10月15日研究発表例会発表要旨

罪や負い目の自覚からの自己復権

―親鸞・キルケゴール・ヤスパース、三者の思想を比較しつつ―

 中村 元紀(東京工業大学附属科学技術高等学校 産休育休代替教員

本発表は、罪や負い目の自覚からの自己復権という観点をもとに、親鸞・キルケゴール・ヤスパースの三者の思想を比較・検討しつつ、その三者の共通性・相違性の解明を試みるものである。その際、相違性に関しては、親鸞(東洋思想)とキルケゴール・ヤスパース(西洋思想)という区分、親鸞・キルケゴール(宗教者)とヤスパース(哲学者)という区分にしたがって、解明を試みていく。

本発表による試みにおいて、明らかとなった内容は以下の通りである。

まず、親鸞・キルケゴール・ヤスパースの三者における共通点として、自らの罪や負い目を自覚することを通して、超越的存在者とのつながりを求めて、自己復権を目指そうとすることが挙げられる。

次いで、親鸞(東洋思想)とキルケゴール・ヤスパース(西洋思想)における相違点については、以下の内容を挙げることができる。親鸞(東洋思想)の場合であれば、自らが凡夫であることの自覚が、同時にそのまま阿弥陀如来の本願につながることから、如来の呼びかけに対して、主体的決断・行為を人間に求めるというものではない、ということが言える。それに対して、キルケゴール・ヤスパース(西洋思想)の場合であれば、神や超越者からの呼びかけに対して、人間自らの主体的決断・行為が求められるというものである。

そして、親鸞・キルケゴール(宗教者)とヤスパース(哲学者)の相違点については、以下の内容を挙げることができる。親鸞・キルケゴール(宗教者)の場合、人間の罪深さを自覚したうえで、それを救済しようとする如来・神との関係の回復を試みながら、自己復権を目指そうとする。その点でいえば、親鸞とキルケゴールは、社会的通念でみれば、堕落した人間のように思えるが、自らの罪深さの自覚により、如来や神からの救済により近いとされる「例外者Ausnahme」を救済しようとする思索が展開されており、それを自らの思想の主軸にすえている、ということが言えよう。それに対して、ヤスパース(哲学者)は、宗教的救済に安住することなく、むしろ自らの「哲学すること」において、主体的真理を求めようとする立場を強調する。たしかにヤスパース(哲学者)は、限界状況として負い目を強調するものの、宗教的意味合いでの罪を強調するわけではない。そのため、人生の落伍者である例外者の救済に力点を置いた思想ではあるとはいいがたい、ということが考えられる。

本発表におけるこうした考察の試みから、時代ならびに東洋・西洋という区分、宗教者・哲学者という区分を超えた、人類共通の普遍性を有した思想の共通性を見て取ることができ、また同時に、こうした比較思想研究の中で各思想の相違性を探求することを通じて、東洋・西洋および宗教者・哲学者におけるそれぞれの思想の独自性を浮き彫りにすることが可能ではないかと考える。

 

「王陽明思想における「見在」と「生生不息」――時間的視座から――」

 志村 敦弘(東洋学研究所奨励研究員)

陽明学の祖、王陽明(一四七二~一五二九)は、「人の心にはそれぞれ聖人がいる〔人胸中各有箇聖人〕」と述べた。彼においては、「心」や「良知」は今、ここにおいて満ち足りて完全、「当下具足」なるものであった。しかし、それは一面では非現実的にも映る。それにもかかわらず、なぜ彼は「人胸中各有箇聖人」などと断じたのであろうか。

そもそも「当下具足」の深意は、良知にしたがって実践することが人としての完成である、ということにある。つまり生来誰もが有する良知の実践ができるか否かの一点に人の価値の基準がある、というシンプルな人間観である。それは同時に、何人であれ、後天的に得られた知識や地位などでその価値は決まらないとする、人間存在それ自体への無条件の肯定に他ならない。

良知にしたがって実践することは「見在」(今、ここの現実世界)の一瞬間にしかできない。それは、工夫の「積累」の意義を強調する、当時の体制教学たる朱子(朱熹)の哲学(朱子学)とは異なり、人としての完成までに時間的長さや蓄積を要しないという発想なのである。しかも陽明はそのような一瞬の「具足」に満足することなく、自己を戒める「戒愼恐懼」の工夫など、良知に基づく実践に「無窮盡」に取り組むことを強調した。そこに独善主義はない。

さて、良知を実践する場である「見在」=現実世界の事物は複雑かつ多種多様であり、当人の能力も含め、その実践には何らかの制約が伴う。そこで陽明は、良知に基づく実践を可能とするために、人は自らの力量の「分限」を受け入れ、それに沿って実践せよという。知識、才能などの力量を増やすことに心を奪われれば、人生の根本である良知の実践がおろそかになるからである。

このように良知の実践の有無に人の評価基準を置けば、しぜん、知識や才力の差や、その追及は無意味となり、才能力量の高低、置かれた状況の相違にも係わらず、皆ひとしく「具足」することができる。このことは心・良知における万人平等への道を切り開いた。それは進んで、己が心を主としていれば、その結果生まれた思想がいかなるものであろうとも問題としない、という「異端」許容の発想にまで至った。

このような心・良知の在り方を陽明は、「生生不息」「生意」と表現した。天地=「見在」の現実世界の複雑さ、変化があたかも生き物のように「活潑潑地」であるので、それに対応する心・良知もまた生き物のように「活潑潑地」「生生」たる存在として変化し、瞬間瞬間ごとに「具足」し続ける。しかしそれは無原則ではなく、心・良知という確固たる善悪の基準を持つのである。王陽明のいわゆる「生生不息」の心・良知こそ、「見在(当下)」を善く生きるための「生」の根本であった。

 

空海の『大日経』「住心品序分」の解釈について

 竹村 牧男(東洋大学名誉教授、東洋学研究所客員研究員

『大日経』の「住心品」の「序分」は、『弁顕密二教論』において空海が主張する法身説法の根拠として引用されており、かつ『秘密曼荼羅十住心論』「秘密荘厳住心 第十」にも「自心の源底」の光景を描くものとして引用されていて、それは空海にとって密教の世界観の根幹に関わる重要な教証であったであろう。そこで、本発表においては、その「序分」そのもの、『大日経疏』該当箇所、空海の註解等を精確に読解することにより、特に空海のその独自の解釈の特質を明らかにすることを試みた。

その結果、以下のような新たな視点が得られた。

疏家は全体を加持身すなわち他受用身等の説法の様相を描くものとしていること。

空海は、『十住身論』「秘密荘厳住心」において、疏家の本地身・加持身の枠組みを採用せず、五仏(五智)を内容とする仏身全体による説法と見ようとしていたこと。

同「秘密荘厳住心」では、その後、疏家の解釈を依用しているが、上記の立場により、加持身以外の仏身の説法も排除されていないこと。

そのこともあって、『弁顕密二経論』では、「通序」の部分に自性身説法を読み込んでいること。

この自性身は、本有の五智と一体のものと考えられ、実際に説法することは可能であり、あるいは三密を発揮することは可能であること。

「別序」において、他受用身・変化身の説法が三密全体によるものと描かれているように、自性身説法の内容も三密全体によるものと見るべきであること。

自性身説法とされる「身語意平等句の法門」の平等とは、『秘蔵記』にいう、自平等・他平等・共平等の三平等を含むものとして理解されるべきこと。

こうして、『大日経』「住心品序分」は、空海によって独自に、密教が証する曼荼羅世界の原風景を描くものと見なされたのであった。