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2015年8月1日にコロンビアで唯一の友達であるHernan Patinoが弟とその子供達を連れて遊びに来てくれました。昔は自分の誕生日を忘れていることが多かったが、最近は、正月と8月1日の僕の誕生日には毎年、「コロンビア便り」を送っているので、必ず思い出します。コロンビアで数少ない友達の一人であるHernanは、8月1日には忘れることなく我が家に来てくれます。毎年クルマかバイクで首都のボゴタから来てくれるのです。一昨年は娘をバイクの後部座席に乗せて、娘の男友達はバスで、合計3人で来てくれました。クルマを売ったと聞いていたので、去年はバイクに違いないと思っていたのですが、なんとHernan、弟のArnoldo、彼の奥さんと娘がHernanの友達が運転するクルマで、Arnoldoの息子さんとその彼女がバイクで来てくれました。15時半頃でした。それから30分ほどして同じフサガスガに住む和合さんと息子さんが誕生祝に珈琲カップセットを持って来てくれました。Hernanからも焼酎等たくさんの祝い品を頂きました。
67歳の誕生日
50歳の誕生日
誕生パーティーは日本では一度だけしてもらったことがあります。50歳の誕生日にバイク仲間を中心に15名ほどでバイクやクルマを走らせ、紀伊半島和歌山の山奥で大いに飲みました。今でも良く覚えています。 この国では豪華な誕生パーティーは、普通です。去年の4月には妻のマリアの遠い親戚のおばさんの93歳の誕生パーティーに行きました。100人以上が集まりました。8月にはマリアの母親の弟の70歳の誕生祝、9月にはマリアの死んだ父親の弟が結婚50年の祝賀パーティーをボゴタで開きました。どのパーティーでも100人位は集まります。 そう、思い出しましたが僕が唯一大きなパーティーを持ったのは10年前の結婚式でした。100人強の人を招待しました。しかし僕の誕生パーティーは去年に限らず、この国の人の誕生パーティーと呼べないくらいの規模です。先にも書いたとおり、駆けつけてくれた人たちは運転手を除き、7人が楽器を演奏しながら歌ってくれました。Arnoldoはアコーデオンを持って歌う準プロです。僕は前日「コロンビア便り」に写真を張り付けるのにプログラムが変わっていて時間がかかり、徹夜になり少し疲れていたのですが、この日、皆で夜中の0時過ぎまでウイスキーを飲みながら楽しみました。大きなパーティーより、このくらいの規模の方が良いのかも知れません。
速いもので、僕も67歳になりました。マリアは僕より19歳年下なので、きっと僕の方が先にこの世からオサラバすることになると思います。そのため、何年か前の話ですが、少ない銀行預金とは言え彼女に残したいと思っていました。僕の銀行口座を二人用の口座に変えるだけの話だと思っていたのです。僕はシンガポールにも口座を持っていましたので、この銀行に電話しました。以外にも出来ないと言われました。それで一応、銀行口座に有効かどうかわかりませんが、遺言状を書きました。その後何年もそのままにしておいたのですが、ある時シンガポールの銀行に電話したついでに、このことについて聞きました。かつての担当者は日本人女性でしたが、日本語の上手なシンガポール女性に変わっていました。できると言います。変更手続きには半年以上もかかりましたが、去年の6月頃やっと終わりました。
日本の銀行についても同じ処理をしようと思いましたが、日本では共同名義口座は開けないと言われました。その内に解約してシンガポールの銀行に移そうと思っています。
銀行の件は解決しそうですが、僕の厚生年金をマリアに譲ることも必要です。マリアには僕が現在もらっている金額の4割程度しか譲渡できません。これでは生活できないので数年前からマリアにコロンビアの年金を掛け始めました。二つ合わせれば何とかやって行けるのではないかと思っています。
今受け取っている年金を僕の死後マリアに譲るための手続きについて、僕が務めていた大阪市役所に電話して聞きました。日本の戸籍謄本が必要だと言われました。戸籍謄本を交付してもらうには、郵便でもできますが、定額小為替と言うものを手に入れる必要があります。これは有効期間が6か月ですから、誰か日本人に送ってもらう必要があります。結論を言うと、戸籍謄本は誰か日本に住んでいる人しか取れないと言うことになります。僕の兄弟姉妹が生きている間に僕が死ねば、彼等の誰かが取ってくれると思いますが、みんな死んでしまえば難儀です。
困りました。ある夜、このことをベッドに入ってからも考えていたら、ふと大阪市役所は僕が死んだと言うことが確実なら、マリアに年金を移譲してくれるのではないかと思いつきました。それでコロンビアの日本大使館に電話して聞いたら、コロンビア政府が出した死亡証明書を取り寄せれば、それから日本大使館が日本語で死亡証明書を出してくれると聞きました。日本語の死亡証明書には僕の、姓名、性別、生年月日、戸籍、戸籍筆頭者、死亡年月日時分、死亡場所、死亡種別、死亡原因、立証書類の記入項目があって戸籍謄本よりもずっと詳細です。しかしこの場合、日本から僕が死亡したと言う戸籍謄本を入手していないので戸籍と戸籍筆頭者の蘭は空白になっている筈です。12月に大阪市役所から返事があり、コロンビアの死亡証明書でも良いと言う答えを頂きました。僕が死んでも年金の問題はマリアがコロンビアで全ての書類を入手できることになったので、安心して往生できます。
2015年9月2日、フサガスガの銀行から生活費を引き出そうとしました。いつも通り2,000円くらいの紙幣で、一日引き出し最高額の5万円ほどを自動紙幣入出力装置から引き出しました。ざっと枚数を数えてそのままズボンのポケットに入れて帰りました。家に帰って引き出したお金を数えてみたら28枚あるはずの2,000円相当紙幣が25枚しかなく3枚は800円相当紙幣でした。3,600円程度足りないのです。これが銀行で気付いておれば、一応行員に確認していた筈です。でもこの国では3,600円は返してくれないと思いますし、マリアも駄目と言っています。ましてや、2~3時間ほど後に家に帰ってからでは絶対に無理です。
こんなこと、日本では一度もなかったし、ある筈がないと思うのですが、余りのことに言葉を失いました。単に間違いでなく、だれか係員が交換して3,600円をポケットに入れたのかも知れません。この国では起こり得ることです。これからは枚数だけでなく紙幣の種類も見ながら確認する必要がありそうです。しかしあまり時間をかけると、自動紙幣入出力装置の外では何人も待っている場合もあるので、問題ですね。
9月19日の土曜日にボゴタのパーティーで飲み過ぎて生まれて初めて意識をなくしました。それから一週間続いた下痢が、抗生物質を生まれて初めて下剤止めのために飲んだら止まり、今度は便秘状態になりました。9月27日、それでまた少し酒を飲もうと思っていたら、20時45分にマリアがちょっと来いと言うので北の空が見える別室に入りました。今夜が中秋の名月であるのは、フサガスガの中華料理屋に注文していた豆腐を取りに行って19時半に帰ってきた時に見たので分かっていました。この国では空に雲がかかることが多く、ひと月に1日か2日しか美しい星空を見ることができません。しかしこの夜は雲一つない星空でした。そしてそこに美しい満月が輝いていました。日本では中秋の名月と言われる日だったのです。
マリアに呼ばれて別室から見た月は、左下の部分が少し欠けていました。満月の日に月食なのです。21時5分頃にもう一度見ると月は完全にかけていました。しかし想像していたようには月は真っ黒に消えずに、逆にはっきりと輝いているではないですか。しかもピンポン玉の様に3次元に輝いてそこに浮かんでいるのです。僕はマリアが飲んでいたビールを少し頂きました。月食の美しさに調子が出てきてライチ酒を飲み、そしたら調子が出てきて葡萄酒を飲みました。さらに酒に移りました。
僕の家は田舎にあるので、眼の前には団地の街灯があるだけで、星空に光る月しか見えません。月食ではその月が消えるものとばかり思っていましたが、明るい3次元に輝く球体として夜空に輝いていたのです。21時5分頃からピンポン玉に変化したこの日の月は、その後、月の光度が少し弱まり、21時50分頃には右下の部分が少し光るように見えてきました。22時10分には月の下の部分が光り上限の部分が少し欠けてきました。その5分後にはほぼ下弦の月に変化していました。さらに10分後、すなわち月が完全に地球に隠されてから1時間25分後には、月の右下部分だけに光が残りました。22時35分、円形の月は完全に消え、右下の細い弦だけが輝いていました。
23時には月は半月の状態まで戻り、23時10分には80%に戻りました。この月は普段我々が目にする月で、球形ではなく、表面にクレーターの黒点が並ぶ円形に見えています。23時25分には月食観察を終えました。
月食と言えば、僕は日食のように完全に月が消えると想像していました。しかし反対に球形の月が光っていたのです。僕は月食の日に2時間40分に及ぶ観察を楽しみました。
インターネットを見ると月食は日食と同じくらい見るのが難しいと書かれています。しかも晴天の夜が月に1~2回しかないフサガスガでは本当に難しいのです。これもコロンビアで時間に縛られずに暮らしているからです。しかも星空の見える田舎で暮らしているからです。日本にいたら決してできなかったと思います。
2005年に日本に帰った時に、漢字で書かれた掛け軸を買いました。その漢字が崩された書体で書かれているので半分位は読めず、ずっと気になっていました。しかしここは南米のコロンビア、聞く人がいないので諦めていたのです。ある日、2011年に帰国した時に買った書道の本が目に入りました。「書道三体字典」と「三体千字文」の2冊です。そうだ、ここに聞けば分かるかもしれないと思ってメールを書きました。幸い、「書道三体字典」の出版社、ナツメ出版企画の斉藤正幸さまから早速返事があり、「書道三体字典」の著者である書道家の片山耕花先生が書かれた楷書の字体のものが送られてきました。まさか本の著者からの返事が、しかも墨で書かれたものが送られてこようとは思ってもいなかったので、感激し興奮しました。 それで片山先生の書いてくれた書をコピーして、掛け軸と一緒に飾ることにしました。掛け軸の上の部分に余白があったので、そこに張り付けました。元の書は「幸岳」という人が書いていますが、今では片山先生の書体の方が気に入ってます。 予想だにしていなかった素晴らしい結末に、日本人の優しさが改めて思い知らされました。コロンビアではこんなことは期待できないと思います。日本、万歳!
日本で買った掛け軸
僕は週に2~3日位は健康のためマリアと近所を散歩しています。この辺りは余り良い散歩道がないのでいつも同じ道を歩いています。でもこの日は一年ぶりくらいでしょうか、いつもは舗装された道路を下の方に降りて行っていつもは右に曲がるのですが、もう少し真っ直ぐに進みました。その辺りは新しく開発された住宅街で、一年前にはまだ空き地が残っていたのですが、今では殆ど新築の家が建てられていました。
びっくりしたことに30~40㎝の小さい犬でしたが、僕の後ろから左足首に噛み付いてきたのです。すぐに振り払うと犬は離れました。ソックスとジーンズの上から噛まれたので、足には噛んだ後の傷跡が微かに残っていましたが出血もなく、そのまま1時間半ほど散歩を続けました。
この辺りの犬で、鎖など付けているのは殆ど見たことはありません。従って野良犬なのか飼い犬なのか分かりません。フサガスガの街中でも歩道に犬の糞がたくさん落ちています。とにかく犬に噛まれたのは生まれて初めてなので、家に帰ると噛まれた部分を水で洗い、消毒薬を塗りました。狂犬病が怖かったのです。狂犬病には薬がないと聞いていましたが、一応インターネットで調べました。インターネットは旅に出た14年半前と比べると進歩して、どんな記事でも乗っています。10種類くらいの記事を読みました。出血していなかったので大丈夫だと思いました。
この話を同じ街に住む和合さんにしました。彼も2~3年前に犬に噛まれたそうです。その犬は大きくて太腿を噛まれ出血したそうです。奥さんが看護婦で、すぐに消毒したので大事に至らなかったようです。インターネットの記事によると、毎年55,000人位の人が狂犬病で死んでいるそうです。噛まれれば、今まで5~6人の例外を除いて、ほぼ100%死ぬそうです。狂犬病の危険は犬ばかりではなく、猫や蝙蝠に噛まれても発病すると書かれています。これを読んで、僕がまだ小学生の頃、我が家で飼っていた猫を苛めていたら瞼を引っかかれたことを思い出しました。あの時は少し血が出ましたが、狂犬病の危険性など全く考えていませんでした。知識が増えることは、同時に心配も増えることかも知れませんよね。
10月25日にコロンビアの地方選挙が行われました。先に書いた和合さんからコロンビアの永住権を取れば地方選挙権が与えられると聞きました。僕は2010年に永住権をあたえられたので権利はある訳です。でも登録する必要があります。こちらの選挙発表は速くて、3か月ほど前から候補者の写真が街中に貼られていました。僕に選挙権があると聞いて登録に行ったのは8月の初めだったと思います。ちょうど運よく行った日が登録の最終日でした。
この国では政治家になるのは、半分金儲けと考えられています。公共事業の30%から50%位は政治家が横取りしてポケットに入れるそうです。2010年までこの国の大統領アルバロ・ウリーベの閣僚の多くは収賄罪で今も刑務所に入っているそうです。ウリーベは保守派で、ゲリラを徹底的に取り締まりました。彼が大統領になる前、すなわち2002年以前には、このフサガスガの近くの町の多くにもゲリラがいて、一般の家にも上納金のようなものを集めていたそうです。またゲリラ以外の反対勢力に投票しそうな人には投票所に入れなかったと聞きました。いまゲリラはアマゾン一帯の不便な所まで後退しています。5~6年前まではバスに乗っても途中で良く検問があり、身分証明書のチェックと身体検査が行われたのですが、最近は無くなりました。少し安全になったようです。
こちらでは日本のように一斉に貼られる選挙ビラと言うようなものはなく、それぞれが家の壁や空いた所に大きな写真入りの看板を掲げています。それだけでも相当お金が掛かるのではないかと思います。フサガスガの市長選挙には、この国の安全性の確保を主張するウリーベの政党から出されている女性の候補者に投票するつもりでしたが、和合さんが25歳くらいの若い人を応援していると言うので僕も彼に投票するつもりでした。投票日当日、朝の9時20分に和合さんと奥さんのMaria、それに妻のMariaと4人で投票所に入りました。和合さん夫婦はいつも棄権していて、初めて選挙に来たと言っていました。マリアの投票所は家の近所なのですが、外国人は全て街の中心にある大学に設けられた投票所に行かなければなりませんでした。外国人専用の投票受付が置かれていたので和合さんとそこに行きました。机に座っていた係員に永住権の書かれたコロンビアの身分証明書を見せると、パソコンに証明書番号を打ち込みました。驚いたことに二人とも投票できないと言われました。和合さんは、かつて身分証明書をなくした時に問題が起こり投票権が削除されたままになっているとのことでした。僕の方はフサガスガから1時間半ほど降りた町に登録されていると言われました。なぜそんな所に、とマリアに聞きました。この国の身分証明書はコロンビア人には“CC”から始まる8桁の数字が書かれています。僕は外国人なので“CE”から始まるまでは良いのですが、それに続き6桁の数字になっています。政府は、外国人に対しては6桁、即ち99万9999番まであれば大丈夫と考えているのでしょう。ここまでは良いのですが、8月の初めに僕の投票権を登録しに行った時に、外国人である“CE”ではなく“CC”と書き込み、続いて6桁の番号を打ち込んだらしいのです。そうすると100万番未満のコロンビア人になるので、その人が僕よりもずっと年上の人と言うことになります。しかも二重登録になっている筈です。和合さんは2重登録になるので登録を拒否されたのですが、僕は他人の所に登録された訳です。ウリーベの政党からの市長候補者に投票しようと思っていたのに、和合さんの応援する人に簡単に変えた僕も、この国の人達のようにいい加減です。
ナツメ出版企画発行の「書道三体字典」の著者である書道家の片山耕花先生が書かれた楷書の字体
何はともあれ、国籍が違っていても投票できると言うのは嬉しくなります。それと少し関係しますが、この国では2重国籍が認められています。和合さんの子供は前妻の2人を含めて4人の男子供がいますが、4人とも2重国籍を持っています。前妻の二人の子供の内、兄は8年、弟は6年日本の東京で働いています。兄はアメリカ合衆国の石油掘削会社、弟はコロンビア大使館で働いているのです。兄はコロンビアの有名私立大学からアメリカの大学に移籍し、弟はコロンビアのこれまた有名私立大学を卒業したそうです。この国では先輩のいる職場に就職を斡旋してくれる有名私立大学を出た方が出世できるのです。 2015年8月1日の「コロンビア便り」にも書いたように、日本大使館に勤める篠原啓子さんに僕の本を日本人学校へ寄付してもらうため差し上げました。6月11日のことでした。その彼女が日本製の急須をくれると言うので、貰うため11月10日に日本大使館に行きました。その時に上に書いた選挙の話をしたら、日本人には選挙権がないと言われました。日本の国籍を捨ててコロンビア国籍を取れば別なのでしょうが…。選挙は和合さんも初めてだったので、多分篠原さんの言っていることの方が正しいと思います。それと彼女に言われたのですが、たとえ選挙できたとしても行かない方が良いと言われました。外国人が政治の話に関わるのは危険だと言うのです。なるほどと感心しました。
Bogotaで買った日本風の急須
2015年9月23日にボゴタに住むマリアの姉のコンスタンサから電話があり、ボゴタの中心部のデパートで55インチのテレビが約85,000円で売られていて、そのうち37,000円分の無料購入券が着いていると言うので、料金を立て替えてもらって買うことにしました。このテレビは、少し大きいので彼女の旦那であるCarlosのクルマでは運び辛く、10月31日にマリアの親戚の人が大きなクルマでボゴタからフサガスガに来た時に持って来てもらいました。
さて37,000円で何を買おうかと思いました。特に買うものがないので、現在使っている15インチよりも少し大きめのパソコンを買うことにしました。これを新パソコンと呼ぶことにします。このデパートでの無料購入券による買い物は11月10日から3日間でした。僕たちは暇なので初日に行きました。僕は日本製のパソコンを買う(貰う)つもりで行ったのですが、ヒューレット・パッカード社製19インチのパソコンが2台だけしか置かれていませんでした。しかしこのパソコンにはHDMIの接続端子が付いていませんでした。僕はパソコンの録画映画の画面をテレビにモニターして見ています。テレビにはHDMIのコネクターで接続されているのです。すなわち、僕は15インチのパソコンとテレビはHDMIで接続しているのです。売り場の係員は接続コードが売られていて、少し離れたユニラーゴと言うところのパソコン屋が立ち並ぶビルに行けば入手できる言いました。しかし、このデパートに近い所にもパソコン屋街があったのでそこにタクシーで行くことにしました。単にケーブルなので500円も出せば買えると思っていたのに、5,000円ほどすると言われました。本当にこのケーブルが必要なのかどうか分からないので、パソコン接続の仕事をしているマリアの弟Miguelに聞くことにし、一旦デパートに戻りこの日はパソコンだけを買うことにしました。パソコンは48,000円ほどしましたが、37,000円の割引券を出して11,000円を支払いました。
この日はコンスタンサの家に泊めてもらいました。その時、夫のCarlosが三次元画像のソフトを書き込んだ2TBのパソコン用外部記憶装置を出してきて、三次元映画を見せてくれました。3次元映画は我々の部屋に置いているテレビでも見ることができますが、彼は3次元映画をインターネットでコピーしたと言うのです。300GBほどコピーされていました。2TBの外部記憶装置は次回彼らが我が家に来た時にコピーさせてもらうことにしました。しかし彼は2次元画像のDVDディスクを17枚貸してくれました。翌日、3次元映画をコピーするため、ユニラーゴに行き700GBの東芝製外部記憶装置を6,800円で買って、バスに4時間揺られて18時20分に帰宅しました。
メキシコに住んでいるMiguelは自分のパソコンを僕のパソコンにインターネットで接続して、自分のパソコンを使うように僕のパソコンを操作します。最近のコンピュータ技術にはあきれかえります。彼に操作される自分のパソコンでまず気付いたのは、売り場の係員が言語は日本語を含め多数の国の言語に対応しているので全く大丈夫だと言っていたのに、スペイン語と英語しか対応していないことでした。取り合えず英語を選択しました。Miguelはインターネット・エクスプローラの上に書かれている英語を日本語に変え、Windows-8.2で入力が必要だったパスワードを入れなくても良いように変更してくれました。表示画面にはNortonセキュリティーの画面やその他いくつかの画面が表示されています。目障りなので消そうと思っても簡単には消えませんでした。これもMiguelが消してくれました。非常に使い易くなったのでその日は満足して眠りました。数日間は自分の必要なプログラムのアイコンを表示画面に貼り付けていました。そうしたら急にどういう訳か左クリックが効かなくなり、画面も制御不能となりました。その後、使っていたマウスが壊れていたことが分かり取り換えたのですが、パソコンは動かないままになっていました。
2015年9月23日にHDMIコードの代わりに使う配線器が5,000円もするので買わずに帰宅し、9月27日の日曜日の夜にMiguelに電話し、またインターネットでパソコンを接続してもらいました。彼は普段はいつも忙しくて日曜の夜しか時間がないのです。テレビとパソコンで出来ないこともないが、やはり配線器を買った方が良いと言われました。しかし新しいパソコンを別の部屋に置くことにしたので、テレビとパソコンは従来どおりとなり配線器は必要なくなりました。それよりも新パソコンと従来から使っていた15インチのパソコンを接続して、どちらも同じ状態にデータ更新したいと考えていました。これをMiguelに頼むとあっと言う間に設定してくれました。彼は本当に頼りになります。
12月5日にCarlosと家族が来たので、マウスを新品に変えたのになぜ動かないのか見てもらいました。彼はすぐにマウスの電源をUSB挿入口から抜いてまた差し込みました。そしたらマウスが動き出したのです。同じことがキーボードでも起こりました。日本で買ったパソコンでは起らなかったことです。
フサガスガのビデオ映画を売っている店で聞くと、我が寝室に置いているDVD装置では3次元映画を見られないことが分かったので、11月16日に見れる装置を11,000円で買いました。まず、Carlosから借りてきた2次元映画のコピーを始めました。ボゴタで買ってきた700GBの東芝製外部記憶装置はCarlosの3次元映画を全部コピーしても300GB程度なので、別に使っていた466GBの外部記憶装置にコピーすることにしました。そして買ってきた700GBは新しい19インチのパソコンのコピーに使うことにしました。まず466GBにCarlosから借りてきた2次元画像のディスク17枚をコピーしました。コピーした画像は、インターネットで同じテレビにモニターして見るよりも画像が良いので快適です。マリアも39枚の2次元映画を持っていました。その後2次元映画をまたCarlosからコピーさせてもらったので、合計106枚になりました。
3次元映画もフサガスガの店の何軒かで売っていました。一枚が170円から210円で売っています。31枚買いました。もうフサガスガの3次元映画は全部買ったので、後はボゴタへ行って買うしかありません。そのボゴタでCarlosに12枚の3次元映画を買って来てもらい、またCarlosが持っていた3次元映画20枚をコピーさせてもらったので合計63枚になります。
映画は2次元と3次元を合わせて、合計169枚になりました。これでは毎日一本見ると考えても半年くらいしか持ちません。もっとボゴタから買う必要があります。でも3次元映画はもうあまり売っていなかったとCarlosが言っていたので、そうなれば2次元映画で辛抱するしかないようです。でもテレビの画像よりも良いので、もっと買うつもりです。
9月23日に連絡があり買ったテレビですが、ずっとボゴタのCarlosの家に預かってもらっていて、10月31日のハロウィンの日にマリアの親戚の人がボゴタから大きなクルマで来るので運んでもらいました。そして11月10日にはパソコンを入手しました。インターネットでスペイン語の映画を見るようになって一年と2か月くらい経ちます。11月16日に3D再生装置を買ったのでインターネットのスペイン語映画を止め、DVDでスペイン語映画を見るようになりました。スペイン語は殆ど分かりませんが、楽しみが随分増えました。
日本大使館に勤める篠原啓子さんに頂いた日本製の急須
コロンビアでは11月の終わり頃から、街にクリスマス照明が輝きます。殆どすべての家に照明が点けられます。我が家は少し遅れましたが、12月になって照明を施しました。我が住宅地域では、毎年クリスマス前、夜に集まって礼拝のようなことをして軽い食事が出されます。場所が家の前のプールの横なので、2階の窓から見ていてみんなが集まりだしたら出て行きます。去年はベランダに大きなプラスティックの人形を二つ飾りました。 フサガスガには近所中が協力して、クリスマス照明で照らし出している所がいくつかあります。その一か所が年を追うごとにますますにぎやかな照明に代わってきました。ここはいつも行くスーパーマーケットに近いので毎年見に行きます。
フサガスガの街中のクリスマス照明(1)
さて、家の前のクリスマスパーティーですが、今年は何と12月16日から12月23日まで毎晩8日連続で行うようになりました。暗くなった18時半くらいから2時間くらい行われました。毎晩、近所の人が30人から35人くらい集まりました。最初の1時間くらいは、聖書の一部を朗読しながら讃美歌を歌います。残りの1時間位は毎晩当番で用意した軽い食事が出されます。しかし、24日には各自の家でクリスマス・イブを楽しむという段取りです。とにかく8日間も毎晩集まるということは、今の日本では全く考えられない風景ではありませんか。そしてクリスマス・イブの23時半頃からは近所のあちこちから花火が上がります。日本ではまだ仕事に追われているのかと思うと、気の毒な気がします。
クリスマス照明は1月5日頃まで点けています。僕はダンジリ祭で有名な岸和田の学校に通っていましたが、祭りは僅か二日間でした。しかしこちらは一か月以上も祭り気分が続きます。この国は、仕事よりも遊びの国なのです。
フサガスガの街中のクリスマス照明(2)
我が家のクリスマス照明
クリスマスにはマリアの姉夫婦や親戚の人々が我が家に集まった