西洋思想の受容と日本思想の展開─キリシタン時代と明治期以後─
西洋思想の受容と日本思想の展開─キリシタン時代と明治期以後─
2023年10月28日:開催
キリシタン文献における「大切」概念についての一考察
大野 岳史:客員研究員
〔発表要旨〕
キリシタン文献において「大切」は、「それが最優先にとりあげて評価すべきもの」という当時の一般的な意味をこえて、キリシタン独自の精神としての愛を意味する。フーベルト・チースリクによれば、キリシタン文献の愛は感情的肉体的な愛情、精神的な相互愛、そして超自然的(神的)愛に分けられ、それぞれ感情的肉体的な愛情は「愛」、精神的な相互愛は「大切」「に対して」、神的愛は「カリダアデ」と訳される。しかし「に対して」が精神的な相互愛を表示しているという解釈への反論もある。『日葡辞書』で「デウスにたいして奉りてふかき大切をもつ人」という表現があるが、「たいして」を愛として理解した場合に愛が重複表現になっているように思われるからである。しかしながら『どちりな きりしたん』(長崎版一六〇〇年)に類似する表現として「ポロシモをもDにたいし奉りて大切に思ふ善」というものが見られるが、ここでの愛は二重表現になってはない。というのも、「にたいし奉りて」での愛の対象は神(D)であり、「大切に思ふ」での愛の対象は隣人(ポロシモ)だからである。そのため、「に対して」のすべてを愛の表現として理解することは難しいかもしれないが、「対し奉る」が神への愛を表示していると考えることはできるだろう。このようにチースリクの解釈を擁護することもできるが、大切を精神的な相互愛の訳語としてのみ理解することは難しいだろう。というのも、『羅葡日対訳辞書』や『日葡辞書』では、amorやcaritasの訳語として「大切」「たいせつ」が用いられているからである。精神的な相互愛はアリストテレスやトマス・アクィナスの理解に従えば友愛(amicitia)であって、限定的な使用となるだろう。むしろ、大切という語は愛徳(caritas)の意味を、包括的な仕方ではないにしろ、適切に表現していると思われる。『真実ノ教』や『どちりな きりしたん』では、愛徳の規定のなかで神がそれ自体で何よりも愛されることが示され、このことは当時の「大切」のもつ「それが最優先にとりあげて評価すべきもの」という意味と合致するからである。ただしキリシタン文献における「大切」はキリスト教の倫理思想における愛徳を表示するだけではなかったため、原文や文脈ごとの意味表示を精査する必要があるだろう。
ひですの変移 ─ 近世末期の天草宗門心得違
菊地 章太:研究員
〔発表要旨〕
島原の乱から百七十年ほど経た文化二年(一八〇五)に島原の対岸の天草下島で、五千二百人あまりのキリシタンが発覚する事件が起きた。天草崩れと呼ばれる。島原の乱では二万数千人の一揆勢が潰滅したとされるが、天草崩れではひとりの犠牲者も出すことなく、「宗門心得違」として処理され、ことなきを得たのである。そこには壮絶をきわめたかつてのキリシタン弾圧の歴史からは想像もできない、日本人のキリスト教へのひとつの接し方がうかがえるであろう。本発表では、地元の研究者らによる研鑽の成果に学びつつ、現地での聞き書きをまじえ、島原の乱ほどには知られていない天草崩れの経過と、その後の信仰(キリシタンは「信仰」を意味するラテン語 fides を日本語に訳さず、音写して「ひです」と呼んだ)の変移について探っていく。天草下島に伝わるオラショ(祈りの言葉)には、「尊き聖体は誉め尊まれよ」というポルトガル語の文言が、ほとんど原意を失って呪文のように変形して伝えられている。同じく下島伝来のメダイ(カトリックではメダルをこう呼ぶ)には、ポルトガル語の原文が記され、聖体を礼拝する天使の姿が刻まれている。これは文字も図像も天草四郎の陣中旗とされるものとまったく同様であり、類例は各地のキリシタン遺品中にもいくつか見いだせる。ポルトガルではその後も教会を飾るアズレージョと呼ばれる彩色タイルに頻繁に表されてきた。ミサにおいてパンと葡萄酒が司祭による祝福を受けたとき、それはキリストの体と血に変化する。この聖変化をとげたものを聖体と呼び、カトリック教会は古来その信仰を維持してきた。宗教改革においてプロテスタントがこの教義に異議を唱えたが、対抗宗教改革の第一歩となった十六世紀のトレント公会議において、改めて聖体の意義が明確に認識され、その効力が喧伝されていく。島原の乱のときの旗も、天草下島に伝わるオラショもメダイも、イエズス会による世界布教の攻勢のなかで、再構築された教義のプロパガンダとして極東にまでもたらされた祈りの言葉であり造形遺品だったのである。
2023年12月9日:開催
明治仏教の公認教運動と十九世紀フランスの宗教制度─藤島了穏の『政教新論』(一八九九)を中心に─
ベルナット・マルティ・オロバル 氏(早稲田大学経済学部准教授)
〔講演要旨〕
本発表では本願寺派の藤島了穏(一八五二〜一九一八)と彼の仏教公認運動への主な貢献である『政教新論』(一八九九)を分析した。戦後、明治期の政教関係に対する感心が高まり、多くの研究成果が見られるが、仏教公認運動に関する研究はまだ少ないといえる。中でも、藤島に関する研究はないに等しい。本願寺派の僧侶であった藤島は、日本における公認教制度の導入を提唱した先駆者の一人であるが、これまで彼の役割は見過ごされてきた。一八八二年から一八八九年にかけてフランスに留学した藤島は、当時のフランスの宗教制度であったコンコルダート制度に注目し、これを日本に適用しようと考えたと思われる。しかし帰国後、第一回の公認教運動(一八八九〜一八九〇)が行われた際、藤島のその運動への貢献の度合いは明らかではない。長らく続いた条約改正交渉が終わり、一八九四年七月十六日に日英通商航海条約が結ばれ、それを契機に一八九四年〜一八九五年の間に他の西洋列強とも同じ内容の条約が結ばれた。その結果、一八九九年七月からこの新しい条約が実施されることになっていた。この条約により外国人の内地雑居が認められることとなり、仏教界では緊張感が高まり、大きな運動の展開につながった。その運動の一環として公認教運動が再開し、仏教界はこれで「キリスト教問題」を解決しようとした。つまり、日本特有の宗教である神道及び日本仏教のみを「公認教」として認め、政府の援助の対象とし、一方、キリスト教に対しては、信教の自由を認めながら、これを公認はせず、拡大を制限するよう求めた。藤島の活動について述べると、彼はこの第二回仏教公認運動(一八九七〜一八九九)に積極的に関わった。藤島は本願寺の代表者として仏教界と政府の交渉に参加しただけでなく、理論面でも仏教の公認運動に積極的に参加し、一八九九年の『政教新論』刊行は、その成果の一つである。藤島の『政教新論』は一八九九年四月三十日に上梓されたが、その内容は主として一八九七年から一八九九年にかけて本願寺派の機関雑誌『教海一瀾』(後の『本願寺新報』)に掲載された自身の論文に基づいている。この書籍で藤島は西洋の学術論文を参考に四つの主要な政教関係モデルを解説し、公認教制度を日本政府に採用するべきであると提唱した。また、仏教と政治の関係を多角的に論じ、日本の政教関係を国際的な視点から考察している点がこの書籍の特徴の一つである。『政教新論』の内容を考えると藤島の主張は主としてフランクの考え方に基づいているとも言えるのである。具体的には、アドルフ・フランク(Adolphe Franck 一八〇九〜一八九三)の『宗教と政治との関係』(一八八五)の第一部に挙げられている四種の政教関係を訳し、それを基に論じたと考えられる。但し、『新政教論』の前半ではフランクの理論が要約されているのだが、藤島の書籍はそれを日本の状況に適用して論じている。更に、書籍の後半では当時の日本の政教関係について詳述し、藤島自身の独自の見解を展開している。このような点から、この著作は独創的であると言える。
カントについてのフェノロサの授業
ライナ・シュルツァ 研究員
〔講演要旨〕
西周に次いで、フェノロサは日本における西洋哲学受容の初めの時期にもっとも影響を与えた人物である。カントとヘーゲルの受容に関して、フェノロサの授業はまさにその開始を告げるものである。
金井延(一八六五〜一九三三)と清沢満之(一八六三〜一九〇三)による講義の筆記録により、東京大学当時一八七八年から一八八六年にわたるアーネスト・F・フェノロサの授業内容をかなり包括的に理解することができる。一八八一年から一八八四年の金井のノートと一八八三年から一八八六年の清沢のノートに対して、一八七八年から一八八二年までの期間のフェノロサの哲学講義の記録は、大半が断片的なものであることが知られている。だが、一八七九〜八〇年と一八八〇〜八一年の二つの学期にフェノロサが出題した試験問題は彼の哲学授業を理解するためのもう一つの重要な手がかりである。
フェノロサは、清沢満之の筆記録によれば、「諸々のカテゴリーはただ現象にのみ適用できる。だが心理学的な前提に基づくなら、ヌーメナ(本体)が感性を触発しているのだ。この触発が因果関係の言説に他ならない。〔…〕現象世界にのみ適用可能と言われるカテゴリーはすでにその諸々の前提条件において必要とされている」と述べているが、認識論に対する論理的カテゴリーの優位性に関する批判は、フェノロサによって因果関係のみならず、カントが超越論的分析論においてカテゴリー表を提示する前にカントが用い、あるいは前提していた否定、数、関係やその他の概念にまで適用されている。
上の引用で触れられているカントに関するもう一つのカントへの批判は、「心理学」の前提となる「主客分離」に向けられる。認識の可能性への超越論的探究がアプリオリであって、経験的と合理的心理学のいかなる諸要素によっても制約されないということをカントが明らかにしたにもかかわらず、フェノロサは『純粋理性批判』におけるカントの研究方法を自分の講義において一貫して「心理学的」なものとして性格づけている。このようなカント評価は、おそらくはカントの諸著作を英語圏に最初に導入したウィリアム・ハミルトンに遡るものである。
他方、フェノロサの『純粋理性批判』を教授する真摯な努力は、学生への試験問題に見ることができるが、フェノロサは、カテゴリーの完全な一覧を発見する手段としての、判断における悟性の論理的機能表を、アリストテレスの時代以来、論理学になされた最大の貢献と評価している。彼は学生たちに『純粋理性批判』の歴史的重要性を教え、「この本(批判)をできる限り何度も読み直すように」と促した。フェノロサはカントのことを「ケーニヒスベルクの賢者」とさえ語り、学生たちに、アリストテレス、カント、ヘーゲルは、古代と近代の世界の三大知性であると言った。