(1) スペイン旅行
スペインへは1982年の12月から1か月と少しかけてモロッコに旅行した時に、飛行機がBarcelonaへの往復だったため、少し寄ったことがあります。あの時はBarcelonaから直ぐに鉄道のRenfeに乗り、地中海がスペインとモロッコの間で一番細くなっているジブラルタル海峡まで行き、そこからモロッコへ船で渡りました。モロッコからの帰りはアルジェリアの方に寄ったMelillaと言う街から地中海を挟んで対岸のAlmeriaと言う街に向けて船に乗りました。この日は1083年1月6日ですから帰国便にのる1月16日までは10日間あります。この間に、Granada→Cordoba→Valenciaを訪れ、Barcelonaから北極回りで日本に帰りました。
今回は旅行先をスペインに限ったので、首都Madridの往復便にして、そこから北東のBarcelonaに行き、地中海沿岸をCartagenaに進み、そこからまたGranadaに訪れ、以前に行かなかったポルトガルに近いSevillaを経由し、スペインの東半分を回ってMadridに帰ることにしました。今回の旅行で一番北にあったのがBarcelonaで、一番南がGranadaでありました。日本で言うと大体下北半島の北端から会津若松と言ったところです。
前回は冬の旅行でしたが、今回は夏にしました。7月24日から8月24日の1か月です。最近、地球が寒冷化に入ったというニュースを見ましたが、寒冷化どころか温暖化がまだまだ進んでいるのではないかと思われるくらい暑かったです。スペインに行った1か月は、連日が晴天で、太陽がカンカン照りでした。この国は日本人が見るとまるで砂漠のように乾燥していて、山も半分以上が禿山でした。気温は連日35度を上回り、街の温度表示計が44度を指していたのを覚えています。僕はオーストラリアに1993年、バイク旅行しましたが、その時に気温45度を経験したことがあります。あれはレザージャケットを着ていたとは言え、木々で覆われた山中だったので、そんなに暑いとは思いませんでした。ところが今回は全部が都会だったので、最悪の暑さを経験しました。直射日光を避け、日陰を選んで歩いていました。お盆も過ぎて8月23日、コロンビアへ帰る前日の気温も38度くらいであったと思います。
世界の砂漠化地帯。アフリカ、中東、オーストラリア、USA、それに中南米の西海岸に砂漠が広がっている。
ここに世界地図があります。これを見るとアフリカのサハラ砂漠、中東から中国、USA西部からメキシコ、アンデス山脈沿いのペルーからチリ及びアルゼンチン、それにヨーロパもスペインが少し砂漠化していることが分かります。でもバスや電車から眺めていると、多くの場所で植林されていました。SevillaからMadridまで、かなりの緑が見えたのでマリアに何かと聞くと、油脂を取るためのオリーブの木だと教えてくれました。しかし、全ての木々は草の生えていない荒れ地のような所に首を出しているので、いかにもおぼつかない感じがしました。スペインの荒涼とした風景とこの世界地図から、日本はたいへん自然に恵まれた国だと思います。雨が降るので水の心配はありません。国中に川が溢れています。ただ僕にとって問題なので、日本の夏の湿度が高いので、汗が体から溢れ出て、非常にやり過ごし難いと言うことです。 日本の夏が問題なのはこれだけではありません。台風が来るのです。この自然災害は日本や中国だけではなく、USAにもハリケーンとなって多くの被害を出しています。こうした嵐は、日本周辺やUSA以外の土地では知らなかったのですが、帰国が迫った8月20日、テレビでニュースを見ていると、既に通り過ぎてきたZaragozaやValenciaを、台風のような嵐が襲ったと言う報道がありました。毎日の暑さと晴天に恵まれていたスペインで、信じられない感じがしました。この日、僕達はMadridまでバスで1時間のToledoに居たのですが、この日も取り付ける太陽を避けて日陰を探して歩いていました。 このスペイン旅行で問題だったのは暑さだけではありません。1982年に行った時のスペインはまだEUには統合されていず、また円が高かったせいもあって、ホテル代もレストランも安かったと記憶しています。また、今回教会や博物館、また観光地の施設に入るのには入場料を取られました。7~8年前か、あるいは10年前から有料になったそうですが(?)、高いのです。もっとも安かったMadridの国立博物館で400円近く、その他は普通1,300円から1,900円、高いところでは3,000円近くもしました。日本人にもよく知られているGranadaのアルハンブラ宮殿は、11月に2~3日が開いているだけで、末日まで予約が一杯で入れませんでした。以前に行った時には無料ですぐに入れたのにです。しかも冬だったせいか、観光客も少なくゆっくり見れました。その変貌ぶりには唖然としました。
スペインでも取り分け有名なアルハンブラ宮殿。手前の建物の後方の山の上に一部が見えている。
アルハンブラ宮殿では、スペインの歴史を知らされました。711年にイスラムのウマイヤ朝がGranadaからToledoまで占領し、その後数年で全スペインがイスラム圏になりました。11世紀前半、後ウマイヤ朝滅亡後に、キリスト教徒の国土回復運動であるレコンキスタが本格化し、1085年にToledoが、1236年にCordoba、そして1246年にSevillaを取り戻しました。しかし、Granadaのあるスペイン南部のアンダルシア地方はイスラム圏として残され、その頃から本格的に整備され、現在の姿になりました。ところが、このGranadaも1492年、カトリックのレコンキスタにより陥落し、その後、時のスペイン王により、モスクは教会へと変えられ、礼拝堂や修道院が建築され現在の姿になりました。 アルハンブラ宮殿には入れなかったと書きましたが、スペインの旅行はなかなか大変です。バルセローナでは、有名な建築家ガウディ―に建てられたグエル公園に行きました。この公園は少し不便な所にあって、かなり歩かなければなりません。以前にも行ったのですが、マリアにも見せたいと思ったからです。行けば大変な数の観光客で、入場券を買おうとしたら、その日は観光客が多くて入れないと言われました。仕方なく翌日の入場券を一人1,300円出して買いました。しかし、そのままそうですかと帰る気になれず、入場者の列に入りました。やはりだめでした。向こうにも別の入場口があり、誰も並んでいないので、ひょっとしたら入れるのでは、と思ってそこにいる係員に入場券を見せました。そこに並んでいなさいと言われました。ひょっとして入れるのでは、と思って一時間近く待ちました。僕達の後ろには沢山の行列ができていました。一枚1,300円の入場券を見せると入れてくれました。ああ、良かったと思って歩き出すと、女の人がいてもう一度入場券を見ています。少し不安になりながら、見せると案の定、ダメだと言われました。しかし、この公園は大部分が無料で見られるので、気を取り直して見て歩きました。この日に入れなかった有料部分には別に何もなかった記憶があるのですが、マリアが見たいと言って来た所ですから翌日また行くことにして、再び長距離を歩行して帰りました。
買った入場券には地下鉄の駅からの送迎バス券が付いていたので、翌日は楽に着けました。正門と反対側に、大きな建物の上に広場を作っているので、そこから入ることにしました。以前に来た時には、僕以外の観光客は数人しかいなかった記憶があるのですが、今回は夏のせいか、ここもアルハンブラ宮殿と同じく広場は観光客で溢れています。しかしグエル公園は山の上に作られているので、開放された広場からBarcelonaの眺望を楽しむことができます。そして建物の屋根から下へ降りました。巨大な屋根を支えるガウディー特有の奇妙な形をした柱が並んでいるのですが、工事中で一切立ち入り禁止になっていました。少し空間を置いて入り口の門があります。門の横には見張り番の建物があって、そこは三階建てで、今は展示場になっています。入口の空間にはトカゲの噴水があるだけです。前日無料で見た公園の方が良かったと思います。入場料1,300円は本当に高いと思いました。 今回の旅行でスペインの10都市を訪ねましたが、いずれも古い町並みが残っているのが、コロンビアとは大きな違いです。紀元前の古い遺跡も街中に残っているのです。そうした所では、ほとんどの道路は人が、あるいは、牛や馬が歩くために作られていたので道幅は小さく、自動車が走れない状態です。これが旅行者には快適なのです。こうした都市でも観光客の歩く道は大体決まってきていて、時間に少し余裕のある我々はあちこち歩いたので、人影のない5階建て位の家々の間の狭い道を楽しむことができました。その太陽の光が差し込まない細い道には、窓から道に向かって洗濯物が干し出されています。また窓の下部には植木鉢が置かれていて、様々な色彩の花々が道行く人を楽しませてくれます。楽しませてくれるのは花々だけではありません。窓から下を見ている人が声をかけてくれて、部屋に招待してくれることもありました。外壁だけでなく内部の古い造りも鑑賞できました。
スペインの北、フランスに近いバルセローナにある建築家ガウディ―の設計によるグエル公園。
Cordobaの裏町、旅も終盤に差し掛かった。
部屋の中で、特に日本人の目を引くのは便所だと思います。便器が二つ備え付けられているのです。一つは何処にでもあるものと同じですが、もう一つはビデと呼ばれるものです。僕は女性のための物だと思っていましたが、調べると男女両用で大便と小便後に性器を洗うものだそうです。なぜそんなものが必要なのか日本人の僕には理解できません。外国に行くと時々訳の分からないものに出くわせますが、これもその一つかも知れません。 外国を旅行しての最大の楽しみは料理だと言う人がいますが、僕は全くその趣味はありません。育ちが悪いせいかも知れません。しかし気になるのは食べ物の味ではなく、価格です。2017年にロス・アンゼルスに行った時に、ハリウッドの大衆食堂でフライド・チキンとフライド・ポテトを注文したら、4~5センチ位のフライド・チキン2切れが出て来て、1,500円も支払ったのを忘れられません。今回のスペインも食事は高くつきました。僕達は一日に朝と夕の2回しか食べませんが、2日滞在の一軒のホテルを除き、朝食は全てホテルの宿泊料金に入っていましたが、夕食の半分位は外のレストランでした。値段は平均、一人一食清涼飲料水を含め1,500円から2,500円位しました。また今回は日本料理店に4軒遭遇しました。MadridではWagamamaとUdon、TarragonaではSakura、CartagenaではJie-Ichibanと言う店でした。旅の最後の日に入った店Udonでは、僕は牛丼を取りましたが、その量の少なさには呆れました。握りこぶし一つ分位の量だったのです。その他、見つかれば中華料理屋に入りました。Zaragozaではこの旅で一番安い夕食を頂きました。店の前の敷地にテントが張ってあったので、そこで2日食べました。一日目は愛想の良い中国人の主人が、二日目は奥さんが料理を持ってきてくれました。一人一食1,000円位でした。この店を除くと、スペインの料理店は日本より3倍ほど高いと思いました。
スペインには泥棒が多いと聞いて、少し警戒していました。1982円に行った時にはCordobaに行きましたが、土産物の屋台の前で美しい染め物を見ていたら、ナップサックの小物入れポケットから住所録を盗まれ、クリームみたいな真っ白なものを塗られていたのを思い出します。しかし今回はマリアも一緒だったせいか、そのような問題には巻き込まれませんでした。しかし今回は別の被害に遭いました。贋金をつかまされたのです。旅も終盤に差し掛かった南スペインのSevillaの街の食品店でした。ホテルに帰って財布を見たら、先ほどもらった2,600円のお釣りの札びらが中央で破れていました。ソロテープで張ろうと思ったのですが、旅行中なのでそんなものは持っていません。翌日それを持って行って交換してくれるように頼みましたが、ダメだと言います。あくる日は土曜日で、翌日にはCordobaに移動するのでそのままにしておきました。結局、最後の街Madridの銀行に行き、破れていない紙幣と交換してくれるように頼みました。若い別嬪の銀行員は、じっと見て贋金なので交換できないと言いました。紙幣には銀のコーティングをしたような部分があって、それを拡大鏡で見せてくれました。本物と比較すると確かに違います。スペインでは、こちらが紙幣で払うと必ずじっと紙幣の両面を見ています。なるほど、と思いました。偽紙幣は記念のため、旅のスクラップ・ブックに張り付けてあります。
Cordobaで見つけた道端の安いレストラン。スペインのレストランは結構高いが、ここは安かった。
スペインからコロンビアへ帰ってきた8月24日の翌日、ボゴタに住む友人のHernanから電話があり、数日後に我が家に来ると言いました。少し前から夏季休暇を取って、9月8日まで休みだと言います。これは一緒に旅行しようと言うことだと思いました。想像通り、8月28日、車に一人で乗ってやってきました。今年の4月と同じです。この時は7泊8日でManizalesと言う街と南コロンビアに旅行しました。今回、彼は行先を決めていなかったので、翌日、車で一時間程のGirardotと言う街へ行きました。街の中心部のホテルに3人で一泊2,000円位のホテルに泊まりました。この街は標高300m位で低く、かつ上天気だったので、スペイン並の暑さでした。フサガスガの温暖な気候に慣れてしまっている僕には、猛暑は堪えます。そこで次の日は標高1,870mのCajamarcaと言う町に移りました。気温は下がり快適でした。ここのホテルは一泊3人で1,400円でした。USAやスペインで1万円や1万5千円払ったのとは大きな違いです。
Cajamarcaの安宿、Girardotの暑さから解放されました。
コロンビアに来た2004年には、首都ボゴタの安宿街で一泊450円位支払って泊ったのを覚えています。日本では円はこの30年間ほどは値上がりしていませんが、この国ではバス代など一年に1~2回値上がりします。ボゴタは南米ではブエノス・アイレス、サン・パウロに次ぐ人口770万人の大きな街ですが、何と地下鉄がなく2~3両連結のトランス・ミレニオと言うバスが走っています。その料金は2004年当時33円位だったのが、現在80円に値上がりしていますから、この15年でやく2.4倍になった訳です。そうすると安宿の料金も1,100円位になっていると考えられます。 9月4日に標高1,285mのIbagueと言う街で泊ろうと思って、16時45分に街の中心部に入ろうとしたら、交通表示が掛っていて、この日はプレート番号の末尾が5と6の車は17時から19時半まで入れないと書かれていました。それで引き返したら道路沿いにホテルがあったので、Hernanが空室があるかどうか聞きに行きました。帰ってきた彼は、部屋があってしかも安いと言いました。いくらだと聞くと、3人で770円だと言います。信じられない安さです。ホテルの2階の2部屋のどちらでも良いと言われました。一部屋はシングル・ベッド2つ、もう一部屋はダブル・ベッド1つがありました。結局、補助マットをシングル・ベッド2つの部屋に入れてもらいました。後で気が付いたのですが、この部屋にドアの鍵はなく、ガラス窓は閉まりませんでしたが、洗面室、それにトイレとシャワー室には何の問題もありませんでした。 また、このホテルには駐車場があったので助かりました。今回もManizalesに行き2泊したのですが、どちらも高い(?)駐車料金を支払うことになりました。一泊目は目指すホテルが満室で、急遽探した所で駐車場はありましたが入り口のシャッター近くに駐車したので、朝6時にHernanが出しにいきました。しかしどういう訳か、彼の車は駐車場の外の路上に止められていました。11時過ぎにホテルを引き払って、いつも泊っているホテルへ移ろうとしたら、駐車場監視員のような制服を着た人が駐車料金を請求してくるではありませんか!一時間75円で5時間分、合計375円を請求されました。何の看板もないのに料金を支払うのには、三人揃って抗議しましたが、結局取られました。それで馴染みのホテルに移ったのですが、ここには駐車場がないので、近くのガレージに預けました。ここも一時間75円ですから、例えば12時から翌日の12時まで預けると、20時までの8時間と翌日6時から12時までの6時間の合計14時間×75円=1,050円に加え、夜8時から翌朝6時までの深夜駐車料金300円の合計1,350円を支払う必要があります。僕は一万円以下のお金でコロンビアの車の免許証を買いましたが、運転したことは殆んどありませんので、ましてや日本の駐車料金となると全く分かりませんが、コロンビアではこの金額は大変な額だと思います。
そこで僕等は近くの村に行くことにして、19時頃に目的の日本食堂Nipponの妹子さんに会いに行くことにしました。僕達が店に入るとどんどん客がやってきて、彼女としゃべれたのは21時を過ぎていました。商売繁盛で何よりでした。
Manizalesの日本食堂Nipponは、妹子さん安くて美味しく、土地の人にも大人気!
2019年11月21日(木)からコロンビアのあちこちの大都市で大きなデモが起こりました。首都ボゴタの主要道路にはトランス・ミレニオと言われるバスが走っていますが、この日は全て運行停止となりました。ボゴタは我が家から60~70㎞の所にありますが、この日のテレビに映される状況を見ると、いつも車、タクシーやバスの渋滞が続く道路も、全く閑散としていて、ヘルメットと防御服に身を包まれた警官隊とヘルメットと覆面を付けて投石するデモ隊だけが緊張を伝えていました。翌日の金曜日も同様で、市内の道路はデモ隊と警官だけになりました。しかし夕方になるとこの道路には職場から徒歩で帰る人達が放映されました。マリアの姉の旦那Carlosも、車は群衆に襲われたりして危険なので、職場から2時間10分歩いて帰宅したと言っていました。土曜日、日曜日、月曜日にはトランス・ミレニオも一部走り出しましたが、市の南部ではやはり運行停止となり、デモ隊と警官隊が映し出されていました。火曜日の夕暮れ前に市の中心部の国立コロンビア大学の前で学生らしい集団と警官隊が向かい合っていましたが、学生たちが追い払われました。そして道路にはトロンス・ミレニオが走っていたので、一応治まったと言う感じがしました。しかしテレビ画面がすぐに変わり、旧市街の商店街の中を走るいくつかの道路では、若者の大集団が長い行列を作り、平和裏に歩く姿が映し出されました。と言うのは、23日にこの近くで警官に殴られた18歳の男が、25日の夜に死亡したための抗議行動なのです。
この様な反体制デモは2019年10月にエクアドール、チリ、ボリビアにも起こりました。僕は、これはUSAに追い込まれた中国の支持・指導によるものと考えているのです。
隣国ベネゼーラは1999年2月、ウゴ・チャーベスが大統領になった時から社会主義政策を取ってきました。彼は2013年3月に胃癌で死んだのですが、その後ニコラス・マドゥーロが後継者となりロシア、中国、北朝鮮、キューバ等の支持を受けています。しかし、世界一の原油埋蔵量を誇るこの国の経済は、まさに破綻状態です。そこで2019年の1月から2月に、日本をはじめUSA等西側諸国に承認されたフアン・グアイド暫定大統領ができました。世界でも珍しい二重政権のような状態になったのです。2019年2月23日に、グアイト政権を支持するコロンビアから、支援物資を積んだトラックが国境を通過してベネゼーラに入ろうとして、マドゥーロの軍と衝突して多くの死傷者が出たのをテレビの実況放送で1日中見ていたのを思い出します。この日、2018年6月17日に就任したコロンビアのイバン・ドゥケ大統領(43歳)が、グアイドと共謀して軍事侵攻を企んでいるとして、2019年2月23日マドゥーロはコロンビアと国交を断絶しました。
南米で最も安定していた筈のチリで2019年10月に100万人にも達するデモと暴動が起こりました。100万人と言えば香港の2019年6月のデモを思い出します。しかしこれは首都Santiagoの地下鉄の値上げを切っ掛けに、貧富の格差拡大に不満を持つ学生らによるデモや抗議活動でした。10月18日にSantiagoで地下鉄駅が火炎瓶などの襲撃により、運行が停止されたほかビルや店舗が炎上しました。セバスティアン・ピニエラ大統領は軍の出動と夜間外出禁止令を発動しました。19日にはデモ参加者と機動隊や軍隊との間で衝突が起こり、バスなどが放火されました。10月22日には、大統領がテレビで謝罪し、公共料金や医療保険、医薬品の価格安定を行うと表明したそうです。この暴動のためSantiagoで11月11日から17日に開催予定であったアジア太平洋経済協力会議と12月2日から13日に開催予定であった第25回気候変動枠組条約締約国会議が中止になったと報じられています。
コロンビアの首都ボゴタを練り歩くデモ隊
チリの首都Santiagoで起こった100万にも達するデモ
コロンビアの隣のエクアドルではレニーン・モレーノ大統領が2017年5月就任しました。前大統領のラファエル・コレアは、米大使を追放、米軍基地を閉鎖と言う反米政策を取っていましたが、コレアの下で副大統領を務めてきたモレーノは、コレアと袂を分かち、コレアの左翼外交路線を中道化してきたと言われています。2018年、米州諸国機構がベネズエラ追放を目指す決議を採択した際、エクアドールはこの種の決議では初めてベネゼーラを支持する反対票でなく棄権票を投じたと報道されています。またモレーノは、赤産生花とマグロに対する輸入関税をなくすようUSAに要請したし、コレア前政権が跳ね付けていた対米自由貿易協定(TLC・FTA)交渉に入ると考えられています。結局、エクアドルは2017年にモレーノが大統領に就任してから親米右翼路線に転換、反米左翼政権のベネズエラとの関係が極度に悪化していると報じられているのです。しかし、レニーン・モレーノ大統領がIMFから融資を受けるため、特別法を2019年10月3日に発動してガソリンと軽油の補助金制度の廃止、公務員の20%の削減や休暇日数の半減などを発表したため、抗議デモが全国レベルで起きていると報じられています。 ボリビアでは2019年11月11日に、左翼政権のエボ・モラレス大統領がメキシコに亡命しました。2006年1月22日からの長期政権でした。モラレス氏はコカの栽培農家出身で、ボリビア史上初めての先住民出身の大統領でありました。スペイン植民地以来、少数の白人系住民が実権を握ってきたこの国において、先住民を優遇する種々の政策を展開しましたが、先住民性を強調しすぎた結果、白人系入植者やメスティーソ、また、都会の知識階級などによる反発も招き、結果的に国内を二分することになりました。3週間に及ぶデモの後のメキシコへの亡命は、国軍や国家警察からの支持の離脱という事実上のクーデターとされています。
アルゼンチンでは2019年10月27日に経済破綻寸前の状態にあった中道右派のマウリシオ・マクリ大統領から左翼政権のアルベルト・フェルナンデス首相に代わり、12月10日に就任しました。新大統領は、中国と接近すると考えられています。
またブラジルではジャイール・ボルソナーロが2019年1月に大統領になりました。彼はアルゼンチンの大統領と反対の極右政治家と言われています。そして彼はベネゼーラのマドゥーロの就任式に出席せず、アルゼンチンのマクリ元大統領、アメリカのトランプ大統領と共にグアイドをベネズエラの正当な支配者として認めました。
ニカラグアへは2003年1月に旅行しました。久しぶりに同国の状況を読んでびっくりしました。あの頃は平和な国で北部のレオンと言う街が非常に美しかったことを覚えています。またこの国には大きな湖があって、湖に沈む夕日の美しさに感動した記憶があります。首都のマナグアは、大きな建物も無く巨大な田舎町と言った感じでした。
ダニエル・オルテガは1985年から1990年までニカラグアの大統領になって、USAのレーガン大統領とコントラ戦争を戦いました。その後、2007年に再び大統領に選ばれ5年毎に再選され、現在は2017年から2022年までの任期を得ています。ロシア、中国、ベネゼーラ等ラテンアメリカ域内の左派政権を支持しています。
しかし、僕がかつて訪れた平和そのものと言った感じのニカラグアとは全く異なり、今や内戦状態になっているのです。オルテガ大統領は、人権を軽んじ、国家を私物化していると若者たちから糾弾されています。僕が下手な文章で表現するよりも、写真と記事を見つけましたので、良ければ見てください。アドレスを2つ書いておきます。https://www.afpbb.com/articles/-/3184707 と https://hbol.jp/164597 です。
約30年前の1989年に、中国の北京では天安門事件が起こり、同国の公式発表によると死者の数は、学生と軍を合わせて319人となっているようですが、日本の大手新聞では2,000から3,000人と報じられていますが、最近英国の公文書で少なくとも死者は1万人、また動画供給サイトのユーチューブでは3万人とも報道されています。
そして今度は香港で起こりました。主催者発表で、2019年6月9日には103万人、6月13日に200万人、12月8日に80万人のデモだったと報じられています。今後どうなっていくのかは全く予想できない状態となっているのです。
元はトルコ人の土地と言う意味のトルキスタンと呼ばれていて、イスラム教の地域であります。1949年に中華人民共和国に統合されました。世界三大高級綿の産地であるとともに、石油、天然ガスの豊富な資源を持っています。ここでは300万人と言われる人達が強制収容所に隔離され、臓器輸出のため大量に殺されているのではないかと疑われています。
1977年の冬にネパールに行った時から、ヒマラヤ山脈の北にあるこの地域には一度は訪ねてみたいと思っていました。1987年の12月にビルマに行った時、チベットのLhasa行きの飛行機に乗ろうと切符を買ったのですが、もう少しと言うところで飛行機に乗り遅れて諦めたのを覚えています。その時はタイに入り、中国の桂林まで行ったのですが、Lhasaまでは行けませんでした。
チベットは1950年に中国人民解放軍により武力侵攻を受け、全域が中華人民共和国の実効統治下に置かれました。この地域はダライ・ラマ14世による仏教国でありましたが、彼は1959年に中国共産党に追われインドに亡命させられ、1960年には中国の支配体制が完了しました。チベット絨毯の生産で有名ですが、大量の石油と天然ガスや鉱物資源の存在が確認されているのです。中国の武力侵攻時には100万人から120万人の犠牲者が出たと言われています。
先に書いた②ウイグル自治区や、③チベット自治区よりも前、即ち1947年に中国の干渉が始まり、1949年に正式に取り込まれました。中国で起こった1966年から1977年の文化大革命当時には、内モンゴル人150万人の内100万人が逮捕され、死傷者は数十万人と言われています。ここは関東軍と結びついていたため日本とは関係がありました。
以上述べた3つの地域が、世界諸国による香港民主運動の支援と絡めて、今後独立に向けて動き出す可能性があります。世界は今、大きな変革の流れの中にあります。来年の4月に安倍首相が習近平を日本に呼ぶことが決まりました。今、世界中が中国から去ろうとしているのに、そして中国が潰れようとしているのに、どうしてなのか全く理解できません。何故か日本だけが、天下泰平の夢の中で惚けているのではないかと思うと苛々します。
(5)メキシコへ旅行します この数年間にチリ・アルゼンチン、USA、パラグアイ・ブラジル、スペインといった国々を旅行してきましたが、来年4月にはメキシコを1か月旅行します。メキシコは2018年の12月から左翼政権に代わりました。そのメキシコにはマリアの弟が結婚して住んでいます。そこで来年はその弟が住んでいる、カリフォルニア半島の先端からカリフォルニア湾の反対側にあるCuliacanと言う街に行きます。2019年10月17日、この街で麻薬組織と警察の銃撃戦が起こりましたので、少し心配しています。