4月23日に無事コロンビアの首都ボゴタに着いて、はや3週間が過ぎました。ボゴタはメキシコ・シティー以来の大都会で、人口は900万くらいあると言われています。ボゴタの町の東側には南北に山脈が走っていて、その麓が中心部です。古い植民地時代の建物と囲むように高層ビルが林立しています。僕は植民地時代の中心部であった地域にある宿に泊まっています。一泊500円ですが、大きな窓のある明るい快適な部屋です。
ボゴタの標高は2600メートルもあります。僕が今まで滞在した町の中では一番高い所にあります。高度順化せずに飛行機で飛んできたせいか、到着後五日目に胃の調子が悪くなり、二日間寝込んでしまいました。海外旅行では初めてです。しかし暑かったコスタ・リカやパナマと比べると、ここは日本の秋のような気候で非常に快適です。雨もめったに降りません。
それにボゴタは危険だと言われますが、町並みは綺麗で人通りも多く、全く危険を感じません。それに噂どおり美人が多く、人はみんな昔の日本人のように心が温かく本当に親切です。この町では多くのエスペランティストをはじめ多くの人に会いました。この町には英語や日本語を勉強している人も多いので、スペイン語、エスペラント語、英語、日本語で僕の頭はグチャグチャになっています。11年前、JICAを通じて大阪に派遣されていたHernan Patin^oの電話番号を探し当て、彼にも再会しました。彼は病院で環境関係の仕事をしていて、そこでもたくさんの美人職員としゃべることができました。またエスペランティストで漢字まで読めるLeonardoは英語の教師をしていて、その関係で彼の教室でこの旅についてしゃべりました。その学校でも多くの美人教師に会いました。
この週末の土曜日は、Leonardoに英語教師でエスペランティストでもあるPilarという女性と一緒に温泉に行ってきました。小川が流れる谷の温泉で、一番熱い湯は10秒と入っていれないくらいの高温でした。日本のどこかの温泉を思い出しました。日曜日はHernan、彼の7才のお嬢さん、それに婚約者のMilenaとともに、バスで2時間半の南にあるMilenaのおばさんの家に行ってきました。そこは標高600メートルの谷底にある町で久しぶりに汗をかきました。山の上の温泉から谷底の町へと、車窓から見たコロンビアは本当に美しい国です。
ただゲリラが問題です。今週末にHernan、Pilarと一緒にPilarの両親の家に、バイクで移動するつもりでしたが、その辺りは田舎でゲリラが出ると聞いたので、それは止めてパンアメリカン・ハイウェー沿いの町に移動するつもりです。そこでもエスペランティストに会う予定です。コロンビアの第二の町カリからボゴタに来ていたエスペランティストのFrankが五日間僕の部屋に泊まりました。彼はカリに近い太平洋岸の町からの送金を持っていたんですが、ゲリラが先日その町の通信塔を破壊したのでお金を受け取ることができませんでした。ボゴタにのゲリラはたくさんいるそうです。
僕はこれからパンアメリカン・ハイウェーでエクアドールに向かいますが、クルマの多い週末の日中に走れば安全だとみんなが言います。都市間の移動は週末になるので、コロンビアの滞在は二ヶ月になりそうです。
Monserrateの山上から見たBogota
Bogotaで三週間泊まったHotel Aragon。4ドルちょっとの安さだが、広いまどからMonserrateが見える快適な部屋だった。
コロンビアの首都ボゴタでは旧市街のHotel Aragonという名のホテルに泊まった。ガイドブックには一泊7ドルと書かれていたが4ドルちょっとで泊まれた。元々ボゴタには一週間か10日ほどしか滞在しないつもりだったが、ボゴタが気に入ったのでこのホテルだけで三週間も過ごしてしまった。 このホテルは、名前からもわかるように日本人宿ではない。しかし、この安宿には次から次と日本人のバックパッカーが泊まりに来る。こんなに多くの日本人旅行者と遭うのは初めてだ。受け付けには日の丸の下に「歓迎」という字を書いた紙も貼られていて、まるで日本人宿のような感じだ。受け付けの従業員は新しい日本人旅行者が来る度に、僕に教えてくれたので彼等の部屋のドアーをノックした。ほとんどが25才から30才までの若い男性で、全員が長期旅行者だった。 最初に会ったのが権藤勇飛さんだ。投宿の二日目、空輸されたバイクを空港から引き取りホテルに帰って来た。勇飛さんは、入り口にある三段の階段にバイクを乗り上げる時に手伝ってくれた。彼はボゴタで日本語を教えながらもう9ヶ月も滞在している。日本を出たのが2001年の7月というから、僕の一ヶ月後に日本を出たことになる。アメリカから中米を通ってボゴタに居着いたようだ。26才のハンサム・ボーイだ。こんなに長期滞在になったのは、きっとガールフレンドができたのだろう。さらに南に下るつもりだったのだろうが、ひょっとしたらボゴタで旅が終わることになるのかもしれない。僕は羨ましい。 二番目に会ったのが本多克之さんと北見洋さんだ。本多さんは東京、北見さんは神戸の出身だ。二人とも南米の南の方から旅を始めてどこかの日本人宿で出会い、ボゴタには一緒に来たようだ。本田さんは4ヶ月で、北見さんは3ヶ月でボゴタに着いた。本田さんは来年の3月まで休職して、世界一周を目指している。一年以上も休職させてくれる会社が日本にもあったと聞いて心強く思った。北見さんは司法試験に合格してから旅を始めたのだが、11月に合格者を対象にした研修が始まるので、それまで世界を旅する予定だ。二人はこれから飛行機でパナマに飛び、アメリカを指して北へ向かう。
三番目に会ったのは吉田太一さんと加瀬睦史さんだ。吉田さんは29才で倉敷出身、加瀬さんは30才で神奈川の出身で、二人ともアジアからアフリカへ入り、その後南米に渡りボゴタまで北上してきた。二人の話を聞いていると、ボゴタだけではなくアフリカでも会っているようだ。吉田さんは一年以上、加瀬さんは1年10ヶ月かけてボゴタまで来た。吉田さんは、途中で南米最高峰で6,960メートルあるアコンカグアに単独登頂した。カナダのマッキンレーに消えた植村直己も、旅の途中で世界の高峰に登ってきたと聞いた。吉田さんのようなバックパッカーもいると知って驚いた。二人とも5月末か6月初旬に帰国する予定だと言う。二人の旅はもう最終段階だが、加瀬さんは一時帰国してすぐまた、オーストラリアかどこかに英語を勉強しに行くと言う。吉田さんの方は旅費が切れかけているので帰国することになるが、おそらくまた旅費を稼いだら旅に出るのだと思う。バイクに強い興味を持っていたので、次はバイクの旅になるかもしれない。二人とは三日連続、深夜まで飲んではしゃべった。アフリカを縦断してきただけに二人の話はびっくりすることばかりだった。
アフリカを縦断してきた吉田太一さん(右)と加瀬睦史さん(左)
世界中を旅してきた若林恭志さん
最後に会ったのは横山俊明さんと若林恭志さんだ。横山さんは京都出身の28才、若林さんは東京出身の36才だ。二人とも約二年かけて中東,東欧、西欧を回り南米に着いた。若い横山さんは南米の旅を終えかけていて、旅費もかなり切迫しているようなのでそろそろ北米から帰国だ。若林さんの方は何回か帰国を繰り返してはアジアをはじめ、もうほぼ世界一周を果たしている。彼はこれまでのバックパッカーと違って、これから南米を南に下る。僕と同じ方向だが、僕のペースがゆっくりしているのでもう会えないかもしれない。 僕はHotel Aragonで7人もの日本人バックパッカーに会った。こんなに多くの日本人に会ったのは僕の海外旅行で始めてだ。みんな一度は就職して働いていたが、旅に出た。僕は、日本の若者はみんな元気をなくして、旅をすることを忘れてしまっていると思っていた。しかし、日本にはまだ、昔のヒッピー時代を思い出させるような旅を続けている若者が多くいる。これから南の日本人宿ではもっとたくさんいるようだ。欧米のバックパッカーの中には旅の途中で異性の相棒を見つけて二人で旅をしている人たちも多いが、日本人バックパッカーの殆どは僕同様、一人旅の人が多い。僕は期限のない旅だが、彼等は一応予定に従って動いている。女を連れずに、中東、アフリカをはじめ簡単には行けないところを黙々と一人で渡り歩いて行く姿は、僕にはちょっと聖職者か求道者のように見える。僕は今までカップルで旅行する欧米のバックパッカーを羨ましく思い、一方では女がなく一人で寂しく旅している自分を少し格好が悪いと思っていた。しかし彼等に会ってからは、日本のバックパッカー達の旅の仕方が硬派で虚無的に見えるようになり、それが案外格好の良いものと感じられるようになった。
コロンビアの首都ボゴタに住むエスペランティストRicardo Carrilloとは、一年半前にブラジルの女性エスペランティストNeusa Priscotin Mendesに紹介してもらって以来、メールでの交換をしてきた。彼にはパナマ・シティーからボゴタに飛行機で飛ぶ前に、到着日時を知らせるメールを出しておいた。ボゴタのホテルに着くとすぐに電話した。流暢なエスペラント語をしゃべる。その日僕を空港まで迎えに来てくれていたらしいが、僕の飛行機が遅れたので会えなかった。Ricardoは大学の医学生だ。中国の道教を信奉している。そのため東洋の文化に強い興味を持っていて、日本のことも良く知っている。道教のことはよく知らないが、どうも酒、タバコ、肉、ロック音楽等はダメらしい。神仏を信じず、酒、タバコをやる僕と比べると心身ともに健全な人だ。
Ricardo
Ricardoはボゴタの南の地区にある道教の教会のような所で信者を相手にエスペラント語を教えているので、ある日一緒に行ってみた。若者を中心に15人ほどが集まっていた。いつもは30人くらいも集まるそうだ。女性も多い。僕はみんなの前で旅についてエスペラント語でしゃべった。全員が初心者だったのでRicardoがスペイン語に通訳した。エスペラント語とスペイン語は似ているので、みんな大体はわかっているようだった。一年も勉強すると流暢なエスペラント語をしゃべる人が多いので驚く。僕は不勉強であるとは言えもう13~14年も勉強しているのに、たどたどしいエスペラント語しかしゃべれない。全く情けなくなる。 翌日、Ricardoは今度はボゴタの北地区で開かれるエスペランティストの集まりに連れていってくれた。前日とは違って全員流暢なエスペラント語をしゃべるが、残念ながら女性は一人もいなくて殆どが若い男性だった。その中にLeonardo Ruizがいた。
LeonardoもRicardo同様、日本通だ。日本に一度も行ったことがないのに、日本のことを実に良く知っている。彼は日本語が読めて漢字まで書ける。彼のモダンなアパートには何回か行った。部屋には招き猫をはじめ日本の物がたくさん置かれている。そして家に置かれている物には、「冷蔵庫」、「洗濯機」等漢字の名前を書いた紙が貼られている。常に箸を携帯し、食事は箸で食べる。彼は25才で英語の教師だ。エスペラント暦は一年だというのにエスペラント語を上手にしゃべる。しかし僕は下手なので彼との会話は英語の方が多かった。ある日、彼の英語のクラスで僕の旅についてしゃべることになった。小学生と高校生の二つのクラスだった。Leonardoは、学校の先生をたくさん紹介してくれた。女性教師も多かった。みんな美人だった。
道教の信者を相手にエスペラント語を教えているRicardo
英語のクラスで旅についてしゃべった
Leonardo & Pilar
Leonardoはボゴタの北の山中には温泉がたくさんあると言った。僕は温泉狂だ。そんな話を聞くといてもたってもいられない。早速連れていってもらった。Leonardoは元同僚の女性英語教師のPilarも誘っていた。Pilarのエスペラント語のレベルは僕と同程度だ。だからペースが合う。片道2時間半のバスの中、それに温泉でと、この日は一日中エスペラント語をしゃべった。温泉は深い山の谷の下にあった。四つほど浴槽があり、一番大きなものは50メートルプールほどの大きさだった。カナダ、メキシコ、中米と温泉を見つけては入ってきたが、どの温泉も湯温が低い。だから何時間でも浸かっておれる。しかし高温の温泉を好む日本人には物足りない。それがこの温泉の浴槽の一つは高温だった。嬉しくなって入ってみたが、熱過ぎた。10秒と浸かっていられない。なかなかうまくいかないものだ。 この二人は英語教師だから当然英語ができる。Rricardoは医学生だが英語もできる。僕がホンデュラスでスペイン語を独習していた時に、ホームページにスペイン語版も追加したいと考えていた。ちょうどその時、アパートの娘で小学校の教師をしているDaniaが冬休みに入り時間ができたので助けてくれることになった。英語からコンピュータで翻訳されたスペイン語を僕なりに修正した。それをDaniaは意味のわかるスペイン語に修正してくれた。でもほんの一部しか翻訳できなかった。ホンデュラスを出てからDaniaに代わる先生を捜していたが見つからなかった。しかしとうとう見つかった。この三人だ。全員パソコンを持っているので、コロンビアを出た後でもインターネットを通じて添削してもらえる。長い間放置していたスペイン語版の更新は近い。
Frank(左)
ボゴタのホテルで泊まっていた時、知らない人から急に電話があった。エスペラント語だった。非常に速くて流暢過ぎるエスペラント語だったのので、下手な僕には良く聞き取れないまま電話が切れてしまった。一時間ほどして、また同じ人から電話があった。僕は英語にしてもらった。すぐに僕のホテルに来ると言う。それがFrankだった。彼はロシアのビザを取るため、南西に500~600km離れたCaliの町から首都のボゴタに来ていた。泊まるところを捜していると言う。幸い僕の部屋にはベッドが二つあったので、一緒に泊まることになった。彼は僕の部屋で結局五泊することになった。彼は36才で精神科の医師だ。ソビエトに10年留学して医学を学んだ。帰国して医師の免許を取ろうとしたが、そのための資金がなかった。だからこの国では医者ではない。もう一度ロシアでニ~三年働くと言う。いろいろな人生があるものだ。 コロンビアをバイクで旅するのは、ゲリラの襲撃などがあって危険だと言われているので、飛行機でコロンビアを飛び越えてエクアドルまで行こうかとも考えていた。しかし、一年半も待っていてくれるエスペランティストがいるので、やはりボゴタに来た。そこでまた多くのエスペランティストに会った。彼らのお陰で普通なら行かない場所を訪ねることができたし、そこでまた多くの人達に会うことができた。コロンビアの旅はエスペランティストとともに始まった
コロンビアの美しい自然
パンアメリカン・ハイウェーは、パナマとコロンビアの国境付近で切れているので、BMWはパナマ・シティーからコロンビアのボゴタまで空輸した。この旅で一番面倒くさいところだ。ボゴタには隣接する空港が二つある。ボゴタの空港に着いて、空港内のインフォーメーションへ、バイクが着くのはどちらの空港なのか聞きに行った。インフォーメーションの若い女性は美人で非常に愛想が良く、僕にホテルは決まっているかと聞くので、ガイドブックで一番の候補に選んでいたホテルを告げた。すると電話で予約してくれると言う。バイクはもう空港に着いているが、引き取り手続きをするには時間が足りない。この旅ではじめてバイクなしで泊まることになるので、駐車場は不用だからどこのホテルでも良い。はじめてホテルの予約をして、空港からのバスに乗った。 着いたホテルは安くていいホテルの上、廊下にバイクを置いてもいいと言ってくれたので、引き続き泊まることにして、空港へバイクを引き取りに行った。まず空輸会社のGiragの事務所に行った。ここの受付の女性も美人で愛想がよかった。次にDIANと呼ばれる税関へ行った。事務所の入り口に入るとすぐに係りの若い男性が「松本徹さんですか?」と聞いてきた。「Carnetを持っていると事務処理が簡単に済むのですが…」と言いながらすぐに書類を作ってくれた。彼は「他の書類もあるので先にGiragに戻っておいてください。30分ほどで私も行きますから」と言った。本当に30分ほどで来てくれ、すぐにバイクの検査をし、バイクの持ち込み許可書をくれた。4~5時間はかかるだろうと思っていたバイクの引き取りは一時間半ほどであっけなく終わった。 いよいよバイクにまたがって空港を出ようとすると倉庫の中を通っていけと言われる。言われるままバイクを進めると大きなドアが閉まっていて、事務所の廊下から出るように言われる。廊下を出ると、何と10段くらい階段がある。空港と同じ高さにあるこの建物全体が崖の上に立っているような感じになっているのだ。「絶対に僕は下ろせない」と言うと、責任者らしき男性が僕と反対側のハンドルを握り、さらに6~7人の男たちが手を貸しに集まってきた。バイクを一段だけ降ろしたが、無理なのでもう一度みんなで引き上げた。一人が何処からか長い板を見つけてきたので、BMWはやっとコロンビアの道路に降り立つことができた。
倉庫からバイクを出すとき、Giragの会社の人がドライブシャフトから液が漏れているのを教えてくれた。一人がBMWの店を教えてくれた。途中までホテルと同じ方角なので、そちらへ向かっていく途中でガソリンを入れた。ついでにもう一度BMWの店を聞いた。この辺の国では一人の情報だけでは信用できないからだ。ガソリンスタンドの店員は、先ほど教えてもらった所にはBMWの店はないと言って、電話帳を持ち出してきて調べ、電話までして確認してくれた。店は違った場所にあった。日本のガソリンスタンドではここまでしてくれないと思う。
教えてもらったところにBMWの大きな店があった。BMWの従業員は、どこのBMWの店でも効率的に仕事をこなし、しかも愛想がいい。日本のSONYもそうだったが、従業員に対する教育がしっかりしているためだろう。修理工のEduardoによると、液の漏れはドライブシャフト内の圧力が上がり過ぎた時のオーバーフローだと言う。飛行機の中で外圧が下がったので漏れたのだろう。BMWは初めてでメカがわからないと言うと、懇切丁寧に教えてくれた。漏れた液の量は無視できるくらいだが、ついでに液を新しいものに交換してやろうかと言う。「いくら」と聞くと、無料でいいと言ってくれる。しかし液はコスタ・リカのサン・ホセで交換したばかりで、いくらも走っていない。「結構です」と断る。ついでにサイドスタンドの安全スイッチが不安定で、時々エンジンが始動しないことがあると言うと、スイッチ部分を取り外し、分解して見せてくれた。スイッチ部分は破損していた。下手をすると全然エンジンがかからなくなるところだった。部品を取り替えると高いし、安全スイッチを殺してしまえばエンジンをかけたままサイドスタンドが出せて、タバコを吸うのにもむしろ都合がいい。そこで、安全スイッチの手前で電気配線を直結してもらった。最後にタイヤに空気を入れてもらって、「いくらですか?」と聞くと、「お金は要らないサービスだ。その代わり店のシールを貼らせてくれ」と言う。帰り際にはワンタッチで荷物を縛れるベルト二本までくれた。店で出してくれたコロンビア・コーヒーは、入国して初めてでとても美味しかった。
ホテルの入り口には階段が三段あった。ホテルの従業員のHernandoはバイクを乗り入れれるよう、階段に木の板を渡してくれた。木が二段分の長さしかなかったので少し苦労したが、彼の応援で何とかバイクをホテルに入れることができた。ボゴタに着いて4~5日した頃、胃の調子が悪くなった。吐くのは慣れていて、吐けばいつも楽になるのだがこの日は違っていた。丸二日間寝込んでしまった。ものを食べずにいる僕にホテルの主人のManuelは、暑いお茶やミルクを作り何回も部屋に運んでくれた。ボゴタに着いて、僕は11年前に大阪で会ったHernan Patin^oと連絡を取ろうとしていた。Eメールのアドレスは古くて使えないので、電話番号帳で電話番号を調べた。同じ名前の人が6人いた。主人のManuelはみんなに電話してくれた。結局見つからなかったが彼の優しさには感激した。
ホテルの近所にはバーがたくさんあった。ホテルの周辺は比較的安全だが、それでも深夜になると危険だと言われている。ある日一人で初めてのバー兼レストランに行った。年配の女主人は絵も描き知的な感じのする女性だった。いい感じなので次の日もビールを飲みに行った。彼女の知的さに引かれてか、客には大学で社会学や東洋哲学を教えている人たちが来ていた。彼らとしゃべっていると夜の11時になってしまった。女主人は危ないからと言って近所から若い男性を捜してきて護衛につけてくれた。同じホテルに泊まっていたバックパッカーの若林恭志さんが、ボゴタの美人の写真を撮っておきたいと言い出したので一緒に街に出た。コーヒーショップや写真屋さんで若い美人に写真を撮らせてくれと頼んだ。みんな笑顔で快く引き受けてくれた。日本のベッピンは往々にしてツンとすましているが、この町ではベッピンまで愛想がいい。もっともこの町の殆ど全ての女性が美人であるが…
先に書いたHernan Patin^oの電話番号は、結局日本大使館でJICA(海外協力事業団)の電話番号を聞いてそこに電話した。HernanはJICAを通じて日本に来ていたので、事務所にはコロンビアからの研修生の名簿があると思ったからだ。電話をすると村松ジローさんと言う人が出て、事務所にはHernanの電話番号はないが、個人的に友達なので家に帰ると電話番号が見つかるかもしれないと言った。松村さんの帰宅後夜に電話すると、ありがたいことに電話番号が見つかっていた。電話するとHernanは早速ホテルにやって来た。11年前、JICAから大阪に送られてきた研修生の中で、Hernanだけがバイクに乗っていたと聞いたのですぐ友達になった。当時僕はバイクを数台持っていたので、彼と一緒にツーリングしたかったのだ。彼は土曜日に一度我が家に泊まりに来た。しかし彼は日本へ国際免許を持ってきていなかったので、バイクは止めて自転車にして、奈良の町をサイクリングした。
Hernanには7才のお嬢さんがいる。奥さんとは4年前に離婚し、今は28才のMilenaと言う恋人がいる。彼女のお腹の中には彼の子供がいる。秋には結婚することになっている。再会したHernanは、次の日曜日にMilenaのおばさんの家に行くが、一緒に行かないかと言った。 日曜日の朝、Hernanは彼の一人娘のMatzudyを連れて、約束の7時半よりも20分早くホテルに迎えに来てくれた。僕達はMilenaのアパートに向かった。Matzudyと言う名前は、おそらく世界でただ一つの名前だ。Hernanは今でも日本での4ヶ月半の研修の思い出を大事にしている。Matzudyと言う名前は、日本滞在中に知り合った日本人達の名前の頭文字を連ねて作り出したものだ。MはMatsumotoのMだと言う。光栄だ。MilenaはHernanと前妻の子供をおばさんに引き合わせようとしているのだ。優しくてよくできた女性だ。
Milenaのおばさんの家は、ボゴタから南西に120kmほど離れた谷にある。僕がエクアドールに向かう道の途中だ。ボゴタは北緯4度37分で赤道に近いが、高度が2600mもあるので涼しい。しかし一旦山を降りるとそこは熱帯で暑い。涼しいボゴタで18日もいたので、久しぶりにビールが美味しかった。おばさん一家は僕達を町外れの展望台に連れていってくれた。おばさんの旦那は日本製のオフロード・バイクを持っていて、奥さんを後ろに乗せて山の展望台まで僕達のクルマの前を走った。年配の夫婦の二人乗りを見て、僕は美しいと思った。できたら僕もいつかそうしたいと思った。
Hernanと恋人のMilena
MilenaのおばさんNidra一家
Milenaの父親Cristobalの一家
谷の町から戻って、そろそろボゴタを出てエクアドールの方に移動しようと考えている時、Hernanは次の週末には、今度はMilenaのおばさんではなく両親の家に行こうと言い出した。両親の家はおばさんの家からもっと南にあるが、エクアドールに続く同じ道からそんなに離れていないので、僕はバイクで行ってそのままボゴタを離れるつもりだった。しかし、その地方はゲリラが出るというのでバイクはボゴタに置いて、Hernanが友達から借りてきたクルマで行くことにした。Hernanの家はホテルから遠いし朝の出発も早いので、金曜日にホテルを引き払い、彼の家に移った。土曜日は朝早く起きたが、Milenaを迎えに行ったりしている内に、ボゴタを出たのは午後の2時半頃だった。クルマにはHernanの娘Matzudyに加え、Hernanの両親も乗っていた。途中でまたMilenaのおばさんの家に寄ったりしている間に日はとっぷりと暮れ、目指す家についたのは夜の8時半頃だった。その夜はHernanとMilenaの父親で学校で社会科を教えているCristobalと僕の三人で夜中の一時までコロンビア焼酎を飲んだ。翌日はMilenaの両親を加えて、未舗装道路の果てにある鍾乳洞へ行くことになった。道は荒れたダートだった。クルマのガソリンをキャブレターに送るポンプが動かなくなったので、Hernanは三回もガソリンを口で吸い上げキャブレターにガソリンを供給するはめになった。鍾乳洞はダートの終点からさらに徒歩1時間の所にある。僕はまだ足が完全に回復していないのでそんなに長い距離を歩けない。馬を借りようと言っていたのだが7人分の馬が手配できず、またガイドも見つからなかったので、近くの小さな滝のある川で水浴びをすることになった。熱帯のジャングルの中で清流に身を冷やすのは本当に気持ちが良かった。
小さな滝のある川で水浴び
Hernanはガソリンを口で吸ってキャブレターに給油
Hernanはボゴタ市役所で環境関係の仕事をしている。彼は、自分の勤務する職場や病院に僕を連れていってくれて多くの人を紹介してくれた。女性も多く、本当に美人が多い。そんな中にMarcelaがいた。彼女はHernanと同じ事務所の一階で固定資産の登録の仕事をしている。初めて紹介された時、隣の窓口に座っていたMarthaという若い女性とともに美人なので、二人のビデオを撮らせてもらった。事務所の女性たちは全員非常に愛想がよかったが、特にMarcelaはビデオの中でもウィンクをしたり、いろいろしゃべりかけてきたりしてくれた。Marcelaは、初めて会った僕に、「私は28才で8才と4才の子供がいるが、今は離婚して独身なの」と言っていた。 Marcelaには「次の週にまた事務所に来ます」と言いながら、エスペランティストに会ったりしている内に行けず、10日ほどが過ぎてしまった。その間にHernanから「Marcelaがトオルによろしくと言っていたよ」と何回か聞いていた。そして僕はいよいよボゴタを出ようと考えていた。その前にもう一度彼女に会いたいと思ったので、Hernanと一緒に出勤した。事務所の二階にあるHernanの部屋に上がろうとしていると、Marcelaが窓口を抜け出し、笑顔いっぱいで階段を上がってきた。しばらくしゃべっている間に、彼女ともっともっとしゃべりたいという衝動が込み上げてきた。僕は勇気を出して「今日仕事が終わってから会えますか?」と聞いてみた。彼女はその場で「いいわよ」と言ってくれた。
Marcela
翌日から僕は彼女に会うため、毎朝Hernanと一緒に出勤することにした。彼女の昼休みが始まる1時まではHernanの部屋で旅日記やメールを書いたりして1時を待った。彼女の仕事は4時に終わる。4時からは毎日デートだ。Hernanは、ほぼ毎日市内各所にある病院や会社に出張する。彼のいない事務所で、毎日毎日パソコンを使うのは気が引けるので、今はMarcelaの休憩時間が始まる1時前に事務所に行き、休憩時間が終わる2時から4時までは、近所の食堂にパソコンを持ち込み、一杯15円のコロンビア・コーヒーを飲みながらキーボードを叩いている。 彼女の二人の子供にも会った。彼女の家にも行って母親や兄弟姉妹にも会った。あさってからは三連休なので二人の子供を連れて温泉に行くことにしている。近い内に滞在延長許可を取るつもりだ。できればあと4ヶ月延長するつもりだ。そうなれば毎週末毎に、一緒に温泉に行ける。僕は、南米を一周したらコロンビアにまた帰ってこようと思っている
11年前に大阪で会ったHernanの家に移ってきてから、もう二ヶ月近く経ちました。この間、週末になるとボゴタの北にある温泉に行ってきました。ちょっと湯温が低いので欲求不満気味ですが、家族連れでも2000円くらいで泊まれるので助かります。また、すき焼きと水だきも作ってHernanの家族と親戚に食べてもらいました。以外と好評でした。すき焼きに生玉子を使う人が何人もいたので驚きました。箸もみんなワイワイ言って使ってました。
Hernanはボゴタの市役所で環境関係の仕事をしています。彼は市役所の環境技術者を集めて、大気汚染の講習会をしようと言い出しました。それでこのところ資料をインターネットや日本から取り寄せて、パワーポイントで説明資料を作っています。
近所のバーであった友達が皮ジャン屋に勤めているので、きょう、バイク用の皮ジャンと皮パンをオーダーする約束をしました。明日一緒に工場に行くことになっています。肩、肘、脛のプロテクターには厚い皮を貼る事にしています。上下で1万5千円くらいです。色は青にします。
Hernanはボゴタの空港のすぐ隣に三階建ての家を持っています。あさっての日曜日は二人でそこへ引越しするつもりです。Hernanは8月には婚約者のMilenaと別の新しいアパートにまた引越しします。そこにも一緒に行こうと誘われているのでそうするつもりです。
ボゴタには10月の10日頃までいて、それからエクアドルを目指し南下するつもりです。
一ヶ月ほど前にHernanと一緒に空港の近くの家に引越ししました。建築途中の家で一階に大きなガレージがあって部屋は二階にあるんですが、シャワーとトイレはガレージにあって階段には電気がないので、久しぶりに懐中電灯が活躍しました。8月1日の僕の55才の誕生日には二階にトイレと台所が完成し、友達が6人来て水だきを作って食べました。
きょうは土曜日、月曜からMarcelaと二人乗りで二週間ほどコロンビアの国内ツーリングに出ます。BMWのバッテリーが上がり交換しました。バッテリーはガソリンタンクの下に隠されているので時間がかかりました。エンジンはかかりましたが、不調なのでBMWの店に持っていきました。アイドリングでの回転が上がらずアクセルを開いたまま止まったり、またアクセルを開いても回転が上がらないので恐い思いをして店にたどり着きました。修理工に見せると1秒で直りました。変なバイクで、アクセルワイヤーがすぐずれてしまう構造になっているのです。
底上げしたブーツの底が壊れて口が開いてしまいました。修理のついでにさらに少しだけ底上げしました。そうするとチェンジレバーの操作が少し窮屈になったので、レバーの位置を上げようとしました。日本のバイクを調整する要領で位置を変えたら、レバーが上下でバイクのボディーに当たり、チェンジが入らなくなりました。それで元の位置に戻しました。この作業に三時間ほどかかりました。厚いマニュアルにも調整の方法が書かれていません。難儀なバイクです。修理工に聞くつもりです。
新調したライディング・ウェアーでツーリング
ボゴタの南地区のSan CarlosにあるHernanの両親の家に泊めてもらっていた頃、近所のバーへHernanと飲みに行っって、そこでMiguelに会った。彼は学生だが勉強のかたわら皮ジャンや皮パンを売る店の仕事をしている。仕立て料金を聞くと上下で1万4000円くらいだと言う。メキシコで上下のライディングウェアーを盗まれたので、ブーツとヘルメットの青に合わせて青の皮パンと皮ジャンをオーダーした。 8月に20日間の休暇がMarcelaに与えられることになった。二人の子供には学校がある。そこで初めて二人きりの旅行をすることにした。パナマの方に戻る15日のバイクツーリングと決めた。後部座席に人を乗せてツーリングするのは初めてだ。Marcelaもバイクに乗るのは初めてだ。彼女のために、ヘルメット、ブーツに加え皮パンと皮ジャンを新調することにした。Hernanが値切ってくれて1万円になった。二人のライディングウェアーはツーリングの直前にできあがった。旅行中の二人の子供の世話については、Marcelaの母親が隣に住んでいるし、家には弟夫婦が同居しているし、さらに彼女の女友達に頼んで子供と一緒に寝てもらうことにしていた。しかし旅行のことを8才のHaroldに告げると声を出して泣き出した。旅行の中止も考えたが、結局ボゴタから二日間の距離にある温泉に行って5日で帰ってくることにした。 中米の道路の舗装状態は悪かったが、コロンビアの道路はなぜか非常に良い。少し不思議に思っていた。空港の近くの家のガレージからバイクを出して2kmほど走ると、早速クルマの料金所がある。ボゴタから西に200kmほど離れたIbagueという町に着くまでに10ヶ所ほどあった。なるほどコロンビアの道路はいいはずだ。この道路の使用料金に加え、ガソリン代が1リッター62円するので、所得の低いこの国ではクルマの旅行は高くつく。しかしありがたいことに、料金所の道路の端にはバイク1台だけが通過できる通路が設けられていて、バイクは料金を払う必要がない。クルマと同じ料金を取る所が多い日本とは大違いだ。 コロンビアには南北に三つの高い山脈が走っている。ボゴタは一番東の山中にあって2,600mの高さにある。目指すSanta Rosa de Cabalの温泉は真中の山脈中に涌き出ている。そこへ行くためには深い谷を超えなければならない。ボゴタは北緯5度の熱帯だが、高度が高いので寒いくらいだ。それに8月になってからは、5月に着いた頃より寒くなった。だから新調した皮のライディングウェアーに冬用の手袋をはめてボゴタを出発した。山を下るにしたがって暑くなる。下りきると、そこは灼熱の暑さだ。シャツを一枚脱ぎ、夏用の手袋に替え、さらに皮ジャンのジッパーを開ける。それでも汗が流れ落ちる。
谷を横断し、少し真中の山脈を上ったところにIbagueの町がある。高度があがったのでそんなに暑くはない。でもホテルにはプールがあったので涼しいとまではいかない。ここで一泊し、翌朝は一時間半も山を上る。上り一方の一時間半だから当然高度は高い。峠の高さは4,000mもある。富士山の頂上よりも高い峠だ。そこから北の方角のさらに高い山には雪が積もっていた。峠を半ば下った所で警察の検問があった。いやな感じがしたら、案の定止められた。免許証、パスポート、それにバイクの延長許可証を見せる。中米の国々でも何回も検問にあったが、すぐに通してくれた。しかし今回は様子が変だ。若い警官は交通保険が要ると言い出した。もちろん買っていない。この場にバイクを置いていき、罰金1万3000円を払えと言う。Marcelaが弟から借りてきた携帯電話でHernanに電話した。ボゴタで勤務中のHernanは、交通省に電話して外国人旅行者にはその義務はないという情報を得てくれた。しかし警官は聞こうとしない。Marcelaに万が一の賄賂として1,700円渡しておいた。必要なら保険を買うと行ったら二人の若い警官は警察のバイクに二人乗りして保険屋まで先導してくれた。保険は一年間有効のものしかなく、1万6,500円もするというが、仕方がない。しかし昼休みで保険は買えなかった。そこで警察に連れていかれることになった。罰金のこともあるので日本大使館に電話して助けを求めた。僕は約30回の海外旅行で大使館に助けを求めるのは初めてだ。大使館員は保険のことは知らなかったので、調べて電話すると言ってくれたが、その後連絡はなかった。警官は上司の許可を取って、僕のバイクに乗り別の保険屋に行くことになった。BMWを運転した警官の態度は軟化した。着いた保険屋では、本店に行かないと保険が買えないと言われた。結局、Marcelaがお金を渡して僕達は開放された。警察に半日拘束されたので、保険屋の本店があるArmeniaの町に泊まることにした。また別の所で警察に捕まったら嫌なので保険は買うことにした。閉店で売れないというところをMarcelaが頼み込んで買うことができた。しかも特別に三ヶ月の保険を出してくれた。料金も3,400円という安さだった。
翌日はバイクをホテルの駐車場に止め、バスを乗り継いでSanta Rosa de Cabalの温泉に行くことにした。ここには温泉の滝があると聞いていて、ぜひ来たいと思っていたから以前から調査していて、ホテルがないと聞いていたからバスの日帰りにしたのだ。温泉はSanta Rosa de Cabalの町からさらにダートの道をタクシーで25分ほど山の中に入ったところにあった。何と、立派なホテルが建っている。料金は三食付きで一人一泊3,800円という。それならここに泊まるのだった、と後悔した。噂どおり、5mほどの滝から大きな湯槽に温泉が流れ落ちている。背後の高い山からは200mはあるだろうか、高い滝がそのまま湯槽の横にまで流れ落ちている。しかしそれは温泉ではなく、冷水だ。温泉客が温まった身体をこの滝で冷やしている。例によって湯温は低めだ。しかし温泉の滝の下に身体を沈めると、熱い湯が肩を流れ落ちる。なかなかいい感じだ。身体が温まったところで、上の高い滝まで歩いていった。途中で温泉の滝の上部を見てがっかりした。自然の滝ではなく、源泉からパイプで温水を流していたのだ。そうは言ってもこの温泉、日本でもなかなかない自然の中のいい温泉だった。
再び4,000mの峠を超え、ボゴタへの帰途に着いていた。山を降り切ったIbagueの町でまた一泊することにした。街を歩いていると偶然、Marcelaが友達に遭った。Ibagueの近くにも温泉の滝があると言う。地図で見ると、それは4,000mの峠から見えた雪の山のIbague側の谷にある。ゲリラが出る可能性があると言われたが、温泉なら危険は覚悟だ。一日日程を延長することにした。El Ranchoの温泉は深い山の中にあってバスは途中までしか通っていない。ジープをチャーターした。上り道が続く40分の舗装道路の後は40分の荒れたダートが続いた。クルマの走れる道は途絶え、そこからは谷川沿いに上り下りのきつい山道を一時間歩く。
Santa Rosa de Cabalの温泉
ジープでEl Ranchoの温泉に向かう
温泉まで山道を一時間歩く
道は、四方を高い絶壁で囲まれた谷間で終わっていた。絶壁からは7つの滝が長くて白い線を描いている。その一つが温泉の滝だ。滝の湯量は多くないが麓で天然の湯槽を作っている。湯は黄緑色に濁っている。僕は透明の湯よりもこんな湯の方が温泉らしくて好きだ。温泉には誰もいなかったので、日本のようにパンツを履かず裸で入った。Marcelaも僕に従った。生まれて初めてらしい。El Ranchoというこの温泉には電気はないが、小さなキャンプ場と山小屋がある。一人一泊250円という安さだ。こんな未開発で自然のままの温泉も日本では珍しい。ボゴタからは一日で来れるので再訪するつもりだ。帰りはアメリカ以来痛めていた両足が嫌がるので馬で帰ることにした。馬は20年ほど前に、タイのビーチで10分ほど跨って以来だ。歩くのも難しいほどの山道を一時間、バイクよりもずっと高い馬の背にしがみ付きながら耐えた。馬は途中で三回、川を渡った。冒険だった。
El Ranchoの温泉
コロンビアの首都ボゴタは、3000メートルほどの山に囲まれた盆地だ。東の山麓の中央部にセントロと呼ばれるボゴタの旧市街があり、植民地時代の古い町並みや教会、広場が残っている。そこにはホテルも多く、ほとんどの観光客はこの辺りに泊まることになる。この旧市街を囲むように高層ビルが林立している。ボゴタの商業の中心地区だ。ここからまっすぐボゴタ市の市境界まで西に向かうと国際空港がある。一般的にボゴタは、この東西の中心軸の北側が裕福で安全な地域、南側は貧困で危険な地域とされている。僕はボゴタに着いてから3週間はセントロの安宿に泊まっていたが、その後2ヶ月ほどはボゴタの南東にあるHernanの両親の家に泊めてもらった。現在、僕は空港のすぐ南のPuente Grandeと呼ばれる所にあるHernanの家に彼と一緒に住んでいる。恋人のMarcelaはボゴタ市の西南に隣接する町の、さらに山の上にあるBuenos Airesと呼ばれる所に住んでいる。
Hernanの両親の家があるSan Carlosの辺りの道路は、一応舗装されているものの、至る所で舗装が破れていて、そこを走るバスは揺れに揺れた。しかしPuente GrandeやBuenos Airesになると道路はほとんど舗装されていない。特に僕が住んでいるPuente Grandeでは、天気がよいと土埃が舞い上がり、また一旦雨が降ると道がぬかるんで歩くのにも苦労をする。一方、高級住宅街の広がる北部地域の舗装状態はいい。このボゴタの街にTransMilenioと呼ばれる2車両連結のバスが、東の山麓に沿って南北に一本と、東西の中心軸の北側に沿ってもう一本、走っている。全線一定料金で、僕がボゴタに着いた頃は43円だったが、最近47円に値上がりした。大部分は片側ニ車線の専用道路上を走り、大体4街区毎に、バス停のイメージを超えた大きな駅がある。駅では路線地図も置いているので、街に不慣れな観光客にも利用しやすい。これは公共のバスだ。しかし、庶民の足は何と言っても街中を縦横に走る民間のバスだ。大型のバスから座席数が15ほどの小型バスまでが、路地裏まで含めてひっきりなしに走る。民間の市内バスの料金はTransMilenio同様一定だが、TransMilenioより1~2割安い。バス停はなく、どこからでも乗り降りできるので、うまくすればタクシーのようにドア―・トゥ・ドア―の移動が可能だ。便数も多く、たいてい10分も待たずして乗れるので非常に便利だが、慣れるまではどのバスに乗っていいのかわからない。TransMilenioのように路線地図があれば便利だが、多分路線網が複雑過ぎて地図は作れないのだろう。
メキシコからコロンビアまで南下してきたが、ボゴタはメキシコ・シティー以来の大都会だ。広い道路が数多く走り、主要交差点には交通信号も整備され、立体交差や歩道橋まである。しかしこの交通信号、クルマからは見えるが、なぜか歩行者からは見えない。自動車優先のシステムのようだ。それに、交通量が多い割には信号の数は日本ほど多くない。だから、大きな道路を横断するのは命がけだ。道路上には白いペンキで何やらマークが描かれている。交通事故死のあった場所を示している。道路上にはこのマークが驚くほど多く見られる。ボゴタもメキシコ・シティー同様、多すぎる交通量に困っていて、大胆な交通規制を行っている。メキシコ・シティーでは曜日毎に2割のクルマに対し終日通行禁止対策を取っていたが、ボゴタでは朝夕の交通ラッシュ時にのみ通行禁止としている。その効果があってか、日本の大都市ほどの交通停滞はない。
この道路上をバイクも走る。ほとんどが日本製の200cc以下のオフロード・バイクだ。全員が登録番号の書かれたヘルメットを被っている。それだけではない。同じ登録番号が蛍光繊維で大きく書かれたチョッキを装着している。ボゴタは涼しいというより寒いくらいなのでいいが、暑い日本の夏でこんなものを着せられると大変だ。夜に走るライダーの視認性を高めるためならわかるが、昼間も全員が装着している。理由は意外なところにあった。実は犯罪防止のためなのだ。ボゴタやコロンビアの他の大都市では、バイクの二人乗りによる引ったくり等の犯罪が頻発したらしい。それを防止するための対策なのだ。それにしてもバイク乗りにとっては邪魔くさいことだ。僕は観光客で、乗ってきたバイクをこの国では登録できないので、幸いにしてこんなチョッキを着る義務はない。しかし、ボゴタ市内の道はよくわからない上に、ほとんどが一方通行になっていているので、バイクを走らせる気にはならない。もっぱら安いバスを利用していて、バイクはガレージで眠ったままだ。
バスの料金は40円くらいで、日本人観光客にとっては安い。低所得者の月収が1万円くらいと言われるこの国では、安いのはバス代だけではない。全てが安い。コーヒー一杯15円。ビール小ビン35円。4リットルの飲料水40円。タバコ一箱45円。昼定食90円。最近は近所の店で肉などを買って50円ほどの夕食を作っている。インターネット・カフェでの1時間の使用料金が45円~60円。家賃は、北の高級アパートでは4万円ほどしているが、今僕が住んでいるPuente Grandeでは月額4,500くらい、Marcelaの住むBuenos Airesでは2,000円から4,000円と聞いた。今僕が住んでいるHernanの家は、一階に大きなガレージがある三階建ての家だが、その建設費は100万円くらいだから、僕のBMWとほぼ同じ値段だ。日本では家を持つことなんか頭から考えていなかった僕にも、その気になればここでは可能だ。何か、お金持ちになったような感じがして嬉しくなる。
ボゴタ市の北には、たくさんの高層高級アパートや住宅団地がある。泥棒が多いせいか、これらは高い塀で囲まれていて、入り口の門には必ず守衛さんがいて入出者を監視している。僕が今住んでいるPuente Grandeの家は貧困地域に建っている。屋上に上がると並木の向こうに飛行機が降りて来るのが見える。小さな村ほどの地域だが、レンガのやはり高い塀で囲まれて、鉄扉の入り口には守衛さんが24時間監視している。外から見ると、まるで刑務所のようだ。だから内部は安全だ。しかしここは幸か不幸か刑務所ではないので、内部の住民はみんなでお金を出し合って守衛さんに給料を払わなければならない。その分当然、自由に出入りが許されている。
空港の近くにあるPuente Grandeの家は、刑務所の中に建てられているみたいだ。道の突き当たりに高い塀が見える。
Buenos AiresのMarcelaの家からはボゴタが一望できる。
Marcalaの住むさらに貧困地域のBuenos Airesでは、レンガ造りの家が山の斜面いっぱい張りついていて塀はない。山の天辺近くにあるMarcelaの家からは、遠くに飛行機が離着陸するのが見下ろせるし、また夜になるとボゴタの盆地が一面、光の海に変わる美しい夜景を楽しむことができる。しかし、この地域はボゴタの中でもかなり危険な所だと言われている。ゲリラが多く住んでいるとも言われている。そのせいか、塀はなく守衛さんはいないが、その代わりに山の中腹に兵隊が駐屯している。そこは高い土嚢で囲まれていて、土嚢の至る所に銃を撃つための隙間が設けられている。戦争映画で見たことはあるが実際に目にするのは初めてだ。やはりこの地域は危険なのか?8月以降、僕は週の半分をPuente Grandeで、残りの半分を Buenos Airesで過ごしている。この両地域には観光客は僕を除いていない。しかし不思議なことに多数の犬が我が物顔で道路をうろついている。泥棒避けの番犬なら家にいなければならないはずだが、単なるペットなのか? みんなは危険な地域と言うが、僕にはそうは感じられない。僕は人間よりも、むしろ犬の方が恐いくらいだ。それよりも観光客の多いセントロの方がもっと危険だ。バックパックのポケットから新品の皮手袋を盗まれたし、強盗の一団に狙われた時にはタクシーに飛び乗って逃げたこともある。 この貧困とされる両地域、噂と違って却って安全なのだが、困ったことがある。それは水だ。Buenos Airesでは水道管が敷設されているのに役所は偶にしか水を送らない。住民がバケツで水を家まで運んでいる姿を何回も見た。また水を確保しても、家の屋根に設けたタンクに運び上げなければならないし、そのタンクはそんなに大きくないので、通常は水洗トイレやシャワーの水は出ない。顔を洗うのもグラスに汲み取った水で済ます。Puente Grandeの家では引っ越してきた当初から、水は一階のガレージで常時使えた。8月1日には、その日の僕の誕生パーティーに合わせて、寝室のある二階に台所とトイレが完成した。6人の友人が来てくれて完成したばかりの台所で「水だき」を作って祝ってくれた。トイレでは待望の熱いシャワーも出るようになった。しかし三週間ほど前に配水施設が故障して水が絶たれた。何日かして待望の水が出たと思ったら、また別の個所に問題が出て、現在も断水中である。歯を磨くのも顔を洗うのも袋で買った飲料水を使わなければならない。安いとは言え、もったいない感じがする。
スーパーマーケットの入り口ではガードマンが見張っている。
スーパーマーケットではこんな所に手荷物を預けなければならない。
危険と言われるPuente Grandeでも Buenos Airesでもそんなに危険を感じないと書いたが、コロンビアはやはり日本ほど安全ではない。大きなスーパーの入り口には兵隊のような格好をしたガードマンが、見るからに恐い番犬を従えて客の手荷物を調べるし、中に入るとバックパック等の手荷物を預けなければならない。公共施設でも同様に荷物の検査があり身分証明証の提示が求められる。いずれも危険物の持ちこみと内部からの物品の不正持ち出しを防止するためである。僕は少し大袈裟ではないかと思っていた。しかしそれは間違っていた。ある日、いつもどおりインターネット・カフェへ行った。入り口に入ると何か様子が変だ。「今日はパソコンを接続できない」と言う。見るとカフェのサーバーと4台のパソコンがそっくりなくなっている。入り口のシャッターが破られ、ディスプレーとコンピュータをガッチリ固定していた厚いアルミの棒がことごとく切断されている。この日の朝4時頃襲われたらしい。何もこの店が最初ではない。ここ数年間で近所の店4~5軒も襲われたらしい。やはりこの国には泥棒が多いのだ。 強盗は交通事故のようなもので日常的に起こるものではない。せっかちな日本人にとってそれよりも問題なのは、こちらの人は約束した時間を守らないことだ。ラテンアメリカの人達が時間にルーズなのは、どんな本にも書かれていてたくさん読んだ。ホンデュラスではパーティーには一時間から二時間遅れてくるのが常識と聞いた。この国でも人と会うのに1~2時間はまず遅れて来ると思った方がいい。ラテンアメリカの国では、よく言われるように時間がゆっくり流れるのだ。覚悟はできていたはずだ。また逆に、何事でも時間に追われて忙しい日本よりもいいのではないかと思っていた。メキシコとホンデュラスではそれぞれ半年滞在したが、メキシコは大きな国なので移動を繰り返しているうちに半年が過ぎ、ホンデュラスでは小さな町で毎日じっとしてスペイン語を独習していた。しかし、コロンビアのボゴタでは動き回って多くの人と会うことになった。そうした中で、何事につけてもゆっくりした彼らのペースに対してイライラすることが多くなってきた。
まず役所だ。空港での入国時に2ヶ月の滞在許可をもらった。僕は当初、コロンビアには一ヶ月程度しか滞在しないつもりでいたので3ヶ月は求めなかった。バイクについては3ヶ月の許可が出た。しかし滞在が予定より伸びたので延長許可を取ることになった。僕自身に対する延長許可は簡単にでたが、それは2ヶ月だけで8月23日までだった。バイクの許可は7月24日に切れるので、2ヶ月の延長許可の印が押されたパスポートを持って別の役所に行った。係員がいとも簡単に、「はいはい、バイクですか、3ヶ月の延長許可をあげますよ。二日後に取りに来てください」と言ったのでその日に行った。許可書はできていなかった。それで、許可書ができた時点で電話してくれるように頼んだ。4~5日後に電話があった。僕はスペイン語がわからないので、Hernanの弟のElio代わってもらった。書類が足りないし、許可は8月23日までしか出せないと言う。しかも一回の延長しか認めないと言う。それでは6か月いるつもりでいたコロンビアを4ヶ月で出なければならない。困った。そこで、Hernanの知り合いの中にその役所に顔が利く人がいるので、その人に頼むことにした。賄賂が要るのだろう、彼に6,500円払った。この国では大金だ。時間がかかったにもかかわらず、バイクの延長許可は3ヶ月は出ず9月4日までだった。しばらくすると二回目の延長許可が必要になった。そのためには8月23日に切れる自分自身の延長許可を再度取らなければならない。8月8日から国内ツーリングでボゴタを離れるつもりだったので、8月5日に入国管理事務所に行った。8月15日以降にしか出せないと言って聞かない職員に頼み込んで、また2ヶ月の延長許可をもらった。バイクの方はお金を払ってあるので、これで簡単に済むと思って、早速例の代理人に書類を渡した。すぐに問題なくもらってやると言った代理人だが、Hernanの50回以上もの催促の電話にもかかわらず、40日以上経った今も、彼からバイクの延長許可は届かない。
ボゴタではジーンズ風の革を発見した。今までどこの国でも見たことがないので、その革を使ったジーパンを皮革衣料店に注文した。例によって、仕上がりの期日は2回、3回と延び、挙句の果てには革が入手できないという理由で店からキャンセルされた。別の店では倍の値段でなら作ってやると言われたが、とうとう腹が立ってきたので自分で革と縫い子を探すことにした。縫い子は見つからなかったが、安く仕立ててくれる店を探し当てた。革を余分に買ったので、ズボンに加え、ジャンパー、手袋、野球帽も注文した。約束の日の一日後に行ったが、何もできていなかった。「明日の11時には全部仕上がります」と言うので、その時間に行くと、ズボンだけしかできていなかった。この店も、その後二回、三回と約束の期日を延長した。この国の人は、「はいはい、すぐに、間違いなく、大丈夫です」と言うのが口癖のようだが、まず信用できないと思った方が、やはりよさそうだ。約束を守らない人が多いので少し不安だが、なめし皮とそれを縫製してくれる人たちの人件費も安いので、一年後にコロンビアに帰ってきたら、皮ジャン、皮パン、靴、帽子、手袋等を日本に輸出しようかと、今考えている。
ボゴタに来てから5ヶ月近くが過ぎた。この間、ラテンアメリカの自由度の大きさが、日本人の僕にはやはり問題になってきた。この国と人たちと一緒に仕事をするためには、せっかちな僕自身を変えていく必要がありそうだ。僕はこの旅を通じて、できれば少しでも仏陀の心境に近づきたいと願っている。まだまだ修業が必要なようだ。
10月9日の木曜日はMarcelaの29才の誕生日だった。コロンビアの滞在許可は10月23日までなので、誕生日が済むと、エクアド―ルに行く途中の町Caliで待ってくれているエスペランティストと日本人旅行者のSJさんに会ためボゴタを出るつもりだった。ところがカレンダーを見ると13日の月曜日は祝日で休みだ。このことをMarcelaに告げると、ボゴタから4時間の距離にあるIbagueまでバイクの後部座席に乗って見送ってくれると言う。Ibagueの近くには既に二回行ったEl Ranchoの温泉があるので、11日からそこに一緒に行くことにした。荷物は、運送会社からEl Ranchoの管理人AlirioのIbagueの自宅に送った。
ボゴタを土曜日の朝の8時前に出て、Ibagueには12時に着いた。Alirioの家は大きなホテルの裏にあった。ホテルの横からは道は舗装されていず、一部道がぬかるんでいた。いやな感じで百メートルほど走ると、鉄条網の柵があって、細い下り道になっている。そのまま道が続いているのかどうか分からない。Marcelaがバイクを降り、柵を開け歩いてバイクが走れる道なのか見に行った。帰ってきたMarcelaは、僕の方を指差した。降りかえるとAlirioがバイクの後ろから歩いてくる。一緒に柵を通り過ぎると、前方一面に牧場が広がった。Alirioの家は牧場だったのだ。
IbagueにあるAlirioの家は牧場だった。同じ牧場に住むこの親戚の女の人たちが出してくれた牛乳は最高だった。
El Ranchoの温泉からの帰りは、いつもどおり馬だった。
Alirioは既に、彼の小型トラックで僕の荷物を引き取ってくれていた。僕達は早速荷物をまとめて、彼のクルマで山の上にある彼の温泉に向かった。Ibagueの町で昼食と用事を済ませたら3時半だった。他の観光客を乗せた彼のトラックが山道の果てに着いたのは、もう5時だった。馬が用意されていなかったので、一時間歩いた。温泉に着いた時は夕暮れが迫っていた。あっという間に二日が過ぎ、月曜日が来た。Marcelaは午後の3時にバスでボゴタに帰った。涙の別れだった。二年近く前、カリフォルニアのマイケルの家を出た時に流して以来の涙だ。あの時は別れる時にサングラスをかけて涙をかくした。しかしその後、バイクを走らせてからは涙をこらえることはできなかった。今回はMarcelaに涙を隠せかなかった。別離がこんなに寂しいと思ったのは初めてだ。僕は彼女を見送ってからすぐ、Alirioの牧場に帰った。そこで牧場の絞りたての牛乳を飲んだ。初め、僕は練乳だと思っていた。市販されている牛乳とは違って信じられないくらい粘度が大きいのだ。甘味がある濃厚な牛乳で最高に美味しかった。IbagueとCaliの間には、4,000メートルの峠がある。前に超えた時は下り坂の中腹で警察の検問にあって、交通保険が必要だと言われ、半日棒にふった。この日は峠の上りから強い雨が降り出した。そしてまた、同じ場所で検問があった。今度は前に買った保険を持っていたので、検問は簡単に終わった。パスポート、それに運転免許証と二枚の銀行のキャッシュカードを入れたアルミケース、そして4ページから成るバイクの延長許可書を、雨の降り続く中マニ―ベルトに入れようとしていた。きちんと入っていた延長許可書が入らない、入れようとして何回か試みたが、結局諦めてタンクバッグに入れた。そしてマニ―ベルトのファスナーを締め忘れた。
運転免許証と銀行のキャッシュカードは一番大切なものだ。気になったときはいつも、バイクを止めて持っていることを確認するのが癖になっている。この日も、一時間ほど走ってから気になってバイクを止めた。ファスナーが開いている。そして大事な三枚のカードを入れたアルミのケースがない! 雨の中を対抗車線見続けながら、また検問のあった場所まで戻ったが、そんなもの見つかるはずもない。インターネットでカードを廃棄して不正使用を防ごうとしたが、インターネットでは両銀行ともそんなメニューを作っていない。弟にカードの紛失連絡と再発行を頼むメールを書いた。運転免許証はコンピュータにスキャンしたコピーを取っていたので、写真に使う上質紙に印刷して、さらにプラスチックでコーティングして本物と見間違うような免許証を作った。南米の警官は誰も、日本の免許証はプラスティックとは知らないだろう。見破られた場合は、コロンビアの警察で発行された紛失届を見せる。さらに問題が続く場合には、ホンデュラスの日本大使館で発行されスペイン語で書かれた、免許証の証明書を見せるつもりだ。
Cali
Caliのエスペランティスト、Rafael
この事件でCaliへの到着は一日遅れた。Caliのエスペランティスト、Rafael Meijaは、僕がコロンビアに着いてから他のエスペランティストに聞いてメールをくれた人だ。コロンビアのエスペラント連盟の会長をしている。Rafaelは僕に、彼の家に泊まるよう招待してくれていた。僕はガイドブックの地図に載っているホテルの方が行き易いし、町の中心にあるのでインターネット・カフェも見つけ易い、さらにタバコも自由に吸えるのでホテルに泊まることにしていた。Rafaelとは、僕がCaliに着いた日には仕事で遅くなって会えなかったが、その代わり姪のPaolaに連絡を取ってくれていた。彼の自宅に僕のホテルの電話番号を告げると、しばらくしてPaolaからホテルに電話があった。その夜、彼女の家に行った。彼女は妊娠三ヶ月だが、結婚はしていない。夫に当たるJilioとは一年以上一緒に暮らしている。結婚が大事なラテンアメリカの女性としては変わった生き方だ。夜遅く彼女の家にRafaelから電話があった。彼は、僕のホテルは危ない地域にあるので彼女の家に泊まるよう言った。それでその夜、僕はそこで泊めてもらうことにした。翌朝は彼女と一緒に8時過ぎに、彼女の勤める電話会社に出勤した。Rafaelとはそこで会うことになっていた。ラテンアメリカの人達は時間を守らないことで知られているが、エスペランティストだけは別だ。彼も僕達が会社に着いて数分後に現れた。そこで初めてRafaelに会った。眼鏡をかけた小柄な人で、年齢は50台後半だろうか。流暢なエスペラント語をしゃべるが、僕にはゆっくり、はっきりしゃべってくれた。心が広くて優しい人だ。彼の仕事は午後からなので、午前中は僕のホテルでしゃべり、その後なくした運転免許証の偽造に付き合ってくれた。これがなかなかうまくいかず、昼食は彼の家に招待されていたのだが時間がなくなり、彼も僕も行けなかった。
翌日の朝8時、約束どおりきっかりにRafaelは僕のホテルに迎えに来てくれた。彼は僕を考古学博物館に連れていってくれた。博物館の係員が僕達に付いて、説明して回ってくれた。僕はスペイン語がうまく聞き取れないので、Rafaelはエスペラント語で通訳してくれた。この日は金曜日だった。Rafaelは毎週土曜日の午前中、エスペラント語を教えている。博物館を出てから、僕達は彼の教材を入れる円筒形のケースを買いに行った。そして一緒に昼食を食べた。昼食は彼が払ってくれた。昼食後、僕達は再会を約し、彼は仕事場に向かった。
僕はホテルに帰り、ガイドブックで国境越えに関する情報を読んでいた。通貨の両替を読んでいる時に、彼が僕のお金を預かっていて、前日彼に会った時、もし忘れるようだったら教えてくれと言われていたのを思い出した。なぜ初めて会った彼が僕のお金を預かっていてくれたかと言うと、実はボゴタで会ったCaliのエスペランティストFrankにお金を貸して、それをRafaelが預かってくれていたのだ。あの時、Frankはロシアへ行くビザ等の手配でボゴタに来ていた。僕のホテルの部屋に五泊したが、ゲリラの通信塔破壊で送金が受け取れなくなったので、彼にお金を貸したのだ。それをRafaelも僕も、別れる時に忘れていた。それで彼の家に電話した。職場の彼とは連絡は取れなかった。家族の伝言を聞いてその夜、Rafaelはまたお金を持って僕のホテルに来てくれた。ラテンアメリカの国々では泥棒が多く、そこに住む人達は時間にルーズだと言われている。しかし、エスペランティストだけは別だ。
ゲリラが出かもしれないと言われたCoconucoの温泉
Popayan
Caliから南のエクアド―ルに向かって130キロほどの所にPopayanという古い町がある。ここから南の国境に向かってゲリラが出没すると言われている。革命に命をかけるゲリラを、僕は原則的に尊敬している。しかし、この国のゲリラは、人々の話によるとそんなゲリラではなさそうだ。この国は麻薬で世界的に有名だ。一昔前、麻薬を扱うこの国のマフィアはコロンビア政府よりも強力、強大と言われた。麻薬汚染で苦しむアメリカは、この国の政府と協力してマフィアを一掃した。その後、ゲリラはマフィアの仕事を引き継いだと言われている。それだけでなく、身代金目当ての誘拐をする。さらに、バイク旅行者まで狙う。僕は交通量が多くて、より安全な週末にこの地域を走り抜ける計画だった。19日の日曜日の早朝、Popayanを出た。一時間ほど走ると、対抗車線を兵士を満載した重装備のトラックが6~7台通り過ぎた。山の頂上付近では銃を構えた多数の兵士が道に立っていた。まるで戦争だ。でも、僕は安全だと思った。兵士に守られているのだ。 一番大事なカードを三枚なくしたので、僕には恐いものがなくなった。Popayanでは、一時間ほど山に入った所にあってRafaelから危険だから行くなと言われたCoconucoの温泉にもバスで行った。ゲリラに襲われても失うものは少ない。それであまり恐怖を覚えずエクアド―ルに向かった。そうは言ってもやっぱりゲリラが恐いので、いつになく僕は飛ばした。いつもクルマに抜かれる僕だが、この日は別だった。一刻も早くこの危険地帯を抜けたい思いで、僕はクルマを抜いた。僕を抜くクルマは一台もなかった。考えてみると、僕のバイクはBMWなのだ。元々クルマよりも速いのだ。一時はバイクの陸送も考えたが、自走を選択した。そして幸いゲリラとは遭遇しなかった。危険と言われるこの地域、最近は落ち着いているようだ。6ヶ月いたコロンビア、噂ほどの危険はなくいい国だった。一年後に僕はこの国に帰ってくる。