00041 2025.7.1
「読書遍歴」を通し題として少年期から時代を追って書き進めるつもりであったが、その過程で遍歴が前へ進むだけでなく時には逆戻りをしたり横道へそれてしまったりしなければならなかった。今回も前回の東京裁判に引きずられる形で朝河貫一(1873~1948)の事績を学ぶことになった。東京裁判を調べる過程で日米交渉の中で「ハル・ノート」や「日米首脳会談」の挫折に突き当たり、そこで朝河の名が浮かび上がってきたのである。
朝河貫一をどれだけの日本人が知っているだろうか。そう言う自分は何を知っているだろうか。以下は本箱の片隅から引き出した阿部善雄著『最後の「日本人」—朝河貫一の生涯—』(岩波書店、1983年)によってまとめたものである。
朝河は東京専門学校(現在の早稲田大学文学部)を首席で卒業した後22歳にしてアメリカに渡ってダートマス大学、ついでエール大学に学び、エール大学で教鞭をとり、戦後間もなく74歳でアメリカで亡くなった。この生涯の最後の52年間に帰国したのは1906年2月~1907年8月、および1917年6月~1919年2月の2度、計3年7カ月余りに過ぎない。最初の帰国はエール大学の図書館のための日本の書籍の収集にあたり、2度目は日本中世史の研究のため東大資料編纂所に留学したのであった。1919年には九州を調査旅行している。後に朝河の学者としての名声を高めた『入来文書』によって知られる鹿児島県薩摩郡入来村を訪れたれたのはこの時である。朝河貫一の学者としての業績はこのほかにも大化の改新の先駆的な研究など数多いがここでは省略せざるを得ない。
朝河の経歴を見ると、若くして「星雲の志」を抱いたことは疑いない。その上でキリスト教の洗礼を受け、多くの知友に恵まれて思想に磨きをかけたことがわかる。坪内逍遥(1859~1935)を師と仰ぎその偉業を記念して早大に演劇博物館を設け、逍遥の子、士行から送られた100通ほどの手紙をそこに寄贈している。鳩山和夫(1856~1911)はエール大学の先輩であり、朝河はその子一郎とも文通をしていた。自由主義の指導者と見なされていた一郎は軍部の圧力の下でしだいに政治の中枢から後退を余儀なくされていった。朝河とより年齢の近い徳富蘇峰(1863~1957)とは親交を重ねた間柄であったが蘇峰の思想が自由主義から国家主義に転換し『国民新聞』の社説が満州事変に始まる軍部の動きをはっきり支持するに及んで袂を分った。やがて蘇峰は対英米蘭の宣戦の大詔案を草し、朝河は米大統領の親書案の作成に励むことになる。
伊藤博文(1841~1909)が1901年エール大学で名誉法学博士の号を受けたとき朝河はまだ大学院の2年生であった。朝河はその3年後に英文の著書『日露衝突』(1904年)を英米の2国で出版し、アメリカ各地で30数回にわたり日本擁護の講演をおこなって評判を呼んだ。伊藤博文はその青年が日本に帰国していることを知った時、自分の主催する前駐日英国公使、アーネスト・サトウの歓迎会に彼を招いている。伊藤はその2~3日後その時の会話で触れられた「帝国憲法」制定過程の資料の公開を求める手紙を受け取っている。
伊藤は1909年7月に長逝の地、満州に旅立つのであるがその時手に携えていたのは、日本外交の背信を戒め、日本の愛国教育を批判する朝河の新著『日本の禍機』(実業之日本社、1909年6月)であった。朝河の原稿を読んでこの題名を選んだのは坪内逍遥である。「危機」ではなく「禍機」としたのは危機よりも広い含意を持つ言葉を選んだものであるという。逍遙は校正にも手を貸している。出版を引き受けた早稲田出身の社長増田義一はこれを桂首相、外務大臣、同次官、政務局長、それに日露戦争七博士や主な新聞社、図書館に寄贈している。
『日露衝突』は領土的野心にもとづくロシアの歴史的な南下政策に対して清国の中立と朝鮮の領土保全のために日本が果たすべき旗手としての役割を説き、それが清国の主権を守り欧米諸国にとっても機会均等を確保する妥当な解決策であると主張して国際的な共感を得たのであった。
それから5年を経て出された『日本の禍機』はそれまで日本政府が繰り返し公言してきた中国の領土保全と列国の機会均等という二大原則を反故にして排他的政策を推し進めることに対する祖国批判とならざるを得なかった。朝河は満州における新旧外交の矛盾を撤兵、租借地、鉄道経営並びに鉄道沿線地方にたいする不法な利権を日本の朝野を向こうに回してあらゆる角度から論及して批判した。
『日本の禍機』を出版してから3カ月後、朝河は早稲田の先輩であり面識もある大隈重信(1838~1922)に手紙を送って、アメリカの対清利益は清国が富強になって始めて増大するものであり、満州で私曲をなし、門戸開放の原則を破って清国の繁栄を侵害するものをアメリカは無視しないであろうと警告している。アメリカのタフト大統領が清国との親善の向上を図って国民の注目を清国に向けている事情を述べて、アメリカの世論もその方向に固まりつつあると指摘している。
1931年、満州郊外の柳条湖で満州鉄道が爆破され、「満州事変」が勃発した。米国憲法と米国史の権威である高木八尺(1889~1984)は朝河へ同年12月10日付で次のような手紙を書き送っている。「其の歴史の背景に真のインディヴィデュアリズムを有せざる国民はorganized minority の組織的努力の前になぎ倒されて、完全に与論を支配さるゝの憾を免れず候。雑誌論文の批判的なるにひきかへ、新聞紙が挙って愛国的強硬の論議にはしりたるは、何と云いても遺憾の極に候。」
朝河は愛国教育の弊害を説く傍らで「言論を統制する国の惨害はそれだけ甚大である」と各所で強調している。高木の手紙は新聞が戦意高揚のために果たした役割をいとも容易に、またさりげなく指摘している。
朝河はあらゆる機会をとらえて日本の破滅へ向かって暴走する言論を押しとどめようとした。エール大学日本人同窓会には会長の大久保利武(大久保利通の子、1865~1943)を通じて積極的に日本の軍国主義の過誤を訴え続けた。朝河が中国問題、日本国内の軍国化、右傾化に対して日本の識者にどのような見解を寄せていたかについては朝河に宛てた村田勤(1866~1947)からの返書によって知ることができる。村田はエール大学出身のルーテル研究者、一徹な自由主義者であり、朝河との交信を絶やさず、朝河からの憂国の手紙は彼の交際する多くの知名人に回付された。
朝河が福島県の片田舎で農業を営む甥(次姉キミの長男)斎藤金太郎に送った手紙(38年11月20日付)も大切に保存されていた。「罪のない忠実な一般の人民が最も気の毒であります」と結ばれるその手紙は「国民に事情を知らせないで居れば、却って日本の大損害を招く時が来るばかりでなく、今既に甚しい不利益の状体となって居ります。日本の困難はまだ初歩で、此後が大したものでありませう。」
1941年7月28日、日本軍は南部仏印に進駐した。これをアメリカは対英米戦の準備と受け取った。8月1にアメリカは石油などの軍需物資の対日輸出を禁止した。同月14日には、ルーズベルトとチャーチルは大西洋上で会談し、人類の思想と民主主義を防衛するため、ファシズムと闘う旨の大西洋憲章を発表した。一方では日本も9月6日の御前会議で10月上旬までに日米間の交渉が日本に有利に進まなければ対米開戦を決意し、10月下旬までに戦争準備を完了することとした。10月2日にはアメリカは中国、仏印からの日本軍の全面撤退を要求する覚書を野村吉三郎大使に手渡した。東條内閣が成立するのはその直後10月18日である。
朝河がポーツマス講和会議以来の知己である元老、金子堅太郎あてに日本の大改革を提言する手紙を送ったのは東條内閣が成立する数日前、10月12日のことであった。それは日本軍の大陸からの撤退、三国軍事同盟の廃棄、日本における政務と軍務の分離、民心と教育の解放を求めるものでこれまでの朝河の主張の集大成とも言うべきものであった。また優越民族の意識の高いドイツは味方とすべき国ではなく、また欧米国民はひとしくドイツが早晩ヨーロッパで敗北することを確信しており、たとえモスクワを攻め取ったとしても一時的なものにすぎず「独の前進は一歩毎に後日の敗北の種」を播いているようなものであると断言してる。確かにドイツはそれから2カ月もたたないうちに対ソ戦線から撤退しはじめる。日本軍はドイツ軍が撤退を始めたまさにその時に、その敗退を知らずに真珠湾攻撃を開始したのであった。
朝河は翌月16日の手紙ではその前日に野村大使の補佐と、日米交渉の再開のために訪米した来栖三郎大使の役割について、彼のもたらした最後的な提案が従来のものの焼き直しに過ぎなければそれは危険状態の継続に過ぎないだろうと警告している。同日に大久保利武宛に発送された同文の手紙は配達されずに朝河の許に戻ってきた。
朝河のエール大学の後輩である松本重治(1899~1989)はその著『上海時代』(中公新書1974/75)で、蒋介石軍との和平交渉で日本側は相手が一歩引けばさらに一段と強引な要求を積み上げて和平の芽を次々と摘み取って行く有様を描いている。そのこともここに付け加えておきたい。朝河を尊敬する松本は阿部善雄の著書へ「序に代えて」という一文を寄せている。それによれば朝河の長逝にさいしてAPとUPIは「現代日本が持った最も高名な世界的学者朝河貫一博士」の訃報を報じ、スターズ・アンド・ストライプス紙は追悼文を捧げ、横須賀基地では半期を掲げたという。しかし朝河が愛して止まなかった日本では2大新聞が僅かに2~3行の死亡記事を載せただけであった。
このように日本では朝河の事績は知られることが少なく、それは今も変わらない。朝河の同世代人は戦後を生き延びなかったせいもあろうが、おしなべて海外における日本人の活動が日本に伝わりにくいことも事実である。早大の教授であり、河上肇、長谷川如是閑と雑誌『我等』を創刊した後に、労農党の「輝ける委員長」と称えられた大山郁夫(1880~1955)の47年に帰国するまでの15年にわたるアメリカでの亡命生活についても知られるところが少ない。
日本軍の仏印進駐は、日本の侵略的意図はとどまるところがないことをアメリカ政府に確信させ、アメリカはそれにいわゆる「ハル・ノート」をもって応じたのであるが、日本政府はこれこそが日本の死命を制する最後通牒と受け取った。仏印進駐とともに太平洋戦争の端緒を飾るそのハル・ノートとはどのようなものであったろうか。この時期は野村、来栖の率いる駐米大使館とアメリカ政府の交渉と並行して、日米首脳会談を模索するためのルーズベルト大統領から昭和天皇へ宛てた親書発信工作が進行していた。朝河はそれがどのように書かれるべきかについて強い信念を持って、ペリーの来航に始まる日米関係の発端にさかのぼる苦心の案文を作成して米政府に採用を働きかけている。
ハル・ノートに対する返信「対米覚書」は14通に分けて東京からワシントンの駐米大使館へ発信された。それはそれ以前の暗号通信と同様にアメリカ政府によって直ちに解読された。軍部の工作によって最終14便を意図的に遅らされた覚書をもった2人の大使が国務省を訪れた時、彼らを待っていたのはハルの侮蔑の言葉であり彼らは早々にハルの顎によって部屋を追い出された。
日米交渉の成り行き次第では中止の可能性を秘めていた日本の英米奇襲攻撃の手立ては着々と進行していた。すでに択捉島ヒトカップ湾に集結していた日本の連合艦隊は11月26日(ハル・ノートの手交と同日)に抜錨して12月3日の集結点、オアフ島の北230海里へと向かっていた。
このように日米開戦前夜の外交戦の経緯は複雑きわまりない。「対米覚書」解読の遅れについても責任の所在は後々まで隠蔽されたままであった。加えてアメリカの国内世論対策、英国、および中国からのアメリカ政府への外交圧力も無視できない。ハル・ノート以降の記述はここで一旦筆を置いて稿をあらためなければならない。