではキャンプ場にテントを張って寝たこともあるが、メキシコに入ってからはずっとホテルだ。

メキシコのホテルで目覚めるとまず一番、タバコを一本吸って目を覚ます。一応顔を洗う。移動のない日は、ここでパソコンにスイッチを入れ、まず音楽を流す。イヤーホーンで聴くが、 SONYの最新型は迫力満点だ。朝はクラッシクがいい。しかし、移動の日は、パソコンは防水・防振ケースに入れバックパックに、また周辺機器は防水サック中に入れてメインバッグに収納し終わっているので、朝の音楽は諦める。朝食は、前の日に買っておいたパンをコーラかジュースで胃に流し込む。そうすると不思議と便意を催してくる。事後処理は、インドでは左手による水洗だが、メキシコは日本同様紙だ。しかし使用後の紙は排泄物と一緒に流してはいけない。必ず横に置かれている籠に入れなければならない。水洗便所の配管が詰まるからだと言われている。初めは抵抗を感じるが、慣れてくると水とともに流し去ることに深い罪悪感を感じるようになる。

移動のない日は、よくマヤの遺跡を見に行った。なるべく日曜日に行く。日曜日は入場料は無料なのだ。バッグや服が破れてきたりすると裁縫もする。それ以外は、たいてい音楽を聴き続けながらメール、旅日記、ホームページで夕方まで部屋に閉じ篭っている。だからロッキー山脈のキャンプ場以来、本は一行も読む暇はない。グアテマラに行ったら時間ができて読めるだろう。メールなどを書き終えると公衆電話屋かインターネット・カフェへ行く。公衆電話屋の市内通話料金は一分30円、インターネット・カフェは一時間が150円から250円が相場だ。とにかく安宿には部屋に電話がないのだ。またあったとしてもホテルには電話回線が一本しかないので、受けるだけでこちらからは滅多にかけさせてくれないので同じことだ。受付で交渉して繋いでもらうにしても、彼らはそんなことをしたことがないので。なかなかスムースにはいかない。移動のない日はこの他に、本来はバイクのメンテナンスが必要となるところだが、BMWはメンテナンス・フリーだから助かる。

それはともかく、出発の日の朝は当然ながら忙しい。前の晩寝る前にパッキングしておいたメインバッグ、サブバッグ、それにタンクバックをバイクに積む。そしていよいよライディング用の鎧を纏う。安宿では灰皿がないので小さいのを買った。最後にその灰皿の吸殻を捨て、洗ってからパソコンの入ったバックパックのサイドポケットに入れる。これで出発準備は完了だ。そこでまた一服吸う。危険な旅に備えて気合を入れるために必要だ。

アメリカやカナダでは一日500kmくらい走ったが、メキシコでは道路にトペスのような障害があるので200~250kmだ。平均時速は大体50~60キロ、一日に4、5時間走る。一時間以上走ると町や村にバイクを停めて、ポケット灰皿を出して一服吸う。メキシコでは途中できれいな景色の場所があっても、道路横に駐輪できる場所がなかなかないからだ。時々二時間も町や村がなかったり、あっても適当な駐輪場所が見つからなかったりすることがある。これ以上ニコチンを切らすと集中力が欠けてきて非常に危険だ。タバコは脳が要求してくるので必要だが、昼食は胃が要求してこないので抜く。

でもバイクの昼食は抜くわけにはいかない。R1100Rの燃費についてはずっと記録を取っている。それでわかった。燃費が落ちてくるのはエンジンオイルの量が減っていたためだ。メキシコのガソリンスタンドは、アメリカやカナダと違ってセルフサービスではない。それのため、ガソリンを満タンにすると言っても人によって入れる量が違ってくる。エンジンオイルが十分あるときは、満タンの17リッターで300km以上は走る。オイルが減ってくると250kmくらいまで落ちてくることがわかった。でも、メキシコでは用心して150~200kmで給油することにしている。BMWは高級車なので、ガソリンも高いハイオクだ。目的地がこの範囲の所だとそのまま走って着いてから満タンにしてホテルに向かうが、それ以上になると大事を取って途中で給油する。メキシコのガソリンスタンドはほとんど全部がPEMEXで、アメリカやカナダのようにコンビニはない。だから給油が終わるとガソリンスタンドの隅にバイクを移動させ、生ぬるい、時によっては暖かいコーラをサブバッグから出して、タバコと一緒に胃に流し込む。

メキシコのガソリンスタンドはPEMEX

ホテルには2時か3時ころまでに着くようにしている。メキシコではモーテルは少ない。あってもほとんど全てが6時間、8時間の時間制限があって、朝までは眠れない。しかも高い。メキシコの旅の初めの頃、Culiacanという町で安ホテルが見つからず、教えてもらって初めてモーテルへ行った。何か時間のことを言っていたが、こちらがスペイン語が分からないので観念したんだろう、なぜか朝まで寝かしてくれた。ちょうど日本のラブホテルのような所だった。その後何回か行ったが、時間制限は確固としたもので、泊まったのはこの時だけだ。それでモーテルは止めてホテルに泊まる。安いホテルは700円からある。2000円を超えると泊まらないことにしている。町の郊外のホテルには、モーテルのように一回建てで駐車場のあるところもあるが、そういうところは回りにレストランも何もないことが多いので敬遠して、町の中心にあるソカロの近くの安ホテルに泊まることにしている。問題は駐車場だ。安宿で駐車場のあるところは極めて少ない。しかしメキシコのホテルには必ずパティオと呼ばれる中庭がある。

田舎の町ではソカロの近くでも、こんなモーテルみたいなホテルがある。

メキシコのホテルには、パティオと呼ばれる中庭がある。

バイクはクルマと違って、その中庭に駐輪できる。では全く問題がないのかと言えば、それが大いにある。メキシコの市街地にはたいてい歩道が設けられていて、車道との段差が大きい。中には一メートルの高さのものまである。歩道を斜めに削ってくれさえすれば済む話なんだが、ホテルはバイクのために設計されているわけではない。そしてソカロの近くの安宿の前の歩道は削られていないことが多い。オフロードバイクなら全く問題はないのだが、車高の低いBMWに、足が短く腕の良くないオジさんが乗っているんだから、歩道を乗り超えるのは不可能だ。だからいくら"Lonely Planet" が地図付きで安ホテルを紹介していてくれても、ホテル探しに時間を取られる。そしてやっとホテルを探し当てる。荷物が重いので、何としても一階の部屋が欲しいが、一階の部屋は二・三人用の部屋ばかりであることが多く、だから三割ほど高くなる。仕方がないから、重い荷物を二回に分けて二階、三階へと階段を昇る。 これだけでも重労働だ。ホテルにビールがあれば絶対に飲む。もちろん喉が乾いていることもあるが、気持ちの切替も必要だからだ。大汗をかくから部屋に入ると、まずシャワーを浴びる。メキシコの安宿では浴槽は完全に消え、シャワーだけだ。それもお湯が出ないホテルも多い。日本にいた頃は二日に一回くらいしか体を洗わなかったのに、旅に出てからはほとんど毎日シャワーを浴びている。だから今の僕は清潔過ぎるほどだ。メキシコの旅の前半は、シャワーを浴びながら足踏み洗濯をして洗車しておいたR1100Rに洗濯物を干した。しかし、後半からは町には洗濯屋さんがあって、一回350円くらいで洗濯してくれることがわかったので、洗濯労働からは開放されている。メキシコの安宿では部屋にバスタオル、石鹸、それにトイレットペーパーの三点セットが、ベッドやテーブルの上に置かれている。ない場合は受付に行ってもらう。ホテルによってはバスタオルは保証金を取るところもある。安宿にはしかし、シャンプーと髭剃りはない。だが日本から持ってきた180mlのシャンプーは7ヶ月もった。髭剃りの刃は、僕の髭は太くないので10ヶ月半を過ぎた今でもまだ切れている。

シャワーを浴び終わると、暑い土地では天井ファンを点ける。安宿にはエアコンはない。無事に着いたことことを神に感謝して一服吸ってから、近所の雑貨屋に翌日の朝食用にパンとコーラなんかを買出しに行く。150円から250円で売っている一リットルのメキシコ焼酎が切れかけていれば、ついでに買っておく。ただし、カナダやアメリカの一部の地方でもそうだったが、メキシコでは日曜日はアルコールの販売はほとんどの所で禁止されているので要注意だ。タバコも減ってくると、10箱1500円のものを20箱買い溜めしておく。飲料水を置いていないホテルの場合は、ペットボトルに入った水も焼酎の水割り用に買っておく。

メルカードと呼ばれる市場では、何でも売られている。しかも安い料理も食べられる。

これで翌日の朝食と夜の眠り薬の準備ができたが、昼食を抜いているので夕食まで抜くわけにはいかない。どこかで何かを買うか、近所のレストランで何かを食べる必要がある。メキシコで食料を買うと言ってもホテルのあるソカロ付近には、アメリカやカナダであったような出来合いの料理を置いているスーパーマーケットはない。鶏の丸焼き屋があれば、そこで半切れを300円くらいで買い、あわせて120円くらいの缶ビール一本も買ってホテルに戻る。しかし、鶏の丸焼きレストランがあればそこで夕食は済ます。タコスの屋台で中身の肉と玉ねぎをビールの肴にして済ますこともある。そうでなければ裏通りの安レストランに行くことになるのだが、安いメキシコ料理はメニューを見てもどんなものなのかさっぱりわからない。よくわからないスペイン語で聞いてもよけいにわからなくなるので、魚や海老があれば1000円ほどして高いが、生命を維持するためにそれを注文する。なければビーフステーキか、また鶏料理を注文する。とにかくビールさえあれば何とかなる。メキシコに入ってすぐ旅行者性下痢になったが、もう今は生野菜や生の海鮮料理を食べても大丈夫だ。人間の適応力は素晴らしい。 晩飯を食べ終えるとバーが恋しくなる。ホテルの近所を物色する。メキシコのバーのビールは全て小瓶だ。時には缶ビールも置いているが瓶の方が安い。一本が120円から150円だ。だから、日本の高いバーと違って気が楽だ。普通は一本か二本で切り上げてホテルへ帰る。バーが見つからない時は、近所で缶ビールを二本ほど買って帰ってホテルの部屋で飲む。 飲んでばかりはいられないので、パソコンを取り出して、また音楽を流す。安宿には当然ながらテレビはない。夜の音楽はジャズもいいが、やはり最後は高橋真梨子だ。聴きながら、最初に日記をつける。僕は昔からほとんど日記をつけたことがないが、この旅を始めてからつけ出した。そして、これからが仕事だ。ぼちぼちメキシコ焼酎を出してきて水で割る。ウォームアップのつもりで一口飲んで、移動の前日なら7年前のメキシコ・ツーリングの時に買った1992年製の地図と"Lonely Planet" を出して、次の日の行き先とホテルを調べる。そうでなければメールを書く。終われば旅日記を書き始める。この頃にはまず12時を回っている。きりのいいところまで書き終えると大抵2時、3時になっている。移動の前日なら、少し早めに切り上げて翌朝すぐにでも出発できるよう、荷物のパッキングを終えておく。

もうこの頃には焼酎の効果も少し出てきている。就寝準備OKだ。歯を磨く。普通サイズの歯磨きは半年以上もった。最後にコンタクトレンズを外し、真っ暗にすると夜中、小便で目が覚めた時その辺でつまずいて転んではいけないので、便所の電気は付けたままにしておく。ちょうど薄明かりになって都合がよい。便所のないホテルに何回か泊まったが、便所だけは欲しい。夜に少し冷える高地で飲みすぎると夜中に二、三回便所に行くことがある。夜中の暗い所でいちいち施錠するのは本当に面倒くさい。ベッドに横たわってもまだ高橋真梨子の余韻が残っているので、FMが入る大きな街ではSONYの超小型トランジスターラジオで仕上げの音楽をしばらく聴く。やっと一日が終わる。

ちなみにメキシコ旅行の一日の平均経費は、パソコンへの投資を除き、最初の二ヶ月は6,200円。今日時点で、後半の三ヶ月半は3,400円になっている。前半はカンクンでの出費が響いている。後半は計画していた金額どおりだ。旅行経費も体調も順調だ。もうすぐグアテマラだ。グアテマラに入ると所要経費は半額以下になるだろう。

(3)オアハカのエスペランティスト

オアハカの若い女性エスペランティストAuroraとは、一ヶ月ほど前に返事のメールをもらったまま、その後連絡がつかなかった。アカプルコのエスペランティストLuisの自宅を出る直前に、Luisに彼女の電話番号を訊いた。見つからなかったのでメキシコ・シティーのLeonoraに電話したら、彼女が調べてメールで送ってくれた。 平日は忙しいだろうから、オハハカにもメキシコ・シティー、アカプルコ同様週末に着くようにした。土曜日の夕方四時半頃にAuroraに電話した。やはり電話の声は若い。できればすぐに会いたいと言ったが、急な電話で、人と会う約束があるというので、その日はとうとう会えなかった。しかし、翌日の日曜日には、オアハカの郊外へスポーツに出かけるので一緒にどうかと誘われた。もちろん連れていってもらうことにした。

ロック・クライミングをするAuroraと婚約者のIgor

絶壁を登るAurora

日曜日の朝九時、Auroraは真っ赤なフォルクスワーゲンに乗ってホテルに迎えに来てくれた。黒髪で背の高い女性だ。クルマには弟のAlejandroも乗っている。彼もエスペランティストで、大学の医学生だ。クルマはAlejandroを叔母さんの家で降ろし、またオアハカの街中を走り出した。別の家に着くと、そこから若い男が出てきた。長いロープを提げている。Auroraから彼女の婚約者のIgorだと紹介された。メキシコ・シティーのLeonoraも婚約中だったが、残念ながら彼女もそうだ。三人を乗せたフォルクスワーゲンはどんどん郊外に向けて走り、どうとう岩山に続くダートの道に入り込んだ。彼女の言ったスポーツとは、ロッククライミングだったのだ。 岩山に着くと、もう既に10人ほどのロック・クライマーがいる。八時間ほど離れたメキシコ・シティーの方からも来るらしい。岩山の絶壁は90度に近いほど急で、しかも足や手で身体を支える窪みがほとんどない滑らかな壁だ。テレビでビルの外壁を登る人を見たことがあるが、それに近い。それどころか、90度を越えるオバーハングだってある。そこをIgorはロープを持って素早く登っていく。僕も岸壁の一番下の1cmくらいの窪みに指をかけてみた。とても登れるものではない。そこをAuroraも登っていく。生まれて初めてロック・クライミングを見た。人間業とは思えない。なるほど厳しいスポーツだ。

Leandroと彼の新居

新居の裏庭でバーベキュー。右からLeandro、婚約者のMaila、母親のAurora

ロッククライミングを終えてから、三人でAuroroの家に行った。母親のAuroraが迎えてくれた。母親も同じ名前だ。メキシコ・シティーのLeonora母娘もそうだったが、メキシコでは娘に母親と同じ名前を付けることが多いらしい。紛らわしくないのかと尋ねると、名前の語尾を少し変えるらしい。家に入ると長男のLeandroが出てきた。彼もまだ二十歳代の若いエスペランティストだから、この家には母と三人のエスペランティストの子供が暮らしていることになる。この三人、去年メキシコ・シティーで開かれた第五回全アメリカエスペラント大会の二次大会をオアハカで開いたくらいの熱心なエスペランティストだ。 Leandroも婚約している。母親の古いフォルクスワーゲンで婚約者のMailaのアパートへ行った。ディズニー映画“Love Bug”で大活躍したこのフォルクスワーゲンは、今でもメキシコの道路を我が物顔で走っている。メキシコで一番多いクルマだ。クルマの免許証がない僕にはそのクルマの性能はわからないが、半円形の形は個性的で非常に好きだ。LeandroはAuroraと同じオアハカの市役所で、都市計画のような部署で働いている。彼は建築家だ。来年の結婚に備え、オアハカ郊外に新居を建てている。建築がほぼ終わった新居で、母親と婚約者それに僕を加えてバーベキューをして食べようと言うのだ。新居は二人で暮らすには大き過ぎる広さだった。2000万円くらいと言っていたが、日本ではとてもこんな金額で手に入らない家だ。裏庭もあってそこで炭に火を付け肉を焼いた。美味しかった。

火曜日の初級エスペラント教室でLeticia母娘とともに

Auroraは毎週火曜日と木曜日に、市の中心部にある小さな美術館の一室を借りてエスペラントを教えている。彼女の平日の勤務時間は朝9時から午後2時まで、その後2時間休憩してから、また夕方4時から9時まで働く。エスペラントのクラスは6時からだ。勤務時間中だが、職場から許可をもらって教えているという。日本の役所もこれくらいの理解があってほしいものだと思う。日本では建物は建てても、一番大事な中身についてはあまり考えないようだ。悲しいことだ。 火曜日の初級エスペラント・クラスには、また二人ともLeticiaという同じ名前の母娘が待っていた。少し遅れて中級に席を置く中年の男性Abelも加わった。娘さんの方は、まだ中学生か高校生くらいだ。Auroraはできるかぎりエスペラント語をエスペラント語だけで教える方法を採っている。僕は自己紹介の後、今回の旅を中心に下手なエスペラント語でしゃべった。二人がわからないとみると、Auroraははっきりした美しいエスペラントで説明を繰り返した。いくらエスペラント語がスペイン語に似ているとは言え、エスペラント語を始めてまだ数ヶ月のこの二人の進歩の速さには驚いた。

木曜日の中級エスペラント教室。右からAurora、Gaby、Octavio

同じく木曜日の中級エスペラント教室。右からXitalli、Carlosと奥さんのRosa

同じく木曜日の中級エスペラント教室。右からAbel、Miguel、Guiomar

木曜日の中級クラスはもっと盛大だった。女性四人、男性四人の生徒が集まった。うち女性の三人と男性の一人はまだ若い学生だ。 Xitalliは17才、 Giomarは22才、Gabyは25才。三人とも美人だ。特にGabyは美しい女性の上に、大学で語学を専攻していて、独、仏、伊、英の言葉もできると言う。あと一人の若い男性Octavioの年齢は知らない。残る女性の一人Rosaも魅力的な女性だ。Carlosとは夫婦でクラスに参加している。エスペラント語を共に学ぶ夫婦は日本では見たことがない。いつもはあと三人加わって11人になるという。60人を超える会員がいるのに、毎週の例会には数人しか集まらない大阪エスペラント会からみると、羨ましい限りだ。しかも若者が多い。大阪エスペラント会は去年中学3年生の高橋君が加わってくれたものの、彼は例外中の例外で、大阪エスペラント会には残念ながら若い人がほとんどいない。この木曜日のクラスでも旅のことについてしゃべった。一時間ほどのクラスはあっという間に終わってしまった。もっともっとしゃべりたいと思った。

オアハカはメキシコ南部の古い町だ。そこに若いAuroraと二人の兄弟の活動的なエスペランティストがいて、Auroraが教えるクラスではさらに多くのエスペランティストが育とうとしている。高齢化が進む日本の、特に大阪エスペラント会の将来に一抹の不安を感じていた僕だが、オアハカに小さな希望を見、希望に燃える若者たち(エスペラント)に会った。