中世真宗史料に窺える僧の妻の活動と後世の評価
-特に上宮寺如順尼を中心に-
板敷 真純 奨励研究員
中世真宗史料に窺える僧の妻の活動と後世の評価
-特に上宮寺如順尼を中心に-
板敷 真純 奨励研究員
真宗では僧の妻を「坊守」と呼び、中世では多くの坊守たちの活動が見られる。本発表では三河上宮寺周辺史料を用いて、上宮寺如順尼・如慶尼親子の動向と役割について論究を行った。
まず小野澤真氏、平雅行氏、蓑輪顕量氏、西口順子氏、勝浦令子氏などの先行研究を用いて、妻帯僧や寺院周辺の女性たちについてまとめた。特に平安期以降では、妻帯に対する朝廷の追認や僧侶世界の是認により、僧侶の妻帯が受け入れられていったことは重要な指摘である。また比叡山などの周辺には多くの僧の家族や女性たちが実際に生活していたことが指摘されており、真宗の「坊守」の出現以前にも寺院に関わる多くの女性たちの姿が確認出来る。
もともと佐々木上宮寺は、現在の愛知県岡崎市上佐々木を所在とする寺院で、後に「三河一向一揆」の中心寺院の一つである。佐々木如光は現在の上宮寺を本拠地として活動し、本願寺の東海地方の教線拡大に尽力した人物である。上宮寺に現存する蓮如から下付された十字名号の裏書には、寛正二年(1461)の記述が見られる。しかし応仁二年(1468)のその年に如光は急死する。この如光没後に上宮寺を支えたのが妻の如順尼と娘の如慶尼であった。
まず「専福寺文書」「蓮如書状」、東本願寺蔵「蓮如消息」などを用いて如順尼への論究を行なった。この二通の蓮如の消息から、如光の死後という上宮寺存続の喫緊の事態において、蓮如と如順尼との間に多数の消息のやりとりがあったことが分かる。
特に注目すべきが「蓮如・如光両上人連座像」裏書である。本史料は蓮如と如光の二人の連座絵像が描かれたものである。先行研究では、このような蓮如と門弟の法脈相承が描かれている絵像は当時としては非常に珍しいものとされている。ここで注目すべきは、連座像の願主が妻の如順尼となっていることである。このことはつまり如光没後は、妻の如順尼が対外的に上宮寺を代表する立場にあったこと示している。
如順尼没後に上宮寺を継承したのが娘の如慶尼である。「親鸞聖人絵伝裏書貼交」や「法然絵像」裏書など、上宮寺周辺史料には、「願主如慶尼」と記された裏書が数点見られる。このことは如順尼没後の当時の上宮寺の代表が如慶尼であったことを示すものと考えられる。
本発表では、妻帯僧の妻から坊守の出現に至るまで、中世の女性たちの活動の一部を明らかにすることが出来た。またその中で僧の家族の活動が密接に関係していたことが分かった。平時の坊守の活動などについては、今後の課題としたい。