邊静雄君急逝の報に接し在京6人が如水会館に集まりました。
その際、何か小平時代の「赤とんぼ」のような自由題の文を書いて、追悼の意を顕そうという話がまとまり、如水会報に載せました。
寄稿トップバッターは関西の羽島賢一君です。題は「名簿と趣味」早速どうぞ。
(森 正之2019.12.25)
森正之2020.2.8
渡邉静雄君は2019年11月に急逝されました。
我々は、2020.3月末で全員84歳以上になる。「早世」と言われる齢ではないが、彼の笑顔しか思い浮かばぬ身としては、何でこんなに早く!と地団駄踏む。
彼が日清紡名古屋支店長時代、名古屋で一度会った。
小平時代のドイツ語の取組みをみても、疑いなく名支店長であったろう。
謙虚で、見識高く、読書家。大津寄君が大変頼りにしたクラスメートだった。
電話で病院通いの話もされていたが、常にQクラスを想う人でありました。
Qクラス会では毎回オオトリの重責を担い、ユーモラスな芸で爆笑お開きの場面を創って下さいました。
永遠の友よ本当に本当に有難うございました。大感謝!
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大津寄雄祐 2020.2.8
(文集:時代の風景~郷愁の旅 第四集15-頁より)
Q高橋 正:渡邉静雄君を偲ぶ 2020.2.20
渡邉静雄君を偲ぶ
渡邉静雄君 ご逝去の知らせを受け「機会を作って一杯やろう」という約束も遂に果せなくなって終ったと寂しい思いを強くした。
彼とQ組で在学中一番の思い出は、前期で体育の単位取得に新潟県妙高の一橋大学山荘で催されるスキー講習会を受けることで、体育の単位が貰える制度に彼と一緒に参加し、約一週間昼はスキーを楽しみ夜は炬燵に暖まり乍ら色々話をする機会を得たことだった。
然し更に強烈な思い出は、卒業後偶然に出会った時のこと而も結果的にはこれが彼に会った最後の機会となって終った事である。
それは今から約六十年位前のこと当時僕は日綿実業に入社し大阪本社綿花部に勤務していたが、或る日「今度日清紡績さんと親善野球試合をすることになったので一番若い君をピッチャーに予定しているから」と言われて ビックリ。日清紡績さんといえば我が綿花部が扱っている輸入原綿の販売先でありかりそめにも粗相などあってはならぬ筈なのに、一番若いからという単純な理由でピッチャーにとは理不尽な話とは思いつつも覚悟を決めるより他には仕方が無かった。
かくして当日早朝集合場所に集まったものの本格的野球場の広さにビックリ すっかり舞い上がって終い試合前のウオームアップにしても何をしているのやら覚束ない有様だった。
その時
「やあ高橋君 久し振り」の声
何と渡邉君がニコニコ微笑み乍ら手を挙げているではないか。在学中に僕が多少なりともスキーをコーチしたことがある級友の出現に嬉しくなり少々落ち着いた気分になり得たものだった。
その後慌ただしく試合が始められ間もなく渡邉君に打順が巡り僕は打席に立つ彼と相対することとなった。僕は格好良い所を見せるのはこの時とばかり一生懸命投球した(積りであった)が何球目かのボールを彼はいとも簡単にレフト前にヒットを打って終った(残念)。然し渡邉君に2回目の打順が廻って来た時に今度は強烈な当たりを喰いレフトセンター間を大きく破られて終った。僕はボールの行方を眺めている丈であった。次に3回目の打順が渡邉君に廻って来た時にピッチャーズマウントに僕の姿は無かった。試合のその後は乱打戦模様となったが、その結果はさて置き試合終了後、久し振りで会えて良かったという満足感をもって「今度チャンスを作って一杯やろうじゃないか」と約束をして固く握手をして別れた。
にも拘わらずこの時の別れが最後になるとは全く夢想だにしなかった。
再会の約束にも拘らず約1年後パキスタン駐在を命じられ赴任 一年余りの後病を得て帰国 半年余りの入院生活の後綿花部へ復帰したものの今度は実家が失火に依り全焼、家業継続がピンチとなり親父の要請に依り新潟で家業を継ぐことになって終った。
爾後 妻共々新潟に移り住み五十年余り新潟生活を続けている訳であるが 僕にとって渡邉君の面影は若い時そのままで今も全く変わることなく僕の胸中に残っているのである。
「機会を作って一杯やろう」の約束を果す事叶ず 此の度の訃報に接することになり、眞に残念。 今は只々渡邉静雄君の冥福を祈るのみである。
合掌
高橋 正