エリザベス二世の国葬の盛儀は広く世界中にTVや新聞で伝えられ意見、感想の類を含めて多くの報道が行われたのであらためて書くべきことはなさそうです。そこでここには自分の個人的な関心、行列はどのようなルートを通ってあのように長くなったのだろうか、さらには「巨大な群衆が大きな犠牲を払って長大な行列に加わったのはなぜだろうか」という疑問について英紙から読み取ったことをまとめてみました。
当レポートは2編の通信から成っており、この本文の前編と見るべき、より個人的なコメントはこの下段に転記してあります。
エディンバラから空輸された女王の棺は国葬の行われるウエストミンスター寺院に運ばれる前にウエストミンスター・ホールに安置され、そこで国葬の当日(19日)6時半まで一般人の弔問を受けました。弔問の列はウエストミンスター・ホールの対岸(ランベス橋を渡ったテムズ川の右岸)のアルバート・エンバンクメントからロンドン・アイを経由してサゾーク・パーク(Southwark Park)まで達しました(添付資料)。見方を変えれば行列の始点はサゾーク・パークで、公園に大勢の人の群がっている写真を見ました。この公園の辺りは最近ではシェイクスピア時代のグローブ座が復元されたりして人も集まるようになりましたがシティ・オブ・ロンドンの対岸の別の行政区にあり、歴史的には風紀の乱れた歓楽地域でした。最近の流行語を使えば近年になってgentrification が行われた地域です。 ロンドンの観光名所は主としてテムズ川の左岸にあるのでタワー・ブリッジやロンドン・ブリッジを渡った右岸に位置するサゾークは観光客にとってはほとんど未知の領域だったということができます。私が1980年まで10年間通勤した会社は左岸のロンドン・ブリッジの橋畔にありましたが橋を渡ることはめったになく、たまに渡る時が雨だったりすると風が強く当り橋の長さに初めて気がつくような有様でした。
この行列の歩いた距離は少なくとも5マイル(8キロ)とされ、主催者の推定では35万人が参列、女王の棺に到達するまでの時間は日時によって異なりますが8-24時間と報じられています。添付の地図と同じ9月18日のFTの記事は列の長さと待ち時間のダイアグラムを載せています。フットボウラーとしてセレブにのし上がったデイビッド゙・ベッカムは12時間行列したと報じられました。このような弔意の盛り上がりは前代未聞と言ってよいでしょうが、上には上がありました。法王ジョーン・ポール二世の埋葬には4百万人(2005年)、ナセル大統領の葬儀は5百万人(1970年)、アヤトラ・ホメイニの葬儀には1千万人近く(1989)が駆け付けたという記録があります。これらの記録は数の上では比較の対象になり、宗教的、あるいは政治的現象として共通点があるとしてもどこが違うのだろうかというところに関心が向かいます。
マスメディアの伝えるところでは、群衆は女王に感謝の念を持ち、その死に対する哀悼の意を表すために行列するのだということです。しかしこの多くの人々が長い行列に加わる動機は一様でないことは明らかで、テレビを見て衝動的に飛び出してきたという人も少なくありません。群集心理学の権威とされるセント・アンドリュース大学のスティーブン・レイチャー教授(Stephen Reicher)のグループは、聞き取りにもとづいて、人々はそれぞれ異なった(時には複数の)理由から行列に加わっていると述べて以下のように説明しています(Guardian 9月15日)。女王への忠誠心、女王の生涯を通じての献身に対する感謝はもちろんのことですが、すべての人が女王に対する忠誠心を持っているとは限らない、自らを正統の英国人と自覚し女王をそのシンボルと見る人たちは強い義務感から参列している、またすべての巡礼と同じように参列に伴う苦労は厭うべきものではなく己の行為をより意味深いものにしてくれるものだと受け止めている、これらの人々は女王の死を個人の死としても深く悲しんでいる。他方ではまた、女王の生涯にわたる仕事への献身に、それが果たした役割に賛同しないまでも、敬意を払うべきだと考える人もいる。主要な歴史的事件を体験してそこに居合わせたことを子孫に語り伝えたいという人にとってはこれはまたとない機会である。万障繰り合わせて葬列に加わったすべての人が目的を果たしたわけではありません。14日から17日まで(葬儀の2日前)の4日間だけでも1,078人が介護の手当を受け、そのうち136人が病院に搬入されています。
レイチャー教授は以上のような例を挙げた後で、これだけではメディアが伝える群衆の行動の表面を引っ搔いただけのものだといいます。最初にのべたようにメディアはこれらの多様な考えや動機を敬虔な弔意一色に塗りつぶしてしまい、それに外れる異論は当然予期される少数意見として片付けられてしまいます。そこから伝わってくるのは、群衆の行動は王室に対する単なる忠誠心の表明どころか、国民の揺るぎない総意を示すものだということです。「彼ら」とは「われわれ」であり、彼らの哀悼の祈りは英国民全体の祈りにほかならないことになります。われわれは一致して王政を支持する国民であり、そこから逸脱する者は居場所を失いかねません。
このようなレイチャー教授の発言は王政を批判するための偏ったものではないかと疑う人がいるかもしれませんが私は教授は公平で学者としての基準を踏み外してはいないと考えます。スコットランドの独立運動をその一例として挙げることができますが、広範な王政支持の陰には王政を批判する根強い底流が存続しています。歴史の教科書でお目にかかるようなloyalist(王党派)あるいはrepublican(共和派)といった用語は今でも生きて使われます。エリザベス女王の70年にわたる長い治世の間には王室あるいは女王個人に対する批判の声は絶えることがありませんでした。女王に対する私の尊敬の念はそのような風雨に耐えて女王としての治世を全うしたことに対するものであるということになります。
このほかに私が目を引かれたのはこの機会に記事にまとめられた英国王室の膨大な財産です。それは額ばかりでなく種類も多岐にわたり、とても個人の脳裏に収め切れるものではありません。英国の周辺を囲む海底(sea-bed)の多くが王室に属し、そこに林立する風力発電装置からは年々賃料(rent)が入るなどとは初耳でした。もちろん英国が直面する問題はさ
らに膨大です。エリザベス女王は植民帝国以来の負債からなんとかソフト・ランディングを果たしたように見えますが元々人気のないチャールズ三世の前途は多難です。成文憲法を持たない英国はこれからどのようにして変化していくのだろうか。いずれにしても大きな変化を予想して外れることはないと思います。(3Oct.22)
〔個人的な記憶から〕16Sept.22
私が英国に興味を持ったきっかけの一つは英文学者の福原鱗太郎教授のシェイクスピアを始めとする英文学をめぐる随筆でした。その最初の頃の文章で私が保存しているものにエリザベス女王の即位にあたって福原さんが毎日新聞に書かれた短い文章があります。それにはエリザベス一世について、女王の侍女たちは女王のお化粧の時にやけに紅を塗ったので、謁見に行くと女王の頬が燃え上がっているようだったと書いてあったということです。英国では議会の開院式には王様が開会の宣言をすることになっており王が儀仗馬車に乗って騎乗の近衛兵を連れて議会に向います。このパレードは華やかなので”The opening of the parliament”として観光客の見るべきものとされています。私もロンドンに着いて間もなく友人と見に行きましたが馬車が通り過ぎるのは一瞬で窓枠の中に女王のお顔を見たか見ないかの程度でしたが白いお顔に赤い口紅が際立っていたのを記憶しています。記憶が不確かだとしても翌日の新聞に出たお写真ではモノクロであっても口紅が鮮やかであることは確認されました。
今書きながら気がついたのですが英国では議会(下院)は王権との抗争から発展しました。(ここは日本と大きく違うところです。)従って王は下院に入ることを許されず王のスピーチを聞く時には下院議員はそろって上院(貴族院)に足を運びます。おそらく私が見物した時もそうだったろうと思います。
福原さんはエリザベス二世の誕生でそれまでただエリザベス女王として知られていた大女王があらためて一世と呼ばれることになったと指摘し、英国はその後もヴィクトリア女王の時代に繁栄の盛期を迎えており英国は女王の世に栄えると述べて祝意を表していました。それから70年、果たしてどうだったろうか。英国人は今その70年を振り返って感慨にふけっているのだと思います。
テレビで見ると女王の棺に別れを告げるために何時間もかけて、時には徹夜をして行列に並ぶ人、さらにはバッキンガム宮殿の前に集って花束を捧げる人など無数の人々の顔が写っています。このように深い国民的な愛惜の情に嘘はありませんが私はマスメデイアの報道に惑わされるべきではないと考えます。私の偏見かもしれませんがTVに写る英国人のほとんどが庶民の顔に見えます。七千万人いる国民のうち何十万人かが行列に並んだだけでも英国人がすべて同じような愛惜の感情に揺さぶられていると錯覚させられる可能性があります。この盛大な葬儀の背景にはこの日に備えた長い期間にわたる冷徹な準備が行われていたことは明らかです。” London Bridge is down” というシグナルの下に一斉に葬儀の準備が実行に移されたのです。マスメディアの即時の反応も同様です。
私も外国人ながら英国文化の恩恵を深く被った一員として哀悼の念を捧げるのに吝かではありません。エリザベス二世は国政を別にしても少なからざる家族の問題に悩まされました。妹のマーガレット王女は「世紀の恋」とうたわれたタウンゼント大佐との間を引き裂かれその後の結婚も破局に終りました。晩年は女王の侍女を勤めた女性が紹介した男性と知り合って幸福を見出したと伝えられます。この侍女は後にエリザベス女王と会う機会があり勝手なことをしたことを女王から叱責されるのではないかと恐れていたといいます。ところが逆に「妹を幸せにしてくれてありがとう」と礼を言われたということです。即位に際して国に奉仕することを誓った女王はこの妹の結婚に強く反対したと言われます。
女王やエディンバラ公の一言一句は恐るべき伝播力をもって下々まで伝わります。エディンバラ公は失言の多いことで有名でしたが、女王の失言はあまり伝わりません。むしろ年を追うにつれてユーモアのセンスが伝わるようになったと思います。来日した時、東京駅で新幹線に乗るときに駅長に「新幹線は時計より正確だと聞きましたが本当ですか?」と聞かれたと伝え聞きました。これなぞはユーモアの極致だと感じ入ります。
私の追悼文はこのような逸話が中心になりますが国葬はまだこれからでもあるので後はまたの機会にしたいと思います。サイモン・シャーマの追悼文は女王への賛辞でありながら終りに近づくにつれて王室、さらにはGreat Britainの抱える問題の大きさを浮かび上がらせています。
ここにシャーマ教授の追悼文を添付しますが読むには骨が折れます。ただ豊富な写真は見ごたえがあります。写真だけでもご覧ください。アフリカ諸国の独立の先駆けとなったガーナのヌクルマ大統領と女王がダンスするシーンもお見落としのないように。