(1)アフリカからの密入国者
メキシコ・シティーに着いたばかりのR1100R
メキシコ・シティーの安宿にチェック・インして、部屋に行くと隣の部屋の前に椅子を持ち出してスペイン語の教科書を読んでいる黒人がいる。すぐに友達になった。Bayo(仮名)という名前で28才、アフリカのナイジェリアから来たという。アフリカはフランス語だろうと思っていたが、英語をしゃべる。英語はサハラ砂漠の南にあるナイジェリアの他に、大西洋の海岸線を西に向かって、 Ghana、Liberia,それにSierra Leoneで話されているらしい。 Bayoは、Liberiaはアメリカの、残りはイギリスの植民地だった国々だと言う。 Bayoはモルモン教徒で、ナイジェリアで洋服の仕立ての店を持っていて、7人も使っていたが少数派のイスラム教徒の暴動で店を失ったと言う。それでまず、キューバに渡った。そこで73日いてニカラグアに飛び一ヶ月半した後、アメリカに渡ろうとしてコスタ・リカに行ったが、書類が不備だったので飛行機の切符を買えず、三日後にニカラグアに戻った。Bayoはニカラグアでナイジェリアのパスポートを本国に送り返した。ここから、アメリカまでの密入国を繰り返す旅が始まった。二ヶ月後、中米を縦断するティカ・バスに乗り、ホンジュラス、エル・サルバドール、グアテマラをそれぞれ一日で通過する。ホンジュラス、エル・サルバドールはなぜかパスポートなしで無事に通過できたが、グアテマラではバレたので、20ドルの賄賂で通過したと言う。Bayoは密入国の方が簡単で、しかも面倒な手続きが要らないので、その方が早いという。隣国のベリーズも密入国だ。ベリーズは黒人が85~90%を占める国だ。アフリカの兄弟がいるベリーズにはパスポートがなくても自由に入れて、また正式な書類がなくでも仕事も簡単に探せる。彼は、そこで7ヶ月ガードマンをして暮らした。ベリーズも元英国領で英語を話す国だ。今はイギリス連邦のせいか、アメリカには比較的簡単に入れるらしい。しかし、アメリカとの間にはメキシコがある。ベリーズの市民権があれば隣のメキシコにはビザなしで自由に入国できる。しかし、彼はそれを待てずに、国境の役人をまた20ドルで買収し、メキシコに密入国してしまった。アメリカ国籍を偽る書類を作成し、メキシコ・シティーからアメリカ西海岸への入り口にあるティファナまで、飛行機で飛んだ。だが、ティファナの空港で偽装書類は見破られ、彼は逮捕された。ティファナから護送車でメキシコ・シティーに送り返され、拘置所で4ヶ月暮らした。彼はそこで多くのことを学んだという。
メキシコ・シティーの中心、ソカロ
拘置所にはアメリカ入国を果たせなかった世界中の発展途上国の人たちがいる。そこではひょっとして暴力が絶えないんではないかと思って聞いてみたら、喧嘩を吹っかけるのはアラブ人だけだが、黒人には、特に筋肉隆々の彼には誰も手を出さなかったと言う。また、刑務所ではないので塀の中の行動は自由だ。外とも電話で連絡が取れる。週に三日、外からクルマでいろいろなものを売りに来る。お金があれば、酒以外はタバコでも何でも手に入る。それを中国人とインド人が買いだめして、倍の値段で売る。ポケットに大金があれば、メキシコの役人を買収し、30日の外出許可を取って、うまくいけばそのままどこかの国に消えることもできる。 Bayoは拘置所から、自分の所属する教会に救助の手紙を書いた。十通の手紙を書いた後、国連の職員が拘置所に現われた。Bayaが拘置所に入れられてから、もう二ヶ月が過ぎていた。国連から派遣された職員は若い女性で、高級車に乗って拘置所にやって来た。Bayoは彼女のことを褒めちぎった。たとえそうしても、Bayoにはとても素朴な面があって嫌味を感じさせない才能がある。そしてBayoは、政治的亡命者として拘置所を出ることができた。もし教会の援助がなければ、Bayoはユカタン半島のカンペチェの拘置所に移されるところだった。不思議なことに、そこの拘置所からは南の地方に向かっては外出できるらしい。南にはグアテマラとベリーズがある。メキシコ政府もお金がかかるので早く自分の国から出て行ってほしいんだろう。Bayoの場合だと、パスポートを出さなくても、ひょっとしてベリーズに帰ってくれるかもしれない。しかし、お金のないグアテマラやその隣のホンデュラスの人たちの中には、自国でいくら働いても生活が苦しいので、それよりも三食昼寝付きで居心地のいい拘置所へ何回も帰ってくるリピーターがいると言う。メキシコ政府もたいへんだ。 Bayoは僕がホテルにチェックインいた時には、同じホテルにもう十日も泊まっていた。そして週三日、スペイン語の学校に通っている。必要経費は全て国連が負担している。彼の部屋にはトイレとシャワーがあって、それのない僕の部屋より300円高い。生活費は、毎週国連から9500円与えられている。スペイン語の辞書も欲しいと言えば、すぐ国連から買い与えれれる。メガネだってそうだ。実に結構な身分だ。できることなら僕も政治亡命者の扱いを受けて、彼のようにトイレ・シャワーのある部屋に移りたい。
Bayoは底抜けに陽気な男だ。スペイン語はまだ殆どしゃべれなくせに、街の店屋の前を通る度にそこの女に、手を挙げ英語と片言のスペイン語でしゃべりかける。それが本当に自然で嫌味がない。可愛くて楽しい男だ、そんな女との連絡には携帯電話は非常に便利だ。すぐに電話番号を聞いては、デートの約束を取りつける。メキシコの携帯電話も日本同様高い。僕が彼に会った時には、二週間の間に携帯電話代として彼は既に2万円を使っていた。メキシコでは平均月給に近い金額だ。彼はとにかく女に会うと電話番号を聞き出し、電話するのだ。でも女の方からは滅多に電話はかかってこない。そこで彼は、目当ての女がいる店へ直接出向く。僕も彼に付いて行く。メキシコの街では、黄色のアジア人と黒いアフリカ人が一緒に歩いているだけで目を引く。女のいる店へ行ったが彼の最初の作戦はうまくいかない。次の作戦のための時間潰しにソカロを歩いていると、彼は別嬪の二人連れの女を見つけて、しゃべりに行こうと言う。二人を追いかける。追いついて彼は二人にしゃべりかける。その仕方が、本当に自然で無理がない。僕は彼のペースを乱したくないので、終始傍観者に甘んじる。二人の女は二十歳前後の姉妹だと言い、し?もベッピンだ。僕は絶対に無理だと思っていた。Bayoもそう思っていた。しかし、三日後にその一人からBayoの携帯電話に電話があって、週末に会いに来ると言う。吾が耳を疑った。
Bellas Artes
Bayoは毎日僕の部屋に遊びに来た。ある日彼がいる横で、エスペランティストのLeonoraに電話をした。前から彼はエスペラント語について少し僕に尋ねていたが、いよいよ興味を持ち出し、どうしたら勉強できるのか、メキシコ・シティーのエスペランティストの会に入るのにはどうしたらよいのか、世界のエスペランティストと連絡を取るにはどうしたらよいのか、と本気で聞いてきた。そこで僕は、メキシコ・シティーでの勉強と入会については、Leonoraにまた会うので彼女に聞いてみることをBayoに約束するとともに、世界のエスペランティストの名簿とエスペラント語辞書をCDにコピーして彼に渡した。スペイン語だけでも大変なのに、彼の知識欲は旺盛だ。 Bayoは日本のことをよく知っていて、早くメキシコの女と結婚してパスポートを取り、日本に行き、そこでお金を稼ぐことを夢見ている。彼の友達に、日本に観光ビザで入り7年間不法滞在で稼ぎ、最後は強制送還された男がいるのだが、彼から日本の詳しい情報を得ている。Bayoは、本当に日本人以上に日本の状況をよく知っている。田舎町の大阪は、大阪は世界に知られていないと勝手に思い込んで、そのため大阪へのオリンピックの招致に乗り出し見事に失敗した。カナダやアメリカは日本に興味を持っていないせいか、あるいは教育水準が低いせいか、ほとんど誰も大阪のことは知らない。しかしメキシコに入ると、みんな大阪を知っている。大阪市長は取り越し苦労をしていたのだ。オリンピックが大阪で開かれなくなったことは、実にいいことだ。大阪市役所の動機から言うと、元々必要なかったのだ。日本も欧米ばかりに目を向けずに、少しは世界全体を見なければならないと思う。
メキシコ・シティーのソカロ付近の安宿にはバイクを止めておく場所がなく、七軒目でやっと駐車場のある安宿を探し当てた。低料金にしてはいいホテルだ。でも、駐輪料として300円取るという。こんなの初めてだ。そこで300円安いトイレ・シャワーのない部屋にした。合計で2250円だ。僕のメキシコでの一泊2000円以下の目標額を超えているが、首都のこの辺りではこんなものかと妥協する。予想に反し、部屋には机、テレビ、それに電話まである。カンクン以来久しぶりに部屋でインターネットにアクセスできると喜んだが、電話線は固定式でモデムのジャックが挿せない。電話線を手繰り、壁の配線器のカバーを取り外す。電話線は三線来ている。僕が日本から持ってきた世界対応の電話コネクターのアダプターには、最終手段として鰐口クリップが付けられている。電話線の一本はアースだろうがどれだかわからない。全ての組み合わせて試して見たが、モデムチェッカーに反応はない。 諦めて、ベラクルス以来メールで連絡をとっていたエスペランティストのLeonoraに電話した。僕のスペイン語が混ざる上にたどたどしいエスペラント語にも、彼女は辛抱強く、笑い声まで入れて優しく応対してくれる。しかもその声は、僕が予想していたよりも若い。家で食事をご馳走してくれるという。
娘のLeonoraと母親のLeonora
翌日彼女の家に行った。家に入るとすぐ左側が事務所になっていて、壁は書棚で埋め尽くされていて、そこに中国で書かれた本を翻訳したスペイン語の本がずらっと並んでいる。長いテーブルの上にはパソコンが置かれている。クエルナバカでも公衆電話屋がなかったが、メキシコ・シティーにもない。公衆電話屋は田舎の町には多いが、首都付近では通りの歩道の至る所にカードで利用できる自動公衆電話機が置かれているので、このような商売は成り立たなくなったんだろう。そこでクエルナバカのエスペランティストの家と同様、彼女の電話を借りてインターネットに接続して、ホームページの更新とメールの送受信をさせてもらった。これだけでも有難い。 Leonoraは美人で非常に魅力的な女性だ。しかし残念なことに、アメリカに婚約者がいると言う。彼女のパソコンの壁紙には婚約者の大きな写真が張られている。彼女は、この男性を知っているかと僕に聞く。知らないと答える。すると。彼女はその男性が日本に10年間住んでいたことがあり、今はサンフランシスコのエスペラント関係の事務所で働いていると言う。 Leonoraは、去年ここメキシコ・シティで「全ラテンアメリカエスペラント大会」が開かれた時にその婚約者と知り合った。エエ?、よく見ると亀岡の大本にいたJoel Brozovskyではないか。僕は、その偶然に唖然とした。日本を出る前に、彼はアメリカに帰ってしまったが、どこで何をしているんだろうとみんなで話していたことがあった。サンフランシスコにいるとわかっていたら、彼と会いたかったのに残念なことをした。 しばらくすると彼女のお母さんがやって来た。彼女の名前もLeonoraだと言う。気に留めず、ああそうですか、と答えた。彼女は随分前にも日本のエスペランティストがバイクでメキシコを旅行したことがあり、その時連絡を取り合ったと言う。エエ?、それはひょっとして、僕のことかなと思ったが、僕の記憶ではメキシコ・シティーの中古バイクやを苦労して探し当ててくれたエスペランティストは別の名前で、しかもグアダラハラに住んでいたはずだ。結局、七年前にその人が調べてくれたバイク屋のバイクは、僕の求めているバイクがない上に、値段が倍ほどしたのでアメリカのサン・ディエゴで買うことにした。そして、急ぎ旅であったこととエスペラント語を知らない相棒と一緒だったので、その恩人をグアダハラで訪ねなかったことをずっと後悔していた。しかし、バイクでメキシコを旅行した日本人エスペランティストというと、僕の他にはそんなにいないはずだ。早速パソコンの名簿を見てみた。なんと、世話になったその人は、目の前にいるLeonora Torresではないか! 失礼を詫び、改めて彼女に礼を言った。なんと言う偶然なんだ。
Leonora と Jorge
MEFの月例会
二日後の日曜日、エスペランティストが集まると娘のLeonoraが言うので、もちろん行くことにした。彼女の家の最寄の地下鉄駅には約束の朝10時きっかりに着いた。駅でタバコに火をつけて二服ほど吸うと、前の道路から「トオル」と呼ぶ男の声が聞こえる。僕が待っているのは、女性のLeonoraだ。しかし、見るとそれは赤いフォルクスワーゲンでクエルナバカのJorgeのクルマだ。そしてクルマの中にはLeonoraとJorgeがいる。途中で母親のLeonoraを拾って会合の場所に向かう。着くとEstelaという名前の老婦人が部屋に招き入れてくれた。部屋には緑の星の旗とザメンホフの絵が掛けられている。十分な広さを持つ会議室で、メキシコ・エストラント連盟(MEF)の事務所だと言う。そこに合計11人のメキシコのエスペランティストが集まった。会議は全てエスペラント語で行われている。議題は会計報告からブラジルの世界大会へと進む。しかし全員流暢なエスペラント語でしゃべっているので、僕はよく聞き取れない。本当に情けない。でも、一時間、二時間と聞いている内にだんだんと分かるようになってきた。クエルナバカで世話になったJorgeは、どうもMEFの会長で、MEFのホームページの更新も彼がやっているようだ。そこで、僕のホームページからリンクを張らせてくれるように頼んだ。快く引き受けてくれ、しかもMEFのホームページから僕のホームページにもリンクを張ってくれると言う。まさに光栄だ。会議の終わり頃にMartaという若い女性が、ロシア語の勉強のため去年モスクワに一年留学した体験を話してくれた。彼女も早口の流暢なエスペラント語でしゃべったが、だんだん耳が鳴れてきたのと、発音がはっきりしていたので、話の内容は80%から90%まで聞き取れた。嬉しかった。
MEFの会合が終わってから、残った六人のエスペランティストと近くのレストランで食事をした。僕の食事代は彼らが出してくれた。食事の後は再びLeonora母娘とJorgeの三人と一緒にクルマに乗り、母親のLeonoraの家に行ってお茶をご馳走になった。部屋には大きな絵が四枚掛けられている、娘のLeonoraが描いたという。どれも素晴らしい絵だ。クエルナバカのCarmenの絵も好きだが、Leonoraの絵も僕の好みだ。テーブルには、TORONNTOと書かれた絵葉書がある。僕が海外で初めてエスペランティストとあって、パソコンをなくし大騒ぎをしたトロントだ。誰だろうと聞いてみると、ザメンホフに似たKenからではないか! 奇遇とばかりは言ってられない。彼らは国境を超えて連絡を取り合っているのだ。母親のLeonoraは言った、「エスペラントの世界は狭いですから…」。しかし、それだけにお互いの関係は密なのだ。海外でエスペランティストと会ったのはこれでまだ三回目なのに、僕と南北アメリカのエスペランティストとの関係がどんどん広がって行く。この先、もっと多くのエスペランティストと会うつもりだ。 Leonoraとはその後も会って、ビールを飲みながら夜遅くまでしゃべった。それにしてもJoelは素晴らしい女性と出会ったものだ。僕は、Joelに嫉妬を感じる。
MEFの会議の後のレストラン。左からLeonora娘、Leonora母、Jorge、Cuernavacaでも会ったSofia、カリフォルニアに近いMexicaliから来たLuis
Leonaraの自画像