38 2025.7.1
読書遍歴(その18)シオニズムをめぐって
イスラエル政権のパレスチナにおける行動についてのニュースは乏しい。それは、これというニュースがないからかと錯覚させるがそうではない。イスラエルは建国以来パレスチナ人の土地や住居を、暴力を含むあらゆる手段を用いて、日常的に奪い続けてきた。マスメディアがそれを報道しないために世界はそれを知らない。
私が「イスラエル批判はタブーか」という2018年12月25日の東京新聞ヨーロッパ総局・沢田千秋氏の記事を切り取っていたのはそれがあまり目にしない、斬新と言わねばならないタイトルだったからである。そこではイスラエル批判がなぜ表面に現れないかを英国労働党内部の権力闘争を報じることによって浮かび上がらせていた。
その記事は2018年9月の英国労働党大会でジェレミー・コービン党首が「反ユダヤ主義者」として批判の矢面に立たされたことを伝えていた。コービン氏は、19世紀末以来、ユダヤ人国家建設を進めてきた政治運動「シオニズム」に疑義を唱え、パレスチナ自治区への入植活動やイスラエルへの武器輸出を非難してきた政治家で、ブレアー、ブラウン時代の後、退潮を続けた労働党を立て直すのに功のあった党首である。
シオニストの国際政治機関「国際ホロコースト記念アライアンス」は労働党大会の直前の8月に彼らが旗印とする反ユダヤ主義の定義を承認することを労働党に求めた。しかしその中に例示された「イスラエルという国の存在は人種差別につながる」にコービンは難色を示した。彼の長年の政治信条であるイスラエル批判の足かせとなるためである。そのため、イスラエル国内のパレスチナ人が明白な差別の下にあるにもかかわらず、コービンは党内外から猛反発を受け、労働党は党大会直前にこの定義に同意をした。
沢田氏はこの党大会で、反ユダヤ主義をめぐる議論が沸騰し、駐英イスラエル大使が会場入りしてイスラエル国旗を掲げたこと、アウシュヴィッツの生存者が会場で、シオニズムはユダヤ人のアイデンティティ―であり、シオニズム批判はユダヤ人排斥問題と切りはなせないとしてコービンを糾弾した。
このようにイスラエル批判を封じ込める政治的圧力は圧倒的と言ってよく、イスラエルをめぐる「表現の自由」は存亡の危機に立たされている。反面では、コービンを支持する党内のユダヤ人団体もあり「シオニズムは政治的イデオロギーであり、パレスチナ人抑圧の加害者だ。ユダヤ人とイスラエル政府を同一視することこそ反ユダヤ主義を生む」と明記した冊子を会場で配布したという。同年12月10日にEU基本人権機関は欧州のユダヤ人の89%がこの5年間で反ユダヤ主義が高まったと感じ、28%がこの1年間で嫌がらせを受けたという調査結果を公表しているという。これらの数字はさらに上昇線をたどりそうである。
もちろん昨年10月7日のハマスの攻撃とイスラエルの反攻以来、イスラエルの軍事行動に関する報道は“降れば土砂降り”とばかりに急増している。報道は軍事的な展開に始まり時を置かずして極限的な人道危機の様相を呈するに至っているが、あからさまな批判は回避されている。アメリカをはじめとする西側諸国の足並みもそろわず、シオニズムの壁の前で立ち止まったままである。
私の目を引き付け、干天の慈雨とも思われた沢田千秋氏の報道からすでに6年になろうとしている。そしてようやくここに来て、私は沢田氏の報道に呼応する歯に衣を着せぬ論調に出会った。「ガザ 飢餓による虐殺 人間の尊厳は地に落ちた」と題する京都大学准教授、藤原辰史は5月24日の東京新聞で正にこの標題通りの記事を寄せ、その中で『サピエンス全史』で世界に知られるユヴァル・ノア・ハラルのネタニエフ政権非難を、さらに追いかけて批判している。
藤原の言い分はこうだ。イスラエル批判者をユダヤ人憎悪の伝統と結びつける国民をハラリが批判しているのは正しい。だが歴史家ならこうつけ加えるべきだ。イスラエルもナチスと同様に飢餓を通じた虐殺をしている。「問わねばならないのは『いま』(だけ)ではない。ずっと国際社会で、イスラエルがパレスチナ人の生を危機に追いやってきた行為が非難されてきたのに、日米やドイツなどがイスラエルを支持し、こうした犯罪を覆い隠してきたことこそ問わねばならない。」
藤原はこの発言を裏書きして次のような例を述べている。「なぜあなたは、イスラエルが農業自給率9割の農業大国になった理由が、ヨルダン川自治区の水源を奪い、パレスチナ人農民に農業をあきらめさせてきたからだと言わないのか。なぜ、イスラエルは、2007年からガザ地区を封鎖し、食料も水も電機も制限し、川と海を汚染して来たのか。」
まったく当然のことが報道されない。ガザで何が起きているのかと問われて、アーティフ・アブー・サイフ(パレスチナ自治政府文化大臣)は「正しい質問は、いま何が起きているかではなくて、何が起きてきたかだろう。この間ずっと——75年以上にわたってだ」と近著『ガザ日記-ジェノサイドの記録』に書いているという。「ナクバ(大災厄)」と呼ばれる殺害と追放の歴史を見よというのである。
私はアイザック・ドイッチャー(1907年4月~1967年8月)の『非ユダヤ的ユダヤ人』(英語版1968年。岩波新書、1970年)を書棚から取り出して教えを求める。60年代の初めに一度彼の講演を聴いたことがあったがそれは東西冷戦についてであった。ドイッチャーは亡くなってすでに久しい。彼の生前の歴史家、時評家としての業績を偲んで1969年に英国で「ドイッチャー記念賞」が設けられ「マルクス主義の伝統に沿うもので、斬新・革新的な最良の書物」に与えられる。2018年には日本の斎藤幸平氏が最年少の受賞者の栄に浴している。(斎藤氏の警世の書『人新世の「資本論」』を私は昨年2月と3月の2回にわたって紹介している。)
『非ユダヤ的ユダヤ人』はユダヤ人であるドイッチャーによる9編から成るシオニズム論集である。ユダヤ人であるドイッチャーがここに描くシオニズムの抱える問題は彼の死後57年を経た今も変わらずに生き続けている。シオニズムはアウシュヴィッツやマイダネクの絶滅収容所から始まったのではない。
共産党を追放されたマルクス主義者であり、国際主義者であるドイッチャーは、民族国家建設に解決を求めるシオニズムは誤っているという。「ユダヤ人の悲劇に対する責任は、全くわれわれ西欧ブルジョワ『文明』がとるべきものであって、ナチスは異常ではあっても、この西欧文化の実子だったのである。(…)当然ながら西欧の『やましい良心』はイスラエルに味方し、アラブに背をむけている。」
「この行き詰まりを打開する道はまだみあたらない。その解決の鍵は終局的に民族国家体制をこえたところに見いだされるべきであろう。おそらくそれはより広い中東連邦といったような形のものの枠内で成立することとなろう。そうなればイスラエルはアラブ諸国の中にあって、その人口の示すように、小さくはあるが、その知的精神的資源と同様に、大きな役割を果たしてゆくこととなろう。」これは「両陣営にとって、たんなる『未来音楽』でしかない。しかし聴くに値するものは未来音楽だけである場合も、時にはあるのである。(『ザ・リポーター』1954年4/5月号に掲載)」私はこれからも、彼のこのような発言について考え続けなければならない。
私が「キブツ」という言葉を初めて耳にしたのは1970代初めのロンドンだった。当時は日本の海外旅行ブームが始まる前で若い日本の女性が海外での生活体験を求めて労働力不足のキブツで住み込みの労働に参加することが一種の流行だったらしい。英国には自治体が無料の学習コースを設けていてその一つに「外国人のための英語」コースがあり、パレスチナのキブツ生活の後でそこで英語の勉強を続ける日本人女性もいた。私の家族の誰かが街で知り合って食事に呼んだ1人がそのような人だった。キブツで紹介されたらしいユダヤ人の家庭に住み込みで働いていた。
彼女の話では要領がつかめなかったがドイッチャーの著書が明らかにしてくれた。ユダヤ人は、西欧では都市化していたが東欧では農民が大多数を占めていた。その虐げられた東欧のユダヤ人農民が、理想に燃えた知識階級と新天地を求めてパレスチナに入植し、荒蕪地を切り開いて始めたのがキブツであった。その規模と共同体的性格はしばしばソ連のコルホーズ(集団農場)と比較されるが、キブツは民度の低い小心なムジーク(百姓)に依存したコルホーズとは明らかに似て非なるものだった。キブツを見学したソ連の使節はキブツに拘置所のないことが信じられなかったという。
イスラエルは今では厳然とした工業国であり、キブツがイスラエルに占める比率は微少である。ドイッチャーは当時でも2万人程度でイスラエル人口の5%足らずと書いている。2013年の統計では総人口は802万人、うちユダヤ人が604万人(75.3%)、アラブ人が166万人(20.7%)その他32万人(4.0%)である。ドイッチャーは「1948年以来、イスラエル人口は2倍以上になった、新来移住者は、それ以前にやってきた移住民の『波』に見られた理想主義者ではなかった。(……)これら多くの新らしい移住者にとって、「開拓者(ピルグリム・ファーザーズ)」的なシオニズムの理想は、直接には何の関係もない理解しがたい事柄であった。」と書いている。人口の増勢はすさまじいが、それはまた全般的な理想主義の後退にほかならない。しかしキブツの拡張は止まずパレスチナ人との土地をめぐる争いは絶えることがない。
ドイツ人のWW2への反省の徹底ぶりは日本人とは比べ物にならないとは日本の論壇でよく言われることである。それは日本人への反省を促す意味では良いとしても必ずしも正しいとは言えない。戦後ドイツを統治したアデナウアー大統領はその閣僚に旧ナチスを重用していた事は広く知られている。
ナチスの強制収容所のロジスティックスを差配したアドルフ・アイヒマンはアルゼンチンで逃亡生活を送っていたが1960年5月11日、ブエノスアイレスの路上でイスラエルの秘密警察モサドによって捕縛され、イスラエルに拉致された。行方不明となっていたナチスの大物の逮捕とそれに続く裁判は世界の注目を集めた。アイヒマンの逮捕はモサド長年の執念の結果だと長い間疑うものはいなかった。ところが事実は、アイヒマンの所在を突き止めてそれをモサドに通告したのはドイツのユダヤ人検察官フリッツ・バウアーであったことが後に判明している。バウアーはナチスの残党がはびこるドイツの捜査機関を信用できず、あえて国家反逆罪の危険を冒して情報を外部機関であるモサドにリークしたのであった。
バウアーはホロコーストに関わる強制収容所幹部らを裁くアウシュヴィッツ裁判の実現に尽力した人物であるが、オリヴィエ・グエズの著書に基づいた映画『アイヒマンを追え』(Der Staat gegen Fritz Bauer, 2015年)は、アイヒマン逮捕とバウアーとドイツ司法当局の息詰まる駆け引きに焦点を絞っていて息をつがせない。バウアーについての映画は他にも『検事フリッツ・バウアー』がある。
瓦礫の中から立ち上がって再び日常を取り戻そうとするドイツ人が身を守る本能を失うことはなかった。人身御供はやむを得ない。しかしどこの誰までがナチスだろうか。すべてのナチスを獄門に掛けることは認めがたい。それがバウアーを孤立に追い込んだのである。
この映画は戦争犯罪と保身ということを考えさせる。そして戦後のドイツの体制も、日本と同様に、名目はどうあれ妥協の産物であった。それを私たちは知らなかった。オリヴィエ・グエズの著書とは“Heimkehr der Unerwünschten: Eine Geschichte der Juden in Deutschland nach 1945”と思われるが今のところ仏訳はあっても英訳も邦訳もない。
ドイツは無惨な敗戦後、近隣の強国から弁明の余地のない非難の矢面に立たされた。その勢いはホロコーストの全容が明るみに出るにしたがって強まるばかりであった。これに比すれば、日本の近隣被害国は弱小国であり、強い国際的発言力を持たなかった。それが慰安婦像の建設に至る現在の日韓問題に尾を引いている。ドイツ人にとって勝者からの批判はそれだけ強く骨身に応えるものであった。
ドイツ人の過去の犯罪に取り組んだ作品を著し、『朗読者』によって世界的に知られるようになったベルンハルト・シュリックは時としてドイツ人であることの重圧を感じることがあるという。あるアメリカでの講演会で司会者に「彼ほどドイツ人であることを隠そうとしないドイツ人の学者はいない」と紹介されたことが嬉しかったという。彼は「たしかにアメリカにいるドイツ人の同僚の中には、結婚してアメリカ人になる前から、アメリカ人になり切ろうと務めている者がいる」という。
シュリックは現代ドイツ文学の大御所であるノーベル賞作家、ギュンター・グラスに極めて批判的である。グラスは最近発表した二つの詩によって世の批判を招いた。一つはイスラエルのイランに対する敵愾心に対する警告とドイツのイスラエルへの原子力潜水艦の供与に対する批判であり、もう一つはドイツが(EUの政策として)ギリシャに課した厳しい財政緊縮政策の批判である。シュリックはグラスが17歳の時にSSに編入されていたことを、他人には告白を求めながら、自分では長い間秘匿していたために道義的な権威を失ったことがこの甲高い言葉遣いの背後にあると考えている。
ドイツ連邦財務省によると、ドイツ政府が 2022 年 12 月 31 日までに、ユダヤ人らナチスの犯罪の被害者たちに対し支払った補償金の総額は 819 億 6700 万ユーロ(13 兆 1147 億円・1 ユーロ=160 円換算)にのぼる。補償金は、被害者が生きている限り年金として支払われる。
ドイツは中東での紛争ではイスラエルの側に立つという姿勢を貫いてきた。ドイツの大統領、首相、副首相、外務大臣らは、就任すると必ずホロコーストの犠牲者の慰霊施設ヤドバシェム(エルサレム)を訪れ、献花して謝罪する。
ドイツ政府は、イスラエル政府の政策を批判することもある。たとえばイスラエルは 1967 年の六日間戦争でヨルダン川西岸地区などを占領した。国連は同年におこなった決議でイスラエルに占領地からの撤退を要求したが、イスラエルは無視した。それどころか、同国政府は、占領地域でのユダヤ人入植者たちの住宅建設を黙認している。これは国際法違反である。ドイツ政府は、ヨルダン川西岸地域などでの入植地拡大を公に批判してきた。
2012年10月末、私は開館して間もないというベルリンのユダヤ博物館を見学した。入館に当たって普通の博物館とは違った検閲の厳しさは理解できた。内部は両側が壁でところどころのガラス窓に何かしらの展示物があった。通路は狭く迷路のようだった。それはこの博物館の意図で国際コンペの入札に成功したダニエル・リベスキンドが具象化したものか。私は時間を浪費したように感じた。
2016年、私はアウシュヴィッツ強制収容所を訪れた。ポーランド語ではオシフィエンチムという。8月3日、日記には、畑地の中に横たわるレンガ造りの建物群であるとしか書いてない。ローマ法王が若者の集いに臨席する大会があり建物の扉は締め切っており、中へは入れない。記憶で補足すると“Arbeit Macht Frei”という標語が歓迎してくれた。建物に入るレールの上に立って遠近を計りながら写真を撮る。資料を買いたいと思っても肝心の店舗はバス乗り場から遠く、混雑のためにいつ出発するか分からないので覗くことすらできなかった。