2021年12月18日研究発表例会 発表報告


Bhūtaḍāmaratantraのマンダラ観想法―BBT、HBTの記述比較

 

藤井明 奨励研究員 

 本発表では、Bhūtaḍāmaratantraにおいて説かれる、マンダラの記述の後のマンダラの観想方法に焦点を当てて発表を行った。仏教版Bhūtaḍāmaratantra (BBT)では第4章、ヒンドゥー教版Bhūtaḍāmaratantra (HBT)では第6章で、このマンダラの観想方法が説かれている。BBTにおいてはこの章はsiddhimaṇḍalavidhiと呼ばれており、前の章で説かれたマンダラの各尊格の勧請方法や観想の方法、そして尊格それぞれのマントラが説かれている。

 両BTの記述の比較を通して、BBTとHBTのマンダラを用いた観想次第は大枠では似通ったものであるが、いくつかの異なりが認められることを本発表において指摘した。着目すべき主要な差異を簡潔にまとめれば以下のようになる。① HBTにおける心月輪の観想の欠如、② HBTにおける空の観想の欠如、③ HBTにおけるクンダと水晶の如きものの観想の欠如、④ HBTにおける八葉蓮華の観想の欠如、⑤ 尊格を勧請してくる場の相違。

 両BT間のマンダラの観想次第における相違点は、その多くが仏教版に認められる記述がヒンドゥー教版に認められない、という点にあることが分かる。また、BBTで一行で示されるマントラがHBTでは複数行用いて暗号化されて説かれている為、HBTではそこに紙数が割かれている。

 ①および②は、特に仏教で重視される思想あるいはそれに基づいた観想方法であり、HBTに共有されなかったと言えよう。それはśūnya(空)の観想や、菩提心を象徴する心月輪の観想である。

 ⑤は、特に観想方法としての差異が顕著なものであり、HBTでは自己に憑依した尊格を心臓から招きだしている。BBTではどこから尊格を勧請してくるかは明確に説かれていないが、仏教の密教においては尊格を召請する場合には各尊格のいる場所から尊格を招くことが一般的である。例えば金剛智訳とされる『佛説七倶胝佛母准提大明陀羅尼經』では阿迦尼瑟吒天宮中から准提佛母を勧請すると説かれている。

 ヒンドゥー儀礼の場合には、āvāhana(召請)を例に挙げれば、リンガを供養(pūjā)する儀礼では、行者の身体を通してシヴァ神がリンガに移される。この記述から考えれば、HBTにおける、心臓から尊格を招きだすという記述は、恐らくこのような伝統に沿った為に修正を加えられた形だと考えられる。このように、マンダラ観想次第において一つの重要な位置を占めている勧請の方法には両BT中に差異が認められた。その差異は、各宗教の伝統的思想や教理に基づいている為、お互いの宗教にとって「共有されない要素」とみなされたと言い得る。以上のように、両BTの比較を通して、仏教とヒンドゥー教各々によって重視される思想や共有され得ない思想の一部を明らかにした。

 

 

エピクロスの快楽主義と現代の自殺

岩崎大 客員研究員 

 現代日本の死生観の実態を分析する研究の一環として、本発表では古代ギリシャの哲学者エピクロスの快楽主義を取り上げつつ、現代の自殺の特徴を分析していった。コロナウィルス感染拡大による日本の自殺者数の増加は、比較的自殺率の低い女性の増加によるものであったが、雇用問題を含む経済的不況によって自殺率が増加するという統計的事実は、現代日本の特徴であり、時代や文化を超えて共通するものではない。現代においても、日本において自殺率が高い相対的貧困層ではなく、絶対的貧困の状態にある国では自殺率は低い。デュルケームは、自殺は個人的な問題である以上に社会的な問題であるということを社会学的アプローチによって示している。すなわち、経済面との相関や、先進国での自殺率と若者の死因が1位であるといった日本の自殺者の傾向には、現代日本の死生観の特徴が現れているといえる。

 自殺という選択肢を否定することが、苦悩に満ちた生を絶対化し、逆説的に自殺念慮を深めるというジレンマがある以上、自殺を社会的に予防すべきものとして否定的にとらえる一般的な自殺予防運動とは異なる、前提をもたない哲学的自殺対策に実践的価値を見出すことができる。本発表では、エピクロスの有名な死論の基礎にある快楽主義に基づいて、自殺念慮の原因となる生の苦悩に注目し、哲学的な自殺対策の可能性を模索した。自殺念慮をもたらす苦悩は、「自然的で必須な欲求」とは異なる欲求が充足しないことによってもたらされており、それらの快楽を欲求することは全体として不幸な生をもたらすとされる。すなわち自殺企図者の苦悩は、結果的に不幸をもたらす贅沢な欲求をもつがゆえに生じるということである。

 エピクロスが求めるのは、「自然的で必須な欲求」のみで満足する慎ましい賢者の態度であり、それを現代人や自殺企図者に求めることは理想にすぎない。それゆえ、哲学的な自殺対策として有効と考えられるのは、自殺という選択肢を否定することも、欲求を抑制することもせず、自殺企図者が心理的視野狭窄から脱するために、選択肢を広げることで苦悩を相対化し、自律的な判断を促すという実践である。自殺念慮者の苦悩には、たとえば精神病に対する偏見や、協調性を重んじる閉鎖的な社会において不適合のスティグマ(烙印)を負うことへの恐れといった、社会的特徴に起因する要素が強い。それゆえ、個人と社会の両方に生じている視野狭窄や事実誤認を打開する環境を、哲学の視点で構築していく必要がある。

 

十六-十七世紀における「キリスト教と仏教との間での哲学的影響」
― ペドロ・ゴメスの『講義要綱』を通じて ―

フレデリック・ジラール 客員研究員

 イエズス会の宣教師ペドロ.ゴメズ(1535-1600)はヨーロッパの知識システムを収めている『講義要綱』の和訳(1595年)における霊魂/身体論や宇宙論、神学論の三部からなり、優先的に理性を有している人間とそれを有していない動物、植物との違いを日本人に説明しなければいけないと思った。理性を有しているのに、霊魂不滅を知らないことを説教すべき。キリシタンの教えには永遠な極楽という自由獲得、理性からなる霊魂不滅という人間の救いに収まれる。

 長崎、天草で一向宗と同視されたキリシタンを論破した曹洞宗の鈴木正三(1579-1655)や臨済宗の雪窗宗崔(1589-1649)等は道元が激しく論発していた常住な霊性、霊明の概念をいかせている。その上に、徳川家主催の浄土思想と禅宗を組み合わせているが、地球が丸いとされていた時代に須弥山思想に基づいている西方浄土の思想を捨てて人間の心を空じさせる唯心浄土と禅をひとセットにせざるを得ない。則、徳川家の政権は阿弥陀如来の剣を獲得できたからと浄土宗の増上寺の存応(1544-1620)は説明していることは知られている。正三の説法にキリシタンみたいに、解脱という概念を利用しなくなり、その代わりに自由という概念を使うようになり、又、織田信長(1534-1582)の時代に発達した運命としての天道は、全てを説明している原理となっているのも、自然の原理だけで全ての現象を理解すべきとしている。

 中村元はそのことを正三の批判精神と見ていたが、実際、徳川家側に立っていたからである。雪窗の場合には、大陸の黄檗宗と全真教の影響もあって、政治的な配慮も多少あっても、若い時からキリシタンと接触があったので半分以上は自然にそのように思うようになった。最終的に三界唯心、心仏及衆生、是三無差別や心外無別法という華厳と天台の一心論の混淆思想を組んでまた、エクメニカルな仏典として真如(初めも終わりもないprincipio)の概念を明らかにしている『大乗起信論』を中心に依憑して仏教復興運動の起こしている。

 沢庵(1573-1645)の著作の中に、天道の思想が特に利用されているのは超自然的な力の思想に反対していたからである。あそこに、間接的にキリシタン思想への反論もみられる。

 盤珪(1682-1693)も非仏教的であった霊性の利用、生まれつきという意味での不生の霊明、不生禅などという新しい概念などが顕著に現れている。それは鈴木大拙(1870-1966)は日本の霊性と見ているが、実際はキリシタンへの反応という面もみられる。

 山口討論(1551-1552)以外、日本にはキリシタンとの思想的な論談がほとんどなく、ただ、当時流行っていたキリシタンの信者を再改心させるために、キリシタン師匠にあるものを仏教にもあると説得させる説法が発展してきたことが目立つ。そいう点で唯心思想の近世的な発展がみられる。