(1)2002年6月16日 Santa Anaからのメール
(2)2002年6月24日 San Salvadorからのメール
(4)2002年7月14日 San Miguel付近からのメール
(5)ホンデュラスからエル・サルバドールに来た若い七人の家族
グアテマラ・シティーから東へ150kmほど走ると、もうそこはエル・サルバドールです。6月8日にバイクの許可が切れるので、少し早めの6日、グアテマラ・シティーを朝の11時頃出て、国境には午後の2時頃着きました。グアテマラ入国の時のように3時間かかるとしたら5時。何が起こって時間がかかるかわからないので、国境の小さな村で泊まるつもりでした。ところが民宿が二軒あるだけで、途中の道はダートのガタガタ道です。近い方の民宿は一泊600円弱ですが駐車する場所がないし、遠い方は危険だというので、20kmほど引き返した町のホテルで泊まりました。1300円ほどしましたが、広い駐車場があり、部屋にはテレビまであったのでワールドカップを見ることができました。
Santa Ana の街角
翌日、国境には朝の10時頃着きました。国境の道の両側には屋台が並んでいて、クルマはとても通れそうにありませんが、そこはバイク、歩く速さでグアテマラ側のゲートに近づいていくと、早速若い男が来て5ドルで出国事務を助けてやると言います。すぐにもう一人の若い男が来て、彼はエル・サルバドール側の入国事務をすると言います。二人でペアーを組んで仕事をしているんです。僕はこんな商売の人は嫌なんですが、彼らは国境の役人と知り合いなので、長い列があっても割り込みができて時間が短縮できるし、それよりもコピーを取って来い、次は銀行へ行け、今度は別の窓口へ移れ、等々、入出国事務は複雑を極めますから、これは入国税だと諦めています。だから、腹は立ちません。ここでもグアテマラ入国時と同様、イミグレーションは数分で終わりましたが、バイクは大変でした。おそらく二人がいなければ一日では終わらなかったんではないかと思います。心配していたエル・サルバドールへのバイクの持ちこみは、案外早く書類が揃い、簡単に済みそうな感じだったんですが、最後のパソコンで時間がかかりました。50才を越えたオジさんが、バイクの書類をパソコンに入力するんですが、同じ書類?何回も見ては、またパソコンを覗き込んだりして、一時間ほどかかりました。パソコンのない時代はその書類にハンコを押し、綴じたら終わりだったんですが… でも、パソコンが入ったために、却って事務処理に時間がかかってしまう例って、日本にもたくさんありますよね。エル・サルバドールへのバイクの持ちこみは一ヶ月だけだと、ガイドブックに書かれていたのに、役人としゃべっていると二ヶ月くれました。ひょっとしたら、これも入国事務手配師のお陰だったのかもしれません。彼には10ドルあげました。入国にかかった公的費用はたったの1ドルですから、入国税と割り切っているとは言え、やっぱり心にしっくりしないものが残ります。
やっと入国を終え、バイクで走り出したら暑いのに気がつきました。途中にガソリンスタンドがあったのでバイクを停めると、久しぶりにコンビニがあるではありませんか。アメリカ以来だと思います。しかもこの国は二年ほど前から、アメリカのドルをそのまま使っているんです。ソフトドリンクを買ったら、お釣りが5セント足りません。店の女の子にそのことを言うと、「ないんです」と言ったまま平然としてくれないのには驚きました。
Santa Ana の売春宿
日本レストラン「清代美」
今、国境から35kmほど東に来たSanta Anaという町に10日ほどいます。この町は標高600メートルで、エル・サルバドールで一番古い町だそうです。グアテマラの人たちは控えめで暗い感じすらしたんですが、エル・サルバドールでは、またメキシコのように人が明るくなり、ニコニコ微笑んではどんどん話しかけてきます。10年前くらいまで続いていた内戦の陰は見られません。物価も一段と安くなりました。この安宿は大きな屋根付きの駐車場があって、一泊5.7ドルです。実は売春宿なのです。タバコは一箱1ドル、ウォッカの1リットル瓶が2.45ドルで売っています。この前売春婦と二人で食堂に入って夕食を食べたら、ビール小ビン二本を飲んで2.5ドルでした。また、ホテルからちょっと離れたところには日本レストランがあります。店の主人は大阪の人で、商社に勤めていて世界中あちこち回った挙句31才の時に、この町で土地の女の人と結婚してそのまま28年間暮らしています。普段は日本料理を出していないそうですが、今ワールドカップですから、日本の宣伝も兼ねて特別にカレーライス、巻き寿司定食、のり巻きの三品を出しているそうです。でも僕にはメニューにない玉子焼き定食(?)、親子丼、そばなんかを食べさせてくれます?久しぶりに食べる日本料理は、やっぱり格別です。 あと数日したら、東の首都サン・サルバドールの方に向けて移動します。ここでも夕方から夜にかけて、ほぼ毎日のように雨が降っています。この前は珍しく朝にまで降りました。移動の日はいつもどおり午後に降ってくれることを祈ります。 この国では大きな三つの町にだけインターネット・カフェがある、とガイドブックには書かれています。この町はそのうちの一つです。しかしなかなかPCを接続させてくれません。一軒だけ接続を許してくれました。でも、LANの設定は何もしていないのに、なぜか接続できませんでした。そのカフェには電話があって、60kmほど離れた首都のサン・サルバドールまで一時間2ドルで電話できるので、首都にだけあるAOLに接続しています。
エル・サルバドールの首都サン・サルバドール
首都の安宿で、もうすぐ韓国戦を観るところです。 4~5日前にSanta Anaからエル・サルバドールの首都 San Salvadorに移ってきました。物価はグアテマラよりもさらに安くなりました。たとえばテレビもあるこの安宿ですが、一泊5.15ドルです。PCのための通信網の確保は、メキシコを出てから難しくなってきました。グアテマラ・シティーでは二日間探し回りましたが見つからず、最後にはBMWの店に頼み込んで電話を借りました。この国の首都でも二日間もかけてやっと探し当てました。 グアテマラに入って以降、毎日雨が降っています。昨夜の雨は激しくて、もう少しで部屋が浸水するところでした。ホンデュラスではもっと雨がひどいと聞いています。それで多分、この国にあと一ヶ月ほどいて乾季を待つつもりです。 たった今、また停電しました。今日はこれで三回目です。今、暗がりの中でこのメールを書いています。停電はグアテマラとエル・サルバドールでは、雨と同様、毎日のように起きます。ガキの頃、同じようによく停電のあった故郷の泉佐野を懐かしく思い出します。僕はこんな異常事態が好きなんです。でも、もうすぐワールドカップの韓国戦です。ぜひ一時間以内に電気が点いて欲しいものです。
昔の本には、エル・サルバドールは盗賊の国と紹介されていたらしい。首都のサン・サルバドールから太平洋岸を進む船を見つけては、山を駆け下り襲ったと聞いた。
僕のガイドブックには、この国には紀元前2000年からオルメカ人が住んでいたと書かれている。16世紀のスペイン進入以来、この国も奴隷的状態の中でインディゴ藍、綿等の農産物を産出してきた。19世紀の後半、化学染料に押されてインディゴの輸出が振るわなくなった後は、コーヒーが国家収入の95%を占め、その利益は2%の人たちに独占されていた。何回かの反抗が起こった後、1980年には内戦に突入し、それは12年間、1992年まで続いた。僕がグアテマラからホンデュラスに旅行したのは1979年の冬で、その時はもうエル・サルバドールは危険だと言われていたので、この国には来なかった。この時期、レーガン政権の強力な後押しを受けた政府軍が、エル・サルバドールでもニカラグアでも多くの人達を虐殺したのは記憶に新しい。僕の友人のマイケルは当時、自国のアメリカの支援によって送られたコントラの襲撃を恐れながら、ニカラグアの貧しい人達のために医療活動を行っていた。
エル・サルバドールは2001年1月から自国の通貨を捨て、アメリカドルを使うようになった。でも、まだ一年半だから、元の通貨コロンがまだ使用されている。二重の貨幣が使われているので支払いが複雑だ。変換レートは1ドル=8.75コロンで固定されているが、店ではみんな電卓を使っている。僕も三週間を過ぎてやっと慣れてきた。 メキシコからグアテマラに入って物価が安くなったが、エル・サルバドールではさらに安くなり、今は一日10ドル位で過ごしている。首都のこのホテルは一泊5.15ドル、たとえば朝食にパン、コーヒー、オレンジジュースを取ると大体1ドル、夕食はビーフステーキ、焼き飯、生玉子、それにビールの小瓶を付けて2ドル、タバコが一箱1ドルだから、合計9ドル15セント、それに夜には1リットル2ドルちょっとの安ウォッカを飲むので、一日大体10ドルと言うことになる。メキシコ以南では生ジュースが安くて美味しい。メキシコではニワトリの丸焼きが美味しかったが、グアテマラに入ってからはニワトリはやめてビーフステーキばかりを食べている。メキシコ以降、料理には大抵焼き飯が付いてくるが、外米で美味しくないいので、ずっとパンにしてきた。しかし、最近いいことを思い付いた。生玉子を貰って焼き飯の中に入れるのだ。これで美味しく食べられる。「今ごろ何を!」という感じだが、僕は食べ物にはあまり関心がないのだ。とにかく物価が安い。物価が安いということは、この国は相対的に貧乏ということだ。お金がなければ泥棒だってしたくなる。
USドルと旧通貨コロンの換算図
メキシコから南に下るにしたがって治安も悪くなると書かれている。そのせいか、なるほど通りの店のドアーや窓は鉄格子で囲われている。夜や日曜日になって店が閉められると、そこには何重にも鍵が掛けられている。それに、夜8時以降の外出は非常に危険だと言われている。グアテマラやエル・サルバドールでは、日が暮れるとそのまま街の通りも暗くなる。メキシコと違って街灯が少ないのだ。きっと電力不足のためでもあるんだろう。その証拠に停電が多い。一週間に何日も停電が起こる。その都度、僕は誇らしげにフランス製の超小型LED懐中電灯を取り出す。幼い頃故郷の町でもよく停電したので懐かしく、むしろ停電という異常事態を楽しんでいる。
地元の人に言われるとおり夜はホテルから外にでないので、グアテマラやエル・サルバドールが本当に危険なのかどうかは、わからない。でも、このホテルに着いたその日に、バイクのハンドルに付けていた日本語で書かれた方位計がなくなった。どこかに当たって落ちたのか、誰かが持っていったのか、それはわからない。一年間もなくならなかったものだから、偶然落ちたとも考えにくい。それで、久しぶりにバイクの前後輪にロックを付けた。そのせいか、まだバイクは消えずにホテルの中庭に停まっている。 昨日、インターネット・カフェへ行って帰ろうとすると、店の人達が、今日は危ないからタクシーで帰れと言う。理由を聞くと、店の前をウロウロしていた二人組みの若い男が怪しいらしい。 店の大きな男と女の子が外まで一緒についてきてくれ、タクシーを拾ってくれた。メキシコ以南ではSonyのVaioなんか誰も持っていないから、狙われる可能性は十分ある。そのため、ホテルまで歩いて15分か20分くらいの距離だが、タクシーに3ドルも払うはめになった。一日10ドルの予算からすると、大きな支出だ。 こんないかにも物騒な国に長く滞在している二人に遭った。一人は日本人の西井さんで、もう一人はアメリカ人のRobertだ。
危険だと言うので、夜はホテルから外へ出ない。
西井さんと奥さん、左は従業員
Santa Anaのホテルの向かいの人が、日本食を出す店があると教えてくれたので行ってみたら、西井さんがいた。西井さんは大阪市内で生まれ育ち、商社に就職した。商社で世界中のいろいろな国を渡り歩いている間に、エル・サルバドールで土地の女の人と結婚した。彼が31才の時だ。商社を辞め、そのまま28年間Santa Anaに暮らしている。彼は、日本から古着を取り寄せて土地の人に無料で配布したり、この国に白菜を初めて導入したり、あるいはまた魚の料理法を教えたりしてこの国に貢献してきた。28年間の滞在だから、当然内戦を体験してきた。彼は中立的立場で、革命軍とも掛け合いに行ったことがあると言う。彼は政府軍と革命軍の双方から信頼されていて、内戦中には、何時、何処に爆弾を仕掛けるから、という風な情報が入ってきたらしい。二人の子供さんがいて、娘さんは大学の先生に、息子さんは弁護士になろうとしている。特に娘さんの方は優秀らしく、アメリカの大きなスーパーマーケットが中米五カ国の高校生三人をアメリカに留学させる制度を設けているのだが、彼女は3000人応募者の中から選ばれた。アメリカの大学を卒業してから四年間は自国で働く義務があるので、今はアメリカ系の電話会社に就職し、中米全体の責任者になっているという。月給は、この国では破格の55万円も貰っているらしい。僕の退職時の月給よりはるかに高い。彼女は大学で教える夢をかなえるため、首都の大学で仕事が終わってから大学院のコースを勉強している。こんな日本人とその子供が、遠く離れたこんな小さな国にもいること?誇りに思う。
Robert はこの中庭の水溜りに座っていた。
ある日、首都San Salvadorのホテルに戻ると、中庭の小さな水溜まりに、ズボンを濡らしたまま男が座っていた。ホテルの人たちはみんな彼のことを頭がおかしいと言っていた。彼も自分自身のことをクレイジーでアル中だと言っていた。アメリカ人で47才だ。いつも一リットルのビールの大瓶を飲んでいた。ほんとうにアル中かもしれないほど飲んでいた。スペイン語も流暢だ。しかし、酔っ払ってしゃべる彼のスペイン語も英語も、こちらには全くわからない。韓国で一年間英語を教えていたこともあって、日本のことも良く知っている。彼もホームページを持っていると言うので、読んで見た。何でも良く知っているはずだ。彼は宗教・倫理の博士号を持っているのだ。 エル・サルバドール、グアテマラ、メキシコへは10年ほど前から来ていて、そこの革命軍FMLNやサパティスタとも接触してきた。彼はまたこの地域の平和のために活動してきたが、今は毎月第一週の土曜日から第三週の土曜日までの二週間、グアテマラのアンティグアからメキシコのカンクンまで、バンに観光客を乗せて旅を続けている。 この二人は内戦を見てきた。しかし、この地域は今は落ち着いている。いつまでも平和であってほしい。
ホテルの近所の銃砲店
レストランの店員まで銃を持つ。
首都のサン・サルバドールから北のSuchitotoという小さな町に寄ってから、ホンデュラスの国境に近いエル・サルバドール第三の町、サン・ミゲルで一週間ほど泊まっていました。ホテルは大きなバス・ステーションのすぐ近くにあって、治安が悪いんでしょうか、近所に銃砲店が何軒もあってレストランでは店員が銃を持っていました。やはり夜の外出は危険だとみんな言ってました。 サン・ミゲルでは日本で治療済みの歯の詰め物が外れたので、歯医者に行きました。歯医者に限らず医者の世話になるのは、海外で初めての経験です。日本の歯医者はどこでもいつでも混んでいますが、客は僕一人で予約なしですぐに診てくれました。一時間足らずの治療で14ドル払いました。この国ではかなりの高額だと思います。その歯医者さんは、治療するのに手術用の手袋をはめました。日本では見たことがありません。ひょっとして、こちらの歯医者さんの方が信用できるのかもしれません。 グアテマラからエル・サルバドールと東に進むにしたがって、ロッキー山脈から続いてきた山は低くなり、エル・サルバドールのサン・ミゲルではほぼ海の位置まで降りてきます。サン・ミゲルの緯度はフィリピンではマニラの南のミンドロ島、タイのバンコック、南インドのチェンナイ(マドラス)、アフリカではサハラ砂漠を南に抜けた位置にありますから、暑いんです。しかも、僕の泊まっている6ドル以下の安宿では冷房はありませんから、暑さと、そのため身体の何ヶ所かにできた発疹が痒くて眠れないので、避暑のためまた100kmほど首都の方に向かって西に戻りました。もう肌寒いくらいです。 ガイドブックにも乗っていないこの辺の町では、ホテルは案外高くて、発疹が消えるまでゆっくりしようと思っていたのに、当てが外れました。このホテルでは今までの倍の12ドル近く払っています。電話にエアコンまで付いていますが、電話はホテル内の通話だけ、エアコンは寒いくらいだから不要、でもやはり高いホテルは綺麗で、ゴキブリなんかもいなくて快適です。そんな訳で、バイクの輸入許可がまだ残っていますが、近いうちにエル・サルバドールを出て、ホンデュラスの首都、テグシガルパに移動しようと思っています。国境から一日の距離ですが、テグシガルパは1000m位の高さにあるので涼しくなると思います。ホンデュラスでは二人のエスペランティストが待っています。
首都のサン・サルバドールからホンデュラスの国境に近いエル・サルバドールの第三の街San Miguelに移動してきたその日、夕食を済ませてホテルに帰って来ると、僕の部屋の前に若い女が裸足で座っていた。「今日も暑いね」から会話を始めた。しばらくしゃべっていると、彼女はビンゴのカードを持ち出してきた。カードには3行×3列に九枚の絵が描かれていて、絵の下にはスペイン語の単語が書かれている。別に一組の絵があって、それを一人が読み上げて見せる。自分のカードに同じ絵があればそこに印を付ける。縦、横あるいは斜めに印が三つ揃うとビンゴになる訳だ。彼女の名前はPaolaという。21才になったばかりだ。すぐに17才の彼女の妹Guadalupe(念のため偽名)と12才のいとこのBessyが加わった。三人の中で一番年上のPaulaは、このホテルで働いている18才の男Elmerと結婚していて、ホテルの片隅のトイレのないシングルベッド一つの部屋に暮らしている。妹のGuadalupeは、17才の若さで6ヶ月の子供がいる。いとこのBessyはGuadalupeよりも少しだけ若いと思っていたが、歳を聞くと12才だという。まだ子供なのに、大人のムードを持っていて、マ二キュアをし、タバコを吸う。僕はロリコンの趣味はないのに、初恋の女性に似ているせいか、危うく恋をしてしまうほどの魅力を持った末恐ろしい女の子だった。その日は屈託のない三人の若い女に囲まれてビンゴゲームを楽しみながら、ついでにスペイン語の単語も覚えた。
翌日は日曜日で、このホテルで働く彼女らの休日だ。ディスコに行くことになっていた。約束の12時きっかりにPaolaが部屋のドアーをノックした。すぐ近くの別のホテルに連れていかれると、ベッドが三つ置かれている部屋に、Guadalupe、Bessy、Paulaの夫Elmerの他に23才なのにもう肥満気味の長女のIeuda(偽名)と弟三人がいた。長男は13才、それに12才と9才の弟が続く。この三人の姉妹と三人の兄弟、それにいとこのBessyは、太平洋岸に近いホンデュラスの町からエル・サルバドールに来て生きているのだ.。昔ホンデュラスに来たことがあるが、ホンデュラスはカリブ海にしか開かれていないと思っていたが、地図をよく見ると70kmほどは太平洋にも開かれている。ディスコへはこの女たち四人にさらに二人の若い女が加わり、Elmerと僕の8人で行った。入場料は一人一ドルちょっとだった。一人だけ年寄りの僕のできることといったらお金を出すことだけなので、みんなの分を払ったが10ドルくらいだった。彼女たちはみんな若いだけあって、三時間半踊り放しだった。昔時々ディスコへ行ったことのある僕だが、ずっとビールを飲んでいて、六人のうちの三人に誘われた時だけ、三曲踊っただけだった。もうディスコでも疲れる歳になってしまったのだ。
若い6人の女とディスコへ
翌日、10時に目を覚ますとすぐにPaulaが部屋にやってきた。今日は彼女の妹Guadalupeの18才の誕生パーティーを近所のレストランでやることになっている。しかし、それは夕方の5時からだ。朝から来るということは、彼女はすでに僕の部屋のシャワーを当てにしているようだ。昨日はディスコが終わった後、暗くなってしまったので、Paolaの家族7人がみんな食べれるように10ドル渡して夕食を買ってきてもらった。それで、今朝の朝食も期待しているのか、Paolaは、スーパーに行く僕に着いて来ると言う。パンが欲しいと言う。ダイヤモンドではないから、可愛いものだ。買い物から帰ってくると、ホテルの主人がPaulaに、何か大事な電話があったことを伝えていた。それを僕は大して気に留めていなかった。しばらくすると、PaolaはSanta Rosaへ一緒に行こうと言う。靴を脱いだばかりなのと、外は暑いので、それが近くでしかも瞬間パンク修理剤を置いているかもしれないYamahaの店の近所なら行ってもいいと答えた。彼女はそうだと言った。しかし、12才のBessyも加わって、バスに乗ってみると一時間も離れた町だった。しかも、彼女らの後に着いて行った所が警察だった。僕は出かける前に、 Santa Rosaに何をしに行くのかについて何回か聞いたが、Paolaのスペイン語がよくわからなかった。しかし、警察は良くない。どうも彼女の姉のIeudaと妹のGuadalupeがSanta Rosaの警察に逮捕されたので来たようだ。何回聞いてもスペイン語のわからない僕に、Bessyはノートに何が起こったのかを書いてくれた。僕は、それを贋金を持っていて逮捕されたと思った。これは大変だ。Santa Rosaの警察は、彼女たちはすでにLa Unionという町に移されたと言った。陽気なPaolahaが涙を流した。僕は、乗りかかった舟だ、最後まで付き合ってやろうと思った。僕たちは、La Union行きのバスに乗った。さらに一時間半も離れた町だ。着いた所は刑務所のような所だった。Paolaが門番の所へ行って帰ってきた。ここにはいないらしい。入り口の所にいた中年の女がPaolaとBessyに何か言っていた。僕にはさっぱりわからなかったが、San Miguelに帰ることになった。言葉がわからないのは、本当につらい。 San Miguelのホテルに戻るともう夕暮れ前だった。 5時のパーティーに現われないPaolaを、招かれていた女の一人が待っていた。それで、また訳のわからないまま、「中央政府」と言うところに行くことになった。行くと、それなら広大な同じ敷地内にある別の場所だと言われたので、またそこへ歩いていった。そこはどうやら男ばかりの刑務所のようだった。門の側にいた見知らぬ男が、女の刑務所は別の所なので連れて行ってやると言ったようだ。男は一見、犯罪人には見えないが、着ているTシャツには何ヶ所か穴が開いている。ちょっと状況が不自然だ。それにいよいよ夕暮れが迫ってきた。それなのに僕は、身元の知れない男に着いて、21才と12才の女と一緒に歩いている。彼女たちは女刑務所に行こうとしているが、それがどこにあるのかは知らない。この状況は、危険だ。僕は彼女らにホテルに帰ると言った。彼女たちも一緒にタクシーに乗ってホテルへ帰ることになった。僕は正しい判断だったと思う。第一、今日逮捕された人間が、すでに刑務所にいるというのは、いくらエル・サルバドールと言えども、おかしな話だ。
ホテルに帰って、僕は弁護士に相談する方が良いということをPaolaに伝えたかった。しかし、スペイン語がわからない。それでPCを持ち出して、「弁護士」、「法律」、「裁判所」、「拘置所」等の単語を彼女に見せて、彼女の姉妹が刑務所ではなく拘置所にいるはずだから、とにかく法律事務所に行って基本的な情報を掴もうと説明した。僕は半日、不確かな情報に振り回される彼女らに訳のわからないまま着いて行って、少し頭に来ていた。それにもかかわらず、Paolaは、また明日Santa Rosaへ一緒に行こうと言うので、僕はもっと正しい情報を掴んでからにしようと言った。その時、ホテルに彼女の姉妹から電話がかかってきた。電話を受けた彼女が僕の部屋に帰って来て、「私の姉妹はもう警察を出て、La Unionの町で買い物をしているが、明日一緒に行こう」と言っているように聞いた。「それなら今日、バスでこの町に帰ってきたらいいんではない?」と言った。それでも彼女は、明日バスに乗って食べ物を届けるから一緒に行こうと僕に言う。いよいよ頭に来て、「僕は行かない、一人で行って来たら?」と言ったら、「10ドル貸してくれ」と言う。「なんで、僕やねん!、ホテルの経営者に頼んだらエエやんけ!」と答えたら、彼女はシクシク泣き出した。困った。女の涙は額面どおりには受け取れないと言うものの、自分が何か非常に悪いことをしたように思えてくる。そこへ彼女の夫が入ってきた。彼に確かめると、Paolaの姉妹はまだ警察にいると言う。そしてどうも、紙幣の偽造に関係しているんではなく、Santa Rosaでお金をなくした女が、Paolaの姉妹が盗んだと言ったので逮捕されたらしい。それならまだ罪は軽い。少しほっとしたのと、Paolaの涙と自分のスペイン語の無能力に負けて10ドル渡した。いろんな国で情に負けて何回も失敗したけれど、僕は今でもずっとアマちゃんなのだ。しかし、僕はそれでいいと思っている。
誕生パーティーをするつもりだったのが、とんでもない日になってしまった。今夜は別のホテルでは、母親代わりの姉妹をなくした13才、12才、9才の男の子と12才のBessyだけが寝ることになる。子供ばかりだ。Paolaに、また10ドル渡してみんなの夕食を買ってきてもらった。僕の両親は早く死んで、僕も似たような経験を持っている。でも僕の場合はもう18才になっていて、しかもすでに働いている姉がいた。それに比べると、彼らはみんなまだ子供だ。みんな当時の僕よりもはるかに強いんだろうが、僕の兄弟・姉妹がそうであったように、さらに強く生きて欲しい。