P大島昌二:「読書遍歴(その11)いかに生くべきか」2024.1.26  Home

34

「読書遍歴(その11)いかに生くべきか」

 

法律、裁判、スパイ事件などを経過して、遍歴は次第にフィクションから事実へと事件記者的な関心が高まってきた。経済、法律、社会を主要科目とする大学の授業の傾きもあっただろう。小説は依然として手に取ったが関心の主体ではなくなりつつあった。裁判記録などで読むルポルタージュの迫真性には息をつがせぬものがあった。桑原武夫が大衆文学を論じながら、子供は早く大人になりたいがために好奇心を抑えられないのだと述べていた。そのために物語を読み小説の世界に引き込まれて行く。しかし、その先はどうなるだろうか。やがて日常の世界が広まるにつれて、小説は作り物ではないかという疑念を持つようになり、より事実に接近したルポルタージュ風の物語に活路を見出す。幼い精神状態の下では、小説でなければ到達できない真実というものを思い描けるようになるのはまだ遠い先のことであった。

 

学生時代を少し先へ進んで卒業間近には青山秀夫京大教授の『マックス・ウェーバー』(岩波新書、1951年)を読んでその後に来る味気ない会社員生活に立ち向かう気力を支えることができた。この本で青山は、知性を取得しその良心に従いながら、われわれはまた、あくまで「内此世的」でなければならぬと説いていた。たしかにこの世の日常は現代においていよいよ過酷である、人々は没趣味、没主観的な勤労を課されるがこの日常を逃避してはならないというのである。ウエーバー自身の言葉によれば以下のようになる。「現代の人間に困難であり、しかも若い世代にとってもっとも困難なことはこういう日常に耐える、と言うことである。知性を信頼せず、いわゆる『体験』をあさるこころみはすべてこの弱さから生まれる。けだし、弱さとは時代の運命を正面切って正視しえないことであるからである。」(『職業としての学問』)

私は『マックス・ウェーバー』の最後の頁の余白に「感激の念をもって読了」したこととその日付を記していた。ウエーバーはまた「熱情なくして価値ある仕事は何一つできない」とも述べている。しかし、ウエーバーの説く忍耐とは客観的に存在する世界との妥協を意味しているのではないだろうか。そうする以外にどのような方策があるだろうか。ウエーバーはまだ新しかった初期の「パンチ・カード」を説明していた。それは没趣味、没主観的な実務の実態を示唆するものであり、来たるべきコンピューターの世界を透視していた。それはさらに進んで現在では、遠大な人工知能の世界へと突き進む勢いを示している。社会の第一線にとどまるために人々はますます「日常に耐える」心構えを必要とされることになる。

 

青山教授のウエーバー論を読む前に「いかに生くべきか」について教えを受けたのは上原専禄教授の著書だった。上原先生については前にも「新聞をどう読むか」という講演を聴いたことに触れているが著書ばかりでなく「歴史学」と題する講義を一年にわたって聴くことができたのは幸運だった。

毎日新聞社が刊行した全6巻の「世界の歴史」シリーズの第6巻「歴史の見方」の冒頭にある先生の「歴史学の概念―歴史学とはどういう学問か—」という論文には大げさにいえば陶酔したのであった。陶酔したということは一度読んで得た満足が大きかったために2度とはページを開いていないことを意味した。それまでは高校時代に世界史を学び、それと並行して創元文庫から翻訳が出ていたH.G.ウエルズの『世界史概観』を読んでいたから確かに歴史に興味は持っていた。いつ読んだか記憶のない林健太郎著『世界の歩み(上下2巻)』(岩波新書)はすぐれた啓蒙書であった。

「歴史学の概念―歴史学とはどういう学問か—」は、1954年秋」に読了と記録してあるから大學一年の秋である。6巻の中の一冊だけをわざわざ買い求めたのは上原先生の論文を読むためであったからである。それより前に読んだと思われる岩波新書の『私の信条、上下2巻』(1951年10月)に掲載された先生の信条に心を引かれていたからに違いない。第6巻の編集の労を取った飯塚浩二教授が「あとがき」で「『歴史の見方』と題するにふさわしく、われわれ一同の畏敬する上原先生の長編の論文を巻頭にかざりえた」と述べていることも私を喜ばせた。

『私の信条』はBBCがラジオで放送した“This I believe”というシリーズに習って、日本の文人、碩学40人に対して発した問い、(1)「御自分の仕事と世の中とのつながりについて、どうお考えでしょうか」、(2)「この世で何を失いたくない、残しておきたいとお考えになるでしょうか」に対する回答を集めたものである。

この第(2)の問いに対して先生は「一片の私情、単なる好みをもってするならば、失いたくないもの、残しておきたいものは無数であろう」とした後で、一小市民にとっては「自分の在り方を体験的に工夫することが大切であろう。このような関心にとっては、常に現在が問題なのであり、未来が肝要なのである」と断ずる。「過去の形成物は、それが過去においていかに美わしいものであったとしても、ただそれだけでは存在に値するものではありえないであろう。過去の形成物は、現在と未来のとの形成に寄与しうるかぎりにおいて、自ら未来にかけて生き続けるであろう。しかも過去の形成物を現在と未来との形成に寄与せしめるものは、このわれわれ自身なのであって、過去の形成物それ自体では決してありえないであろう。」それにも拘わらず、尚且つ過去の形成物、現在の既成物について、何を失いたくなく、何を残しておきたいかが問われるとするならば、「この世で、失いたくないもの、残しておきたいものは、とりたててなさそうだ」と答えざるをえないのであるという。

これは1950年9月14日の回答である。それから亡くなられる25年後まで先生のこの考えは変わらなかったのではないかと思う。これを読んだ当時、この最後の禅僧のような、完全な無欲は私の理解を絶するものであった。その後も、その計りがたいまでの心境の深さに私は驚嘆し続けたのである。

上原先生には『アジア人の心』(理論社、1955年)という新書版200頁ほどの論集があってそれを見ると「読書の思い出」、「読書の幅」、「私と文学」という今の私のテーマに沿った項目がある。しかし私は「いかに生くべきか」の教えを追ってここまで来たのであった。先生の「私の信条」がそれにまったく触れていないわけではない。しかし私の記憶の中では、不安に満ちたこの世界では「不安の上に腰を落ち着けて生きる」という教えが先生の教えとして胸にこびりついている。それは、不安は生あるものにとって避け難いこと、しかしそこからは逃げ出すのではなく、それに耐え、それを直視して生きるべきことを教えていた。今その言葉を探してみるのだがどこにも見当たらない。ただこの本の最後に『婦人公論』誌上で「赤い教師」のレッテルを張られた基地の町、岩国市で教職にあった女教師の悩みに答えた文章がある。

彼女の悩みに対して上原は、自分にできることは「あなた方といっしょに疑い、苦しみ、悩むことだけであって、それを越える方法をお教えすることはではありません」という。そして、寂しいことではあるが、おそらくそのような方法を教えることのできる人はいないのではないかという。そこで悩みの上に悩みを重ねないためには、まずそのことを認識する必要があると考えるのです。そうすれば「逆悦のように聞こえましょうが、その寂しい事実を基点として悩みに堪える道が開けてゆくように思うのです。私たちは共通の悩みを悩んでいるのだが、その悩みに堪える道を示してくれるものは誰もいないのだとすれば、私たち自身でその道を発見するより他に仕方がないことになりましょう。こうした自覚が生じたとすれば、それはすでに悩みに堪える軌道が開け始めたことを意味するでしょう。」

上原先生はどこかで「不安の上に腰を落ち着けて生きる」という表現を用いていたかもしれない、しかしまた、それが見つからない以上、私はこのような文章から自分でこの言葉を生み出したのかもしれないとも思う。

戦後教壇に復帰された大塚金之助先生は私が卒業するころは定年を過ぎて講師になられていた。先生は苦しい戦時期の体験から戦後に豹変した当時の言論界の主流にいる人々をすべて信じなかった。それなら何を読んだらよいのかと途方にくれる思いをさせられるほどだった。清沢洌(きよし)の『暗黒日記』を推奨されていたことだけは記憶しているが私はそれを読んだとは言えない。既成の言論人への矛先は逆に「成長期の栄養不足に悩む」若い人々への寛容な期待となって現れた。「どの道へ進んでもいいです。道はいくつもあります」とわれわれを励ましてくれた。   

 

人には様々な不安がある。『パリ陥落』(1951年)を著わしたイリヤ・エレンブルグ(1891~1967)はスターリン批判後に『雪解け』(1954年)を書いて東西の懸け橋として最もふさわしいジャーナリストと見られるようになった。日本の新聞でも取り上げられ私は彼の小説よりも先に「雪解け」を告げる使者として彼の名を知った。名うてのフランス通であり彼の『ふらんす ノート』(岩波新書、1962年)を読んでフランスの文学と文化への興味を拡げることができた。しかし「雪解け」に伴った彼の言動は、ボリス・パステルナーク(『ドクトル・ジバゴ』の著者)と同様、スターリニストの攻撃の対象となり安危が気遣われる存在になった。

私がロンドンに渡った1961年にエレンブルグの自伝『ある回想 人間・歳月・生活』の英訳第1巻が出版されたので私は早速それに飛びつき、2巻、3巻と出版されるのを待って読んだ。当時、私はベーカー・ストリートの近くに住んでおり、近くの書店は料金後払いで黙って配達してくれた。第3巻を読了したのは63年の6月となっており、その後6巻までは日本に帰ってから読んだ。手許にある4巻だけが邦訳でしか手に入らなかったが5巻、6巻は神田の古書店で貴重な写真が豊富な英訳を手に入れている。

第1巻の冒頭の文章は以下のようになっている。「私は長い間、私がこれまでの人生で出会った幾人かの人々、私が遭遇、あるいは見聞した幾つかの出来事について書きたいと思っていた。しかし一再ならずそれを先へ延ばしていた。状況がそれを許さなかったこともあり、年月の経過によって薄れた人物像を再現できるだろうか、記憶に頼るだけですむだろうか、といった疑念を克服できなかったからである。しかし今、私はそれを書くことに決めた。もうこれ以上先へ延ばすことはできない。」

エレンブルグはウクライナのキーウに生れたが、彼のコスモポリタンな生涯は15歳の時にボルシェヴィキの地下運動に参加してフランスに亡命したことに始まっている。大祖国戦争(ソ連のWWⅡ) では赤軍に従軍して対独宣伝活動に従事しているが、彼が身につけた自由で国際的な視野と言動はスターリニストからは絶えず疑いの目で見られた。束の間に終った「雪解け」が再び冷戦に戻った時期に出されたこの自伝が弁明のために書かれたものだという批判は当然のごとく起っている。彼は確かに危ない橋を渡っており、アリバイを証明したいという気持がなかったとは言えないかもしれない。だが、エレンブルグの「もうこれ以上先へ延ばすことはできない」という言葉には重みがある。『ある回想 人間・歳月・生活』のモスクワでの出版を待つようにして英訳の最終巻が出版されたのは1966年、エレンブルグが前立腺と膀胱のガンで死亡したのは67年8月31日であった。

全6巻に及ぶ自伝の英訳にはそれぞれ副題がついている。第1巻は「人々と人生」であるがその後は順に「革命の初期1918~21」、「休戦1921~33」、「戦争前夜1933~41」、「戦争1941~45」、「戦後1941~54」である。内容は多くの章に数字で区切られているだけで見出しはない。これに対して木村浩の邦訳では副題がない代りに章ごとに内容を示す小さな見出しがついている。モスクワの出版社はこの本が主観的な回想であると弁解しなければならなかったようである。どこかでソヴィエトの公式の史観と齟齬していることが問題とされたのであろう。いずれにしても、本書の豊かな内容と国際的な視野の前には話にもならない些末主義というべきである。

その表紙裏を親交のあったピカソが描いたエレンブルグの肖像画で飾った第1巻の扱う期間はエレンブルグの誕生から革命さなかのロシアへの帰国までである。しかしそこまでの間だけでもすでにレーニン、トルストイ、ピカソ、モジリアニなど多数の偉大な人物が登場する。彼が遭遇した事件の多くは他にも多くの人がどこかで記録しているかもしれない。しかし彼が遭遇した数多くの文人や芸術家のスケッチはエレンブルグなればこそで、彼以外から期待することはできない。

エレンブルグはレーニンに「あのイリヤがこんな本を書いたのかね」と褒められた記憶を述べている。それは彼の処女作『フリオ・フレニト』のことで私はそれが読みたくて探し回った記憶がある。数年後に何とか邦訳を見つけたがほとぼりは冷めていたのか積んだままにしてしまった。戦時下の物資不足の時にエレンブルグたちはどこかでカマンベールを見つけて仲間たちと大喜びするシーンがあった。私はカマンベールを見たことも食べたこともなかったのでどんなものか知りたかったことも記憶している。

英語版の副題が示すようにエレンブルグは戦乱を追っている。それはすべてがヨーロッパの戦争であり日本への言及は皆無といってよい。そのことはヨーロッパの多くの人々にとって第二次世界大戦のウエイトがどこにあったかを教えてくれる。

 

 

👆Top    Home