12月10日研究発表例会発表要旨

佐々木月樵が見た日本仏教の特徴

-民衆信仰論と経典分類論とを手がかりに-

  伊藤真(東洋大学等非常勤講師、井上円了哲学センター・東洋学研究所 各客員研究員、親鸞仏教センター嘱託研究員)

発表者は二〇二〇年度の研究発表例会で、清沢満之の「精神主義」を掲げる浩々堂の系譜に連なる金子大榮(一八八一-一九七六年)の『華厳経』理解を取り上げ、『東洋学研究』第五八号に拙論を投稿した。今回は、金子の先輩で、浩々洞の立ち上げに加わった佐々木月樵(一八七五一-一九二六年)の経典分類論を取り上げた。金子同様、真宗大谷派の念仏者であり、いわば学僧でもあった佐々木は、仏典を幅広く研究し、大乗仏教の教理や教学史を論じた点が当時も今も評価が高い。しかし本発表では、彼がもっぱら教理(学)を重視したわけではなく、自らの信仰体験に基づく「実験の宗教」を追究したことに注目し、そのような視点から彼の経典分類論を検討した。

佐々木は、日本仏教は三宝の「法」(教理)よりも「仏・僧」(人)を重視してきたとした上で、日本に流布した諸経典について、国家経典・国民経典・民衆経典に分類してその信仰の諸相を探った。国家経典は『仁王般若経』『金光明経』などいわゆる護国経典を指す。佐々木は、これらが「怨賊饑饉」「怖畏疫病」を取り除く現世利益を説くのは仕方ないとしても、毘沙門天など諸天への祈祷の為の「種々の婬祠を生じ」ややもすれば仏法の「真精神を覆わん」としたと批判。諸天らは本来、仏法を護持・実践する者とその国家を守護するのだと述べた。本発表では、佐々木が仏法とその實践という仏道の根幹を見直すべきことを論じた点を評価した。国民経典としては、親鸞が重視した『無量寿経』『涅槃経』『華厳経』を挙げるなど佐々木の独自性が窺える。しかしそれらが「国民精神の中軸」となった経典だとするなど、国家主義的な色彩もあり、大正天皇即位の前後に「皇恩報謝」を強調した大谷派の動向との関連を併せ、今後検討すべき点として本発表では問題提起した。

最後に民衆経典について以下の点を指摘した。まず佐々木が『弥勒経典』と観音信仰、『薬師経典』『地蔵経典』などを挙げ、仏菩薩への祈願的な側面を批判すること。しかしなおかつこれらが釈尊出家の「根本原因」である生と病と死と密接に結びついていると佐々木が見たこと。つまり、これらの民衆信仰や経典を安易に批判・排斥することなく、人間の根源的な欲望や不安に深く関わるものとして評価する点に、「実験の宗教」を探求した佐々木らしさが見出せた。ただし、本発表の結論としては、佐々木にとって民衆経典は究極的には浄土往生へと衆生を促す方便であり、やはり佐々木が最も高く評価したのは国民経典だったことを述べ、佐々木の国民経典論のさらなる考察を課題として挙げた。(師走の例会にご参加・ご質問いただいた諸先生方に御礼申し上げます)。

 

10~13世紀カルナータカ地方の中間的支配者集団

―旧ダールワーダ県南部の事例を中心に

石川 寛(早稲田大学教育学部講師、公益財団法人・東洋文庫研究員、東洋学研究所客員研究員)

本発表では、10~13世紀に南インド・カルナータカ地方を支配した後期チャールキヤ朝、ヤーダヴァ朝、ホイサラ朝の統治下にあって、ヒンドゥー寺院やジャイナ教僧院を主な結節点として、バラモンの集団であるマハージャナ、ナーナデーシと称される商人集団、オッカルと称される主として農民の集団、また各種職人の集団や軍人など(暫定的に「中間的支配者集団」と呼んでおく)が相互に一定の関係を結んで王朝の権力から自立した動きを見せていたことを明らかにした。用いた史料はカルナータカ州旧ダールワーダ県南部発見の碑文で、そこに記された内容は同南部の町ハーンガル(現ダールワーダ県)、ハーヴェーリ(現ハーヴェーリ県)、ヒレーケルール(現ハーヴェーリ県)及びその周辺に位置する村落の歴史的諸事情を示すものである。3つの町は、前期チャールキヤ朝(6~8世紀)、ラーシュトラクータ朝(8~10世紀)の前代の2つの王朝統治下でその南西部の重要地域に設けられていた行政区画ベルヴォラ・300、プリゲレ・300と、前期チャールキヤ朝以前にカルナータカ南西部を支配していたカダンバ朝の領域をそのまま1つの行政区画として設けられたバナヴァーシ・12000の間に位置していて、後期チャールキヤ朝の成立当初はいわば開発の空白地帯にあったところである。

ハーンガル(パーナヌンガル)は、後期チャールキヤ朝統治の比較的早い段階で開発が着手され、新たに設けられた行政区画パーヌンガル・500の中心都市として位置づけられたが、その発展の契機の1つとなったのは近隣のティルヴァッリにアグラハーラが設けられたことである。ハーヴェーリやヒレーケルールも同様に11世紀の後半にマハージャナ集団を招来してアグラハーラを設けたことが契機となって、その指導の下に地域の農民集団、各種職人集団、商人集団、軍人らが糾合して貯水池築造をはじめとする地域の活動に積極的に関与する姿が資料によって裏付けられる。筆者はこれを当該地域社会のヒンドゥー教(バラモン教)的秩序の確立と王朝権力からの相対的自立化の局面ととらえている。議論の詳細は『東洋学研究』第58号・第59号掲載の拙論を参照していただけらば幸いである。