カリブ海はグレートバリアーリーフ、紅海と並んでダイバーが憧れる海だ。僕はカリブ海の美しい海はまだ見ていない。ホンデュラスに6ヶ月滞在していた時、この国のカリブ海に浮かぶ島に向かった。しかし連日の豪雨で島には渡らず、本土の海岸に打ち寄せる荒波を見ただけだった。
ホンデュラスの南にあるニカラグアの沖にはサン・アンドレスという島がある。コロンビアからは遥か遠くの島だがコロンビア領だ。カリブ海を取り囲む島々は外国の観光客が多く、物価も高いと聞いていた。しかしコロンビア領のこの島は安くて、ボゴタからは飛行機で飛ぶ三泊四日のツアーが2万円くらいで企画されている。コロンビアでは3月19日の土曜日からはセマーナ・サンタの休暇が始まり、Mariaは10日の休暇を取るので一緒にこの島に行きたかった。しかしこの期間は、日本で言えばゴールデンウィークのように観光客が押し寄せる。だからツアーの価格も倍になる。それに日程が短か過ぎる。馬鹿らしいのでもっと安いカリブ海沿岸に行くことにした。しかしこの辺りも観光客で混んでいる。ホテルが空いていないと困るのでホテルが確保されているバスツアーで行くことにした。
Mariaが以前に利用した旅行代理店では、Cartagena、Barranquilla、Santa Martaと回るツアーで、豪華ホテルでの三食付きの8泊9日のツアーが2万5千円で出ていた。3月11日にその旅行代理店に行き、3月20日からのツアーを予約し半額を払った。しかし出発の2日前に旅行代理店から、このツアーは参加者が少ないので取り止めることにしたと連絡があった。その代理店は別の代理店が出しているツアーを紹介してくれた。一日短いツアーでCartagenaへは行かず、Santa Martaで二泊、そこからさらに東のベネズエラとの国境でカリブ海に突き出たGuajira半島に行くツアーだ。Guajiraは開発が遅れていて観光施設も少ない。僕は、代理店が説明するスペイン語がほとんど分からなかった。Mariaの説明では、Guajiraは砂漠で何もなく、ハンモックで二泊することになると言う。それなのに先のツアーと比べて1000円も高い。僕は騙されたような気持ちになった。しかし、もう他の代理店で別のツアーを捜している時間がない。ハンモックでの仮眠は快適だが、一晩中寝るのは嫌だ。代理店にテントを用意してもらう約束をして費用の全額を払った。
揺れに揺れたツアーのバス
日曜日の午後一時、ボゴタの街の中心部で待つバスに乗ることになっていた。MariaとHernanは出発は2時になるだろうと言っていた。中南米の国では一時間遅れるというのが常識だ。Mariaと僕は15分遅れて着いた。案の定、ほとんどのツアー客はまだ来ていなかった。バスを見た。大昔によく走っていた、前面が鼻のように突き出たバスだ。バスにはESCOLAR(学校)と書かれている。アメリカの映画に出てくる、黄色に塗られたあのスクールバスだ。座席の間隔は狭い。カリブ海沿岸の町までの遠乗りというのに何ということか。ツアー客は子供5~6人を含めて総勢31人だった。僕は職場の慰安旅行以外に、こんな団体旅行に参加したことがない。唯一のツアーはボリビアのウユニ塩湖を巡るツアーだったが、三泊四日のToyotaランドクルーザーによる6人の旅だった。バスは50分遅れて1時50分に出発した。ボゴタからSanta Martaまでは1,200キロほどある。17時間かかった。疲れる旅だった。僕の短い脚でも、前の座席に脛が当たり脚のやり場に困る。さらに、このバスは信じられないくらい揺れる。揺れるというよりも飛び跳ねるという感じだ。口を開けたまま寝てしまうと、飛び跳ねたショックで舌を噛み切ってしまいそうだ。どんなに古いバスかと想像されるかもしれないが、バスは2004年製のChevroletで、走行距離はまだ1万キロの新しいものだ。見ると道路は完全舗装で何ら問題はない。きっとサスペンション系に致命的な設計ミスがあるのだろう。
Santa MartaはCartagenaより観光客が少なくて静かだと聞いていた。最初の代理店でCartagenaの海岸の写真を見た。砂浜の近くまでビルが建ち並んでいる。僕はSanta Martaの方が長閑で良いだろうと想像していた。それなのに、着いたSanta Martaの砂浜の周りにはCartagenaよりも高い高層ビルが建ち並んでいた。そして砂浜は日本の海水浴場のような混雑だった。舟で小さな岬の向こうにある砂浜に行った。小さな岩場が見えた。砂が巻きあがって濁る砂浜より魚が泳ぎ、時には貝も拾える岩場の方が好きな僕は、早速そこへ泳いでいった。海の透明度は良くない。期待したサンゴ礁はない。魚もほとんど泳いでいない。僕は失望した。
高層ビルが並ぶSanta Marta
Tyrona国立公園の自然のプール?
ツアー二日目はSanta Martaから70キロほど東にあるTayrona国立公園に行った。公園の入口でバスが止まると、公園の係官がバスに乗り込んできた。黄熱病の予防接種をしていないものは公園内に入れないと言う。旅行代理店からは何も知らされていなかった僕はボゴタの家に置いてきてしまった。べネズエラに入国する時にブラジルで打ったと言ったら入園を許してくれた。しかし半数のコロンビア人は半日、公園の入口で待つことになった。旅行会社は一応印刷したスケジュールをくれたものの、詳しい日程は書かれていないし、予定された時間はどんどん遅れ、そのため訪れる場所も勝手に変更される。ツアー添乗員の女の人は、食事の時刻すら知らせない。時々はみんなに説明するがそのスペイン語は早いので僕にはよく分からない。行程が気になった時はその都度、ゆっくりはっきりしゃべってくれるMariaに訊くが、Mariaも知らされていないと言う。おまけに、この添乗員は何時もバスに遅れてきて、客を冷房の効かない暑い車中に待たせたまま平然としている。彼女にこそガイドが必要なようだ。この国立公園内のツアーでは、バスを降りてから海岸まで一時間近くも歩くことを、僕は前以て知らなかった。ビーチサンダルで行こうかと思ったが、靴にしてよかった。着いた海岸は白砂の美しい砂浜だった。しかし流れが速く危険なので遊泳禁止だ。さらに15分ほど歩いた所に自然のプールがあると言う。僕は日本によくある岩に囲まれた小さな海水の溜まり場を想像していた。暑い中をさらに歩くのは気が進まなかったが、気を取り直して行ってみた。倍の30分がかかった。そこは予想に反し、沖に円弧状に建ち並んだ岩で囲まれた大きな砂浜だった。また失望した。シャワー設備もなさそうなので、僕は海に入らず木陰でタバコを吸って帰途の時刻を待った。単車の旅と違って、団体旅行では時間が自由にならない。
Santa Martaのプール付きホテルで二泊した後、Guajiraに向かった。Guajira半島の付け根にある、この辺りで一番大きな町Riohachaで遅い昼食を取った。昼食を終えてもなかなかバスは出発しようとしない。ガイドを頼む原住民の酋長さんみたいな人が来るのを舞っていると言う。彼は一時間遅れてやって来た。そのため予定していたフラメンゴ観察は中止になって、バスは日が暮れてからMaicaoという町でイスラム教会に寄った。南米で二番目に大きなイスラム教会と言われたが、ショートパンツでは中に入れないと言うので、みんなを外で待った。目的のRancheriaの集落には夜の8時半に到着した。集落総出の歓迎で早速民族ダンスを見せてくれた。男女二人が、観客の円陣の中で走り回る踊りだ。楽器は太鼓だけで、実に素朴で簡単な踊りだ。そのうち集落の人から、ツアー客のカップルも踊るよう勧められた。僕とMariaも踊るはめになった。集落は砂漠の中にある。風が吹くと砂が舞い上がり、コンタクトレンズをしている僕には辛い。風防用にサングラスをした僕は、風の吹く暗闇の中でテントを張った。既に深夜の12時前だった。他のツアー客もハンモックに潜り込んだ。集落の若者たちだけが、まだ大きな音で太鼓を叩き騒いでいた。
テントで寝たRancheriaの集落。他のツアー客はこのハンモックで寝た。
翌朝は6時前に起きた。きのう中止になったフラメンゴをすぐに見に行くのだと思っていたら、Maicaoという何の変哲もない町で買物のための時間が取られた。やっと出発したと思ったら今度はバスは国境の小さな町に向けて走り出した。国境に着いたバスは客を下ろすわけでもなく、また来た道を引き返した。あんな所でバスを下ろされなかったのは却っていいものの、何のために行ったののか全く意味不明だ。そんなことをしていたのでフラメンゴやその他の野鳥が生息するカリブ海に面する塩田地帯に着いたのは夕方だった。バスは塩田を囲む大きな畦道みたいなところをガタガタ揺れながら徐行する。そのうち乾いた塩田を横切ろうとした。しばらく走った所でバスは止まった。タイヤの半分ほどが地面に食い込んでいる。ガイドの酋長は何をしに来たのか? 運転手は、幸い近くにいた警備員にスコップを借り、タイヤの後の土を掘り起こした。客は石を拾い集め、姿を現したタイヤの後部にそれを並べた。バスは無事脱出できたが、この事故で一時間が失われ、夕暮れが迫っていた。バスはフラメンコを求めてまた30分ほど畦道を走った。目的のフラメンコは2羽見えただけだった。すでに夕日が海に沈もうとしていた。すぐにバスは来た道を引き返した。20分ほど走った。6時半だった。
塩田にタイヤが沈み込んだバス
あわや横転寸前のバス
バスの左側が突然傾いた。バスが止まった途端に、さらに傾いた。少しでも衝撃を与えるとバスは横転しそうだ。僕達は一人ずつ静かにバスから降りた。畦道の路肩が崩れ、バスの左側のタイヤが全部砂の中に食い込んでいる。畦道があと30cmでも高かったらバスは横転して大変なことになるところだった。もう陽は落ちて暗い。子供が一人、泣き出した。何人かのツアー客が遠くに輝く町まで歩いて行こうと言った。見たところ20km以上、30km近く離れている。僕は反対した。昼間あんなに暑かったのに、海岸砂漠の風は涼しい。僕は足元の砂浜で一晩寝てもいいと思った。そうこうしている内に、Guajiraで二人に増えた添乗員の女の一人が携帯電話で町に助けを求めた。トラックが救助にやって来ると言う。バスの後では乗用車が二台、気の毒に前に進めないまま立ち往生している。一時間ほどして、前の方の一台が待ち切れず畦道の下の塩田に沿って走りだした。100mほど走って止まった。僕は二台目の犠牲が出たと思った。それなのに、また一時間ほどして後のクルマが続いた。数メートルほど走った所で、畦道から遠い方の車輪が塩田に食い込んだ。三台目の犠牲が出た。しかし、そこはバスとは違って軽い乗用車だ。運転手に加え、ツアー客も何人か沼に入り、乗用車を持ち上げて沼から出した。二台の乗用車が無事畦道の上に脱出してすぐに、5~6人の男を荷台に乗せた救援の大きなトラックが到着した。トラックがバスを牽引した。それに合わせ僕たちは、バスの後部を押した。しかしバスは動かなかった。三度試みたところでトラックはエンジンを切った。ガス欠だと言う。ツアー客は、トラックの男たちがトラックにガソリンを補給するかわりに、自分たちの腹にアルコールを注入したに違いないと言った。僕は唖然とした。トラックの男たちと添乗員の一人が、脱出した乗用車に乗せてもらってガソリンを買いに?に向かった。僕達はガソリンを待った。幸い空には満月が輝いていて漆黒ではない。しかし夜が更けるにしたがい風が強まってきた。その強い風が砂を巻き上げ吹き飛ばすので、サングラスをしていても目に砂が入って痛い。僕は風下のバスの後に身を隠した。強い風とともに気温が下がってきた。他の客もバスやトラックの風下側に避難した。ツアー客の一人の発案で焚き火を起こしたが風が強くて近づく人は少ない。三時間待った。ガソリンを買いに行ったにしては遅過ぎる。みんな次第にいらいらし始めた。僕は、添乗員が携帯電話でタクシーを呼べば良いではないかと言った。僕達と一緒に残った、いつもバスに遅れてきた添乗員が、やっとガソリンを買いに行った添乗員に電話した。まだ1時間かかると言う。僕達はみんな疲れていた。それと体は砂埃にまみれていたのでホテルでシャワーを浴びたかった。それなのに添乗員は、僕達をハンモックで寝かすと言った。僕は腹が立った。しかしみんなは黙っていた。僕は、添乗員がいないところでは文句を言っていたのに、何も抗議しないコロンビア人が理解できず、同時に少し失望した。12時になってやっと、塩田の向こう200メートルほど離れた海岸沿いに救援の四駆のクルマが2台と、同時にガソリンが到着した。ガソリンを補給したトラックがバスをもう一度牽引し、僕達はバスの後を押した。しかし、やはりダメだった。諦めて塩田の細い畦道を救援車に乗ることになった。防風用にサングラスをかけている僕は、畦道がほとんど見えなかった。Mariaに手を取ってもらって歩いたが、海水が溜まっている塩田に滑り落ちた。
クルマの運転手が僕達に行き先を聞いたので、ハンモックに寝たくないみんなは大きな声で「ホテル、ホテル!」と答えた。深夜についたホテルは部屋の壁のペンキが剥がれ落ちた、僕の3年9ヶ月を越える旅の中でも最悪の部類に入るものだった。部屋が足りないので、一部屋に二つ置かれているシングルベッドに四人が寝ることになった。悪いことにタバコまで切れた。予備のタバコをはじめ荷物は全て持って降りる余裕がなく、バスに置き去りにしてきた。タバコはホテルには置いていず、タバコ屋も近くにはないと言う。添乗員がバスと一緒に残っている最後のグループを迎えに行くというので、ついでにタバコを買ってくれるように頼んだ。予想に反し、すぐに買ってきてくれた。ホテルに着いた僕たちツアー客は、ツアー代に含まれているにもかかわらず、誰一人夕食を食べなかった。僕は最後のグループが到着するまでタバコを吸いながらビールを飲んで待った。他の客はビールをはじめ飲み物代を払っていたが、僕は払う気にはなれなかった。全員が無事ホテルに入ったのは2時半だった。
翌朝バスが出る前に、ホテルが昨夜のビール代を請求してきた。僕は添乗員に請求するように言った。添乗員は宿泊代しか払わないと言った。それでとうとう僕は頭に来た。みんなの前で大きな声を出して「責任を取って少しは補償すべきだ」と強く抗議した。タバコ代も払わないと言った。添乗員は、僕が外国人であるためか、「それなら良い」と言った。
Guajira半島の先端近くにあるCabo de la Bela
このツアーの目的地はGuajira半島の先端近くにあるCabo de la Belaである。あと一日の距離である。事故で一日を失ったツアー客はどうなるものかと話していた。僕は、もうそのまま帰途に着いて、予定されているまともなホテルに行きたかった。しかしバスはCabo de la Belaに向かった。バスの中で添乗員がみんなに、Cabo de la Belaで一泊するか、すぐに引き返して当初から予定していたホテルがある町まで戻ってそこに泊まるかの賛否を問うた。Cabo de la Belaで一泊することに決まった。僕は、最後の夜くらいは快適なホテルで寝たいと思った。しかし多数決で決めたことなら仕方がない。Cabo de la Belaには午後2時に着いた。。ツアーではCabo de la Belaでもハンモックで寝る予定になっていた。ボゴタの旅行代理店はホテルがないと言ったので、僕はテントで寝るつもりをしていた。しかし着いたらホテルがいくつもあった。僕はまた腹が立った。遅い昼食を取っているみんなの前で、僕は添乗員に、「外ではコンタクトレンズに砂が入って目が痛いのでホテルに泊まるから部屋代を払ってくれ」と言った。他のツアー客は全員、自分たちがハンモックで寝るつもりでいるのに、「旅行代理店が払うべきだ」と言って応援してくれた。さらに僕は、「予定していたホテルに泊まらないなら、ここでホテルに寝かしてもいいではないか!」と言った。すると添乗員は、「一日予定を延長してそのホテルに泊まってからボゴタに帰ることになっている。しかし、あなたのここのホテル代も払います」と答えた。スペイン語がよく聞き取れない僕は誤解していたのだ。旅行代理店は責任を取ろうとしていることが分かった。僕の怒りは静まった。それでCabo de la Belaでのホテル代は、僕が払うことにした。その後、ツアー客の何組かもホテルに部屋を取った。一日遅れて着いた最後の夜のホテルは、大きなプールのある四星のいいホテルだった。僕の怒りは完全に静まった。夕食が終わった時、ツアー客の一人の若い男がみんなに、旅行代理店が予定どおりにツアーを行わなかったので、その分の費用の払い戻しを要求しようと提案した。みんなが粛々と添乗員に抗議した。僕はコロンビア人をはじめ、ラテンアメリカの人は、後に起こるかもしれないトラブルを恐れて「沈黙は金」と決め付けていると思っていた。その沈黙は、日本人以上だと思っていた。しかし最後にやってくれた。やっぱり僕はコロンビア人が好きだ。