文:玉木英明
2015年8月号 iPS細胞。アイデア無尽蔵、夢の細胞
怪しい伯爵(はくしゃく)が…
伯爵 :おい、バーテン。そう、君だ。
バーテン:おやおや、黒ずくめでオールバック、男前の方ですね。目が血走っておられ
ますが、どうかなさいましたか。
伯爵 :いや…その…腹がへって…。
バーテン:フォーマルなお姿からご拝察すると、上流階級の方ですね。
伯爵 :私は、伯爵(はくしゃく)ドラキュ… キュルキュルグ~。
バーテン:そうですか。どら焼き屋さんだったのですね。それにしても、大きな音で
お腹がなりましたね。
伯爵 :実は、のどが渇いて…。
バーテン:わかりました。どんな飲み物を用意しましょうか?
伯爵 :若いむすめの…。
バーテン:「ピンクレディー」はジンベースのカクテルです。
伯爵 :ち、ち、ちが…。
バーテン:ちがうのですね。
伯爵 :ち、ち、ちを…。
バーテン:地をはうようなご苦労をなさってきたのですね。
伯爵 :ち、ち、ちだ…。
バーテン:あら、やだ。おちちが飲みたいのですか?
伯爵 :あ、あかい…。
バーテン:なんだ、トマトジュースがほしいのですね。はい、どうぞ。
iPS細胞。人工多能性幹細胞
バーテン:だいぶ、落ち着かれたようですね。
伯爵 :かたじけない。トマトジュースで一息つけた。
バーテン:顔色が悪いですよ。血の気のうせた感じですね。
伯爵 :分かっておるのだが、輸血してもらうのはいやだ。プライドがゆるさん。
バーテン:iPS細胞というのをご存知ですか?
伯爵 :何だ、それは?まさか、ニンニクではあるまいな。
バーテン:日本語では人工多能性幹細胞といいます。採取した皮膚の細胞からつくられる
様々な臓器のもとになる細胞のことです。
伯爵 :そんな細胞がどうしたというのだ?わたしに必要なのは「血」だ。
バーテン:だから、申し上げてるのですよ。皮膚からとった細胞の情報を受精卵に近い
状態にもどしておいて、培養して「血」をつくるのです。
伯爵 :…ちょっと待て。今、何といった?
バーテン:ですから、iPS細胞で、大量に血を作ることができると言ったのです。
伯爵 :…若いむすめの…血も、作れるのか?
バーテン:はい、皮膚の一部があれば、85歳のおばあさんの血でも作れます。
伯爵 :それは、遠慮する。
バーテン:最近では、ビーズの上でiPS細胞を大量にロボットを使って培養する技術が
登場しはじめました。
伯爵 :皮膚の細胞から、iPS細胞を経由してどんな細胞でも作れるというのだな?
バーテン:そうです。臓器を3Dプリンターで作り上げることも、論理的には可能なの
ですが、いまのところ、薄いシートに細胞を印刷するような技術までは成功
するメドがたっています。
伯爵 :細胞の印刷だと?
バーテン:その通りです。細胞の大きさは、インクジェットプリンターのインクの粒の
大きさとほぼ同じなのです。
伯爵 :シートに細胞を印刷して何になるのだ?
バーテン:神戸理化学研究所の高橋政代さんのグループは、IPS細胞からつくった細胞で
網膜をつくりました。
伯爵 :目の見えない人が、見えるようになるというのか?
バーテン:その通りです。網膜に不具合があって目がみえない人にとっての、大きな
「光」です。
伯爵 :そのiPS細胞とやらには、問題はないのか?
バーテン:今のところ、iPS細胞が「ガン細胞」に変化してしまう可能性があります。
ですからガンに変化しにくい神経系細胞とか、目の網膜のようにガンに
なっても外から見つけやすいところに、iPS細胞を使うのです。
伯爵 :血…血を大量に作り上げることは可能なのか?
バーテン:現在、血液中の「血しょう」についてはガン化しにくいからということで、
つくる技術がどんどん確立されています。
伯爵 :赤血球と白血球はどうだ?
バーテン:血液にこだわりますね。実は、iPS細胞は糖尿病の人の救世主になる可能性が
高いのです。
伯爵 :どういうことだ?
バーテン:すい臓のベータ細胞がなくなってしまって「インスリン」が作られずに、
糖尿病になっている人が世界にはたくさんいるのです。ですから、
インスリンを分泌する細胞をiPS細胞から作れたら、ビル・ゲイツより
お金持ちになるだろうといわれています。
iPS細胞が新しい薬の開発に
バーテン:遺伝子に異常がある人からiPS細胞を用いて大量の遺伝子異常細胞をつくれば、
その細胞が原因でおこる病気を治す薬も開発できます。
伯爵 :そうか。異常な細胞がいっぱいあれば、薬品開発は簡単になるのじゃな?
バーテン:そうです。京都大学のIPS細胞研究所の妻木先生は、軟骨の異常で成長できない
人や関節痛のある人の治療薬をつくろうとしています。
伯爵 :なるほど、遺伝子自体を治すのでなく、症状を抑える薬の開発にiPS細胞が
すごく役立つのだな。
バーテン:はい。さらに、iPS細胞なら簡単に遺伝子操作をおこなえます。遺伝子に
異常があって、貧血になっている人などは、IPS細胞の段階で、異常のある
遺伝子情報だけ正しくかえてやるのです。
伯爵 :バグのあるコンピューターデータを一部書き換えるのと似ているな。
バーテン:そのとおりです。異常な遺伝子情報だけを正常にかえたIPS細胞で造血幹細胞
をつくると、拒絶反応なしで正常な血液を作り出せます。貧血をなおすこと
ができるのです。
伯爵 :同じ方法を使えば、血液だけでなくIPS細胞で臓器をつくることも将来可能
なのだな?
バーテン:その通りです。
部品をかえても私は私?
伯爵 :まるで、SF(サイエンス・フィクション)の世界だな。
バーテン:そのとおりです。ただ、技術が進めば進むほど、新たな問題が生じます。
伯爵 :ほう、どんな問題だ?
バーテン:今、私たちは、腎臓(じんぞう)のないブタを、胚の段階から発生させられます。
伯爵 :何に使うのだ?
バーテン:発生の段階で、そのブタの胚に人のIPS細胞をいれてやったら、ブタ自身は
腎臓をつくることができず、腎臓だけは人の腎臓ができるのではないかと
考えられています。
伯爵 :わかりやすく説明してくれ。トマトジュースでは、頭が働かん。
バーテン:今の段階では、試験管の中でIPS細胞から人の腎臓を作ることはできません。
ですから、ブタの発生の段階で、ブタの胚をかりて、人の臓器をつくって
やろうというのです。
伯爵 :…何が、問題なのだ?
バーテン:腎臓なら問題ないかもしれません。ただ、脳ならどうなるでしょう。
伯爵 :…生まれたブタが、脳はヒトと同じ能力があるけれど、体だけはブタだと
いうことか?
バーテン:そうです。脳はヒト、体はブタです。人格をもったブタです。
伯爵 :宮崎駿の世界だな。
バーテン:さらに、iPS細胞を大量に使い始めたらどうでしょうか。
伯爵 :いいではないか。悪い部分は、どんどん取り替えればいいのだ。
バーテン:自分の体のなかの「どの臓器をどれくらい入れ替えても自分であるか」が
問題です。
伯爵 :どんどん若返っていくということか?
バーテン:そうです。また、自分の脳の細胞が痛んできた人が、自分の細胞から作った
脳のIPS神経細胞にどんどん入れ替えたとすると…どこまで「自分」なので
しょうか?脳のほとんどが入れ替わっても、それは自分か?ということです。
伯爵 :話に熱が入ってきたのう。つばが大量に飛んでくるのだが、気にならん。
バーテン:目を入れ替えて、骨を入れ替えて、神経を入れ替えて、いろんな臓器を入れ
替えて、脳だけが残っていれば、それは自分であるのでしょうか。顔面を
入れ替えても、それは自分なのでしょうか。
お金持ちだけ、長生きできる?
伯爵 :技術が革新されても、倫理はかわらんじゃろ?
バーテン:いや、倫理観というものはかわっていくものです。たとえば、人工授精は、
30年ほど前は、宗教界、マスコミ、医学会、こぞって神に対する冒涜
(ぼうとく)と表現されました。
伯爵 :今はどうなのだ?
バーテン:今では60人に一人は人工授精です。技術革新によって安全になって、安価に
なっていけば、倫理観というのは、変わっていくものなのです。
伯爵 :iPS細胞は、まさに「新たな倫理観が必要」だということだな?
バーテン:その通りです。さらに、高額なIPS細胞によって命が助かるとか、若さを取り
戻すことができるとかしましょう。それならば、お金持ちだけが長生きして、
若さを保ち続けるということになります。
伯爵 :体の部品を、お金で買うようなものじゃのう…
バーテン:吸血鬼、バンパイアという人たちがいます。
伯爵 :うっ!わ、わたしのライバルだ。
バーテン:この人たちは、わざわざ暗い夜道で若い女性を襲って血を吸わなくても、
お金さえ出せば血を買うことができるようになるでしょう。
伯爵 :首筋に歯でかみつかなくてもいいというのか?
バーテン:はい、ストローでいただく、おしゃれな飲み物「ブラッド」として
発売されるかもしれません。
伯爵 :おいしそうな名前だ。今から血がさわぐ。発売はどこのメーカーからだ?
バーテン:日本赤十字社です。
伯爵 :…ぎゃっ!十字架!